帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔百二十二〕はしたなきもの

2011-07-19 06:04:37 | 古典

 



                   帯とけの枕草子〔百二十二〕はしたなきもの



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔百二十二〕はしたなきもの

 
間が悪く気まずいもの、違う人を呼んでいるのに、わたしだと出てくる、物など与える時はなおなおさら。
 たまに他人の身の上など言いだして悪く言うとき、幼い子どもが聞き取って、その人が居るときに言い出している。

哀れな事などを人が言い出し泣きだしたりするときに、たしかにとっても哀れだなあなどと聞きながら涙が出てこない。いとはしたなし(ひどくきまりが悪い)。泣き顔を作り気色を違えてみても全く効果はない。 

愛でたいことを聞くときには、まっ先にただもう涙が出てくる出てくる(はしたないことよ)。

 (岩清水)八幡の行幸のお帰りに、女院(主上の御母上)の御桟敷の彼方に、主上の御輿を停めて、御挨拶を申しあげられる、格別のことでとっても愛でたいので、ほんとうに涙がこぼれるばかりで、化粧した顔もみな洗われて、どれほど見苦しいことでしょうか。宣旨の使(主上のお言葉をお伝えする使者)として、斉信の宰相の中将が御桟敷へ参られたのは、とっても立派に見えたのだ。ただ随身四人、たいそう装束を調えた馬副が弱々しく顔白く仕立てて、二条の大路の広く清げなところに、愛でたい馬をうち速め、急ぎ参って、少し遠くで降りて、女院のそばの御簾の前に控えられたのなど、いとをかし(とってもすばらしい)。

ご返事を承ってまた御輿のもとにて奏し給う様子は、いふもおろかなり(言うも愚かである…言い表わせるわけがない)。そうして、主上がお通りになられるのを、ご覧になられる、御母上の・御心の内を、思い遣り参らせると、とびたちぬべくこそおぼえしか(飛び上がってしまいそうと思えたのだ……わたしなら、わが子のもとへ飛び発ってしまうでしょうと思われたのだ)。それには長泣きをして笑われたのだった。

ふつうの人でさえ、やはり子の立派なのは、とっても愛でたいものなので、このように、思いを推察してさしあげるものの、かしこしや(おそれ多いことかな)。


 言の戯れと言の心

「はしたなし…ぐあいがわるい…気まずい…きまりがわるい」「とびたちぬべく…(感激で)飛びあがってしまいそう…(我が子のもとへ)飛んでいってしまいそう」「とびたつ…飛び上がる…鳥が飛び立つ」「鳥…女…鳥の言の心が女であることは理屈で定まったのではない、神世に女神の沼河ひめが、『我が心浦すの鳥ぞ、今こそは、我鳥にあらめ、後は汝鳥にあらむを――』と謡われた時、すでに鳥の言の心は女」。

 

 

主上の岩清水八幡宮行幸は、長徳元年(995)十二月のこと。この四月には、殿(関白道隆)が亡くなられて、道長と伊周・家隆との政権闘争は激化していた。 


 
 伝授 清原のおうな

聞書 かき人知らず    (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」による