知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『知る喜び「信長の妹・お市の方の波乱万丈」(この兄にこの妹あり』   ―お市の方と徳川家康は婚約していた事実を見つけた安部龍太郎氏は凄い―

2023-01-30 07:32:57 | 歴史・日本

『知る喜び「信長の妹・お市の方の波乱万丈」(この兄にこの妹あり』

『お市の方と徳川家康は婚約していた事実を見つけた安部龍太郎氏は凄い』

 

20210418の日経新聞の文化欄で、標題の備忘録を作成することになった、安部龍太郎氏のエッセイ『家康とお市の方』を見つけました。 この興味あることが、今後の課題となり、国会図書館通いを再開したいと思いました。

 ウキペディアから引用 

お市の方の姫子・三姉妹、淀殿(長女・茶茶)、京極高次の正室(次女・初)、徳川秀忠の正室、(三女・江)、明正天皇は『江の孫』と、彼女らがあまりにも有名ですが、今回、彼女らの母についてもよくわかりました。 『この三姉妹の母・絶世の美女のお市の方は、凄さと、波乱万丈と、数奇な運命です。』

 

赤文字はエッセイから(タフな課題ですが時系列に並べると疑問も!)

数奇な運命に翻弄された戦国一の美女・お市の方の生涯

 

生年       天文16年(1547年)

浅井長政と結婚  永禄10年9月(1567年) 20歳(当時としては晩婚)

(長政は主家の六角氏の家臣・平井定武の娘と婚約してい たが、お市の方 との婚姻により破談となった。 二男三女を、二男は実子かどうか不明。)

6年後小谷城陥落 天正元年8月(1573年) 浅井長政自害

 

徳川家康と婚約  天正10年5月(1582年) 信長が親代わりで婚約

 

本能寺の変    天正10年6月(1582年) 信長横死

柴田勝家と結婚  天正  10年8月(1582年) 

(織田家筆頭家老・勝家と秀吉の申し合わせでお市の方は  柴田勝家と再婚することになった。 婚儀は岐阜城で行われ、勝家の居城・北ノ庄城に三姉妹と共に入った。)

 

徳川家康に進上物 天正10年8月(1582年)  お市の方から家康思いの証と

信長の義弟と表現 天正10年11月(1582年)ルイス・フロイス書簡に明記

 

勝家と共に自害  天正11年3月(1583年) 享年37歳

 

信長・秀吉・家康の三英傑はそれぞれ凄いと思ってきましたが、ここに、お市の方を加えたいほど、この方は凄い、信長の言いなりに政略結婚に振り回されただけとは思えず、それとも、『強い自分』の意志で生きたのか、分からなくなりました。

 

このエッセイの冒頭にこうありました。 以下は抜粋です。

『「信長の妹のお市の方と家康は婚約し、床入りもすませていました」 そんな話をすると、多くの方が怪訝な顔をされる。 中でも歴史に詳しい方は「冗談でしょ」と取り合おうともなさらない。

 

これまで戦国時代に関する万巻の書物が上梓されているが、2人の婚約について記したものは(管見の限り)1冊もない。 だから一笑に付されるのも致し方がないが、これは紛れもない事実である。

 

私がそうではないかと思い始めたのは、家康の重臣松平家忠が残した「家忠日記」の天正10年5月21日の記事を読んだからである。 安土城からもどった者から、信長が手ずからお膳を据え、麦こがしを引いて家康主従をもてなしたと聞いた。 (天正10年6月2日早朝・本能寺の変の12~13日前)

 

その上信長は引き出物に、帷子を2つずつ与えたが、その内1つは、女性用の紅の生絹(すずし)だったという。 しばらく考えているうちに、これは三日夜の餅と三日夜の絹ではないかと思い当たった。 

 

婿取り婚が一般的だった平安時代、男は女の家に忍んでいった。 そして一夜二夜と共に過ごし、三夜目になれば婚約が成立したと見なし、女の父が三日夜の餅でもてなし、女の着物を三日夜の衣としておみやげに持たせた。

 

信長がこれと同じ形で家康をもてなしたのは、お市の父親替わりとして婚約を祝ったものではないか。 そう考え、お市と家康の関係を証明する記録はないかと資料にあたるようになった。 

 

すると同じ「家忠日記」の天正10年12月11日の条に次のように記されていた。

「古府(甲府)へ出仕候、明日帰陣候への由、仰せられ候、越前芝田(柴田)所より、しちら30巻、は綿百杷に、鱈5本なり。 家康はこの頃、本能寺の変後の豊饒と対立していたが、和議が成立、帰陣することになった。

 

そんな折に、越前の柴田勝家のところから『御音信』があったのである。 家忠の敬語の使い方を見れば、贈り物をしたのは勝家ではなくお市の方だと分かる。 贈り物の、しちら30巻、は綿百杷で、綿入れをつくって寒さをしのいでという心遣い。 鱈は正月料理に欠かせない北陸の名産品である。 勝家との政略結婚後も家康に思いを寄せ、こうした贈り物もしたらしい。』

 

(お市の方の政略結婚を決めたのは信長で、信長は、この半年前に本能寺の変で横死、今回の結婚は大嫌いな秀吉が決めているし、勝家とは一年半余の結婚生活だったが、家康への贈り物の4ヵ月後には、勝家と一緒に自刃している。)

『信長の妹のお市の方と家康は婚約し、床入りもすませていました』ということよりもお市の方と3人の姫子・三姉妹に俄然興味が湧いてきました。

(記事投稿日:2021/04/19 、最終更新日:2023/01/30、#319)

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『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の歴史感覚』『日本の古代では、西の朝廷の影響か、将門人気なし、名誉回復のため調査』

2023-01-29 22:40:00 | 歴史・日本・中世

『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の歴史感覚』

『アイヴァン・モリス(著)「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」には、なぜか、将門の記載ないが、東日本での庶民の中での人気は凄い』

『日本の古代では、西の朝廷の影響か、将門人気なし、名誉回復のため調査』 

 

日本史の中で悲劇的な死を迎えた九人と戦闘団を外国人の視点から書かれている本『高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち』からも、この歴史感覚はある程度分かりそうです。 彼らの末路を“もののあわれ”という日本人の視点と、彼らの死に対する意味を、モリスという外国人の視点で語られている処に意義があるのではないでしょうか。

欧米人は勝利者を高らかに語っても、敗者の悲劇はあまり感動を呼び起こさない。 せいぜいシェークスピアの悲劇(創作物)でしかないというが、モリスの語りは彼ら日本人の敗者に対しても手を差し伸べようとしている。 外国にもありました『アラモの砦』が・・・。

人神系(人間が生前または死後神として祀られる信仰)の小分類として怨霊系

 

人神(ひとがみ)とは、人が没した後にその人物を神として祀る信仰形態

  • 祖霊を神格化して発生したもの(祖霊崇拝、エウへメリズム)。

天照大御神や大国主命など神話の神々

  • 生前にこの世に恨みを残して没したものが祟りを引き起こすことを恐れてこれを鎮めるために祀るもの(御霊信仰)。

天満大自在天神(菅原道真)・崇徳天皇・橘逸勢・神田明神(平将門)

  • 生前に優れた業績を残したものを死後に神として祀ることでその業績を後世に伝えようとするもの(エウヘメリズム)。

豊国大明神(豊臣秀吉)・東照大権現(徳川家康)など

 

怨霊系の「三大怨霊系」』は、

 

菅原道真
平安時代の政治家・学者。 醍醐天皇の御代に右大臣となったが、藤原時平の讒言によって大宰府に左遷された。 現在では「天神様」として知られ、江戸時代より学問の神様(合格祈願の神様)として信仰されている。


平将門
平安時代に坂東(関東地方)で反乱を起こした武将

崇徳院
平安時代の第75代天皇、及び譲位した上皇。

平将門の墓は「東京都千代田区大手町1-1」にある。高層ビルが建ち並ぶビジネス街のど真ん中に、平安時代中期に「新皇」を名乗った豪族の墓がある。 京都では極悪人とされた人物の墓が、なぜ東京の中心地で守られ続けているのか。 民俗学・文化人類学者の小松和彦氏が解説する。

 

小松和彦著『神になった日本人』(中公新書ラクレ)の抜粋・引用です。

ウエブ情報から引用 

『「千代田区大手町1-1」に立つ「塚」

大手町と言えば一流企業などのビルが林立するオフィス街である。 ところが、その大手町のさらに「中心」、「東京都千代田区大手町1-1」に建っているのが「将門塚」と呼ばれる。 

 

「新皇」を名乗り、関東の分国化を目指した

平将門とは、平安時代中期の関東地方の豪族で、承平・天慶年間に起こった平将門の乱(935―940)を起こした中心人物である。 桓武天皇の子孫にあたる平良将の三男として生まれた将門は、父の早世後、所領や女性問題をめぐって、戦いを繰り返すなかで次第に勢力を広げ、宿敵・良兼の病死後は常陸一帯をその支配下に収め、やがて朝廷側から見ると公然たる反国家的な行動をおこなうようになった。 そして、ついに天慶2年(939)、将門は常陸の国衛(こくが)(国司の役所)を攻撃して焼き払い、さらにその余勢を駆って下野・上野以下の関八州の国衛を制圧した。 そして「新皇」を名乗り、関八州の国司を任命して、朝廷の支配から離れた関東の分国化を目指した。 しかし、将門の関東支配は数カ月しか続かず、朝廷側の藤原秀郷・平貞盛らに追討される。 その首級(しゅきゅう)は京都まで運ばれて、獄門にかけられたという。

 

京都側のイメージ「将門の死=神仏の罰」

王朝文化が花開こうとしていた時代、京都から遠く離れた坂東の地で起こった反乱は、京都の天皇・貴族たちを恐怖のどん底におとしいれた。 それは将門が京都にまで侵攻してくるのではないかという物理的恐怖をともなう、まことに深刻なものであった。 天慶3年(940)正月、朝廷は将門を極悪非道な狼籍者と断じて将門追捕の軍勢を送り、また宮城十四門に兵士を配置して防御させ、さらには諸寺社や高僧・宮廷陰陽師たちに将門の調伏、呪殺の祈祷を依頼している。 武力と呪力の双方を動員しての怨敵退散を図ったのである。 その調伏の呪術のやり方は、悪鬼(将門)の名前を書いたものを護摩壇に投げ入れ、賊徒(将門)の形代である人形を棘のある木の下にくくりつけて呪詛するというものであった。 すなわち、こうした呪術的コンテキストでは、将門の死は神仏の罰が下されたもの、つまり調伏・呪詛の呪法の成功というふうに理解されたわけである。

 

「怨霊化」した菅原道真との違い

天慶のころと言えば、あの菅原道真の怨霊が猛威をふるっていた時代である。 獄門にかけられたあと、将門の霊は怨霊となって出現してもおかしくなかった。 ところが意外なことに、将門の霊は死後怨霊化して朝廷・貴族を襲うことはなかった。 というのは、京都には将門の怨霊を「御霊」として祀り上げたという神社が存在していないからである。 どうしてだろうか。

 

もちろん、将門の怨霊化をまったく考えていなかったわけではないらしい。 朝廷は天慶の乱での戦死者を敵味方の区別なく供養するようにとの命令を出すとともに、関東地域の役人の大刷新をおこなっている。 それによって怨霊化の芽が摘み取られてしまったのだろうか。 わたしは別の理由があったと推測している。 当時の宮廷社会での怨霊の候補者は、その社会内部に属していた者、自分たちと濃密な社会関係にあった者であった。 そうした関係性に欠けていた将門に対して、貴族たちは怨霊を発生させる「後ろめたさ」や「同情の心」を抱くことがなかったのである。

 

語り継がれるほどに、神格化されていく

怨霊化はしなかったが、将門は京都の人びとのあいだで語り伝えられていく。 賊徒として、悪鬼として、超人として、地獄に墜ちた罪人として。 そして、そうした伝説のなかで、将門はどんどん神秘化されていった。

京都の人びとにとっては、伝説のなかでも将門は「敵」であった。 しかも、将門は時代を超えて「朝敵」であり続けた。 その烙印は江戸時代になって後水尾天皇から勅免が下されるまで続いたのである。

 

関東側のイメージ「将門=悲劇の英雄」

京都の宮廷社会では、将門は朝敵であった。 しかし、京都の朝廷に対して思うところがある人びとは、朝廷に反抗して敗れ去った将門に親近感を抱いていた。 その筆頭に挙げられるのは、関東に古くから住む人びとである。 かれらは関東の「独立」を図った将門を支持したのである。 京都政権に敗れたとはいえその志は高く評価され、悲劇の英雄として在地の人びとに語り伝えられてきた。

 

茨城県坂東市岩井の國王(こくおう)神社は、将門の戦没の地ということで将門の霊を祀る神社である。 たとえ京都の朝廷からは朝敵として極悪人扱いされようとも、在地の人びとやその他の地域の民衆には、自分たちの思いを体現してくれた悲劇の英雄という思いがあり、それが在地・民間での将門伝説を支え続けたのである。

 

復讐ではなく、鎮魂を求める「祟り」

将門の祟りは、復讐のための祟りではない。 それは祀り上げ=鎮魂を求める合図なのである。 もっとはっきり言えば、祀り手側の「思い」、すなわち、将門の霊は怨みを残して死んだはずなので、その怨念を鎮めなければならないという「思い」が、飛ぶ首や天変妖異、病気などの祟りとして言説化されたものなのである。

 

光を放った将門塚から異型の武者が現れた

ところで、この将門塚をめぐる伝説は、内容にかなりの差異はみられるが、そうとう古くからいろいろと語られていたらしい。 例えば、『永享記』に「平親王将門の霊を神田明神と崇め奉る」とあり、謡曲「将門」にも「神田明神」が将門を祀った社だと語られているので、この伝説は室町時代にはすでにかなり広く知られていた。

 

 

家康の江戸入府で、事実上の神仏分離

徳川家康の江戸入府時、江戸幕府はただちに江戸城の普請と城下町の建設に取りかかり、このとき将門塚の脇にあった神田明神も、日輪寺も移転させることにした。 神田明神はいったん山王権現とともに駿河台に、さらに元和2年(1616)、現在地の湯島(外神田)に移された。 日輪寺のほうは浅草に移された。ある意味でこのとき、神仏分離がなされたのである。

 

「将門様のお社」として定着した神田明神

移転に際して、関東の領主となった家康は、遠い昔、朝廷を向こうに回して関東の「独立」を図った将門に大いに感じるところがあったのだろう、神田明神を山王権現とともに江戸総鎮守とした。 神田明神は思いもかけなかった破格の出世をすることになったわけである。 神主には将門の末裔という芝崎氏が任命され、代々世襲で神事をおこなった。 興味深いことに、神田明神は江戸城の鬼門、山王権現は裏鬼門に配置された。

 

 

実は、将門の霊は「第一座」ではない

祭神は当然のことながら、将門の霊が第一座と思われる読者が多いにちがいない。 ところが、違うのである。現在の主祭神の第一座は大己貴命、第二座が少彦名命であって、平将門は第三座という扱いになっている。 しかも、あまり知られていないが、第三座になったのも昭和59年(1984)のことで、それまでは摂社にすぎなかったという

 

明治時代に「追放されなかった」のは幸運だ

これには、明治時代に再び天皇親政となったことに由来する複雑な経緯、すなわち、文明開化期の政治的・宗教的状況が深く影を落としている。 当時、宗教行政を担当していた教部省は、神田神社の祭神から朝敵であった将門の霊を除くことを主張し、第一の祭神と信じる氏子の抵抗にもかかわらず、将門の霊は祭神の地位、つまり本殿を追われて摂社にされてしまったのである。 もっとも、当時の状況から判断すると、完全に追放されずに摂社としてでも留まることができたのは幸運であったと言うべきかもしれない。

 

例祭をボイコットした江戸っ子たち

徳川将軍家のお膝元の江戸っ子たちは、天皇にこびへつらっている輩を将門の霊の威徳に背く人非人だと非難し、一文の寄付をするのも惜しみ、例祭をボイコットしたというのである。 神田神社と日輪寺が移転した後の「将門塚」は、さすがに潰すのははばかられたらしく、そのまま大名屋敷のなかに留め置かれた。  

 

 小松 和彦(こまつ・かずひこ)

民俗学・文化人類学者 1947年東京都生まれ。国際日本文化研究センター名誉教授。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。専攻は文化人類学・民俗学。信州大学助教授、大阪大学教授、国際日本文化研究センター教授、同センター所長を歴任。日本の歴史・文化の周縁に姿をくらます鬼・異人・妖怪などを手がかりに、日本人の心の奥底に潜むものを探る研究を続ける。2013年紫綬褒章受章。2016年文化功労者。著書に『神隠しと日本人』『妖怪文化入門』『鬼と日本人』(以上、角川ソフィア文庫)、『憑霊信仰論』『日本妖怪異聞録』(以上、講談社学術文庫)、『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書)など多数。

 

標題『アイヴァン・モリス(著)「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」には、なぜか、将門の記載ないが、東日本での庶民の中での人気は凄い』を、今後も調べていきたいと思っています。

(記事投稿日:2023/01/29、#623)

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『信長は「天守閣」ではなく「天主閣」と呼び、そこに住まい!』 『「天下布武」の後「本能寺の変」がなければ、後の信長の狙いは

2023-01-27 09:58:41 | 歴史。日本・中世

『信長は「天守閣」ではなく「天主閣」と呼び、そこに住まい!』

『「天下布武」の後「本能寺の変」がなければ、後の信長の狙いは』

 

織田信長が居城とした城

  1. 織田信長がその生を受けた那古屋城 標高14ⅿ
  2. 織田信長が家康と同盟を結んだ事でも知られる清州城 標高4ⅿ
  3. わずか4年間の間、信長の居城だった小牧山城 標高86ⅿ
  4. 織田信長が天下取りの足がかりとした岐阜城 標高329ⅿ
  5. 天下人信長が築いた居城・安土城 標高199ⅿ

信長は誕生した平城と二回目に引き継いだ平城がたびたび水害に合い、それ以来ずっと山城だった。 最後に築城を考えていたと言われる東本願寺跡の大阪城も、標高31ⅿで、淀川に面していますが水害の心配はなかった。

 

安土山の全容、ほぼ中央の山頂付近に本丸、天主

ウキペデイア情報から引用

(西洋の星形要塞を彷彿させる)

 

安土城図(急峻さは強調されているが、これが安土城)

ウキペデイア情報から引用

 

天下布武

これは「織田信長が朱印に用いた印象の印文」です。 いわゆる織田信長が天下統一を意識して考えた印鑑のマークのようなものです。 「武」という言葉には「(める)争いや戦いを止める」という意味があります。 また、「武」には「七徳の武」の意が込められているといわれています。

七徳の武とは
 1. 暴を禁じる
 2. 戦をやめる
 3. 大を保つ
 4. 功を定める
 5. 民を安んじる
 6. 衆を和す
 7. 財を豊かにする
というものです。

そのため、天下布武とは織田信長による「天下に七徳の武を布く」という思い、天下泰平の世界を築くという強い意志の表れだったのではないかと言われております。

 

さて、天下布武の信長は天主閣に住んだのでしょうか

史実によると、日本の城の天守閣が居住空間として使用された例は、じつはほとんどないようです。 天主は「権力の象徴」であり、「籠城戦の際に立てこもる最後の砦」としての向きが強く、そもそも居住用には作られていない。

 

余談です。 『中世ヨーロッパの城の中心的役割を担う建造物キープですが、日本の城の天守との類似性から「天守」と訳されます。 平時には城主の住まいとして機能していました。 形状は、初期はシンプルな四角形でしたが、時代が下るにつれ、円筒形型、四つ葉型、多角形型など多彩になっていきます。』

 

標題に戻ります。 日本にも、例外があります。 普通は住まない天守閣で、唯一日常生活を送っていたといわれるのが織田信長です。 さすがは第六天魔王(※信長の異名)だ。 常識にとらわれないというか、本丸御殿という立派で住みやすそうなお屋敷がほかにあるのに、あえて一番でっかい建物に住まおうという豪胆さ。他の諸大名とはやはり一味違います。 普通は居住しない天主閣を居住空間にしてしまう信長は、やはり革命的です。

 

この革命的な武将の究極的な狙いは何であったのでしょうか。 『信長公記』でもそれはわからないようです。 これは当時の宣教師の日記と手紙に期待したいです。

 

三好三人衆を京都から追い出した織田信長は足利義昭を将軍に仕立て上げると、自身を幕府体制の中心に据えて自ら京都の統治に乗り出しました。 ルイス・フロイスを始めとした宣教師達は自分達を追い出した三好三人衆がいなくなったことを知り、新たな統治者に布教許可をもらうために京都へ戻ります。

 

ルイス・フロイスは織田信長との謁見でヨーロッパや東南アジアの情報を提供すると共に、キリスト教の布教許可を求めました。 当時の織田信長は利権を追い求め武装までしている仏教の在り方に疑問を覚えていたのでしょう、ルイス・フロイスは織田家領内での布教許可を得て、ここでようやく布教活動を始めています

 

信長とフロイスの、二人はそれぞれ36歳と38歳の同世代、気もあったのでしょうか、それでも信長が日本国の天下布武の後の野望をルイス・フロイスと話したとは思えません、有名な人たらしの秀吉ではありませんので。 信長の野望については、春になったら国会図書館で、ご専門の先生方をお尋ねすることを楽しみにしています。

(記事投稿日;2023/01/24、#622)

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『毛沢東と、周恩来と、始皇帝陵と、兵馬俑と、偉大な強者の歴史』 「始皇帝陵の発掘止めたのは周恩来」 「兵馬俑を遺せたのは始皇帝の宰相の名前と毛沢東の死」

2023-01-26 09:35:11 | 歴史・世界

『毛沢東・周恩来・始皇帝陵と、兵馬俑と、偉大な強者の歴史

             『始皇帝陵の発掘止めたのは周恩来』

   『兵馬俑を遺せたのは始皇帝の宰相の名前と毛沢東の死』

 

島国日本にも世界三大墳墓の一つ、大山陵古墳(百舌鳥古墳群)がありますが、始皇帝陵と大ピラミッド、それぞれの複合施設・コンプレックスとしての広さの比較をすると、それぞれの特徴のあるスケールは驚異的です。

                               複合施設の

            全長(m) 高さ(m) 体積(万㎥) 面積(K㎡)

大山陵古墳(1700年前)  486    36    140   38

始皇帝陵(2400年前)   350    76    300   55

大ピラミッド(4500年前) 230   146    260    2

 

 

兵馬俑(文化大革命の中、偶然・奇跡的に、現代まで残された)

ウキペデイア情報から引用

今回の表題で、毛沢東について、理解するために、思い出したことは、良く例えられる一言です。 『毛沢東の誤算、毛沢東はなぜ、「私は孔子様にはならない。始皇帝になる。これを思い出しました。 兵馬俑を遺せたのは、兵馬俑の遺跡の中に始皇帝の宰相・呂不韋の記録が発見されたことが最大の理由でしょうか。

 

先日(20210916)NHKBSプレミアム 世界遺産スペシャル!『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』の再放送の中で『20世紀最大の発見と言われる中国の兵馬俑。文化大革命の真っただ中、いかにして破壊を免れたのか?』を興味深く視聴しました。

 

半世紀も昔のことですが、香港に赴任した直後に、中国から香港に避難してきた上海の方から聞いたのですが『始皇帝陵は、中国の技術が、陵を発掘した後で、遺物が陵内地下に収まっていた状態を維持できるようになるまでは、発掘は許可しません』と周恩来首相は言い続けたそうです。

 

秦始皇帝陵

ウキペデイア情報から引用

秦始皇帝陵平面図(陵・緑色とその周囲の墓域)

ウキペデイア情報から引用 

今回の再放送で知ったのですが『兵馬俑は、文化大革命の真っただ中、いかにして破壊を免れたのか?』です。

 

アナザーストーリーズ「兵馬俑は見ていた!~巨大遺跡に翻弄された人々~」

放 送 2019年11月5日(火)午後9時~[BSプレミアム]

 

放送前の予告

中国の古代遺跡「兵馬俑(へいばよう)」を43年前、井戸を掘っていた1人の農民が掘り当てました。 秦の始皇帝の軍隊を忠実に再現したおよそ8千体の兵士像が2千年以上の眠りから覚めたのです。 だが時代は文化大革命の真っ最中。 スローガンは「古い価値を否定せよ」。 名だたる歴史遺産が次々破壊されていました。 数奇な運命をたどる発見者、その中で遺跡を守った人々の驚きの行為とは?20世紀最大の発見、その裏に隠されたアナザーストーリーです!

 

「兵馬俑遺跡」とは?

1974年、西安の東北、臨潼県の農民が井戸を掘っていて偶然見つけた陶器の破片。これが兵馬俑坑発見のきっかけでした。 総面積約1万4260平方メートルの1号坑を皮切りに、2号坑、3号坑が次々に発掘され「20世紀最大の発見」と世界を驚かせました。3つの俑坑の規模は2万平方メートルを超え、総計8,000点にのぼるとみられる陶製の兵馬が、死後の秦始皇帝を守るため地下に配置されていたことがわかったのです。

 

兵馬俑坑の西約1.5キロメートルには秦始皇帝陵があります。 約2200年前、中国統一を果たした秦始皇帝は、その絶大な権力を永遠のものにするため、すぐに陵墓の造営に着手。 70万人もの囚人を動員し、36年もの歳月をかけて完成した陵墓は、『史記』によると地下宮殿のようであったと記されています。 長らく伝説と考えられていたこの記述も、近年の調査で痕跡が確認され、秦始皇帝陵の発掘が待たれています。

 

俑とは古代中国で、殉死者の代わりに埋葬した人形(ひとがた)のこと。 敵国のある東を向き、整然と隊列を組んで並ぶ兵士俑はほぼ等身大。 表情、髪形、衣服のどれひとつとして同じ形のものはなく始皇帝の軍団が広範な民族の混成部隊であったことを窺わせます。 当初は鮮やかに彩色されていた俑。酸化による退色を防ぐため発掘は注意深く行われ、全貌はいまだ歴史の彼方に埋もれたままです。

 

発見された当時、中国は毛沢東が掲げた「文化大革命」の嵐で、「古い価値は否定しろ」という考えから歴史遺産が次々と破壊されていました。そんな中で、この古代遺跡・兵馬俑を守ったのが考古学者・袁仲一でした。万里の長城をはじめ始皇帝に関する遺跡は特別に守られていたことから、この兵馬俑も死後の始皇帝を守るために埋葬されたものであることを突き止めたのです。

 

そして、もう一人、この兵馬俑の価値を世界的に知らしめた人物が、ジャーナリストのオードリー・トッピングでした。 中国政府がこの古代遺跡・兵馬俑についての報道を厳しく規制していましたが、彼女はかなり強引に発掘現場へ取材に行きニューヨーク・タイムズに記事を掲載したのです。さらに、極秘ルートから兵馬俑の写真を入手して雑誌に掲載し、世界中で兵馬俑の価値を高めたのです。その記事には、発見者が誰であるかも掲載されました。その後、1987年には世界遺産登録されました。

 

島国日本にも世界三大墳墓の一つ、大山陵古墳がありますが、それぞれの複合施設・コンプレックスとしての広さの比較は含まれておりませんが、世界三大墳墓(単体の比較)でも、やはり凄いです。

            全長(m)  高さ(m) 体積(万立米)

大山陵古墳(1700年前)  486     36    140

始皇帝陵(2400年前)   350     76    300

大ピラミッド(4500年前) 230    146    260

ウエブ情報から引用

やはり島国の王国と、大陸の王朝・帝国はかなりのスケールの差があります。

(記事投稿日:2021/09/17、最終更新日:2023/01/26、#386)

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『南アフリカのケープタウンの風景(世界で最も美しい街の一つ)』 『ケープ半島は、地中海性気候であり、はっきりとした季節が!』

2023-01-22 23:09:32 | 風景

『南アフリカのケープタウンの風景(世界で最も美しい街の一つ)』

『ケープ半島は、地中海性気候であり、はっきりとした季節が!』

『テーブルマウンテン、デイビルズ・ピーク、ライオンズ・ヘッドなどの山が』

 

千葉県の九十九里海岸の東北端の飯岡町で、小中学校時代は、年中農作業の手伝いと、夏は土用波の海で育ちました。 高校時代に始めた山歩きは、岩や雪山まで進みましたが、20代後半に始まった海外駐在は、海と縁のある港町、香港・パナマ・シンガポールに、トータル22年も、住んだことありました。

 

山男の経験からの習性でしょうか、洋上の岩塔や山並みには、いつも憧れてきました。 昔、地理や歴史で習った南アフリカ共和国の『ケープ半島・ケープタウン・喜望峰(Cape of Good Hope)』には、それほど引き付けられるものではなかったのですが、ウエブ情報で一枚の写真を見まして、遅くはない、これからマップ上の登山を楽しもうと思いました。

 

ケープ岬(衛星画像より作成)(写真の左が北、上が東)

右下の入り江がフォールス湾、湾奥がケープタウン、湾を囲むケープ半島、先端が喜望峰。

ウキペデイア情報から引用

ケープ半島は地中海性気候でありはっきりとした季節がある。 冬は寒く、平均最低気温は摂氏7℃。 年間降水量の大半は冬に集中しているが、市の南部ニューランド郊外は南アフリカ共和国内で最も降水量が多い。 峡谷部や海岸部の年間平均降水量は515ミリだが、山間部では1,500ミリにもなる。 夏は暑くて乾燥しており、気温は温暖であり平均最高気温は26℃である。

 

ケープタウンの中心はケープ半島の北の端に位置し、テーブル湾に面した地区、この地区は北をテーブル湾、西をシグナル・ヒルとライオンズ・ヘッド、南をテーブルマウンテン、東をデイビルズ・ピークといった山々に囲まれほぼ円形をしており、その形からシティ・ボウルと呼ばれている。 ケープタウンよりシグナル・ヒルをはさんで西に位置し、その背後に見事にそそり立つテーブルマウンテンは1000メートル以上の高さを持ち、ほぼ垂直の崖で取り囲まれている。 この半島を背骨として貫く山脈が大西洋の中を南に張り出し喜望峰となっている。 ケープタウンの中にある300mを越える頂は70以上ある。

 

テーブルマウンテン

ウキペデイア情報から引用

ケープタウンの多くの郊外住宅地区は半島と本土を結ぶケープ・フラッツにある。 ケープ・フラッツは海底が隆起して出来た陸地であり、大方は砂っぽい地質である。 テーブルマウンテンは、かつては島だったことになる。 ケープ・フラッツはアパルトヘイト時代に市中心部の第6地区(ディストリクト・シックス)から強制移住させられたカラードたちの居住区であり、現在でも低所得者層の居住地となっている。 近年では東から流入してきたコーサ人が優勢な地区となっている。

 

テーブルマウンテンにテーブルクロ

ウエブ情報から引用

市街地の背後に見事にそそり立つテーブルマウンテンは1000メートル以上の高さを持ち、この山にときおり薄い雲がかかったりすると、その外観から「テーブルクロス」などと呼ばれることもある。ケープの気候は変わりやすいため、テーブルクロスのかかっていないテーブルマウンテンはめずらしいほどである

 

ケープタウン大学のメインキャンパス(バックはデイビルズ・ピーク)

ウキペデイア情報から引用

現代は『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ』に入りました。 掛け替えのない風景は大事に守っていきたいものです。 まだ間に合いますのは、『温暖化・海水温上昇! 地球を冷やす術(すべ)はないが? 身近なこと「節電」「節水」「節食」「プラチック製品削減とプラチック改良」「木を植え、手入れ」をやろう』で地道に、身辺・足元から頑張りたいと思っています。

(記事投稿日:2023/01/22、#621)

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