帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔百二十四〕九月ばかり

2011-07-22 06:03:57 | 古典

 

                      帯とけの枕草子〔百二十四〕九月ばかり



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


 
清少納言枕草子〔百二十四〕九月ばかり

 九月ばかり、夜ひとよふりあかしつる雨の、けさはやみて、朝日いとけざやかにさし出たるに、せんざいの露は、こぼるばかりぬれかゝりたるも、いとをかし。
すいがいのらもん、のきのうへなどは、かいたるくものすの、こぼれのこりたるに、あめのかゝりたるが、しろき玉をつらぬきたるやうなるこそ、いみじう哀れにをかしけれ。すこし日たけぬれば、萩などのいとをもたげなるに、露のおつるに、枝打うごきて、人も手ふれぬに、ふとかみざまへあがりたるも、いみじうをかし。といひたることどもの、人の心には露をかしからじ、と思ふこそ、又をかしけれ。


 清げな姿
 九月頃、夜、一夜降りあかした雨が、今朝はやんで、朝日が鮮やかにさし出ているときに、前栽の露は零れるばかりに濡れかかっているのも、たいそう風情がある。透垣の羅文、軒の上などは、掛った蜘蛛の巣が、垂れこぼれ残っているのに雨がかかっているのが、白玉を貫いたようなのこそ、とっても趣があることよ。少し日が高くなったので、萩がとても重そうだったのに、露が落ちると枝がうち動いて、人も手触れないのに、さっと上の方へ撥ね上がるのも、とってもおかしい。と云った事等が、或る人の心には少しもおかしくないだろう、と思うのが、又おかしいことよ。

 心におかしきところ
 
長つきばかり、夜、一夜ふりあかしたお雨が、今朝はやんで、朝日が鮮やかにさし出ているときに、前にわの白つゆは零れるばかりに濡れかかっているのも、とってもすばらしい。す井が井の羅門、のきの上は、かけられた心雲のすが、子惚れ残っているのに、お雨のかかったのが、白つゆの玉を貫いたようなのこそ、とっても哀れで、すばらしいことよ。少し思いの火が精いっぱいになったので、端木がたいそう重たそうだったときに、つゆが落ちると、身の枝、うち動いて、ひとも手触れないのに、ふと上へあがるのも、とってもすばらしい。と云った事等が、心幼き人の心には少しもおかしくないでしょう、と思うのが、又おかしいことよ。


 言の戯れと言の心
 「月…壮士…突き…尽き」「雨…おとこ雨」「せんざい…前栽…前の植え込み…前庭…女」「庭…女」「露…白つゆ」「白き玉…真珠…白たま…白つゆ」「白…おとこの色」。「す…巣…棲…洲…女」「い…井…女」「もん…文…文様…門…女」「かみ…上…うえ…女」「くも…蜘蛛…雲…心にわきたつ雲…情欲など…煩悩」「こぼれ…零れ…子惚れ」「こ…子…おとこ」「雨…おとこ雨」「白…おとこの情念の色」。「日…火…思い火…情熱の火」「たけ…猛…勢い盛ん…精いっぱい」「萩など…端木…おとこ」「をもたげ…重そう…動きが鈍そう」「露…すこし…白つゆ」「枝…身の枝…おとこ」「人…女
」。「人…他人…言の心を心得ぬ人…心幼き人…あちらの後宮の若き女房たち・長保元年(999)、道長のむすめ彰子十二歳入内」。

 

「言の戯れと言の心」は、和歌によって育まれてきた。「萩」と「露」を詠んだ和歌を一首聞きましょう。藤原公任撰「和漢朗詠集」巻上にも掲げられ、「拾遺和歌集」にもある。伊勢の御の歌。

うつろはむことだにをしきあきはぎに をれぬばかりもおけるつゆかな
(散ることさえ惜しき秋萩に、折れる程にも、おりる露かな……衰えることさえ惜しき飽き端木におかれては、折れる程にも贈り置かれる白つゆかな)

 「うつろふ…散る…色あせる…衰える」「あき…秋…飽き…飽き満ち足り」「はぎ…萩…端木…おとこ」「木…男」「に…場所を表わす…主語に付いて敬意を表わす」「をれ…折…逝」「つゆ…露…おとこ白つゆ」。

 歌は、深き女心を詠んで、姿清げで、心におかしきところがある。公任も認める良き歌。貫之の言うように「歌の様を知り言の心を心得る人」にはわかるしょう。



 伝授 清原のおうな

聞書 かき人知らず    (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」による