知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『写真は「一期一会」とか「TPO・テーピーオー」とか言うけど! 11』 『横浜港大さん橋の「くじらのせなか」は美しい木目色だった』『材料は、腐りとは無縁の「イペ」というウッドデッキ材料を』

2024-08-11 16:44:10 | 写真

『写真は「一期一会」とか「TPO・テーピーオー」とか言うけど! 11』

『横浜港大さん橋の「くじらのせなか」は美しい木目色だった』

『材料は、腐りとは無縁の「イペ」というウッドデッキ材料を』

『くじらのせなか』のネーミングが素晴らしいです。 これは波のうねりをイメージしていて、ターミナルとホールの2つの山型が水面に浮かぶくじらの背中に見えることから、屋上広場は「くじらのせなか」と名づけられています。

先ずは、この材料「イぺ」のこと、キバナノウゼンやイペーロッシヨは樹高45メートルにまでなる場合がある。 イペーロッシヨにはラバコールと呼ばれる成分が含まれており、防腐効果や防虫効果を発揮するとされている。 南米の原住民は、紫イペの樹皮の内側の層を削って煎じてラパチョと呼ばれる民間煎じ飲料として使用する。 解熱・消炎・妊娠中絶・健胃効果があるとされる。

木材としての特徴、年輪や杢目に乏しく、南方材らしく密に詰まった材質をしている。色は薄褐色から暗色の帯のものまでかなり幅広く、辺材は黄白色である。 腐りにくい反面加工しづらく、ドリルで穴あけしないとビス打ちも困難なほど硬い。 水につけても腐りにくいが、乾燥すると割れたり狂いが出やすい。 シロアリや湿気に強い。 気乾比重は0.91-1.20であり、水に沈むハードウッドである。

 

改修工事中の大さん橋、手前は横浜赤レンガ倉庫(2002年2月)

ウキペデイア情報から引用

 

改修工事後の木目色(2002年2月)

ウエブ情報から抜粋

見つかりました、ほぼ同じ時期に撮った写真①

見つかりました、ほぼ同じ時期に撮った写真②

見つかりました、ほぼ同じ時期に撮った写真③

傘寿ですが,ずーっと、心残りになっていること、美しい木目色の『くじらの せなか』を撮りそこなったことです。  雨に濡れる黒色の『くじらのせなか』 は、渋いが、日本人の自分には、ずーっと『くじらのせなか』は美しい木目色 で、居て欲しかった。 

King・Jack・Queen の表示は鮮やか、それでも美しい木目色に未練が。

起伏したウッドデッキが広がるエントランス付近(撮影:2008/08/24)

 

起伏したウッドデッキが広がるエントランス付近(撮影:2008/08/24)

写真は『「一期一会」とか「TPO・テーピーオー」とか言うけど』まさに、その通りです。 『くじらのせなか』が、まだ茶色の木目色だったころには、これほど真っ黒に、変色するとは想像もできませんでした。 茶色の木目色でたくさん撮っておくべきでした。 いつものことで『後の祭り』でした。

(記事投稿日:2018/04/29、最終更新日:2024/08/11、#016)

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『カラスの巣は、戸建て・団地型から、メゾネットタイプ・集合型へ』『団地型はサッカーグランドの縁、メゾネット型は公園の正門の近くに』

2024-08-11 15:24:06 | 野鳥

『カラスの巣は、戸建て・団地型から、メゾネットタイプ・集合型へ』

『戸建は、メゾネット型は公園正門のサッカーグランドの縁近くに

子供の頃、見たカラスの巣は、芯止めされた独立した松の木の天辺に、よくありました。 最近、気が付きました。 大型の野鳥は、ヘリポートのように周囲に障害物のない、なにかの木などの天辺に、巣作りでした。 『翼開長』が大きく、当然です。 最近は違っており、木の天辺を寸止めされた松の木や、杉の木はめったにはありませんので写真のようは外敵から巣を守れる枝の間に巣作りするようです。

戸建て・独立型

 

 メゾネットタイプ・集合型

 

 

これらのカラスの巣は、集合型は、公園の正門の近くにメゾネットタイプはサッカーグランドの縁にありました。 ツバメが飼い犬の居る家に、巣をつくると同じ理由だと解かります。 野鳥はいつでも

     (記事投稿日:2018/04/26、最終更新日:2021/02/21、#004)                         

 

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『世界の城郭 2(陸繋島の城郭は、世界に3城だけ、1城が日本にあった)』『陸繋島・江ノ島に寺院・神社はあるが、城郭は建設されなかったか、なぜ?』

2024-08-11 12:01:13 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 2(陸繋島の城郭は、世界に3城だけ、1城 が日本にあった)』

『陸繋島・江ノ島に寺院・神社はあるが、城郭は建設されなかったか、なぜ?』

陸繋島・江ノ島には、なぜ城郭は建設されなかったのか、を調べていたら表題のことが解りました。 陸繋島の城郭・城郭跡は世界に3城郭だけだった。 

 

砂州によって大陸や、大きな島と陸続きになった島のことを、陸繋島(りくけいとう)と呼ばれています。 

 

フランスの陸繋島『モン・サン・ミッシェル』には城郭と教会があり、英国の『英国版モン・サン・ミッシェル』とも呼ばれる陸繋島『St・マイケル・マウント』にも城郭と教会がありますが、これらは、城郭都市ではありません。

 

『江の島』には、江ノ島神社と江ノ島大師だけで城郭はありません。

 

ウエブ情報には、日本の陸繋島は、二十数件と沢山載っていますが、世界の陸繋島で『リストされている』のは極少なく数件です。

 

日本にも、『陸繋島城郭跡』がありました。 先ずは、ウエブ情報からです。 

 

愛媛県今治市古城島の甘崎城(あまざきじょう)跡です。 別名を、古城、岸の城、荒神城。 7世紀末、唐軍の侵攻に備えて、越智氏によって築かれた日本最古の水軍城とされ、伊予国大三島東端である瀬戸甘崎の海中に位置する島城・海城であり、村上水軍の拠点の一つ。 

 

13世紀の元寇をきっかけとして、海武士の取り締まりから一転、海上交通の取り締まりをする役割を担い経て、南北朝期から戦国期にかけては村上水軍が東から、下って来た船舶を捕捉して積荷を改め、通行を徴収する拠点に至る。 この税を生活の糧とした。

 

この城の最大の特徴として、陸繋島という地理上から潮が引くと島に至るまでの陸路ができ、幾重にも石垣が築かれているが、満潮時には没し、海中縄張りとなった。 

 

数年前から気になっていた、日本には山城が4-5万余もあるが水城・海城は僅か18城郭で、日本三大水城・海城は,高松城(海抜3m)・今治城(海抜10m)・中津城(海抜6m)です。 

 

四つの島の比較です。      形     面積    海抜

モン・サン・ミッシェル    円形    0.97㎢        80m

 ウエブ情報から引用

 

St・マイケル・マウント       円形    0.23㎢       30m

モン・サン・ミッシェルの四分の一

 ウエブ情報から引用

 

 甘崎城            長円    0.01㎢    19m 

モン・サン・ミッシェルの百分の一

 ウエブ情報から引用

 

江の島              三角形   0.38㎢       60m

モン・サン・ミッシェルの三分の一

 ウエブ情報から引用 

素人の推測と課題です。 『なぜ、江ノ島に、城郭は建設されなかったか』、

江の島は南側が相模トラフに続く地形は深く、遠浅とは言えず、大型軍船が近づけることが理由の一つと思われます。

逆に、モン・サン・ミッシェルも、St・マイケル・マウントも、極端な遠浅の海の中にあり、大型軍船は近づけずない。 

 

肝心の飲料水対応ですが、山城・水城・海城も、条件は同じで湧水では間に合わない時は、大甕や大桶で運び上げるか『大甕に雨水溜める』であった。

 

江の島には、湧水『白龍王黄金浄水』と『一遍成就水』がありますが、湧水量は不明です。 この点では城郭建設には有利です。 モン・サン・ミッシェルとSt・マイケル・マウントには、湧水はありません。

 

江ノ島を舞台の『江ノ島合戦』に興味ある記録がウエブ情報にあります。

 

足利成氏は幕府再建がうまくいかなそうだから、鎌倉を出て、江の島から房総方面へ逃げようとした。 あるいはいったん江の島を陣として、鎌倉を実効支配しようとしたのではないか。 江の島合戦という呼称自体が、成氏が『江の島を陣』としたことによるのであり、 江の島で実際の戦闘があったわけではない。 鎌倉御所で戦闘があったわけでもない。 由比ヶ浜、七里ヶ浜、腰越浦で多少の小競り合いがあった。 

 

この江ノ島の陣で、成氏は敵を撤退させている。 素人の自分の描いた、夢見た、構想は、個人的には海が好きですので、この東・西・南が垂直の断崖の天然の要害、海抜60の江ノ島に本丸と天守を構築して、相模湾越しに見える富士山の夕景を眺める。 本土側に二の丸、三の丸、武家屋敷や寺町を囲む、総構えの城郭とする。 江ノ島と本土は、木橋又は土橋(又は沈下橋)で結び、天下布武ができないものかと錯覚していました。 

 

余談です。 織田信長の安土城は、本格的な石垣の山城で、且つ高層天主閣も我が国、城郭史上初めて。 城内の石垣は、麓から水運と陸運で引き出して、急勾配の標高差130m余の安土山へ引き上げています。 この天主閣から琵琶湖のむこうに沈む夕日を眺めていた、天主閣に居住した、ただ一人の武将です。

 

天下布武には、『江ノ島城郭』では無理なことは、やっとわかり判りました。 国土地理院地図の『傾斜量図』の地形を見て、鎌倉との比較ができました。 空中写真も衛星画像もない時代に、鎌倉の市街要塞の縄張りができたものです。

鎌倉の街を三方(北・東・西)の山と、南の海・由比ガ浜で囲んだ鎌倉市街要塞と、要害山城安土城や、堅城大阪城や、巨大江戸城等と、江ノ島の城郭構想では比較にも、なりませんでした。

  

『陸繋島に城郭建設のこと』は、鎌倉時代以降では無理のようです。

 (記事投稿日:2019/08/14、 最終更新日:2024/08/11、#115)

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