知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『尊敬する野村克也氏も読んでいた「甲子夜話(かっしやわ)」』 『江戸時代後期に肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)の随筆集』

2022-03-31 09:17:06 | 読書・図書館

『尊敬する野村克也氏も読んでいた「甲子夜話(かっしやわ)」』

『江戸時代後期に肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)の随筆集』

  ⇒  ウエブ情報から引用

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

「ボヤき」が代名詞だった野村克也氏は、数々の印象的な言葉を残した。 心に響く名言もあれば、笑いを誘う“迷言”も。 09年には「ボヤき」が新語・流行語大賞でトップ10入りし「ボヤきが出るのは元気な証拠。 ボヤかなくなったらご臨終です」とスピーチ。 もう聞くことはできない野村語録は沢山ありますが、これがプロ野球ファンの一人『傘寿爺』にはたまらないものです。

 

この名言は『甲子夜話』に、ウエブ情報から抜粋・引用です。

 

随筆集『甲子夜話』の著者である松浦静山。江戸時代に生き、文武両道に励むなかで有名な言葉を残した。

静山のその名言は、東北楽天の野村克也前監督の座右の銘としても知られているが、その言葉の真意や彼の生い立ちはどういったものなのか。

※本稿は、『人生の決断を導く歴史人物の格言』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」松浦静山

(1760~1841:大作『甲子夜話』を著した文武両道の平戸藩第9代藩主)

随筆集『甲子夜話』の著者として知られるのが松浦静山。平戸藩世嗣・松浦政信の長男として生まれた。父の早世に伴って静山は、12歳で祖父・誠信(八代藩主)の養嗣子となり、16歳で家督を相続した。

柳生石舟斎から新陰流兵法を伝授された徳川家康など、江戸初期以前には武芸達者な将軍や大名も少なからずいたが、静山は江戸中期の泰平の世にあって「心形刀流」を究めて印可を受けた。そのほか弓・馬・槍術や柔術まで武芸全般の修行を積んだ経験を持つ。

幼い頃から記憶力に優れ学問を愛した静山だが、いつまで生きられるかと危ぶまれるほどに病弱だった。その虚弱な体質を克服するため、教育にあたった祖母が文武両道を説いたとされる。江戸の商家出身の祖母がさばけた性格で、大名家の教育方法に固執しなかったのが幸いしたようだ。

静山は藩校・維新館を設立して自ら学を講じるとともに武芸の普及を図った。また藩政の改革を進めるため、身分にとらわれない人材登用も行った。

47歳で家督を三男に譲って隠居し、以後は執筆活動に従事した。1821年の甲子の日の夜に起草した『甲子夜話』は亡くなるまで毎夜書き足され、278巻に及ぶ。

東北楽天の野村克也前監督の座右の銘として有名になったが、言葉の意味は、負け(失敗)を虚心に反省すれば必ず原因が見つかる―。予期せぬ失敗やミスをしたとき、人は往々にして「運が悪かった」「ついてない」で片づけがちだ。

しかし、失敗した場合には必ず原因がある。失敗しないためには「運」が味方するようにふだんから努力を続け、「鈍」(当たり前のことを当たり前に行う、あるいはやるべきことを行うこと)と「根」(最後まで手抜きせずやり通すこと)に全力を尽くすのみである。

文武両道で、さらに吉原で通人として知られたという静山の言葉は、ビジネスにも通じる鉄則といえるだろう。

 

名言や、笑いを誘う『迷言』を沢山残した野村克也氏は、それらを『ボヤき』で表現されています。  このトーク術は野球界の大伯楽です。

 

愛称は「ノム」(ノムやん・ノムさん)「ムース」。血液型はB型。

選手としては、史上2人目・パリーグ初の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算塁打数歴代2位、通算打席数1位(11970打席)、通算打数1位(10472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠飛)、通算併殺打1位(378併殺打)、最多記録となるベストナインを19回受賞、パリーグ最多記録となる本塁打王を9回獲得、打点王を7回獲得、パリーグ最多記録となる最優秀選手を5回受賞などの記録を持つ。

監督としては1565勝1563敗を記録。 このうち「平成」(1989年1月8日 - 2019年4月30日)期間の勝利数1053は同時代における最多記録。 1563敗は歴代最多記録。 プロ野球では南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。 元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督(2012年まで)。

 

日本プロ野球史でベスト3を選ぶとしたら必ず入ると信じています。

(記事投稿日:2022/03/31、#510)

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『地球上で、宇宙で,最強はシャチ! シロナガスクジラを捕食』 「地球上最大の動物記録、シロナガスクジラ、34メートル、199トン」

2022-03-30 23:14:56 | 動物

『地球上で、宇宙で最強はシャチ! シロナガスクジラを捕食』

「地球上最大の動物記録、シロナガスクジラ、34メートル、199トン

 

センセーショナルなニュース、(CNN)オーストラリアでシャチの群れがシロナガスクジラの成体に襲いかかって捕食する様子が初めて記録されたとして、研究チームが学術誌に研究結果を発表した。 陸上では最強の肉食動物は、シロクマですがシャチに捕食されたケースがりますので、やはり『地球上で、否、宇宙で最強はシャチ』のようです。

 

『なぜ、宇宙で最強か』、宇宙はスケールが大きすぎて、人類はシャチより強い肉食獣が、いるかどうかを実地検分確認ができないからです。 宇宙の大きさは『実際の大きさ最低でも直径780億光年と学説!)』と『観測可能な大きさ(可視宇宙、昔は200億光年、今は365億光年で、直径730億光年』が、あるようです。 今では宇宙に存在する銀河の数は2兆個、従来の見積もりの10倍。

 

銀河系だけでも、約1000億の恒星が含まれるため、少なくとも『170億の岩石惑星がある』と言われおり、まだ、そのどこからもUFOも異星人も地球には来た、形跡がありませんので。  例えが悪いですがやはり『地球上で、否、広大な宇宙でも最強はシャチ‼ シロナガスクジラを捕食』と思いました。 長い脱線でしたが表題に戻ります。

 

シャチの骨格標本水族館での、ショーで見る優しそうな姿とは全く別

ウキペデイア情報から引用

 

シャチ、英語ではキラーホエール(この編隊水泳は見事)

シャチ(鯱、学名: Orcinus orca)は、哺乳網鯨偶蹄目マイルカ科シャチ属の海獣である。 日本ではサカマタ(逆叉、逆戟)という別名もある。 シャチは、魚類全般、サメ、クジラなどを食べる。 平均ではオスの体長は5.8 -6.7、メスの体長は4.9-5.8m、オスの体重は3.6-5.4t、メスの体重は1.3-3.6t。 最大級のオスでは体長は9.8m、体重は10tに達する。

 

シロナガスクジラ(白長須鯨学名:Balaenoptera musculus)

ウキペデイア情報から引用

ヒゲクジラ亜目の海洋哺乳類。 最大確認体長29.9メートル、体重199トンに達し、現存する動物の中では最大。 シロナガスクジラの細長い体は、背側がさまざまな色の灰青色で、下側はやや明るい色をしている。

シロナガスクジラは、19世紀末までは地球上のほぼすべての海に生息。 国際捕鯨委員会が1966年にシロナガスクジラの捕獲を全面的に禁止するまでは、捕鯨業者によって絶滅寸前まで捕獲されていた。 2018年、シロナガスクジラは絶滅危惧種に指定されている。 人為的なもの(船の衝突、汚染、海の騒音、気候変動)と自然的なもの(シャチの捕食)の両方の数多くの脅威に直面し続けている。

 

マッコウクジラハクジラ類の中で最大、当然歯のある動物では世界最大)

ウキペデイア情報から引用

巨大な頭部形状が特徴。 海の中でシャチが唯一敬遠する動物。 海の王者が誰かというテーマで話題になるのはシャチとマッコウクジラです。 1:1ならばマッコウクジラ、群れの力でとことん戦えばシャチに軍配が上がるとみられています。 

 

和名と香料日本語は、表意文字・ひらがな・カタカナ・ローマ字あり便利

和名「マッコウクジラ」の漢字表記は「抹香鯨」、古代からアラビア商人が取り扱い、洋の東西を問わず珍重されてきた品に、香料であり医薬でも媚薬でもある龍涎香というものがあったが、それは海岸や、海に漂っているものを偶然に頼って見つけ出す以外、手に入れる方法が無かった。 しかし、この香料の正体はマッコウクジラの腸内でごくまれに形成されることがあり、自然に排泄されることもあった結石であり、捕鯨が盛んに行われる時代に入ると狩ったマッコウクジラから直接採り出すことが可能になった。 マルコ・ポーロの『東方見聞録』にはマダガスカル島沖でマッコウクジラが捕獲され龍涎香が採れることが記されている。 この、マッコウクジラの「龍涎香」が、抹香に似た香りを持っていることから、近代日本の博物学では中国語名「抹香鯨」に倣(なら)って、そのまま和名として定着した。

 

マッコウクジラの主食はダイオウイカ

マッコウクジラの主食はイカであり、その中には深海の巨大ダイオウイカもいます。 水深3000mにまで潜ることが可能で、潜水時間は2時間にも及びます。 その潜水能力で深海にいるダイオウイカを探し、超音波を当てて弱らせて、歯で噛み千切ってしまい、1日に1tものイカを食べています

因みに、原子力潜水艦の最大潜航深度は500~700mと推測される。 中には深度900m~1,000mと言われることがあるが、米ソ冷戦時代に建造された超高性能・超高価な数隻の原潜(米・シーウルフ級など)のみ。

 

アルゼンチノサウルス(地球史上最大の動物・恐竜)

この狭い地球に、海ではなく、それも陸上に、超巨大な動物・恐竜がいました。中生代三畳紀に現れ、中生代を通じて繁栄した。 多様な形態と習性のものに適応放散し、陸上動物としては非常に大きくなったものもあったが、約6,600万年前の白亜紀と新生代との境に多くが絶滅した。 原因として地球規模の地殻変動もありますが、最も有力と考えられている仮説は、 隕石衝突説が現在のところ最も有力。 

現存する動物の中では最大は『』のシロナガスクジラですが、なぜか巨大な『動物・恐竜・アルゼンチノサウルス』が『陸』の地上に生息していました。 どちらも地球史に関わりますので、『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ』に考えを巡らします。 

発見されているのは脊椎骨、脛骨、不完全な肋骨、仙骨など一部のみ。 1個の脊椎骨だけで長さが130センチメートルほど、脛骨は155センチメートルほど。これらのデータから全長は約30 - 45メートル、体重は約80 – 100t以上あったと見積もられている。 脊椎骨の大きな突起には巨大な筋肉が付着していたものと見られる。 本種を「存在可能な最大級の恐竜であろう」と考える学者もいる。

動物の大型化は身近な理由は『島ではなく大陸に棲息、または寒い地域に生息』すると大型化する理解していました。 今回の、クジラと恐竜の超巨大化は、地球規模の気候変動・気候変動にも関係がありそうで、今後の調査を楽しみに、今わかっていることを『メモ』にしました。 

 

クジラの巨大化

シロナガスクジラって遊泳速度も速く、こんな巨体でありながらも、時速50km(シャチは、時速80㎞)も出る。 クジラの巨大化は260万年前から続いている氷河期に大発生したオキアミが関係していた。 歯がなく、代わりにヒゲ板という器官で小さな甲殻類のオキアミをこしとるようにして捕食しています。 このろ過摂食と大量のオキアミが、クジラが巨大化した原因だと、いわれています。

 

恐竜の巨大化

恐竜巨大化の原因は様々な説があります。
(1)純粋な恒温動物(体温が一定の動物)ではないため。

哺乳類などに比べて体温を維持するためのエネルギーをそれほど消費しません。その  ため、少ない食事で大きな体を維持することが出来るため、余分なエネルギーを成長に回すことが出来ました。

(2)哺乳類などと異なり、生きている限り成長するため。

これは化石から判断されます。ちなみに、恐竜と近縁である爬虫類にも見られる傾向です。

(3)当時は食料が豊富であったため。

当時は温暖な気候で、さらに被子植物が出現するなど植物が大いに進化した時代でした。 大量の植物が地球上に存在し、恐竜も多量の食事を取ることが出来ました。

(4)巨大化に適した呼吸器系や骨格であったため。

近年の研究で、多くの恐竜に気嚢システムがあることが分かりました。気嚢(きのう)とは肺を補助する器官で、より効率的に酸素を取り入れることが出来ます。つまり、巨大な体は十分な酸素が行き渡ることで形成された、という考えです。さらに骨格について考えると、直立歩行は重い体を支えるのに適しています。爬虫類のようにガニ股なような骨格だと、体重の負荷が足の付け根に来ることは、何となく想像できると思います。この他にも内臓系が強固だったと想定されていることなど、色々な説があります。

まさに、『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ』です。

(記事投稿日:2022/03/30、#509)

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『苦海浄土の著者・石牟礼道子さんのこと』ー西のミチコと東のミチコが会いましたと車椅子の上でお茶目に石牟礼さんー

2022-03-30 09:07:13 | 読書

             『苦海浄土の著者・石牟礼道子さんのこと』

 『西のミチコと東のミチコが会いましたと車椅子の上でお茶目に石牟礼さん』

『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』著者 高山文彦氏

ウキペデイアから引用

西のミチコと東のミチコが会いましたと、車椅子の上で石牟礼さんは、お茶目な言い方をする。

本はよく読みますが、自分が覚悟して、強い意志で、やっと読み切った本のトップスリーで、トップはなんといっても『苦海浄土』です。

❶苦海浄土(くがいじょうど)(水俣病の実態) 石牟礼道子著

❷蒼穹の昴(清朝末期の宦官の自宮(宮刑でなく)実態) 浅田次郎著

❸アンデスの奇跡(冬のアンデス山中で墜落事故遭難者の一部16人が72日後に生還)生存者ナンド・バラード著 

  水俣病の世界を描いた『苦海浄土』の作家石牟礼さんの、2月10日の死去に、舞台となった熊本・水俣では、患者や支援者らが無念さをにじませた。『寄り添ってくれた』患者らは、勇気をもらい作品を通じて水俣病の実態を国内外に伝えた偉業をたたえた。 

 『水俣』を、そして文明の危うさを書き続けた作家石牟礼さんは、水俣病と、それを引き起こした企業や行政の振る舞い、がむしゃらな経済優先の時代の病巣を見つめ、そこからの思いを1本のペンに宿した人生だった。 言いようのない喪失感を覚える作家の死である と言う記事を読みました。 

 違う形で、ケタの違うスケールで作り出されている『人為的な環境破壊』に対する警鐘として、この本を『教科書で紹介すべき』と思うほどです。

  詩人で作家の石牟礼さんの、その広範囲の活動実績にも驚きました。 

先ずは、受賞歴です。

 

 石牟礼さんは文学少女として水俣に育った。10代半ばから歌を詠み、詩作に親しんだ。 結婚し、地元で家庭を持つ。 その文学好きの一主婦が、足元で起きたすさまじい公害事件と出合ったことで、常ならぬ道を歩くことになる。

 水俣病公式確認から3年後の1959年、石牟礼さんは 見舞いのため水俣市立病院の水俣病特別病棟を訪ねた。 そこで見た患者たちの姿に『水俣病事件に悶々(もんもん)たる関心とちいさな使命感を持ち、これを直視し、記録しなければならぬ』という衝動にかられる。 そして『苦海浄土』が生まれた。

 

 激しくけいれんし、苦悶(くもん)の爪痕を壁に残した初期患者の悲惨な病状。豊かな海と、漁に生きる暮らしと、地域社会を破壊した公害事件の正体。壊され失われたものへの、いとおしみ…。 それらを、類いまれな表現力で描き出した主婦作家の一冊を通して、多くの人が「水俣」を知った。

 

『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』 高山文彦著には、こうあります。

 西のミチコと東のミチコが会いましたと、車椅子の上で石牟礼さんは、お茶目な言い方をする。でも顔は、お能の面みたいに静かなのである。 

ここでいう西のミチコとは水俣の石牟礼道子さんで、東のミチコとは東京の美智子皇后陛下を指します。西のミチコを先に出すのは、すごいですね。『西のミチコが東のミチコにあいました』なら、この順でいいのですが。

 お会いされたのは、東京神田駿河台の山の上ホテル。鶴見和子さんをしのぶ山百合忌においてでした。 とにかくその会で石牟礼さんは皇后の隣りに席を用意され、会が終わるまで二時間ばかり親しく言葉を交わしたのだという。

 その時の、石牟礼さんが抱いた皇后陛下に対する印象は、『あんな知的な女性にお会いしたのは、はじめてです。とてもお優しくて、美しい方でした。 こぎゃんか女性をお嫁さんにもらわれた天皇さんは、偉かです」というものでした。

更に、凄さを感じた『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』からの関連情報・抜粋です。 

2013年10月、水俣を訪れた天皇皇后が、水俣病患者と歴史的な対話をかわされた。そのきっかけをつくったのが、『苦界浄土』をあらわした石牟礼道子。二人のミチコが文学をとおした魂の交感から、数々の秘められたドラマが生まれた。

2014年の歌会始で天皇が詠んだ一首。
慰霊碑の先に広がる水俣の 海青くして静かなりけり
 

2013年10月、「全国豊かな海づくり大会」のため水俣をはじめて訪れた天皇皇后にとり、その旅は大会への参加以上に、戦争にひきつづき果たしてきた日本の惨禍への慰霊が目的だった。水俣でおきた『奇跡』――、天皇の政治利用と非難されることを自ら覚悟のうえで、渋る宮内庁幹部を動かし、極秘のうち実現した天皇皇后と胎児性患者や語り部の会11人との面会。それは美智子皇后と作家・石牟礼道子、「ふたりのみちこ」の深い絆によりもたらされた。
作家・池澤夏樹氏が個人編集し大評判をよんだ『世界文学全集』の中で、日本作品から唯一選ばれたのが、石牟礼道子の『苦海浄土』(講談社文庫)だった。本を通して深い信頼関係を築いた「ふたりのみちこ」が、半世紀以上にわたり水俣病と向きあった人々からの「許し」を得るまで。その過程には、水俣病の原因をつくったチッソの社長が雅子皇太子妃の祖父だったという、乗り越えなければならない複雑な経緯もあった。
東京で、水俣で、深く意志を交錯させたふたり。パーキンソン氏病をわずらい闘病中の石牟礼道子は、天皇皇后に面会する患者代表にこう伝言したという。「天皇陛下に伝えてください。大会で放流したヒラメは、もう水俣病になりませんか?」
1965年に熊本の同人誌で知り合って以来、水俣病に石牟礼とともに取り組んできた作家・渡辺京二が語る、政府と公害企業との闘争史も興味深い。

  将に、今そこにある危機は『二酸化炭素排出増加』に起因する異常気象と環境破壊です。 繰り返しになりますが、個人が、70 億人が、すぐに出来ることは、最も有効な; ❶節電  ❷節水、 ❸植樹 、❹買い物用『マイバック』必携、❺出来るだけの歩行移動、でしょう。

(記事投稿日:2018/02/12、最終更新日:2022/03/26、#501)

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『山は美しい 9(登りそこなった山は、傘寿には遠い、景鶴山』 『優しい尾瀬には何回も行ったが「ブヨ」に負け断念したこの山』

2022-03-28 22:27:20 | 山・山岳

『山は美しい 9(登りそこなった山は、傘寿には遠い、景鶴山』

『優しい尾瀬には何回も行ったが「ブヨ」に負け断念したこの山』

半世紀も昔のことですが、女性ファンの多い尾瀬ヶ原は、山は凄いんだと『カッコ』ばかりつける山男の山行プログラムには入りませんでしたが、あるとき読んだ雑誌の情報に『景鶴山の後方には、世界的に有名な「モウセンコゲの群生地」』がありました。  

無粋な山男ばかりの山行の合間に『夏が来れば思い出す、はるかな尾瀬・・・』に魅かれて、いつもの山男・山女仲間ではない、ハイキングや旅行仲間の男女数人で、ゆったりした尾瀬ヶ原散策を計画しました。 この山行の間に、事前調査も十分してない、とんでもない『景鶴山の後方には、世界的に有名な「モウセンコゲの群生地」』踏破をこの時の山行計画に入れました。
尾瀬の地形図(左下至仏山、右上燧ケ岳火山、中央T字尾根中央が景鶴山

ウエブ情報から引用

至仏山より望む景鶴山(右に尾瀬ヶ原、更に右に東北最高峰燧ケ岳2356ⅿ)

ウエブ情報から引用

景鶴山(けいづるやま)は、尾瀬ヶ原の北に存在する標高2,004mの山、群馬県片品村と新潟県魚沼市の境界に存在し、日本三百名山に指定されている。 

この山はもともと、登山道がなかったために、密生しているササをかき分けて斜面を這いずるようにして登らねばならなかった。 この「這いずる」というものが訛って「へえずる」となりやがて「けいずる」となったことから景鶴山となったと伝えられている。

一度は登山道も拓かれ、多くのガイド本でも紹介され、笹ヤブが雪に隠れる季節などにはスキー登山などのために登ることができていた。 しかし2013年時点では登山道も廃道になり、さらにそもそも土地所有者の尾瀬林業が入山を認めていないため登山は一切できず、その山体を尾瀬から眺めることしかできない状況となっている。

 

メンバー全員が『ブヨ』に刺されましたので、このルートは途中で撤退しました。 初めての酷い痛痒さの経験でした。 女性は足をじかに刺された人は直径2~3㎝ぐらいに腫れあがり、体質や咬まれた部位により腫れが1ヵ月以上ひかないこともままあり、慢性痒疹の状態になってしまうと完治まで数年に及ぶことすらあると、後で本で読んだことがありました。

尾瀬は湿原ですので、湿原の植物の代表格が、モウセンゴケです。

ウエブ情報から引用

葉や葉柄に突起があり粘着液を出しています。 小さな虫がこれに絡まると葉を丸めて更に動けなくして虫の養分を吸い取るといういわゆる食虫植物の一種です。但し、いつ捉えられるか解らない虫の養分だけでは育ちませんから通常の植物と同じように土壌から養分を得ています。 モウセンゴケの花期は7月頃で白い花を咲かせます。 モウセンゴケは尾瀬のほとんどの湿原に生育していますが、よく見ると個体の違うものがあります。

 

この山行には『オチ』がありました。 食虫植物の一種モウセンゴケを見ることを無理矢理に山行に組み込み、『ヒトなどの哺乳類や鳥類 から吸血する衛生害虫「ブヨ・ブユ』に刺されました。
ブユ(蚋、蟆子、Black fly)は、ハエ目(双翅目)カ亜目ブユ科(Simuliidae)に属する昆虫の総称。ヒトなどの哺乳類や鳥類 から吸血する衛生害虫である。関東ではブヨ、関西ではブトとも呼ばれる。

 

『バチ』に当たったのでしょうか、『食虫植物』を見に行って、そのエサの『吸血虫、ブヨ・ブユ』に刺され撤退した! 今になって『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ』を実感しました。

(記事投稿日2022/03/26、#508)

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『奈良のこと 1(廃仏希釈を乗り越えた千二百年の古都vs千年の古都)』―日本にもあった廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた結果的には破壊活動がー

2022-03-27 09:03:12 | 歴史・日本

   『奈良のこと 1(廃仏希釈を乗り越えた千二百年の古都vs千年の古都)』

『日本にもあった文化財破壊・廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動が』

 

『初めて、千葉県鋸山の日本寺の首なし羅漢を見た時に驚き!』

 奈良の旅は、修学旅行を含め3回目でした。 今回は余生に限りある歳の所為もあり、いろいろ興味深い点があることに気が付きました。 明治期の危機『廃仏毀釈・神仏分離』を、奈良は乗り越えていたことです。

 中国の文化大革命の中で行われた宗教関連事物の破壊もどこまでされたのかは、調査不足で自分にはよくわかりませんが、日本の『廃仏毀釈・神仏分離』も凄いです。 そのウエブ情報です。

 

『明治期の神仏分離と廃仏毀釈』

 大政奉還後に成立した新政府によって1868年4月5日に発せられた「神仏分離令」「神仏判然令」、および1870年2月3日に出された「大教宣布」などの政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

 日本政府の神仏分離令や大教宣布はあくまでも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。 祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、 仏事の禁止などが見られた。 1817年2月23日付寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

 大阪住吉大社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、1873年にほとんどが壊された。 奈良興福寺の食堂は1875年に破壊される。 出羽三山については、明治1874年以降に廃仏毀釈が始まる。

 

 例えば千葉県の鋸山には五百羅漢像があるが、全ての仏像が破壊された。 現在は修復されているが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている。(初めて、千葉県鋸山の日本寺の首なし羅漢を見た時に驚きました。 この時以来、日本史の一大汚点が頭から離れませんでした。 この日本寺は、聖武天皇の勅願で開山 また、華族の墓地も仏教方式から神道方式へと変更させられた。

 三重県では、伊勢神宮のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100ヶ所以上が廃寺となった。 特に、神宮がある宇治山田(現:伊勢市)は、寺院の数が300近くから15近くにまで減らされている。

 さて、東大寺と言えば、大仏殿(国宝)と大仏(銅造盧舎那仏坐像の名で彫刻部門の国宝)と、『お水取り』で知られている二月堂(国宝)ですが、今までうっかり自分が見落とししていたのが、三月堂と知られている東大寺法華堂(国宝)です。

 

先日は、梅雨明け直前の、気温32度以上、湿度80%以上、の中でボランティアの方のアドバイス『エアコンはなく扇風機ですが、女子中学生の団体が小グループに分かれて、歴史の先生の説明を聞いていますので、暑いですが、この15分を聴講なさるのがいいですよ』に従い、中学時代の歴史の時間を思い出しながら、拝観・拝聴しました。

 

ウエブ情報です。

東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つであり、堂内に安置する10体の仏像(全部が国宝)も奈良時代の作である。 2011年以降、日光菩薩像、月光菩薩像、吉祥天像、弁才天像、不動明王二童子像、地蔵菩薩像は法華堂から免震装置を備えた東大寺ミュージアムに移され、堂内に安置される仏像は10体となっている(不空羂索観音像、梵天・帝釈天像、金剛力士像(一対)、四天王像、執金剛神像)。堂内須弥壇の修理のため、法華堂の内部は2011年8月から非公開となり、本尊の不空羂索観音像も一時的に東大寺ミュージアムに移されていたが、2013年5月18日から公開が再開された。

 

ここでは、京都との比較、国宝点数です。

 

     絵画 彫刻  工芸 書跡 古書 考古 歴史 建造物  合計

奈良    9    74      36  11  1   8   0        64   203

京都     44    39        15     55   27     3      0        72        234

全国      161    136      253      228     62      47         3         226       1,116

  

際立っているのは、全国の国宝彫刻の半数以上が、奈良にあります。 蘇我vs物部の宗教戦争後の、仏教側の蘇我一族と聖徳太子一族の内紛も関係がありそうです。 聖徳太子一族のために創建された法隆寺に始まり寺が多いです。

 

さらに、頻繁な遷都ですが、

奈良飛鳥 2年、

大阪難波 10年、

奈良飛鳥 12年

滋賀大津宮 10年、

奈良浄御原宮・藤原京・平城京・山城恭仁京・紫香楽宮 77年、

大阪難波 1年、

奈良平城京 39年、

京都長岡京・平安京 396年

兵庫県福原京 5ヶ月

京都平安京 688年

 

 日本の遷都を伴った朝廷史は、なんと、1,476年間も続いています。 中でも在京都年数が、三分の二、とダントツ。 奈良と京都の比較はできませんが、やはり、仏教の奈良と神道の京都との違いでしょうか。 この朝廷史の継続、『日本は凄い、日本人は凄い』と思います   

(記事投稿日:2019/07/27、最終更新日:2022/03/27、#507)

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