知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『大女優 原節子さんの凄さ 4(「東京物語」のあの建物がマツダビル)』『「東京物語」の原さんを見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と!』

2022-06-26 23:40:25 | 映画

『大女優 原節子さんの凄さ 4(「東京物語」のあの建物がマツダビル)

『「東京物語」の原さんを見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と!』

 

先日(2022/02/20)の日経新聞の春秋に『東京物語』の風景『マツダビル』のことが載っていました。  このマツダビルのあった有楽町には、映画『君の名は』の数寄屋橋や、『銀恋の碑』の近くには「有楽町で逢いましょう」の歌碑もあるし、有楽町の由来となった織田有楽斎(信長の弟)の屋敷跡の碑もあります。 この一角には某新聞社(今は築地)もありました。 この新聞社の友人たちとは有楽町界隈のスナックで、飲みながら、よく読書論をやりました。

ウエブ情報から引用

先ずは、マツダビルの変遷(ウキペディア情報から抜粋・引用

1932年、東芝の前身の東京電気が数寄屋橋西側の土地を取得。 1934年に竣工して東京電気が入居した。 当時としては最先端の電気空調設備が整い、1階にはマツダランプのショールームが開設された。 太平洋戦争が始まると、英語の名称は時節柄ふさわしくないとして1943年に「東芝館」に改めた。

 

1956年には品川区の東京大井店に次ぐ阪急百貨店の東京における2号店として「数寄屋橋阪急」が開店。 1966年には増築が行われた。 地下1階とケーソンの間に地下2階を設けた。新館との接続部のコアは数寄屋橋公園側に移し、2階以上ではこの部分の柱を取り除くという大がかりなものとなった。

 

1984年には、港区芝浦に東芝の新たな本社社屋となる東芝ビルディングが完成。それまでは当ビルに東芝本社機能の一部を置いていたが、以降、オフィスフロアは賃貸物件として利用される。

 

2007年、東芝不動産は銀座東芝ビルの建物と敷地を東急不動産系の合同会社に1,610億円で売却した。 2012年9月よりビル解体工事に着手。 跡地には2016年に東急プラザ銀座が開業した。

 

表題『大女優 原節子さんの凄さ 4』に戻ります。

小津安二郎監督の「東京物語」に、上京した老夫婦が義理の娘と都心を巡る場面がある。 銀座で百貨店の屋上に立つと遠くに国会議事堂、手前に重厚感のあるマツダビル。 「モダンボーイで銀座っ子だった」(川本三郎著「銀幕の東京」)小津が選ぶ都会らしい風景といえる。

 

東京の顔のひとつだったこのマツダビルはすでに無い。 昭和初めに建てられ、当初はマツダビル、後に銀座東芝ビルと呼ばれた。 マツダは東芝の祖業であり看板商品だった電球の名称マツダランプ。

 

表題『「東京物語」の原さんを見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と!』に戻ります。 『東京物語』は、1953年に公開された、監督は小津安二郎、主演は笠智衆と原節子。 『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)で原節子が演じたヒロインはすべて「紀子」という名前であり、この3作品をまとめて「紀子三部作」と呼ぶことがある。

エブ情報から引用

上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、家族の絆、親と子、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で描いた作品である。 戦前の小津作品、特に『戸田家の兄妹』などにすでに見出されるテーマだが、本作でより深化させられることになった。 

 

「ロー・ポジション」を多用し、カメラを固定して人物を撮る「小津調」と形容される独自の演出技法で、家族を丁寧に描いている。家族という共同体が年を経るとともにバラバラになっていく現実を、独特の落ち着いた雰囲気でつづっている。

 

作品は国内外で高く評価されている。 2012年に英国映画協会の映画雑誌『Sight & Sound』が発表した史上最高の映画ベストテンの映画監督が選ぶランキングでは第1位に選ばれた。 

(記事投稿日:2022/06/26、♯547)


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