帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百三十五)(四百三十六)

2015-10-07 00:08:33 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、この「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有るにちがいない。

 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

住吉にまうでてよみ侍りける            安法法し

四百三十五  あまくだるあら人神のおひあひを おもへばひさしすみよしの松

         住吉大社に詣でて詠んだ、(安法法師・曽祖父は河原左大臣源融、その大豪邸だった寂びれた河原院に住む・源順や清原元輔らと同時代の人)

(天降り人となって現れた神との、生まれ出遭いを思えば久しい、住吉の松……あまくだる荒人かみの、感の極み合いを、思えば久しい、すみ好しの、千歳の・おうな)

 

言の戯れと言の心

「あまくだるあら人神…天降る現人神…あま降る荒人かみ」「神…海より生まれた筒男命が御祭神…かみ…下身…火身…貴身」「おひ…生ひ…誕生…老い(歳の極み)…ものの極み…感の極み…追い」「あひ…逢い…合い…和合」「ひさし…久しい…千年の長寿」「すみよし…住吉…住み好し…済み好し」「松…木ではあるが言の心は女…待つ」

 

歌の清げな姿は、神世に、神と共に生まれたと思われる住吉の松原の景色を愛でた。

心におかしきところは、荒人かみとの睦み合い、思えば久し、すみ好しの長寿の女よ。

 

 

(住吉にまうでてよみ侍りける)           恵京法師

四百三十六  我とはば神よのこともかたらなむ むかしをしれるすみよしの松

(住吉に詣でて詠み侍りける)           (恵慶法師・清原元輔らと同時代の人・応和二年(962)安法法師主催の河原院歌合に参加)

(我が問えば、神世の事も語って欲しい、昔を知る住吉の松……拙僧が訪えば、彼身の夜のことも語ってくれるだろうな、むかしを知る、すみ好しのまつ)

 

言の戯れと言の心

「神よ…神世…上夜…以前の夜…下身夜…下見夜」「なむ…相手に対して願い望む意を表す…てほしい…確実に実現すると思われる推量を表す…きっと(語る)だろう」「むかし…昔…武樫…強く堅い」「しる…知る…汁」「すみよしの松…千年の長寿の女…すみ好しの待つ女」「すみ…住み…す見…す身」「す…洲…女」

 

歌の清げな姿は、千年の長寿の松に語りかけた。

心におかしきところは、拙僧が訪えば、語り合おうな、武樫おとこを、しる、す身好しの女。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌の解釈について述べる(以下は再掲載)


  紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って、平安時代の
和歌の表現様式を考察すると次のように言える。「常に複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸である。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様子なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式である」。

万葉集の人麻呂、赤人の歌は、この様式で詠まれてある。彼らが高め確立して広めた様式である。ゆえに彼らを「歌のひじり」と貫之は言う。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落し、「色好みの家に埋もれ木」となった。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の根本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。その解釈と方法は世に蔓延して現在に至る。

公任の云う「心におかしきところ」と、俊成の云う「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」という言葉にあらわされてある、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。