知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『ベンガルトラの子育て(インドの森は絶滅回避の最後のとりで)』 ―トラは20世紀初頭10万頭が生息、現在約4,000頭前後に激減―

2021-06-28 22:09:48 | 動物

          『ベンガルトラの子育て(インドの森は絶滅回避の最後のとりで)』

―トラは20世紀初頭10万頭が生息、現在約4,000頭前後に激減―

 

先日(20210628)BSプレミアムの再放送『インドの森・最後のとりで・ベンガルトラの子育て』を見ました。 強そうなトラですが、人間の自然破壊の前には『弱さ』を感じました。 

 

内容はインドの密林に暮らすメスのトラが主人公。 4頭の子どもに恵まれたが(大半の動物の子育てはメスだけで行われます)、天敵から守るため引っ越しを繰り返し、子どもたちが食べ盛りにまで成長すると懸命に狩りをするが、苦戦の連続。 ついに、家畜を狙って人里へ向かってしまう。 人間に捕らえられたら命が危ないが森林局の理解で九死に一生を得ます。 さまざまな試練を乗り越える母親トラの2年を追ったものです。

 

水の惑星・奇跡の星・緑の地球では、今では年間およそ4万種の生物が絶滅しています。 なお、絶滅危惧種は2019年に、28.338種と報告されていました。

 

トラは9亜種

  • ベンガルトラウエブ情報から引用

学名:Panthera tigris tigris

生息地:インド亜大陸(スリランカを除く)

特徴:全体的に赤黄色、または褐色。耳は外側は黒く、白斑があり、内側は白い。 毛は短く、冬でも2cmほどしかない。縞は他の亜種と比較すると少ない。

全長:雄-2.7~3.1m/雌-2.4~2.65m

体重:雄-180~258kg/雌-110~160kg

推定個体数:約2,500

レッドリストの評価:EN(絶滅危惧亜種)

 

  • シベリアトラ(アムールトラ)世界最大ウエブ情報から引用

学名:Panthera tigris altaica 生息地:中国東北部、ロシア沿海地方のアムール川流域(北朝鮮北部にも残存説あり) 特徴:現存ネコ類の中で最大といわれる。冬毛は赤みがかった黄色。夏毛は冬に比べて赤みが強い。 体毛は長く、厚い。

全長:雄―2.7~3.3m/雌-2.4~2.75m

体重:雄-180~306kg/雌-100~167kg

推定個体数:約330~390(成獣のみ)

レッドリストの評価:EN(絶滅危惧亜種)

 

その他の7種、

  • アモイトラ
  • インドシナトラ
  • マレートラ
  • スマトラトラ
  • カスピトラ
  • バリトラ
  • ジャワトラ

 

トラについては、忘れられないエピソードを記憶しています。 『猛獣もし戦わばー史上最強の動物は』というベストセラーが出たころに、ある記者が、上野動物園の初の女性園長『横井光子氏』に、尋ねたそうです。 

 

『トラとライオンが戦ったらどちらが勝つでしょうか』と、園長の答えは『ライオンは草原に、トラ竹林または樹林には棲んでいますので戦うことはありません。 どちらであっても、フェアな戦いはできませんし、戦いません』というような答えであったように記憶しています。 素晴らしいアンサーなので今回、思い出しました。

 

トラについては、『虎の子』の由来・意味を、今回アラ傘寿の手習いで理解しました。 ウエブ情報です。

『「虎の子」という言葉が生まれたのは、虎の習性である子供を思う強い母性から生まれました。  虎は子供を大変かわいがりながら育てるという習性があります。 その母性たるや、ほかの動物の子育てと比べると顕著だそうです。  虎と同類の猫ならば親離れは4ヶ月~6ヶ月ほどですが、虎は2年ほどしてやっと親離れをします。 そのように長い時間をかけて子供をなかなか手放さない虎の習性から、「虎の子」という言葉が生まれました。 「虎の子」の最もよく使われる使い方は、お金を含めた「資産」のたとえです。 手放したくないものとは何かと連想したときの答えが「お金」というのが一般的であるため、「お金」や「貯金」の意味としてもよく使われます。 「虎の子」を宝石や高級時計などの金目になるような物品について指すときもあります。』

 

反面『獅子の子落とし』は、人間がつくった例えのようです。

『獅子は我が子を谷底に投げ落とし、はい上がることが出来た強い子だけを育てる、という迷信から、子供を立派に育てたければ楽をさせてはいけない、苦難の道を歩ませよ、というたとえ』

 

この度は、ライオンよりトラに親近感を覚えました。 これからはなお一層、自然破壊せぬよう心がけます。

            (20210628纏め、#351)

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『「知の巨人・立花隆氏(ジャーナリスト・評論家)」報道に足跡』 ―逼塞感蔓延の世界情勢の中で最悪の日本に、長生きして欲しかった巨人―

2021-06-24 18:38:01 | 読書

『「知の巨人・立花隆氏(ジャーナリスト・評論家)」報道に足跡』

逼塞感蔓延の世界情勢の中で最悪の日本に、長生きして欲しかった巨人―

 

先日(20210624)日経新聞の社会欄からです。

『田中角栄元首相の金脈問題を雑誌で追及して退陣に追い込むなど、戦後ジャーナリズムに大きな足跡を残したジャーナリストで評論家の立花隆氏が4月30日、80歳で死去された。 宇宙や脳死、サル学、歴史など多彩な著作があり、知の巨人として知られ、都内の大型書店には、同日、著書を集めたコーナーを設けて追悼する動きが広がった。

幼い頃に一家で中国に移り住み、敗戦後に過酷な引き上げを体験。 東大仏文科卒業後、文芸春秋社に入社し雑誌記者などを経て、3年余りで退社。 東大哲学科に学士入学し、傍ら週刊誌アンカーマンなどとして活動した。

 

1974年10月、田中元首相を巡る資金の流れと蓄財を綿密に調べ、「田中角栄研究」を発表。田中内閣は2カ月後に総辞職した。 76年に発覚したロッキード事件でも批判を展開し、裁判の傍聴記を発表し続けた。 その後も、政治評論や最先端の科学の著作も多数発表した。

 

今後の読書計画のために、立花隆氏の著書一覧を備忘録に残しました。

1983年に菊池寛賞、1998年に司馬遼太郎賞

 

 「思考の技術」(1971年)

 「中核VS革マル」(75年)

●「田中角栄研究」(76年)

 「日本共産党の研究」(78年)

●「ジャーナリズムを考える旅」(同)

 「農協 巨大な挑戦」(80年)

 「ロッキード裁判傍聴記」(81~85年)

「宇宙からの帰還」(83年)

「脳死」(86年)毎日出版文化賞

「脳死再論」(88年)

「同時代を撃つ 情報ウオッチング」(88~90年)

 「臨死体験」(94年)

●「ぼくはこんな本を読んできた」(95年)

「立花隆の同時代ノート」(97年)

 「21世紀 知の挑戦」(2000年)

 「『言論の自由』VS.『●●●』」(04年)

 「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」(同)

 「天皇と東大 大日本帝国の生と死」(05年)

●「滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか」(06年)

「自分史の書き方」(13年)

 「死はこわくない」(15年)

 「武満徹・音楽創造への旅」(16年)吉田秀和賞

 「『戦争』を語る」(同)

●「知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」

(20年)

とにかく、すぐにでも読みたい『著書』5冊に●マークをしました。

 

最後に余談です。

石原慎太郎氏は、現役時代の政界の田中角栄氏をそれ程、評価はしてなかったように見えましたが、最近は変わってきています。 石原慎太郎著『英雄』を読んで解ったことです。 

 

この本を読んでみたいと思ったのは昔、香港に駐在時に、田中角栄氏が首相になったニュースを聞いた見ず知らずの英国人に、香港と九龍を結ぶ、スターフェリーの船中で、突然、尋ねられました『今度の日本の首相は、Secondary School卒ですね』と、何故か、この後、会話はなくフェリーは九龍埠頭に到着という苦い経験もありました。

 

石原氏は、この本の中で、こう言っています。 『実名で書いていますが、フィクションです』と。 さらに、役人天国を支えている、およそ不合理きわまる単式簿記などと言う会計制度は、国家全体として是正し、一般の企業並みに、発生主義複式簿記に直して、大改革が成し遂げられたのではないかと、田中氏の行動から感じていたようです。

 

繰り返しになりますが、逼塞感蔓延の世界情勢の中で最悪の逼塞感の日本には、立花隆氏のような『知の巨人』の登場を渇望しています。 同時に政治には、作家や一般の人々の声は届きませんので、マスメデイア・マスコミには『傾向・推移を示したデータを付けて』行政に改善・チェンジを挑戦して欲しいと願っています。

(記事投稿日:20210624、#350)

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『ヒトは直立二足歩行になり、進化したこと・負担が増えたこと』 ―なぜ比較すると言われそうですが! 二足歩行のメリット・ディメリットー

2021-06-24 15:19:55 | 人間・人類

『ヒトは直立二足歩行になり、進化したこと・負担が増えたこと』

『「なぜ比較する」と言われそうですが! 二足歩行のメリット・ディメリット』

 

先日の日経広告欄に、

『大腸にやさしいトイレは和式』(これはずっと思い続けていました)、

『大腸には乳酸菌よりビフィズス菌(圧倒的に多い)』

とありました。 友人からアラ傘寿には『過ぎたるは及ばざる万歩プラス散歩』と言われていますが、隔日の『万歩プラス散歩』をやっていますので、毎回、必ず徹底しているのが、途中で『しゃがむ(屈むではない)』2~3回やると、足腰の疲れがすっととれます。 

この『しゃがむ(屈むではない)』体勢から立ち上がった時に、『脳の血が下がった感覚』と『膝関節に酸素が充填された感覚』が分ります。 ヒトは数百万年前まえから、直立二足方向になっていますのでこれを変えることはできませんので、せめてこれと上手く付き合っていくことだと思います。

『腰前弯の直立二足歩行のメリット』はあります。 自分の最大の苦手がゴルフ!『多種類の巨大な耳かき棒で小さなボール(それでも直径42㎜もある)を打つ』ですが、これも『足は逆ハの字で、へっぴり腰で…』、大分改善ができます。 もうひとつ、階段の上り下りは『足は逆ハの字で、へっぴり腰、…』で安全安定です。

今回のキャッチフレイズ『大腸にやさしいトイレは和式』ですが、この中で、こう言っています。 下世話な話になってしまいますが、やはり備忘録に残します。

 

『これまでの研究でスムーズに排便できる座り方が『和式』であることが分かった。 和式スタイルは太古から受け継がれてきた自然な排便方法であり、お腹まわりの筋肉をリラックスさせる効果もある。 うちは洋式だから? ご安心を。 足もとに小さな台を置き、足をのせて上半身を前に倒せば、しゃがんだのと同じ姿勢がつくれる

足もとに小さな台がなくても、スムーズな排便には『上半身を前に倒す』ことは、自然にやってきていました。 これはヒトには頚椎の前彎、胸椎の後彎、腰椎の前彎がありこれを生理的彎曲と言います。 実は、ヒト以外の動物ではこのような構造をとっておらず、腰椎の前彎はヒトにみられる解剖学的な特徴と言われています。

ウエブ情報から引用

直立二足歩行について、ウィキペディア情報から引用です。

『二足歩行(Bipedal Locomotion)とは、一部の動物にみられる2本の足でその体を支え、重心を前に移動させて前進する歩行様式で、ヒトのほか、かつての恐竜さらに現生動物としては鳥類に二足歩行はみられる。特にヒトの歩き方は、体軸が垂直に立っている、下肢が直線状に伸びている、など他の動物と異なっているので、直立二足歩行と呼んで区別することがある。』

 

直立二足歩行のメリット

  • 頭部が直立した胴体の直上に位置することにより、その体躯に比して巨大な頭部を支えることが可能になった。 ヒトの体重に比しての頭部の重量は、全動物中でも最も大きい。そして時として、その頭部のさらに上に重量物を載せて運ぶことも可能なほどの余裕がある。 結果として、ヒトは体重に比して巨大な脳容積を得ることができ、全動物中最も高い知能を得た。
  • 前脚=腕が歩行から解放されたことにより、重量物の持ち運びが容易になった。そして、非直立の二足歩行を行う動物(恐竜など)と比べても、体躯に比して大きな腕を持ち、重量物の運搬能力が高い。 さらには、投擲という他の動物にはない能力を得た。

人が、参加しても、見ても楽しめるスポーツが。この二大メリットがあるからですが、争い・戦いが拡大した。

 

直立二足歩行のディメリット 

  • 重力の関係上、痔、胃下垂、ヘルニアなどの疾患に罹患しやすい。ヒト以外の動物はこれらの病気になることは極めて稀である。
  • ほとんどの姿勢で頭部が安定しているため、首が細く弱い。
  • 重い頭部が高い位置にあるため、バランスが悪く、転倒すると危険である。特に、後ろに倒れると、急所である後頭部を打つ危険が高い。
  • 喉、心臓、腹部、股間等の急所が多い胴部前面を常に晒してしまう。
  • 内臓を保持するために骨盤底を発達させる必要がある。そのため出産に困難がともない、胎児が小さく未熟な状態で出産しなければならない。
  • 四足歩行と比べて、高度な身体能力が求められるため、習得するのに長期間の身体の成熟と訓練を必要とする。 個体差もあるが、直立二足歩行を行うには生まれてから1年程度の時間を要するため、それができるまでは四足歩行(這い歩き/これも個体差があるが、生後半年ほどで可能になる)を余儀なくされる。

直立二足歩行についてのメリットはまだまだ沢山ありますが、結構ロマンチックandセクシャルな内容でもありますので次回の課題にします。

(記事投稿日:2021/06/24、最終更新日:2024/05/23、#349)

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『新大陸・アメリカ大陸の最古のプレ・インカのベンタロン遺跡』 ―城壁・塔がなく、戦争がなく、1000年以上、富の奪い合いなし―

2021-06-22 14:29:56 | 歴史・世界

 新大陸・アメリカ大陸の最古のプレ・インカのベンタロン遺跡

ー城壁・塔がなく、戦争がなく、1000年以上富の奪い合いなし―

 

ベンタロン遺跡は、ペルー北部チクラーヨの郊外にある約5000~4000年前のプレ・インカの寺院跡。 モチェ文化のシンパンからは約20kmの所に位置する。遺跡の大きさは約2,500平方メートルあり、近くの川の泥より作られたアドベ(日干し煉瓦)によって建てられている。 この遺跡、古さではエジプトの大ピラミッドに相当するが、この遺跡の完成度・進化度の差は『年間の水位差10ⅿ前後の大河川の近くに、定住農耕で相当の人口を維持できたか』であったか、どうかに拠ると思っています。

ベンタロン遺跡の外観(2016年) ウキペデイア情報から引用

 

2007年に黒鹿が網にかかっている様子が描かれた壁画が発見されている。 この寺院より見つかった彩色壁画は、放射線炭素年代測定により約4000年前のものであることが判明しており、アメリカ大陸でも最も古い遺跡の一つに数えられている。

遺跡の彩色壁画。2017年の火災で焼失した可能性 ウキペデイア情報から引用

 

この大寺院を中心とした部族集落の周辺には、スーペ川沿いにカラル、アスペロ、ピョータン等20以上の遺跡がある。 エジプトのように、大ピラミッドの建設ができるような帝国、に統一されなかったのは。 繰り返しになりますが、『年間の水位差10ⅿ前後の大河川の近くに、定住農耕で相当の人口を維持するための数学・天文学の発達』に差があったためではないでしょうか。

 

大ピラミッドを建設したエジプト文明と『アステカ文明、マヤ文明、プレ・インカ文明(アンデス文明=プレ・インカ文明+インカ文明)』の比較は、今後も興味津々です。

 

今回の、1000年以上続いたベンタロン文明の衰退も『エルニーニョによる天候異変、部族間戦争、疫病、その他』か、いまだ解明せれておりません。 戦争もせず、交易で栄えたプレ・インカ文明は、人知も及ばぬ『異常気象』で滅んだのかと思うと、異常気象は『当時は天災』、『今は人災』などと考えてしまいます。

              (20210622纏め、#348)

 戦争がなく、1000年以上、富の奪い合いなし―

ベンタロン遺跡は、ペルー北部チクラーヨの郊外にある約5000~4000年前のプレ・インカの寺院跡。 モチェ文化のシンパンからは約20kmの所に位置する。遺跡の大きさは約2,500平方メートルあり、近くの川の泥より作られたアドベ(日干し煉瓦)によって建てられている。 この遺跡、古さではエジプトの大ピラミッドに相当するが、この遺跡の完成度・進化度の差は『年間の水位差10ⅿ前後の大河川の近くに、定住農耕で相当の人口を維持できた』であったか、どうかと思っています。

ベンタロン遺跡の外観(2016年) ウキペデイア情報から引用

 

2007年に黒鹿が網にかかっている様子が描かれた壁画が発見されている。 この寺院より見つかった彩色壁画は、放射線炭素年代測定により約4000年前のものであることが判明しており、アメリカ大陸でも最も古い遺跡の一つに数えられている。

遺跡の彩色壁画。2017年の火災で焼失した可能性 ウキペデイア情報から引用

 

この大寺院を中心とした部族集落の周辺には、スーペ川沿いにカラル、アスペロ、ピョータン等20以上の遺跡がある。 エジプトのように、大ピラミッドの建設ができるような帝国、に統一されなかったのは。 繰り返しになりますが、『年間の水位差10ⅿ前後の大河川の近くに、定住農耕で相当の人口を維持するための数学・天文学の発達』に差があったためではないでしょうか。

 

大ピラミッドを建設したエジプト文明と『アステカ文明、マヤ文明、プレ・インカ文明(アンデス文明=プレ・インカ文明+インカ文明)』の比較は、今後も興味津々です。

 

今回の、1000年以上続いたベンタロン文明の衰退も『エルニーニョによる天候異変、部族間戦争、疫病、その他』か、いまだ解明せれておりません。 戦争もせず、交易で栄えたプレ・インカ文明は、人知も及ばぬ『異常気象』で滅んだのかと思うと、異常気象は『当時は天災』、『今は人災』などと考えてしまいます。

              (20210622纏め、#348)

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『水墨画で著名な絵師といえば雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』―狩野派が室町~江戸約400年の作品が国宝4点・重文37点に比べ凄い雪舟―

2021-06-22 13:55:35 | 絵画

『水墨画で著名な絵師・雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』

『不器用・遅咲きの画聖雪舟の作品総数は36点と少ない』

   『狩野派が室町~江戸約400年の作品が国宝4点・重文37点に比べ凄い雪舟』

 

狩野派の内訳は、

    狩野正信 国宝1点、重文 7点

    狩野元信      重文16点

    狩野永徳 国宝3点、重文 3点

    狩野山楽      重文11点

 

とにかく孤高の雪舟、狩野派集団、どちらも凄い。 日本は、日本人は凄い中で雪舟は群を抜く。 雪舟は『万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチに比肩される画聖雪舟等楊、日本美術史の草創期に唐絵からやまと絵へという画期を形成した時代を見直し、近世への幕開けを準備した』と言われています。

 

雪舟は相国寺で画僧を目指す

相国寺は京都五山の第二位に列せられている。 相国寺は五山文学の中心地であり、雪舟は、室町時代に京都の相国寺で修行した禅僧で水墨画を学び画僧となる。 大名の大内氏について周防国(現在の山口県)に移り明へ2年間の留学をする。 帰国後は現在の中国地方~九州で活躍し、絵のほかに築庭なども手掛けた。 水墨画作品も比較的多く残っており、6点が国宝に指定され、これは画家の中では点数が一番多い。

 

『絹本著色雪舟自画像(模本)』

ウキペディア情報から引用

雪舟は、教科書にも載っているので、日本人ならその名前を一度は聞いたことがあると思いますが、元祖国際派映画スター、早川雪舟の方が、ずっと馴染み深い。 そんな画僧・雪舟ですが、その人生は意外と知られていません。

 

「雪舟」は号で、諱(いみな・本名)は「等楊(とうよう)」は15-16世紀の日本画家ですが、『遣明使』で中国に2年留学、中国画家・李在より中国の画法を学んだ。 中国絵画にも遠近表現はあり、北宋の画家・郭煕(かくき)はそれを「三遠の法」といった。 「三遠」とは高遠(仰角視)、平遠(水平視)、深遠(俯瞰視)の3つをいうが、中国の山水画では、近景の岩は俯瞰視、遠景の山は仰角視で描くなど同じ1枚の絵の中に複数の異なった視点が共存することが珍しくない。 

 

余談ですが、蜀の軍師・諸葛亮孔明は『天を仰げば、天文を』、『水平に見れば人文を』、『俯瞰すれば地理が』がわかると言ったそうです。

 

雪舟の神格化

雪舟の神格化は江戸時代から始まった。 当時画壇を支配していた狩野派が雪舟を師と仰ぎ、ゆえに諸大名が雪舟の作品を求めたからであるとされる。 そのために以後「雪舟作」と号する作品が急激に増えたと言われる。 雪舟の人気を反映して、『祇園祭礼信仰記』のような作品が上演された。 日本文化の一つを生んだ雪舟は、今や日本を代表する歴史人物の一人となっている。

 

『遣明使』、留学僧・雪舟はなぜか2年で帰国

遣隋使や遣唐使の留学僧の十数年と違って、船は大型化され勘合貿易も頻繁になり渡航しやすくなったせいか、『遣明使』の留学僧も明国滞在期間は比較的短かったようです。遣唐使・最澄と留学僧・空海は、最澄が2年程度の短期留学、空海が20年の長期留学を朝廷から命じられていたが、最澄は実質6カ月ほど、空海は二年余の唐滞在でした。 特に、この二人は、朝廷の『引き?・コネ』があったようです。

 

ここにある『遣明使』ですが、不勉強で、遣隋使と遣唐使しか、今まで知らず、お恥ずかしき次第です。 『室町時代の幕府が明に派遣した。 応永11年(1404年)から天文16年(1547年)まで約1世紀半で17次(のべ84隻)。 のち、倭寇(わこう)が盛んになるに及んで廃止。』

 

雪舟の師・李在(りざい)

生没年未詳。中国、明代前期の画家。字は以政。 莆田(ほでん)(福建省)の人。 雪舟に影響を与えた画家として有名。 宣徳(1426~1435)のとき、戴進、謝環、石鋭、周文靖とともに仁智殿で画院画家として活躍した。 郭煕、馬遠、夏珪を学んだといわれるが、その筆触荒々しく墨面も重い画風は、同時期の戴進から強い影響を受けているものと思われる。 代表作は『山水画』(東京国立博物館)、『雪景山水図』(京都、個人蔵)。

 

雪舟の築庭

オールラウンダー雪舟は、「常栄寺」の「雪舟庭」他、国内で複数箇所の築庭に携わっており、中でも常栄寺、医光寺(島根県益田市)、萬福寺(同)、旧亀石坊庭園(福岡県添田町英彦山)の庭園は「雪舟四大庭園」と言われています。

ウキペディア情報から引用

禅昌寺のだるま(有名な雪舟の筆とされる達磨の図)

ウキペデイア情報から引用

暫くは、雪舟等楊と『遣明使』を調べるため・知るために国会図書館通いが、続きそうです。

(記事投稿日:2021/04/16、最終更新日:2023/07/23、#317)

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