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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有るにちがいない。
拾遺抄 巻第九 雑上 百二首
東三条にまかりいでて雨のふりけるひ 承香殿女御
四百五十九 あめならでもる人もなき我がやどを あさぢがはらと見るぞかなしき
東三条(父の故重明親王邸)に退出して、雨が降った日に詠んだ (承香殿女御・斎宮女御・徽子女王)
(雨ではなくて、漏るものも・守る人も亡き、我が宿を、浅茅原・荒野原と、見るぞ哀しき……お雨、成らず、間盛る人もなき、わがや門を、浅ぢが腹と思うぞ、愛しいことよ)
言の戯れと言の心
「あめ…雨…おとこ雨」「ならで…ではなくて…成らで…成らずに」「もる…漏る…守る…盛る」「なき…亡き…無き」「やど…宿…家…言の心は女…や門…おんな」「あさぢがはら…浅茅原…原の名…名は戯れる。浅く茅の生えている野原、荒野、浅ちが腹」「浅…(愛情・幸などが)浅い・薄い」「ち…茅…父…天皇に対する尊敬語…血…血族…おぢ」「見る…思う…感じる」「見…覯…媾…まぐあい」「かなしき…哀しき…悲しき…愛おしき」
歌の清げな姿は、わが里の邸宅の荒廃ぶりを嘆いた。
心におかしきところは、わがや門の荒廃ぶりと、降るお雨が愛おしいという。
なぜ「雑賀」の巻に置かれてあるのだろうか、雑とはいえ、なぜ「賀」の歌なのか。「まかり出でて」は、内裏から退出しただけではなく、女御ではなくなったのである。一人の女となって、おとこ雨が降った日に詠んだ歌だからである。若くして斎宮となり、わけあって斎宮を退いて、叔父である村上帝の女御となる。内親王を産むが、皇子は夭折した。帝の崩御の後、喪を終えてわが里に退いて居た日のことである。
ここで、藤原俊成の歌論を思い出すべきである。「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れる」という。「それは・煩悩であるが、歌に詠めば・即ち菩提(一つの悟りの境地)である」という。
春日祭の使にまかりてかへりもうできてすなはち女のもとに
つかはしける 一条摂政
四百六十 くればとくゆきてかたらんあふことを とほちの里のすみうかりしも
春日祭の使に行って帰って参って、すぐに女の許に遣わした (一条摂政・若き藤原伊尹、左近少将の頃の作)
(暮れれば、すぐに行って語るよ、我らは・似合いだという事を、遠地の里の住み辛らかったことも……繰れば早くゆきて、情けを交わそう、和合することよ、遠地のさ門の済み辛らかったことも)
言の戯れと言の心
「くれば…暮れれば…来れば…繰れば…繰り返せば」「とく…すぐ…早く」「ゆき…行き…逝き」「かたらん…語り合おう…情けを交わそう」「あふこと…お似合いだということ…合うこと…和合すること」「遠地…春日の地…あえて遠地といった」「里…言の心は女…さ門…おんな」「すみ…住み…棲み…済み」「うかりしも…憂かりしことよ…憂くかりしたことも」
歌の清げな姿は、貴女と一日二日離れていると、とつても辛い、すぐに逢いたいという。
心におかしきところは、あなたが一番だ、あなたとだけ和合できると訴える。遠地の女と浮気したことは、ばればれながらも。
若い男の思いは本当なのだろう。和合できることは愛でたい、慶賀である。この歌も拾遺集「雑賀」にある。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。