帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百三十三)(四百三十四)

2015-10-06 00:49:34 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、この「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有るにちがいない。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

延喜御時御屏風歌                 つらゆき

四百三十三   松をのみときはと思ふに世とともに ながれて水もみどりなりけり

延喜の御時の御屏歌   (紀貫之・古今和歌集撰者・仮名序作者・屏風歌も名手)

(松の緑ばかりを常磐と思っていると、世と共に、悠久に・流れて、映す・水も常緑だったことよ……待つ女ばかりを長寿と思っていると、夜と共に、汝涸れて、をみなは、いつまでも・ずみずしくも若々しいなあ)

 

言の戯れと言の心

「松…長寿…常緑…すみよし…待つ…言の心は女…そのつもりになって・つまりこの文脈に足を踏み入れて、土佐日記を読み終えれば、松は女、小松は少女と心得ることができるだろう」「ときは…常磐…盤石…いつまでも様子が変わらないこと」「世…世間…女と男の仲…夜」「ながれて…流れて…悠久に流れて…泣かれて…汝涸れて…親しき貴身涸れて」「な…汝…親しきものをこう呼ぶ」「水…泉・川…言の心は女…みずみずしい」「みどり…緑…若々しい」「なりけり…であった…だったなあ」

 

歌の清げな姿は、寝所の屏風の絵に書き付けた歌。

心におかしきところは、おとこのさがと女性の格別の相違を、松と水に託して、いまさらながら表現してみせた。

 

公の歌集では、このままでは「なかれて水も」が聞き耳によっては難点となる。そこで、第四句を「ながす泉も」とすると、永久に湧き出る水の印象に変わる。そうして、公の世の賀の歌として、『拾遺集』巻第五賀に載せられてある。

 

 

題不知                       読人不知

四百三十四   すみよしのきしもせざらんものゆゑに ねたくや人にまつといはれむ

          此歌者住吉明神託宣云云

題しらず                     よみ人しらず

(住吉の、岸も・来しも、しないような者の所為で、しくにさわるよ、人に松と、あだ名で・言われているでしょう……済み好しとなる、京も・君も、来ないものだから、寝たくてや、人に待つ女と言われているでしょう)

          (この歌は住吉の明神が人の和歌に託して思いを宣せられたと云いつたわる)。

 

言の戯れと言の心

「すみよし…住吉…澄みの江…住み良し…済み好し」「きし…岸…来し…来る」「し…強調」「ざら…ず…打消しの意を表す」「ものゆゑに…ものなので…ものだから」「ねたく…妬く…しゃくにさわる…にくらしく」「まつ…松…待つ…女」「む…推量する意を表す…婉曲に言う意を表す」

 

歌の清げな姿は、ご宣託「住吉の大社に鎮座する大明神であるぞ、参拝に来もせず、すみよしとか、まつとかあだ名で呼ぶな」

心におかしきところは、巫女の口から宣せられた言葉「すみ好しの、きみが・来ないものだから、寝たくてや、待つ女と、人に言われているようなのよ」

 

この歌は、拾遺集巻第十 神楽歌に、左注もそのまま載せられてある。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌の解釈について述べる(以下は再掲載)


 紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って、平安時代の
和歌の表現様式を考察すると次のように言える。「常に複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸である。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様子なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式である」。

万葉集の人麻呂、赤人の歌は、この様式で詠まれてある。彼らが高め確立して広めた様式である。ゆえに彼らを「歌のひじり」と貫之は言う。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落し、「色好みの家に埋もれ木」となった。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の根本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。その解釈と方法は世に蔓延して現在に至る。

公任の云う「心におかしきところ」と、俊成の云う「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」という言葉にあらわされてある、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。