知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『梅原猛氏の梅原古代学「塔」を夢中になって読んだころの「塔」ファンにとっては、まさにPhotogenic・写真映えする風景!』

2024-04-22 17:07:43 | 寺院・仏閣・神社・お社
『塔(継承と改革・息づく匠の精神) 6(浮島十三重石塔が意味するもの)』

梅原猛氏の梅原古代学「塔」を夢中になって読んだころの「塔」ファンに
   とっては、まさにPhotogenic・写真映えする風景!

『「十三重石塔」とは石造りで十三重構造の「層塔」もしくは「塔婆」』

浮島十三重石塔
この石塔は、京都市宇治市宇治塔川の塔の島(「浮島」「浮舟ノ島」などと呼ばれてきた人工島の一つである「塔の島」に所在する浮島十三重石塔。

 ウエブ情報から引用
アジア各地に同様の塔が数多く存在し、日本国内だけでもかなりの数に上るため、他の同種の石塔と区別して浮島十三重石塔ともいう。 塔高約15.2mの石造・十三重の層塔で、石塔婆(石造供養塔)。 1953年、国の重要文化財に指定された(指定名称:浮島十三重塔)。 2003年には、塔内納置品が京都府指定有形文化財となった。 浮島十三重石塔は、現存する近世以前の石塔としては日本最大。

奈良の勝宝山西大寺再興などで知られる僧・叡尊は、鎌倉時代後期にあたる(1284年)、宇治橋の大掛かりな修造を手がけた。 橋が完成する1286年に合わせて、宇治川の川中島として大橋の南方に舟を模した形の人工島を築き、宇治川で漁労される魚霊の供養と橋の安全の祈念を旨に、同年、島の中央に大塔婆を造立。

大塔の建っていた島は、頻発する宇治川の氾濫にもよく耐え、激流に浚われることがなかったため、いつの頃からか島を指して「浮島」「浮舟ノ島」などと呼ぶようなった。 大塔のほうは、さすがに氾濫の被害をたびたび受けて、倒伏と修復・再興を繰り返してきた。 しかしそれも、江戸時代後期の1756年に起こった未曾有の大氾濫で倒伏した後は、川底の泥砂に深く埋もれてしまい、再興されることはなくなってしまった。

1905年に復興が発願されると、1907年、発掘作業が始められ、間もなくして九重目の笠石と相輪以外は発見され、明くる1908年、九重目の笠石と相輪は新たに制作して再建された。 その後、元々の九重目の笠石と相輪が発見されたが、それらは興聖寺の庭園に移設された。
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

専門の先生方の間では、いろいろご意見もあるようですが、梅原猛氏の『梅原古代学「塔」』を夢中になって読んでいたころを懐かしく思いながら、『塔』への興味はまだまだ続きます。
(記事投稿日:2024/04/22、#743)
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『凄い画家・藤田嗣治、絵画で「白」の表現は素晴らしいと称賛を』

2024-04-22 11:15:43 | 絵画
『凄い画家・藤田嗣治、絵画で「白」の表現は素晴らしいと称賛を』
『日本生まれのフランスの画家・彫刻家 フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・ツグハル・フジタLéonard Tsugouharu Foujita』
『絵の具では三原色塗り重ねると「黒」に、光では「白」になぜ?』

日本人の画家で最初に世界的な成功を収めたのが藤田嗣治でした。 日本近代で最大の画家とも言ってもよいと言われます。 それまで、浮世絵などで日本美術が海外で高く評価されたことはあったが、画家本人が海外に渡りそこで評価をえたのは藤田が最初であったと。

藤田の絵画は細い輪郭線で裸婦を描き、エコール・ド・パリの画家としてもてはやされた。 手先の器用な日本人にしか描けない細い線、そして『乳白色の肌』が藤田の絵のトレードマークとなった。
エコール・ド・パリ
エコール・ド・パリ ( フランス語: École de Paris, 英語・School of Paris)は、「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン(ジプシーの異称) 的な生活をしていた画家たちを指す。

また藤田は『猫の画家』でもあった。 数匹の猫を飼い、猫を描き、人気を得た。 そんな猫も、この自画像には一緒に絵は描かれている。


 ウェブ情報から引用


ウェブ情報から引用

白い肌に魅せられて、裸婦像を描いた画家が居ります。 竹久夢二。

ウェブ情報から引用

以下、ウェブ情報ですが、今後の勉強のために備忘録にしました。 
特に、絵画において白色の表現は、実際には意外にも難しいようです。 その理由を調べてみました。 まず、光と陰影が絵画でどのように扱われているかですが、絵画には平面的なものと立体的なものがあります。 浮世絵やアニメ・イラストは平面的な表現が多く、日本人はこのスタイルを好む傾向がるそうです。 一方、西洋絵画は古典的にはリアルで立体的な表現が基本です。 立体的な絵画を描く際には、光と陰影の成り立ちを理解することが重要です。

  • 光と陰影とは、物体を見る際に生じる光と影の部分。 具体的には以下の要素に分解できます:
    • 光・光源: 光が当たっている部分と光自体。 太陽や月明かり、室内灯などが光源。
    • 陰: 光が当たらず暗くなっている部分。
    • 影: 物体が光源を遮って、背後の地面などが暗くなっている部分。

主光源と副光源は、絵画制作において重要な要素です:
  • 主光源: モティーフに当たる最も強い光。 外では太陽の光や月明かり、室内では蛍光灯などの光が該当。 主光源の色は、モティーフの固有色に光源の色を帯びた色味に。
  • 副光源: 主光源以外の光源で、陰影の部分を明るく照らす役割を。 副光源の色は、反射光によって影響される。

白色の表現にですが、絵画で白色を表現する際、以下の方法が:
  1. 塗らない: 白色の部分を塗らずに紙の色を活かす方法。 ただし、これは難しく、高度な技量を必要。
  2. 削る: 色鉛筆画などで、白色の部分を削って表現する方法。

絵画においては、白色を適切に表現するためには、光と陰影の理解と色の扱いが重要。

色の三原色は重ねると真っ黒になりますので、絵画については上記の情報を頭の隅っこにおいて、しっかり見ていこうと思いました。 写真は、光の三原色を重ねると白くなりますので『白飛び』させないように、これからも頑張って『下手の横好き』をやっていきます。
(記事投稿日:2024/04/22、#742)
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『「桜田門外の変」今回のNHK歴史探偵で、自分には随分新しい情報が判明、「彦根藩と水戸藩」に一発触発の危機と、そのあとの「第二の忠臣蔵」が回避できたことは幸い』

2024-04-21 15:39:21 | 歴史。日本・中世
『「桜田門外の変」今回のNHK歴史探偵で、自分には随分新しい情報が判明、「彦根藩と水戸藩」に一発触発の危機と、そのあとの「第二の忠臣蔵」が回避できたことは幸い』

『彦根藩の供回り警護60余人に対して襲撃側脱藩浪人と他は18人』

『拳銃コルト18ネービーが3丁準備され、井伊直弼は被弾も、そのあと、籠外からの突きと、引き出されて、斬殺されたと、記録が』

2024/04/10 NHK歴史探偵「桜田門外の変」を視聴しました。 センセーショナルなキャッチフレーズ『桜田門外の変。 新史料が発見され、従来のイメージが大きく変わろうとしている。 井伊直弼暗殺にかかわったピストルと事件直後に起きた内戦の危機。幕末の大事件を調査する。』でした。

白昼堂々と時の最高権力者を襲うという幕末最大の事件である桜田門外の変、この後の政治の流れを大きく変わりました。

井伊邸と桜田門の位置関係 井伊家の屋敷が、距離にして400m桜田門の直ぐ側
 
ウキペデイア情報から引用
安政7年(1860/03/03)、天気は大雪、籠に乗って江戸城に向かう、彦根藩の行列の供回りはおよそ60人、対して、襲撃者は水戸浪士17名と薩摩藩士1名の18人。 井伊直弼は、新心新流の居合の達人で、すごい腕前でした。 水戸浪士には身を潜める方法がありました。

 
大勢の見物人が集まり、見物人のための出店までありました。(江戸時代は、テレビ放送もないので、野次馬根性が凄く、四十七士の討ち入り後の泉岳寺への義士行列も、夜明け前から早朝に、見物がありました。)

ウキペデイア情報から引用
彦根藩行列が見え、水戸藩士のリーダー関鉄之介が、行列を遮るため仲間に指示を出しました。 直訴状を差し出します。 一発の銃声が鳴り響きます。
それを合図に一斉に斬りかかる浪士たち。 彦根藩の行列に異変が起こります。
次々に逃げ出しました。 井伊直弼の籠は置き去りにされました。 『供侍の多くは「アルバイト』だったので、命を捨てるまでの覚悟はありませんでした。』
 人材の斡旋業者のリストまでありました。 60人の行列のうち、半分が逃走し、26人にまで減りました。 ところが、彦根藩の人たちは次々と倒されていきます。寒さで手がかじかみ、刀が抜けず一人ひとり斬られました。
江戸時代のアルバイト
代表例といえば、『参勤交代』。 いわゆる、大名行列ですが、これは各藩も自分達の藩の威信をみせるために、仰々しく、さらに人数も多くみせて自藩の威光などを通る人々に見せ付けていました(江戸城への登場にも同様にアルバイトを)。

当時の、最新型拳銃3丁が準備・使用、拳銃は『コルト18ネービー』
ウエブ情報から引用
桜田門外の変の後、幕府は孝明天皇への歩み寄りを見せるようになります。 幕府も尊王の意思を示すことで、尊王攘夷派の攻撃のかわすためです。 こうして幕府と朝廷(天皇)の歩み寄りが見えるようになると、幕府と朝廷は両者が協力して政治を行う公武合体の政治を目指すことになります。
しかし、いがみ合っていた朝廷(天皇)と幕府が一丸となるのは簡単なことではありません。 なぜなら、朝廷の幕府の考え方は真っ向から対立するものだったからです。

朝廷と幕府の考え方の違い
  • 朝廷(孝明天皇):「開国なんかしないで外国をぶっ倒す」という攘夷派
  • 江戸幕府:「外国と戦争しても勝てないからとりあえず開国しとけ」という開国派
まさに水と油の関係です。この両者を結びつけるために利用されたが孝明天皇の妹『和宮』でした。 和宮を14代将軍の徳川家茂に嫁がせる政略婚を利用することで、ようやく公武合体を実現することになります。
1862年には、公武合体を目指していた老中の安藤信正が坂下門の前で襲撃を受ける事件も起きています。(坂下門外の変)

さらには、これに合わせるかのように攘夷の運動も盛んとなり、1863年には、長州藩と薩摩藩が外国船に砲撃する事件も起きました。 このように桜田門外の変をきっかけに、これまでの『開国して戦争を避ける』という考えから、攘夷の思想へと日本全体が大きくシフトしていくことになりました

表題の『「桜田門外の変」今回のNHK歴史探偵で、自分には随分新しい情報が判明、「彦根藩と水戸藩」に一発触発の危機と、そのあとの「第二の忠臣蔵」が回避できたことは幸い』をもっと調査を続けていきたいと思いました。
(記事投稿日:2024/04/20、#741)


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『廃仏毀釈とは、「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦の教えを棄却するという意味で、この仏教を廃することは、日本以外でも!』

2024-04-19 23:12:58 | 寺院・仏閣・神社・お社
『廃仏毀釈とは、「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦の教えを棄却するという意味で、この仏教を廃することは、日本以外でも!』
昔、初めて、千葉県鋸山の日本寺の首なし羅漢を見た時の驚きと、
日本にもあった文化財破壊・廃仏毀釈運動と呼ばれた破壊活動が


初めて、千葉県鋸山の日本寺の首なし羅漢を見た時の驚き!
奇跡的に後日発見された首は、修復されていますが、一部は戻っていません。
 
ウエブ情報から引用
半世紀も昔、香港に7年間も駐在しましたので、文化大革命のこと、生の声で、中国から難民で『来港』した方々から伺いました。 凄いとは思いながらも『対岸の火事』でした。 当時は日本にもあった、うろ覚えの『廃仏毀釈』と比較もできませんでした。

先ずは、世界にもあった『廃仏毀釈』、ウエブ情報です

インド
インド史上の最大の廃仏は、イスラム教国ゴール朝のインド侵入によって13世紀初頭に起きたイスラム教徒による廃仏。 これによってヴィクラマシーラ寺院は破壊され、数万の仏教徒が虐殺されるなどした。 当時すでにインドにおける仏教教団は衰退していたが、イスラム教の攻撃で壊滅的打撃を受け、多くの仏教文化財が喪失した。これによりインド仏教は1600年の歴史を終えて滅亡した。

中国
仏教は中国にはおよそ紀元前後ごろ西域を経由して仏教が伝来したが、3世紀以降の中国歴代王朝はしばしば廃仏を行った。 とりわけ北魏の武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗による廃仏は規模が大きかったため「三武一宗の法難」と呼ばれた(三人の武がつく皇帝と一人の宗がつく皇帝の意)。 寺院や堂塔の廃毀、寺院財産没収、僧尼の還俗、仏像経巻の焼却などが行われた。 背景として僧尼という非生産人口の増加と寺院荘園の拡大が国家の財政上大きな負担になったことがあげられる。

一方、自分個人の三年前の奈良の旅は、修学旅行を含め3回目でした。 今回は余生に限りある歳の所為もあり、いろいろ興味深い点があることに気が付きました。 明治期の危機『廃仏毀釈・神仏分離』を、奈良は、乗り越えていたことです。

中国の文化大革命の中で行われた宗教関連事物の破壊もどこまでされたのかは、調査不足で自分にはよくわかりませんが、日本の『廃仏毀釈・神仏分離』もすさまじかったようです。 そのウエブ情報です。

明治政府は、明治元年(慶応四年・1868年)に「神仏分離令」を出して、神社からことごとく仏教色を排除した。 また、この法令に乗じて各地で仏像や寺院を破壊する廃仏棄釈運動が起こった。

大政奉還後に成立した新政府によって1868/04/05に発せられた「神仏分離令」「神仏判然令」、および1870/02/03に出された「大教宣布」などの政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。 
日本政府の神仏分離令や大教宣布はあくまでも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。

神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。 祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、 仏事の禁止などが見られた。 1827/02/23寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。 

大阪住吉大社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、1873年にほとんどが壊された。 奈良興福寺の食堂は1875年に破壊される。 出羽三山については、明治1874年以降に廃仏毀釈が始まる。 

例えば千葉県の鋸山には五百羅漢像があるが、全ての仏像が破壊された。 現在はかなりの仏像は修復されていますが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている。(初めて、千葉県鋸山の日本寺の首なし羅漢を見た時に驚きました。 この時以来、日本史の一大汚点が頭から離れませんでした。 この日本寺は、聖武天皇の勅願で開山) また、華族の墓地も仏教方式から神道方式へと変更させられた。 

三重県では、伊勢神宮のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100ヶ所以上が廃寺となった。 特に、神宮がある宇治山田(現:伊勢市)は、寺院の数が300近くから15近くにまで減らされている。

さて、東大寺と言えば、大仏殿(国宝)と大仏(銅造盧舎那仏坐像の名で彫刻部門の国宝)と、『お水取り』で知られている二月堂(国宝)ですが、今までうっかり自分が見落とし、していたのが、三月堂と知られている東大寺法華堂(国宝)です。

先般は、梅雨明け直前の、気温32度以上、湿度80%以上、の中でボランティアの方のアドバイス『エアコンはなく扇風機ですが、女子中学生の団体が小グループに分かれて、歴史の先生の説明を聞いていますので、暑いですが、この15分を聴講なさるのがいいですよ』に従い、中学時代の歴史の時間を思い出しながら、拝観・拝聴しました。

ウエブ情報です。
東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つであり、堂内に安置する10体の仏像(全部が国宝)も奈良時代の作である。 2011年以降、日光菩薩像、月光菩薩像、吉祥天像、弁才天像、不動明王二童子像、地蔵菩薩像は法華堂から免震装置を備えた東大寺ミュージアムに移され、堂内に安置される仏像は10体となっている(不空羂索観音像、梵天・帝釈天像、金剛力士像(一対)、四天王像、執金剛神像)。 堂内須弥壇の修理のため、法華堂の内部は2011年8月から非公開となり、本尊の不空羂索観音像も一時的に東大寺ミュージアムに移されていたが、2013年5月18日から公開が再開された。

ここでは、京都と奈良の比較、国宝点数です。

     絵画 彫刻 工芸 書跡 古書 考古 歴史 建造物  合計
奈良    9  74   36   11  1  8   0        64   203
京都    44    39     15   55  27  3     0      72       234
全国     161   136   253    228   62     47      3      226      1,116

際立っているのは、全国の国宝彫刻の半数以上が、奈良にあります。 蘇我vs物部の宗教戦争後の、仏教側の蘇我一族と聖徳太子一族の内紛も関係がありそうです。 聖徳太子一族のために創建された法隆寺に始まり寺が多いです。

さらに、頻繁な遷都ですが、
奈良飛鳥 2年、
大阪難波 10年、
奈良飛鳥 12年
滋賀大津宮 10年、
奈良浄御原宮・藤原京・平城京・山城恭仁京・紫香楽宮 77年、
大阪難波 1年、
奈良平城京 39年、
京都長岡京・平安京 396年
兵庫県福原京 5ヶ月
京都平安京 688年

日本の遷都を伴った天皇制は、なんと、1,500年間も続いています。 中でも在京都年数が、四分の三、とダントツ。 奈良と京都の比較はできませんが、やはり、仏教の奈良と、神道の京都と、の違いでしょうか。  この天皇制の継続、『日本は凄い、日本人は凄い』と思います。
(記事投稿日:2024/04/19、#740)
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『宇宙考古学 2(分り易く言えば「宇宙から探る地上の考古学」)』 『神話や伝説から知ることが多い!「旧約聖書 滅亡の街、ソドムとゴモラの真実」と、隕石そのものが地上には衝突せず、空中爆発?』

2024-04-16 10:31:45 | 歴史・世界・古代
『宇宙考古学 2(分り易く言えば「宇宙から探る地上の考古学」)』
神話や伝説から知ることが多い!「旧約聖書 滅亡の街、ソドムとゴモラの真実」と、隕石そのものが地上には衝突せず、空中爆発?

地球の歴史には、生物が絶滅の危機に瀕した5つの大量絶滅事件があります。これらは「ビッグファイブ」とも呼ばれています。 5大大量絶滅では、種で60%程度以上、属で35%程度以上、科で15%程度以上が地球上からいなくなっています。 

一回目から四回目までは、大陸移動に絡む線状大噴火による『火山の冬』が原因で、最後の五回目だけが、天体衝突による『隕石の冬』又は『衝突の冬』と言われています。 

この五回目は、大陸移動に絡む線状大噴火による『火山の冬』が原因との説も出てきました。 これは『ソドムとゴモラの破壊』の研究が進み、天体衝突では『大量絶滅』にはならないのではとの見解のようです。 
5大『大量絶滅』では、種で60%程度以上が地球上からいなくなること。

『ソドムとゴモラの破壊』は隕石そのものが地上には衝突せず、空中爆発した場合と、これに対して、空中爆発せず衝突爆発した場合("約6604万年前メキシコ・ユカタン半島沖に落下した隕石衝突(それによって引き起こされた酸性雨などの環境変化)"が直接的な原因とする説が有力。)の破壊の違いの調査は今後の課題にしました。

前置きが長くなりましたが、表題『神話や伝説から知ることが多い、「旧約聖書 滅亡の街の真実」』に戻ります。

『ソドムとゴモラの破壊』は、昔から、日本の『卑弥呼の邪馬台国』の謎以上に興味津々でした。 『神の怒りに触れて滅ぼされたソドムとゴモラ』のこと。 NHK BSの「フロンティア」、センセーショナルなタイトル『旧約聖書のソドムの滅亡は隕石の空中爆発説か!旧約聖書 滅亡の街の真実 』を見ました。

「ソドムとゴモラの破壊」

 ウキペデイア情報から引用
ジョン・マーティンによる「ソドムとゴモラの破壊」(1852年)。
神によって、硫黄と炎が街に降りそそがれた。

今後の継続調査のためにウェブ情報の宇佐和通氏の記事『退廃の町ソドムは隕石の空中爆発によって滅亡した!「旧約聖書」の史実カタストロフィー』を抜粋、備忘録にしました。

宇佐和通
東京都出身。国際商科大学商学部卒業後、南オレゴン大学にてビジネスコース修了。商社、通信社勤務を経て、翻訳家・作家に転身。日本の都市伝説研究の第一人者。

これまでフィクションとされてきた『聖書』に登場する背徳の都市、 ソドム。だが、神から下された怒りの鉄槌は、まぎれもない歴史的事実だった! 考古学によって明らかとなった、古代の要塞都市消滅の実態とは──?

隕石の空中爆発で破壊された古代都市

ウェブ情報から引用
(上)中東におけるトール・エル・ハマムの地理的位置。ちょうど死海の北  東、ヨルダン渓谷南部の高台にある。
(下)トー ル・エル・ハマムにあった宮殿と寺院の位置を示したもの。左上には死海も見える。

『聖書』は、年代順に史実を記した歴史書であるという意見がある。 確かに、神の存在について語られる逸話のなかには、現代科学の枠組みのなかで説明をつけられるものも含まれている。 そして最近、こうした議論をさらに深めるような論文が発表され、注目を集めている。

 
2021年9月、「ネイチャー・サイエンティフィック・レポート」誌に、「ツングースカ級の空中爆発が死海近郊ヨルダン峡谷の中期青銅器時代の都市を破壊」というタイトルの論文が掲載された。 現地調査と執筆を主導したのは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の名誉教授ジェームス・P・ケネット氏と、トリニティ・サウスウエスト大学考古学部教授フィリップ・J・シルビア氏。

論文の概要
紀元前1659年(約3600年前)、死海の北東、ヨルダン峡谷南部に位置していた青銅器時代の都市トール・エル・ハマムが隕石の空中爆発によって破壊されたことを示唆。
1908年にロシアのツングースカで起きたものよりも規模が大きかったと思われる。 空中爆発によって4〜5階分に相当する高さ12メートル以上の宮殿と幅4メートル以上の日乾しレンガ製の城壁が崩壊し、近くにいた人々の体はばらばらになり、骨片となって地層に残っている。 空中爆発が原因で周囲の土壌に起きた高濃度塩分化が農業に大きな悪影響を与え、25キロ半径に位置する最大120の集落に対し、300〜600年にわたる人口減少期間を招いた。
『聖書』に描かれた背徳の都市ソドムか?
「現在、トール・エル・ハマムが『聖書』に記されたソドムであった可能性に関する議論が進んでいる。 ソドムの正確な位置と本論文との間に直接的関連性はないが、隕石によって破壊された都市の逸話が口承伝承となり、『聖書』に記された可能性は否めない」
 
中期青銅器時代(今から3600年ほど前の紀元前1650年ごろ)、エルサレムの10倍、エリコの5倍という規模を誇っていたとされるトール・エル・ハマムは隆盛をきわめていた。

 
死海北東のヨルダン峡谷南部の高地にあり、数千年にわたって文明の中心地だった大都市。
 
繁栄する都市を襲ったセ氏2000度の高温
ケネット教授は考古学および神学の専門家であるシルビア教授をパートナーに迎えて共同研究新プロジェクトを立ちあげ、3650年前に起きた出来事を明らかにするための現地調査を開始した。

 
問題となったのは、幅およそ1.5ⅿの中期青銅器時代の地層だ。 上下の地層と比べてきわめて異質な特徴が見られる。 戦争や地震などの名残であるさまざまな種類の破片とともに、表面が溶けてガラス化した陶器、気泡ができた日乾しレンガ、一部が溶けた状態の建材などが見つかった。

いずれも高温にさらされた痕跡が見て取れる。青銅 器時代に実現していた技術で生みだせるレベルの温度ではない。 「問題の地層に含まれる物質がさらされたのは、セ氏2000度という高温。

 
青銅器時代には実現しえなかった高温の原因を、隕石の空中爆発だったと結論した。これによって全地球規模の天候変化が生じ、多くの生物が絶滅したという。 上空で起きた爆発の衝撃で、トール・エル・ハマムでは宮殿も城壁も吹き飛ばされ、ほぼ平らな状態になってしまった。 土壌サンプルの分析においては、溶けた金属成分とともに鉄分、そしてケイ素成分が豊富な小球体などが検出された。

なかでも主要な発見として挙げられるのが衝撃石英だ。これが意味するのは、想像を絶する圧力がかかる状況が生まれていたという事実にほかならない。
このように現場で採取された物証から考える限り、トール・エル・ハマム近郊で大規模な空中爆発が起きた可能性はきわめて高い。

高濃度の塩分が急激な人口減少を招く
現地一帯で採取された土壌サンプルに見られる“異常に高いレベルの塩分濃度”も、隕石の空中爆発によって説明できる。サンプルの塩分濃度は、周辺地域の平均値である4パーセントに対し、25パーセントという非常に高い数値を示している。
 空中爆発の高い圧力によって、一帯の地表が高濃度塩分の膜で覆われるような状態になってしまったのだ。近くにある死海の塩分濃度が高いことも、同じ理由で説明できる。


 
ヨルダン峡谷では、標高が低い地域にあった都市の人口が急激に減少した時期がある。かつて豊かだった土壌が突然不毛に近い状態になってしまったからだ。当然のことながら、人々はより農耕に適した土地に移住することになった。トール・エル・ハマムの人口が再び増えはじめたのは600年後、鉄器時代に入ってからだった。

『聖書』の時代まで語り継がれた記憶
トール・エル・ハマムにはもうひとつの特徴的な側面がある。 『旧約聖書』「創世記」に出てくる街、ソドムだった可能性についてだ。住民が堕落的なライフスタイルを送り、享楽にふけった挙句に神の怒りを買って滅ぼされたという、罪の都市。

「創世記」によれば、ソドムに住んでいたロトという男性は「逃げる最中に後ろを振り返ってはいけない」という天使の忠告を守って助かった。しかし忠告を守らなかったロトの妻は塩の柱に変えられてしまった。
ケネット教授は語る。
 「隕石の空中爆発に関して書かれたものなら、『旧約聖書』の記述に違和感はありません。ただ、隕石の空中爆発によって壊滅的打撃を受けたのがソドムだったと断言するには、まだ科学的データが不十分です」
し3600年前の災害が口承伝統として残り、やがて『聖書』で文字化された可能性は検証に値する。

こうした背景について、コリンズ/シルビア両教授は、2015年に「文明の終焉をもたらした3700年前の出来事:考古学的データ、サンプル分析と聖書との関連性」という報告書を発表している。 結論部分で語られているのは、空中爆発はトール・エル・ハマム(ソドム)のみならず、周囲の都市(周辺の平野に点在していたゴモラを含む他の都市)も破壊した可能性がきわめて高いと考えられる。

死海で発生し、広範囲にわたって浸透した高濃度の塩分によって土壌汚染が起こり、農業の存続が困難となった。一帯に文明が戻ってきたのは、土壌が農業に適したものとなった、爆発から6〜7世紀後の時代である。

遺跡から検証されたソドムとの共通点
ソドムに関する記述が出てくるのは、主として「創世記」だ。ソドムはヨルダン川平原、死海のすぐ北にあったとされている。 ヨルダン東部最大級の水源豊かな都市として知られ、貿易路上に位置していたため地政学的にもきわめて重要で、全体が厚い壁で要塞化され、高い塔もあった。

 一方、紀元前3500〜同1540年の間に最盛期を迎えたトール・エル・ハマムも、要塞都市。高さ10メートル、厚さ5.2メートルの壁に囲まれ、そこには門と見張りの塔、通路がしつらえられていた。 また、都市インフラの拡張と強化も常に継続されていたと考えられる。 実際、青銅器時代中期においては、都市全体を覆う壁が厚さ7メートルにまで増強された。 壁の上は広い通路になっており、二重の同心円状構造として都市全体が囲まれていた
。  

隕石そのものが地上には衝突せず、空中爆発した場合と、天体衝突による『隕石の冬』又は『衝突の冬』のこと、興味津々で、またまた、国会図書館通いになりそうです。
 (記事投稿日:2024/04/16、#739)
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