帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百四十五)(四百四十六)

2015-10-13 00:04:44 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有るにちがいない。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

題不知                         平定文

四百四十五 ひきよせばただにはよらで春こまの つなひきするぞなはたゆと聞く

題しらず (平定文・貞観十六年・874、幼き頃、平の姓を賜り臣に下った・あだ名は平仲・第二の業平と言う意味らしい)

(引き寄せればただには寄らないで、春駒が綱引きするのだ、縄が絶えると聞く・行けない……あなたが・引き寄せれば、直ちには寄らないで、張る股間のつな引き、他の女が・するので、汝は絶えると聞く)

 

言の戯れと言の心

「ひきよせ…引き寄せ…誘い寄せ」「ただに…只に…直に…直ちに…直立して」「春こま…春駒…新馬…若駒…張る股間…はるおとこ」「つなひき…綱引き…引き寄せ合い…取り合い」「なは…縄…汝は」「な…汝…親しき物をこう呼ぶ…我がもの…我がおとこ」「たゆ…絶える…断絶して続かない…尽きている」「聞く…声を聞く…嘆くのを聞く」

 

歌の清げな姿は、何かの誘いのお断わりの言い訳。

心におかしきところは、引き手あまたの、このこま、ただいま、絶えているようで。

 

品よく、容姿良き色男、平中の家の前栽は、四季を通じて草花が咲き乱れていた・つまり女たちが多くいたのである。番人はいない、立入自由であるが、立札には「草花、取去り禁止、守る人はいない、人と成すのみにて」とあったという(平中物語十九)。つまり、女達はそれぞれ、大人の女となって卒業して、それぞれに良き妻女となる。親に頼まれて色ごとの出張授業もしていたらしい。まかりまちがって、第一子、平中に似て居ても、めでたし、めでたしであっただろう。

 

この歌、公の歌集「拾遺集」では巻第十八「雑賀」にある。年齢祝いの歌。だだし、第五句は「なはたつときく」と変えられてある。「名は立つと聞く…噂が立つときくので・行けない…汝・君のこまは立つと聞いている・そのお歳で・おめでとうございます」と、歌の形相は変わる。

 

 

(題不知)                        伊勢

四百四十六 我こそはにくくもあらめ我がやどの 花見になどかきみがきまさぬ

(題しらず)  (伊勢・平中とほぼ同年配ながら、如何なる関わりだったかは不明・この歌の君は別人かもしれない)

(わたしのことをば、憎く思っているでしょう、我が家の花見に、どうして、花好きの・君がいらっしゃらないのかしら……わたしは、憎らしいでしょうけど、わたしの屋門の、お花見に、どうして、貴身の気増さず、お立ち寄りにならないのか)

 

言の戯れと言の心

「やど…宿…女…屋と…や門…おんな」「花見…桜など木の花の花見…おとこ花見」「み…見…見物…覯…媾…まぐあい」「きみ…君…貴身」「きまさぬ…来まさぬ…いらっしゃらない…気増さぬ」

 

歌の清げな姿は、花見欠席理由の問い合わせ。

心におかしきところは、断るか、裏切ることがあって、恨んでいるだろう男への恋歌、貴身乞いしの歌のようである。

 

この歌「拾遺集」巻第十九「雑恋」にある。恋歌に違いないが、どこまで本気か、男は悩ましいことだろう。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。