帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔百二十九〕頭弁の

2011-07-28 06:08:17 | 古典

 



                     帯とけの枕草子〔百二十九〕頭弁の



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔百二十九〕頭弁の

 頭の弁(行成)が識の御曹司に参られて、話などされていたときに、「夜がたいそう更けた。明日は御物忌なので籠もらなければならない。うしになりなば(丑の刻になると…憂しになると)、ぐあいがわるい」といって、内裏へ参上された。
 
明くる朝、蔵人所の紙屋紙(事務用紙)ひき重ねて、「けふはのこりおほかる心ちなんする。夜をとをして、むかし物がたりもきこえあかさんとせしを、には鳥のこゑにもよほされてなん(今日は名残が尽きない心地がします。夜を通して昔物語でもお聞かせして明かそうとしたのに、庭鳥の声にうながされてですね・帰ったもので……京は思いが多く残っている心地がする。夜を通して武樫の物語でもお聞かせして明かそうとしたのに、女の声に急きたてられて・夜深いのに帰されたので)」と、たいそう言葉多く書いておられる、いとめでたし(とっても愛でたい)。
 
 言の戯れと言の心
 「うし…丑の刻…憂し…うんざり…わずらわしい」「けふ…今日…京…絶頂…宮こ…感極まったところ」「には鳥…鶏…朝を告げて鳴く鳥」「鳥…女」。

 お返しに、「いと夜ふかく侍ける鳥のこゑは、まうさう君のにや(たいそう夜深いときに、いたしました鶏の声は、孟嘗君の偽ものではないの……とっても夜深いときにしました女の声は、偽りの声ではないの・誰が明けた帰れといったのよ)」とお応えすると、たち返り、「まうさうくんのにはとりは、かんこく関をひらきて三千のかく、わづかにされり(孟嘗君の庭鳥は函谷関の門を開いて三千の食客、かろうじて去った……孟嘗君の偽りのとりの声はあの関門を開いて大いなるきゃく、かろうじて出で去った)とあるが、まろが言うのは、あふさかのせき也(逢坂の関です…女と男の合う坂の関門ですよ)」とあれば、

 夜をこめて鳥のそらねははかるとも 世にあふさかの関はゆるさじ 心かしこき関もり侍り

(夜をこめて鶏の似せ声で謀るとも世に逢坂の関は開くこと許さない・逢坂には心賢い関守がいます……夜をこめて女のにせ声で謀るとも、夜のうちは合坂の門は出て去ること許さないわ・合う坂には心の堅い門守りがいるのよ)。
と言う。またたち返り、
 あふさかは人こえやすき関なれば 鳥なかぬにもあけて待とか

(実際の逢坂は今や人越えやすい関だから鶏も鳴かないのに開けて待つとか……あなたの合坂は人越えやすいところだから、とりが泣かずとも、門開けて出入り待つとか)。

とあった(行成の)文どもを、初めのは僧都の君、いみじうぬかをさえつきて(たいそう拝み倒して)お取りになられた。後のと後々のは、宮の御前に・差し上げた。
 
 
さて、逢坂の歌は、へされて(圧勝されて)、返しをせずになってしまった。「いとわろし(返してこないのでひじょうに悪い…あなたの立場はとっても悪い)。さて、あの文は殿上人、皆見てしまったのよ」とおっしゃるので、「真にわたしのことを思ってくださっていたと、それによって知りました。愛でたいことを人が言い伝えないのは、かいのないことですものね。また、見苦しい言が散るのがわびしければ、御文はたいそうに隠して人にお見せいたしません。気遣いの程度を比べますと等しいのですよ」といえば、「そのように、ものを思い知り悟ったように言うのは、やはり普通の女には似ないと思える。『思い巡らすことなく軽率に、わたしの立場を悪くして』などと、普通の女のように言うかなと思ったよ」とお笑いになられる。「こは、などて、よろこびをこそきこえめ(そんな、どうして・おあいこなのよ、わたしも君の文を乞われるままに人に差し上げた・喜びをですね、申し上げたいわ)」などという。
 
「まろがふみをかくし給ける、又、猶あはれにうれしきことなりかし。いかに心うくつらからまし、いまよりも、さをたのみきこえん(まろの文を隠して頂いていましたね、それもまたやはり感激して嬉しいことですよ。隠していることはどれほど心憂く辛いことでしょうか。これからも、そのように、この男をお頼み申します)」などとおっしゃって後に、経房の中将(源経房)がいらっしゃって、「頭の弁は、あなたのことをたいそう褒めておられるのは知っていますか、先日の文にあったことなど話されてね。思い人が人に褒められるのは、ひじょうに嬉しい」とまじめにおっしゃるのもおかしい。

「嬉しいことが二つです、彼が褒めてくださるのに、そのうえにまた、わたしが君の思い人の中に居たことですわ」と言えば、「それを珍しう今知ったことのように、お喜びなさいますなあ」などとおっしゃる。


 言の戯れと言の心
 「鶏…鳥…女」「孟嘗君…捕らわれの身を逃れ函谷関に来た夜、夜明けを告げる鶏の鳴き真似をして門を開けさせて三千の食客と共に去ったという人」「函谷関…関所…かんこくかん…歓喜を告げるところ」「三千…おおい…大いなる」「客…食客…脚…おとこ」「あふさかのせき…近江と京の関所…越え難き男女の一線…合い難き男女の山ば」「あけて待つとか…(門)ひろげて客(訪れる男)待つとか…開けておとこの出入りを待つとか」「関…関門…門…女」「へされて…圧されて…門あけて待つ女にされては行成の圧勝」。



 
枕草子はおとなの読物。言の戯れを知り、歌のさまを知り、事の情と言の心を心得る人は、おかしさがわかる。

 貫之のいう「言の心(古今集仮名序)」を心得ないで、「鶏…女」「門…女」などの戯れは、有り得ないと思っている人。および、「同じ言葉でも、聞き耳によって(意味の)異なるもの、男の言葉、女の言葉」 という清少納言の言葉を空耳と思って聞き流している人には、枕草子のおかしさがわからない。

 公任が捉えた和歌の様式「心深く、姿清げに、心におかしきところがある(新撰髄脳
)」を知らない人。および、俊成の「歌は、浮言綺語の戯れに似ているけれども、ことの深き趣旨も(そこに)顕われる(古来風躰抄)」というにことを無視して知らない人には、歌のおかしさがわからない。

伝授 清原のおうな

聞書 かき人知らず    (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」による