帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百六十七)(四百六十八)

2015-10-26 00:11:54 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。

 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

題不知                      読人不知

四百六十七 すみのえのきしにおふてふわすれ草 見ずやあらまし恋はしぬとも

題しらず                    (よみ人しらず・男の歌として聞く)

(住の江の岸に生えるという忘れ草、見ないでいようかどうしょう、摘めば・恋は死んでしまうともいうし……住み良しの・澄のえの、みぎわに感極まるという、和すれ女、見ないか見ようかどうしょう、乞いは果てて死のうとも)

 

言の戯れと言の心

「すみのえ…所の名…名は戯れる、聞き耳により意味が異なるもの、澄みの江、住吉の江、住み良しのえ、す身好しのえ」「す…洲…おんな」「え…江…言の心は女…枝…言の心はおとこ」「きし…岸…みぎわ…なぎさ…おんな」「おふ…生える…おう…極まる…感極まる」「わすれ草…忘れ草(摘めば苦しい恋心も忘れられるという)…和すれ女…和するる女…和合できる女」「草…言の心は女」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「あらまし…どうなるのだろう…どうしょう…とまどいを表す」「恋…乞い…求める心」「しぬ…死ぬ…果てる…逝く」「とも…とも(云う)…引用の意を表す…(たとえそうであろう)とも…意味を強める」

 

歌の清げな姿は、住の江の忘れ草、見物しようかどうしょう、恋は死ぬともいうし、忘れ草は摘まなければいいのかな。恋する男の心情。

心におかしきところは、す見好しの和するる女、見ようかどうしょう。浮気の虫と葛藤する男のありさま。

 この歌、拾遺集には「恋四」にある。

 

 

やむことなき所にさぶらひけるをんなのもとに、秋ごろしのびて

まからんとをとこのいひつかはしたりければ   (読人不知)

四百六十八 秋はぎの花もうゑおかぬやどなれば  しかたちよらん所だになし

高貴なお所にお仕えしている女の許に、秋頃のこと、忍んで行くよと、男が言い伝えたので、(よみ人しらず・女の返歌)

(秋萩の花も植え置かぬ宿なので、鹿の立ち寄る所さえない……飽き端木のお花はとくに、植え付けないや門なもので、貴身の・肢下の、立ち寄るところなんて無いよ)

 

言の戯れと言の心

「秋はぎ…秋萩…萩は草花ながら端木などと戯れて、飽きの身の端、飽きのおとこ・おんな」「うゑおかぬ…植え置かない…植え付けないに…種まかない」「しか…鹿…士下…肢下…さおしか」「たちよる…立ち寄る…絶ちよる…絶ちよれよれになる」「だに…でさえ…だけは…強調する意を表す」

 

歌の清げな姿は、恋は忘れてね、もはや君の立ち寄るところではない。これを優雅にお伝えした歌。

心におかしきところは、女のほんとうの心根を清げに包んであるが、開けて見れば「飽き絶えた、よれよれの物の立ち寄る所は無し」。

 この歌、拾遺集には「雑恋」にある。


 
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。