知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『自然の不思議・樹木のこと 12(高知県の「杉の大スギ」縄文杉より大きい』 『「杉の大スギ」は名実ともに日本一、昔の巨樹ファンも形無し!』

2024-02-15 17:45:51 | 植物
『自然の不思議・樹木のこと 12(高知県の「杉の大スギ」縄文杉より大きい』
『「杉の大スギ」は名実ともに日本一、昔の巨樹ファンも形無し!』

                                      杉の大スギ      縄文杉
      北の大スギ   南の大スギ
樹高          60.0ⅿ          57.0ⅿ                        25.3m
胸高周囲    20.0ⅿ          16.5ⅿ                        16.4m
推定樹齢                推定3000年                      2000年代~4000年
標高                           410ⅿ                                 1300m

杉の大スギ(根本拡大)
 
ウエブ情報から引用

杉の大スギ(全様)

ウエブ情報から引用
杉の大スギは、高知県長岡郡大豊町の八坂神社境内に生育しているスギの巨木。 推定の樹齢は3000年以上といわれ、根元で「北大スギ」と「南大スギ」の2本の株に分かれており、神社にみられる木としては、日本最大のものとされ、古来より信仰の対象となっていた。 美空ひばりとこのスギにまつわる逸話は名高く、その縁によって遺影碑と歌碑が彼女の没後に建立された。

この木は素戔男尊が植えたという言い伝えがあり、推定樹齢の根拠とされる。木は根元で2本に分かれ、それぞれ「北大スギ:根周りが約20ⅿ」、「南大スギ:根周りが約16.5ⅿ」と呼ばれる。 このスギは「神代スギ」「天王スギ」「夫婦スギ」などと、異名を多く持つ。 受胎・安産や護身のご利益があるとしてこのスギの樹皮をひそかに剥ぎ取る者が多かったために、『樹皮が薄くなったところが盛り上がって不整形の形状』をなしていると、ウエブ情報にありました。

が、この『杉の大スギ』のテレビ放映では『樹皮が薄くなったところが盛り上がって不整形の形状』は、この巨体を支えるために、縦状に盛り上がったものと紹介されていました。 これは熱帯の高木の板状根の変形態と想像しました。 機会を見つけて、実際に見て確認したいと思いました。
(記事投稿:2024/02/15、#727)
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『盆栽のこと 1(盆栽とは、一般的には、花盆などの器物に草木を栽植して樹姿を整えて、盆中に景色を表現するもの)』

2023-12-06 15:57:21 | 植物
『盆栽のこと 1(盆栽とは、一般的には、花盆などの器物に草木を栽植して樹姿を整えて、盆中に景色を表現するもの)』

『更に、剪定や針金掛け等を施して樹の成長を抑制して整え、盆型の鉢植えで栽培されたもので、海外にも愛好家が多い「BONSAI」』

『盆栽は樹木の歴史の「台風・大風に備え、縦に圧縮された熱帯の樹形に」落ち着いて、屋内や屋外の棚の上に』

『世界盆栽展でお逢いした南アの出品者兼大会セミナー講師の方の言「素晴らしい盆栽は真下から見上げ巨木に見えるもの」に納得』

地球は46億年前に誕生、そして生命は約40億年前に生まれ、わたしたちホモ・サピエンスの種が初めて現れたのは、およそ20万年前といわれていますが、最古の木はデボン紀中期に終わり、そして森林はそのすぐ後にあたる「デボン紀後期のはじめごろ」に出現したと考えられており、今から約3億8500万年前のこと。 

その後、デボン紀の終末までの(わずか)2600万年の間に、この巨大な陸生生物の個体『樹木』は、世界各地の大陸へと進出していった。 その間に地球の環境に合わせて、現代まで順応棲息してきている。 しかし、昨今の地球気象の『「温暖化」の最中に「沸騰化」とまで言われ始め』、その樹木が、森林火災多発で悲鳴を上げています。

さらに、この歳、傘寿プラスになって、早とちり的ですが、解かったことは、樹形は人間の手が及ばず、自由にのびのびと成長できれば、『一般的には、温かい地方では、広く・低い「洋傘形」と、寒い地方では、鋭く・高い「円錐形」に大別』されるようです。

アメリカネムノキ(台風・大風に備えた樹形、「この木、何の木」のCMで有名)
 
ウエブ情報から引用(重心を低くして強風に耐える樹形)
                                   
モミノキ・針葉樹(雪の重さと寒さに耐え、太陽光を求め、円錐形に)
ウエブ情報から引用

庭木ではなく鉢植えの盆栽の樹形・形態は、次の通り多様です。 『箒立ち、直幹、模様木、斜幹、懸崖、半懸崖、文人木、吹き流し、双幹、株立ち、寄せ植え、石上、石附き、筏吹き(倒れた木は、上向きの枝を新たに伸ばすこと)、舎利(幹の皮が剥がれ落ち一部が枯れてしまうこと)』とウエブ情報にありました。 やはり素人には盆栽は『台風・大風に備えた、縦に圧縮した、熱帯の樹形』の安定した形に落ち着いたように見えました。
(記事投稿日:2023/12/06、#706)
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『自然の不思議・樹木のこと 3(縄文杉は、なぜ生き残れた! 伐採されずに)』 『微笑ましい理由は、「巨大」好きの秀吉の時代には発見されていなかったこと!』

2023-09-11 06:06:01 | 植物

『自然の不思議・樹木のこと 3(縄文杉は、なぜ生き残れた!伐採 されずに)』

『微笑ましい理由は、「巨大」好きの秀吉の時代には発見されていなかったこと!』

 

 屋久島の縄文杉は、なぜ生き残ったのか、なぜ、あんなに神々しいのか、時々、考え込みました。 自分なりに三大『屋久杉』を選んでみました。 一部のウエブ情報にあるように、縄文杉は『秀吉配下に見付からず』に済んだのは運がよかったと思い込んでいましたが、当時まだ、縄文杉は発見されておらず、ずっと最近(1966年)の発見です。 もし発見されていたら、太閤様のことですから、城郭・寺院の建築材料には不向きでも『どこかの置物』にでもしてしまったかもしれません。

 

縄文杉自生する最大級の屋久杉縄文時代から生息能力個体の総称ではない

推定樹齢は、2500年から3000年。

 

ウィルソン株

1586年天正14年)、牧村の五郎七が足場を組み、豊臣秀吉の命令により大坂城築城(京都の方広寺建立とも)の為に切られたといわれる。 胸高周囲13.8m

1586年に伐採された、この切り株から、推測された樹齢は、約3000年ですので、伐採当時は、縄文杉より数百年、長寿であった。

 

三代杉(三代続いた屋久杉でも、三代目はまだ「小杉」)

初代が樹齢およそ2,000年で倒れ、その上に育った二代目は樹齢およそ1,000で伐採。その切り株の上に今の三代目“三代杉”が生まれ育って数百年。

木々の密集する森では陽のあたる場所もなく、倒木や伐採の痕は新しい世代が育つ格好の場所で、木々深い屋久島の森ではこの「更新」が多くみられます。三代杉は倒木更新・伐採更新の中でも代表的なもの。
 

肥大な根は二代目のもので、大きな空洞は初代が朽ち果ててできたものです。 三千数百年に亘って受け継がれた素性の良さと小杉の若々しさ。屋久杉のプリンスと言えるかも。 寿命の長い樹木は、歴史の中で生きてきています。 人間の身勝手さを反省しながら、屋久杉の歴史をウエブ情報から抜粋しました。

 

.最初の伐採(室町時代~安土桃山時代)

屋久杉が伐採され、利用されるようになったのは薩摩藩の藩政によるものが始まりだったと言われています。 1457年の頃のものと推定される切り株が確認されている事から薩摩藩が特別な建築のために屋久杉が伐採していたことが分かっています。

 最古の史実によると、豊臣秀吉が京都方広寺の建築材を調達するため、島津氏の重臣(伊集院 忠棟)らが調査に来島した記録が残っています。

京都方広寺は、1595年創建なので約425年前には利用されていた事になります。 

当時のリーダーとそのスタッフのスケールの大きさ・凄さには、感心させられますと同時に、屋久杉を京や大阪の城郭・寺院の建築に使うことの、サプライチェーンのスケールにも感心しています。 それについても、今の政治屋とお役人のスケールは!

.藩の財政としての利用(江戸時代~)

江戸時代初期には、屋久杉の利用を狙いとして屋久島支配を強めた薩摩藩が、屋久杉材を年貢などに定め、支配体制を確立しました。 1640年、屋久島町安房生まれの儒学者で、島津氏に仕えていた泊如竹は、屋久島に住む島民の生活向上と薩摩藩の財政の安定を願って、屋久杉材を年貢に定める藩政提言したことが残っています。 

その後、幕末期までに57割もの屋久杉が伐採されたと推定されています。その伐採の跡には小杉と呼ばれている若い屋久杉が誕生して、現在に受けつがれています。 

.国の管理下での利用(明治時代~)

明治期に入ると、1879年に地租改正が行われ、土地に対する私的所有権が確立しました。 その結果、島の森林の8割が国有林化され、島民は下げ戻しを求めて争ったそうですが、1920年に敗訴。 国は大規模伐採に向けて動き出すことに 

一方、島民の生活安定が国で協議されたために、翌年1921年に屋久島憲法と呼ばれる屋久島国有林経営の大綱が制定されました。

伐採事業では島民を優先的に雇用することや7000ヘクタールの土地を住民が使える共有林とすることなどが決定されたのです。 

1923年には島東部を流れる安房川に沿って、山中から港まで、木材を運ぶ安房森林鉄道が開通。沿線の小杉谷山中に営林署の事業所が開かれ、作業員や家族が暮らす集落が生まれました。 集落には小・中学校も建設され、多くの人で賑わうようになったそうです。

.国家的資源としての屋久杉の利用(昭和時代~)

当時、樹齢千年を超す屋久杉の生立木(せい・りゅう・ぼく)は伐採が禁止されていましたが、第2次世界大戦時の1941年には軍用材の臨時伐採が始まり、伐採禁止が解かれました。 戦後も伐採は続きましたが、縮小傾向に向かっていたとされています。しかし、木材の供給不足や価格の高騰が社会問題となりました。

1954年から高度経済成長期に突入すると、更に木材の供給が必要に迫られたため林野庁は1957年に屋久杉の生立木の伐採を正式に解禁。 チェーンソーも導入されたことで、山の斜面を丸裸にする皆伐方式によって、原生林を本格的に伐採し始めました。

1966年の屋久島の国有林伐採はピークを迎え、年間18万立方メートルもの木材が市場に持ち込まれたとされています。 

1972年頃より、大量伐採が行なわれる一方で自然を守る動きも活発になり、加えて、経済発展の結果として輸入材が増え、徐々に国有林事業が大幅に縮小されるようになりました。

そのため、1970年には小杉谷事業所が閉鎖され、1975年には屋久島の1,219haが原生自然環境保全地域に指定され、伐採しない中枢部と生態系を保全しつつ利用する周辺部に分けられ、伐採可能な木と場所の選定が始められました。木材需要の低迷と自然保護の観点が強まり、次第に樹齢1000年以上の屋久杉の伐採は減少。

1966年の「縄文杉」発見の影響や原生自然環境保全地域の指定もあり、遂に1984年までに伐採禁止となりました。

 

.自然環境を守る時代へ(平成時代~)

森林保護の機運が高まったことも影響し、1993年に世界自然遺産として登録。それでも、現在屋久杉の商品が私たちの手元にあるのは、土埋木の存在が大きく影響しています。 

土埋木とは、主に江戸時代の頃に伐採したが搬出できず山中に残ったままの屋久杉の倒木のことです。 

しかし、20193月の競りを最後に屋久杉は市場に出回らなくなりました。伐採も禁止され、土埋木の搬出も禁止された今、屋久杉を山から搬出する事は一切なくなったのです。 正に、平成を最後に屋久杉や屋久島の森と資源を守る動きが始まったと言えます。

 

一度見たかった縄文杉、今では国土地理院地図、又はグーグルマップでの散策になります。

(記事投稿日:2020/07/19、最終更新日:2023/09/11、#194)

 

 

 

 

 

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『100年前に造られた神宮の人工森が、手入れ不要の自然の森に 2』 『明治神宮の森は、林学者や造園家によるナショナルプロジェクト』

2023-08-06 14:08:30 | 植物
『100年前に造られた神宮の人工森が、手入れ不要の自然の森に 2』
『明治神宮の森は、林学者や造園家によるナショナルプロジェクト』
『将来のために日本にとって大事な森、今後の調査ために備忘録に』

明治神宮には、うっそうと茂る豊かな森(70へクタール)がある。 東京の中心部にこれだけ広大な森が手付かずによく残ったと思うかもしれないが、実際は100年を経て『自然の林相となることを目指してつくられた人工的な森』だ。 ここには、当時の林学者や造園家たちの英知が結集されている。

神宮の森(鳥瞰写真)

 ウエブ情報から引用

同じ人工林でも、造園のコンセプトや、大きさで比較になりませんが、フランスのパリには、フォンテーヌブロー(Fontainebleau)の森がありますが、ここも人間の手が入った、多くの皇帝も住まわれた人工の森です。 1万8000ヘクタールの広さを誇る高貴な森は、かつてフランスの王たちによって賞賛されてきましたが、自然を愛する人たちにとっての安らぎの場です。 様々な動植物が豊富にあるこの広大な分類地域には、オーク、ブナ、マツ、開花植物、地衣類、キノコ、さらには鹿、イノシシ、鹿、ウサギ・・・等、その一方では、 サーキットやサーキットを走る300キロメートルのトレイルがあり、ハイキング、ジョギング、乗馬、マウンテンバイクなどのスポーツ愛好家に人気の場所です。 カオスの森や砂岩が点在しているので、登山にも人気の場所です。

ウエブ情報から引用

フォンテーヌプローの森がフランス自然保護法の発祥の地とも目されていることは、あまり知られていない、また、全体が国有林であるとともに複数の公園や庭園を内包するフォンテーヌプローの森は、都市近郊の自然保護行政を考えるうえで示唆に富むといわれています。 余談でした。

表題の『自然の林相を目指した神宮の人工森』に戻ります。
日本人のDNAには、アニミズムに近い『八百万神(やおよろずのかみ)』という感覚が古来より備わっている。 八百万神というのは、高い山や深い森、青い海や美しい島などあらゆる場所に多くのカミが宿ること。 滝や川、池や湖には水神が、火山や竈(かまど)にも火の神、そのほか風神や雷神もある。 いわゆる『自然神』である。日本のカミにはもう一つ、祖先や偉人などを祀(まつ)る『人格神』もある。 明治神宮は近代日本の興隆に尽くした明治天皇と昭憲皇太后を主祭神とする神社で、2020年11月に鎮座百年を迎えた。

ウエブ情報の抜粋・引用です。
明治神宮の本殿を取り巻く神域を「内苑」といい、主として深い森(林苑)に包まれている。宗教の異なる大勢の訪日旅行者がこの森にやってくるのは、そうした聖域性にあるのかもしれない。

この神域とは別に、聖徳記念絵画館(明治天皇の生涯を絵画によってしのぶミュージアム)を中心に、ラグビー場や野球場など各種スポーツ施設を含む緑地帯の「外苑」がある。
 
一流の学者たちが集結して造営
明治天皇が崩御されると、翌々日には坂谷東京市長や実業家の渋沢栄一らが「明治神宮の創建」を提唱、内苑は国の予算で、外苑は国民の寄付で明記されており、これを政府も直ちに受け入れ、天皇の御陵は既に京都の桃山に造営されることが決まっていたので、東京市民は敬愛する天皇との絆を求めたのであろう。

崩御の翌13年、内閣は当代一流の学者を中心に「神社奉祀調査会」を設け、立地や規模など内外苑造営の基本計画について検討した。 その結果、社地約70ヘクタールの内苑(社殿と林苑)を造営することを決定した。 また内苑から少し離れた明治天皇葬場殿跡の敷地27.3ヘクタールに外苑を造営することも決めた。 造営事業は、専門家からなる調査委員会の指導の下、その弟子たちの実行体制で進められた。
 
日本造園界のパイオニア上原敬二
文明開化・欧米化という日本の近代化の流れを前提としつつ、「和魂洋才」の精神を忘れてはいない。 神社の本体である内苑には、伝統建築としての木造の流造様式の社殿、鎮守の森の伝統を踏まえた自然林本位の林苑。 その一方で、外苑は西洋式石造建築の絵画館をvista(通景線)の正面に置き、4列並木でシンメトリーを強調した人工的デザインとし、スポーツ施設を含むモダンな西洋風公園を目指した。 

神宮内苑の林苑計画の策定と造成事業のリーダーは3名。 
1人目は、主査はドイツ留学でドクトルの学位を取得して帰朝した本多静六、専門は造林学。

2人目は、本多の弟子の本郷高徳。 彼は後に神宮造営局技師として『明治神宮境内林苑計画』を執筆している。

3人目は、本多の下で森林美学(造園学)を専攻する、当時は東大大学院生の上原敬二。 その後、造園学研究のため欧米に留学。24年には、弱冠35歳で「東京高等造園学校(東京農業大学地域環境科学部造園科学科の前身)」を、また翌年には「日本造園学会」を創立している。 23年に関東大震災で東京の大半が焼失したため、復興には欧米のように緑の都市計画専門家(ランドスケープ・アーキテクト)が不可欠と考えたからであった。 「世界の公園や森とは違って、日本には日本式庭園や神社林、陵墓などの日本独自の造園がある」と上原は言う。 そこに共通するのは、生命力を実感させる永遠性や自然性、深い奥行きを感じさせる空間性や精神性である。

首都東京に再生された広大な神社林
造成前の神宮内苑用地は、70ヘクタール。 89%は雑草生い茂る荒蕪地だった。 ここに神宿る「永遠の杜(もり)」をどのように造成すればよいか。 それまでの神社林は恵まれた立地の自然林であって、大自然の力が「永遠の杜」を支えていた。 ならば、いかに自然林に近づけられるか。それが林学者3名の課題であった。

重要な役割を果たしたのは上原で、まず全国の代表的な、年代の異なる古社88社の現地踏査を行い、実測図を作成した。 また立ち入り禁止の仁徳天皇陵の森を観察。 日本の陵墓は、水をためる濠(ほり)をつくり、掘削された土を盛って前方後円墳を築造する大土木工事だが、表面を葺石(ふきいし)で蔽(おお)うだけで植樹はしないものであった。 にもかかわらず「何百年もの間、些(いささ)かの人工も加えず、原生林のような森厳性を保っている」ことを上原は実地に検証し、これこそ神社林の理想だと確信した。

それなら内苑を理想とすべき「永遠の杜」にするには何が必要か。 3名は次のような原則に従って林苑を造成することで植生遷移を進めればよいと考えた。
 
第一、林苑における社殿地と参拝者が移動する参道以外は、一体的で連続する樹林地(植栽地)とする。

第二、樹林地内は人の立ち入りを絶対に禁止する。

第三、神社林は多種の樹種で構成する。 政治家からは伊勢神宮のようなスギ林にすべきだと強く要請されたが、林学的な見地から、この土地は水分不足であり、隣接地を走る汽車の、煤煙により枯死するためスギは不適である。 さらに植栽樹木を自然林へと遷移させるために、広葉樹や針葉樹など多様な樹種を混ぜ、高木層・中木層・低木層と樹高を多層構造にする。 これは、上原によって行われた日本全国の天然林の観察から導かれたものであった。

第四、樹林地では落ち葉は積もり、落ち葉は微生物で分解されて腐葉土となる。また倒木にはキノコが生え、腐って土に戻ってゆく。 こうして樹林地の外に落ち葉や倒木を持ち出さなければ、樹林に肥料を与えなくとも、その栄養で植物は成長を続けていく。

第五、土中の水分と木漏れ日の光を受け、木の実は発芽し、倒木の後には別の木が育ち、樹林全体としては天然更新が進む。 こうして人の手を加えずとも、時間を経て自然林へと遷移していく。

当時は今日のような科学的な言い方はしなかったが、現代風に言えば、“物質の循環”と、昆虫、鳥類、小動物ら“生命の循環”によって、永遠に持続する森林を完成していこうという理論と具体的方法を100年以上も前に構築したのは驚くべきことだ。 こうした科学的合理性にもとづくシミュレーション「林苑の創設から最後の林相に至るまで変移(遷移)の順序の予想図」を作成し、植栽直後(I)50年後(II)、100年後(III)、150年後(IV)を見通したことに、ぜひとも注目していただきたいものである。

大都市の生物多様性を支える森
2013年に内苑の森の現状を報告書にまとめた。 同調査により、100年ほど前に全国各地から献木された約10万本の木を、植栽工事に参加するボランティアの青年たち延べ11万人の手で植えた森が、林相予想図の100年後、150年後の姿に間違いなく近づいていることが、第1次(1980年)、第2次の総合調査などとの比較で判明した。

東京首都圏は4000万人の無機的な巨大都市であるが、その都心に人の手で自然再生されたのが「明治神宮の森」である。 1924年、34年、70年、2013年の4回にわたり毎木調査を実施してきた。 第2次総合調査では林相など植物相のみならず鳥類、昆虫や魚類など動物相についても詳細に調べ、この森が大都市の中で生物多様性(Bio-diversity)を大きく支えている事実をも立証することができた。

スピード出世の柳沢吉保』の下屋敷は、現代では、アマチュアカメラマンにはたまらない庭園『六義園』です。 とにかく、四季を通じて、被写体と撮る時間を選り好みすると、その時間配分が大変です。

このアングル『大都会のコンクリートジャングル』の一角とは見えません。
鎮座100年の現在の姿

ウエブ情報から引用 

明治神宮造営当時の大鳥居周辺

ウエブ情報から引用

神宮の人工森は、当然ですが、鎮守の森で本物の森です。
近年、鎮守の森に対する関心が高まっている。 鎮守の森とは、神社の本殿や拝所、参道などを囲むように存在する樹林地で、本来は敷地内だけでなく、神社周囲の自然地帯を含む。また社寺林という言葉もあるように、寺院や沖縄の獄(ウタキ)のような場所も含み、一般に聖域とされる土地の植生全般を指す場合もある。

西日本から東日本太平洋岸にかけて多くが暖帯域に入り、しかも降水量が多い。そうした地域の環境では、照葉樹林が潜在自然植生だとされている。そして鎮守の森には、照葉樹林が非常に多い。 だから「鎮守の森=照葉樹林=潜在自然植生」という図式が生まれた。そして照葉樹林を「本物の自然」という主張が成されたのである。

以前、六義園を散策したときに、庭師の方から伺いました。『ここの黒松も、赤松も、今まで松くい虫に、一本もやられていない』そうです。 『何故かは、はっきり解からない』とのことでした。 ズブ素人の推測ですが、コンクリートジャングルの中に、隔離された庭園であり、かつ、高木・亜高木・低木・下草で構成された『本物の森』であったからでしょうか

『桃栗三年、柿八年』に続くのは、いろいろありますが、先ずは『柚子は九年でなりかかる』、『柚子は九年の花盛り』,『柚子の大馬鹿十八年』などと続くと言われます。 昔の人は、柚子にも豊かな観察眼を持っていました。 最近の人工物は『やっつけ仕事』が多いですね。
(記事投稿日:2023/08/06、#677)

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『果実の不思議 1(ザボン・ブンタン と グレープフルーツ)』ーグレープフルーツのサンプルを『房のまま』出荷展示して『葡萄もどき』とー

2021-12-15 09:47:24 | 植物

『果実の不思議 1(ザボン・ブンタン と グレープフルーツ)

『由来はブドウの房のように果実がなる、果実の香りがブドウに似ているから』 

『グレープフルーツのサンプルは「房のまま」展示して「葡萄もどき!」と』

 

標準和名はザボン(朱欒、香欒、謝文)。ボンタン、ジャボンとも呼ばれる。 ブンタン(文旦)が正式名。

 日本には1920年に、植物学者の島田弥市が、現在のベトナムの船上で食べた柑橘があまりにも美味しかったため、サイゴンの植物園から株を分けてもらい伝わった。しかし、当時は栽培法がわからず普及には至らなかった。

 1930年に台湾から鹿児島県果樹試験場に白柚(ぺいゆ)の株が導入され、最適産地の熊本県八代地方に根付いた。 品種改良が行われた結果、現在は八代市の特産品となっている。

 

先ずは、ザボンの花と実の写真です。

通常の花の房(摘果せずとも、生理落果し、1-2個が残る)

 

今年は4個の実の房

      

 ザボン・ブンタンから生まれたグレープフルーツは何故そう呼ばれるようになったか最近知りました。 グレープフルーツの名づけ親は、カリビアン・ファーマーでした。 これが、もし日本で商業栽培が始まったのであれば、賢すぎる日本の流通業者が、グレープフルーツのサンプルを『房のまま』出荷・展示して『葡萄もどき』などと無粋な命名をして高値で販売したかも知れません。

 

下記はウエブ情報からです。

 グレープフルーツは、ブドウの房のように果実がなるからや、果実の香りがブドウに似ているからといわれ『グレープフルーツ』の名が、初めて用いられたのは、1814年のジャマイカである。

グレープフルーツは、マレー原産の『ザボン(もしくはブンタン)』が中国を経て、西インド諸島に渡り、この変種として1750年にカリブ海のバルバドスで発見された品種で、1880年頃、アメリカのフロリダに移され商業栽培が始まった。

ここ5年ほど続けている散歩ルート沿いの豪邸に、ザボンの木があり、表年・裏年があるものの、毎年見事なザボンの実をつけていました。 いつもの様に『ほとんどの房が10個前後、開花・結実』し、その中の一房4個成熟しました。

今までは『開花・結実は房状態』で、大概は1個熟していましたが、不思議にも思わず、気にも留めませんでした。 『房状態で4個の熟した』のは、初めてで、今までは生理落果し、1-2個だけ残っていたようです。

柑橘類の大きさ最大級のザボン・ブンタンが房でも成り、最小級のキンカンが房ではなく一個ずつなる、自然界の不思議を感じます。 果実類には『表年・裏年』がありますが、このギャップを人間は『摘果』で極力減らしてきました。

このグレープフルーツの『名やルーツ』が解かったとき、自分もマレーシア、中国、カリブ海・西インド諸島・小アンティル諸島セントキット島などを、ビジネス出張で訪問したことがあり、これらの柑橘を身近に感じました。

ザボンについて、下記もウエブ情報からです。

原生地は東南アジア中国南部・台湾などであり、日本には江戸時代初期に渡来した。 漢字をそのままに音読みしているが、本品の貿易船主である謝文旦という人名の潮州語読み(ジアブンタン、zia bhungdang)に因む。 果肉が淡い黄色の品種(白欒)を文旦(ブンタン)、果肉が赤い品種(朱欒)を謝文(ジアブン)と呼び分けたとも言われる。ザボンは第二次世界大戦前にはジャボンと呼ばれるのが一般的で、ジアブン、ジャボン、ザボンと変化したと考えられる。果実は皮の厚さが特徴で大きさの50%程度を占める程であり、果肉は果汁が少ないが独特の甘みと風味を持つ。なお果実の収穫は年末頃に行われることが多いが、採取したては酸味が強すぎるので、数ヶ月間貯蔵して酸味を減らした後に出荷される。

ブンタンは自然交雑により色々な品種を生み出しており、グレープフルーツナツミカンハッサクなどはブンタンの血を引いている。ブンタンそのものも品種が多く、西日本(特に高知熊本鹿児島)では色々なブンタンが栽培されている。高知では「ウチムラサキ(ウチムラ)」(内紫)と呼ばれる果皮の内側が薄紫のブンタンに似た柑橘類があるが、実は水分に乏しくパサパサしており、味もブンタンに劣る。 この「ウチムラサキ」は文旦の原種と言われている。 

さて、これから、最大の柑橘『ザボン』を鉢で育ててみます。

(記事投稿日:2016/07/05、最終更新日:2021/12/15、#055)

 

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