■■■■■
帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有るにちがいない。
拾遺抄 巻第九 雑上 百二首
(題不知) 能宣
四百五十七 あだなりとあだにはいかがさだむらん ひとの心やひとはしるやと
(大中臣能宣・若いころの作と思われる)
(誠実でないと、いいかげんに、どうして定めるのだろうか、他人の心を、人は知れるものかどうか・知るわけがない……浮気ものだわと、いい加減に、どうして決めつけるのだろう、男の心を、女が知れるのか・痴れているのかだと)
言の戯れと言の心
「あだなり…不誠実である…いい加減である…浮気者である」「ひと…人…他人…異性」「ひと…人…女…男」「しる…知る…痴る…愚かである…ぼけている」「やと…疑問と他の意味も表す…(拾遺集ではわかり易く)やは…疑問の意を表す・反語の意を表す」
歌の清げな姿は、浮気者と女たちが言うのでお断りとの返事に、言い寄った男の弁解。
心におかしきところは、わが門に寄り来るあだ波、岩角に当って砕けるといいわ、痴れ者ねという類の女の応えに、男の腹だちの返歌。
この歌、拾遺集では「雑恋」にある。「雑…粗雑…がさつ…おそまつ」。
(題不知) 読人不知
四百五十八 いかでかはたづねきつらんよもぎふの 人もかよはぬ我がやどのみち
(よみ人しらず・女の歌として聞く)
(どうして尋ねてきたのでしょうか、蓬の生える・荒地の雑草生えている、人も通わない我が宿の道……五十日ぶりにか・どうしてかは、訪ねてきたのでしょう・とっても嬉しい、夜もぎ夫の人も通わないわがや門の通い路)
言の戯れと言の心
「いかで…どうして…五十日で」「いか…如何…五十日」「かは…だろうか…疑問を表す」「よもぎふ…蓬生える…雑草生える…荒廃したところ…夜もぎ夫」「草…言の心は女」「もぎ夫…草もぎ取る男…草引き抜く男…女を、引く採る・めとる・まぐあう男」「やど…宿…家…言の心は女…屋門…や門…おんな」「みち…道…路…通い路…おんな」
歌の清げな姿は、久しぶりに訪ねてきた夫を喜び祝う歌。
心におかしきところは、五十日ぶりのわがや門の通い路の喜びの歌。
この歌、拾遺集では「雑賀」にある。年齢祝いの慶賀ではなく、別の祝い歌。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。