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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。
拾遺抄 巻第九 雑上 百二首
題不知 読人不知
四百六十七 すみのえのきしにおふてふわすれ草 見ずやあらまし恋はしぬとも
題しらず (よみ人しらず・男の歌として聞く)
(住の江の岸に生えるという忘れ草、見ないでいようかどうしょう、摘めば・恋は死んでしまうともいうし……住み良しの・澄のえの、みぎわに感極まるという、和すれ女、見ないか見ようかどうしょう、乞いは果てて死のうとも)
言の戯れと言の心
「すみのえ…所の名…名は戯れる、聞き耳により意味が異なるもの、澄みの江、住吉の江、住み良しのえ、す身好しのえ」「す…洲…おんな」「え…江…言の心は女…枝…言の心はおとこ」「きし…岸…みぎわ…なぎさ…おんな」「おふ…生える…おう…極まる…感極まる」「わすれ草…忘れ草(摘めば苦しい恋心も忘れられるという)…和すれ女…和するる女…和合できる女」「草…言の心は女」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「あらまし…どうなるのだろう…どうしょう…とまどいを表す」「恋…乞い…求める心」「しぬ…死ぬ…果てる…逝く」「とも…とも(云う)…引用の意を表す…(たとえそうであろう)とも…意味を強める」
歌の清げな姿は、住の江の忘れ草、見物しようかどうしょう、恋は死ぬともいうし、忘れ草は摘まなければいいのかな。恋する男の心情。
心におかしきところは、す見好しの和するる女、見ようかどうしょう。浮気の虫と葛藤する男のありさま。
この歌、拾遺集には「恋四」にある。
やむことなき所にさぶらひけるをんなのもとに、秋ごろしのびて
まからんとをとこのいひつかはしたりければ (読人不知)
四百六十八 秋はぎの花もうゑおかぬやどなれば しかたちよらん所だになし
高貴なお所にお仕えしている女の許に、秋頃のこと、忍んで行くよと、男が言い伝えたので、(よみ人しらず・女の返歌)
(秋萩の花も植え置かぬ宿なので、鹿の立ち寄る所さえない……飽き端木のお花はとくに、植え付けないや門なもので、貴身の・肢下の、立ち寄るところなんて無いよ)
言の戯れと言の心
「秋はぎ…秋萩…萩は草花ながら端木などと戯れて、飽きの身の端、飽きのおとこ・おんな」「うゑおかぬ…植え置かない…植え付けないに…種まかない」「しか…鹿…士下…肢下…さおしか」「たちよる…立ち寄る…絶ちよる…絶ちよれよれになる」「だに…でさえ…だけは…強調する意を表す」
歌の清げな姿は、恋は忘れてね、もはや君の立ち寄るところではない。これを優雅にお伝えした歌。
心におかしきところは、女のほんとうの心根を清げに包んであるが、開けて見れば「飽き絶えた、よれよれの物の立ち寄る所は無し」。
この歌、拾遺集には「雑恋」にある。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。