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帯とけの枕草子〔百二十四〕九月ばかり
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子〔百二十四〕九月ばかり
九月ばかり、夜ひとよふりあかしつる雨の、けさはやみて、朝日いとけざやかにさし出たるに、せんざいの露は、こぼるばかりぬれかゝりたるも、いとをかし。すいがいのらもん、のきのうへなどは、かいたるくものすの、こぼれのこりたるに、あめのかゝりたるが、しろき玉をつらぬきたるやうなるこそ、いみじう哀れにをかしけれ。すこし日たけぬれば、萩などのいとをもたげなるに、露のおつるに、枝打うごきて、人も手ふれぬに、ふとかみざまへあがりたるも、いみじうをかし。といひたることどもの、人の心には露をかしからじ、と思ふこそ、又をかしけれ。
清げな姿
九月頃、夜、一夜降りあかした雨が、今朝はやんで、朝日が鮮やかにさし出ているときに、前栽の露は零れるばかりに濡れかかっているのも、たいそう風情がある。透垣の羅文、軒の上などは、掛った蜘蛛の巣が、垂れこぼれ残っているのに雨がかかっているのが、白玉を貫いたようなのこそ、とっても趣があることよ。少し日が高くなったので、萩がとても重そうだったのに、露が落ちると枝がうち動いて、人も手触れないのに、さっと上の方へ撥ね上がるのも、とってもおかしい。と云った事等が、(或る)人の心には少しもおかしくないだろう、と思うのが、又おかしいことよ。
心におかしきところ
長つきばかり、夜、一夜ふりあかしたお雨が、今朝はやんで、朝日が鮮やかにさし出ているときに、前にわの白つゆは零れるばかりに濡れかかっているのも、とってもすばらしい。す井が井の羅門、のきの上は、かけられた心雲のすが、子惚れ残っているのに、お雨のかかったのが、白つゆの玉を貫いたようなのこそ、とっても哀れで、すばらしいことよ。少し思いの火が精いっぱいになったので、端木がたいそう重たそうだったときに、つゆが落ちると、身の枝、うち動いて、ひとも手触れないのに、ふと上へあがるのも、とってもすばらしい。と云った事等が、(心幼き)人の心には少しもおかしくないでしょう、と思うのが、又おかしいことよ。
言の戯れと言の心
「月…壮士…突き…尽き」「雨…おとこ雨」「せんざい…前栽…前の植え込み…前庭…女」「庭…女」「露…白つゆ」「白き玉…真珠…白たま…白つゆ」「白…おとこの色」。「す…巣…棲…洲…女」「い…井…女」「もん…文…文様…門…女」「かみ…上…うえ…女」「くも…蜘蛛…雲…心にわきたつ雲…情欲など…煩悩」「こぼれ…零れ…子惚れ」「こ…子…おとこ」「雨…おとこ雨」「白…おとこの情念の色」。「日…火…思い火…情熱の火」「たけ…猛…勢い盛ん…精いっぱい」「萩など…端木…おとこ」「をもたげ…重そう…動きが鈍そう」「露…すこし…白つゆ」「枝…身の枝…おとこ」「人…女」。「人…他人…言の心を心得ぬ人…心幼き人…あちらの後宮の若き女房たち・長保元年(999)、道長のむすめ彰子十二歳入内」。
「言の戯れと言の心」は、和歌によって育まれてきた。「萩」と「露」を詠んだ和歌を一首聞きましょう。藤原公任撰「和漢朗詠集」巻上にも掲げられ、「拾遺和歌集」にもある。伊勢の御の歌。
うつろはむことだにをしきあきはぎに をれぬばかりもおけるつゆかな
(散ることさえ惜しき秋萩に、折れる程にも、おりる露かな……衰えることさえ惜しき飽き端木におかれては、折れる程にも贈り置かれる白つゆかな)。
「うつろふ…散る…色あせる…衰える」「あき…秋…飽き…飽き満ち足り」「はぎ…萩…端木…おとこ」「木…男」「に…場所を表わす…主語に付いて敬意を表わす」「をれ…折…逝」「つゆ…露…おとこ白つゆ」。
歌は、深き女心を詠んで、姿清げで、心におかしきところがある。公任も認める良き歌。貫之の言うように「歌の様を知り言の心を心得る人」にはわかるしょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・9月、改定しました)
原文は「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」による