知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『古代は凄い・古代人は凄い 1(ストーンヘンジ 2)』—ストーンサークル・環状列石を見ると古今東西、人間の考え方は、同じ様で―

2021-12-31 08:35:26 | 歴史・世界

『古代は凄い・古代人は凄い 1(ストーンヘンジ 2)』

『ストーンサークル・環状列石を見ると古今東西、人間の考え方は、同じ様で』
 

  タイトル通りでした『古代は凄い・古代人は凄い』! 英国最古のストーンサークル(環状列石)・『ストーンズ・オブ・ステネス』と『ストーンヘンジ』の凄いことを調べて再確認しました。 引き鉄になったのは、ストーンヘンジについて、20200205 NHKBSプレミアムで再放映されました奇跡の巨石文明!ストーンヘンジ七不思議』、サブタイトルは、『奇跡の巨石文明に挑む、新発見&新知見が続々解明!驚異の建築技術絶景!世界遺産の秘密人類究極のミステリー』と、かなりセンセーショナルでした。
 
 ストーンサークルで、最も有名なものは、英国の「ストーンヘンジ」です。 およそ4,500年前から4,000年前の間に建てられたものです。 巨大な石が馬蹄形に配列されていますが、氏族や部族のまとまりを保つために行われる儀礼・祭典のために造られたといわれています。 もう一つ、造られた理由があります。 『古代は凄い・古代人は凄い 1(ストーンヘンジ 1)』に書きました。

 世界中の多くの古代遺跡が太陽や月の運行と関係を持っている。 それは間違いないが、ストーンヘンジはその初期から長期にわたって、基本的には死者の埋葬地であった。 さらに、これで『暦を作って、毎年の農業用、雨の時期を予知し役立て、且つ権力を握る手立てとした。 墓は二次的か』。

ストーンヘンジ全景  

ウエブ情報から引用

 

ストーンヘンジ夕景

 ウエブ情報から引用 

 

ストーンヘンジ近景

 ウエブ情報から引用


 このトップの水平石と、それを支える垂直石は、凹凸(突起とダボ穴)で、ずれ落ちないように工夫(木工技術)されています。 新石器時代に、これだけの木工技術があったことは、英国が針葉樹林の巨木で覆われる国であった証拠です。 住宅建築と造船に伐採され、針葉樹林、今は殆ど残っていません。

 ストーンヘンジに、先行して、巨石文明の原点のストーンサークルは、英国には1,000個以上あり、ストーンヘンジより遥か前に完成したストーンサークルがあります。 それが「オークニー諸島の新石器時代遺跡中心地」にある『ストーンズ・オブ・ステネス』です。

 この『ストーンズ・オブ・ステネス』は、12本の立石から成る遺跡です。 これは直径44mの環状列石の一部と考えられています。 石の大きさは最大で6m、およそ5,000年前に造られたそれはスコットランドの離島にあります。 

 この斬新なデザインですが、5,000年の時空を超えて、箱根の森の美術館に置かれても全く違和感はなさそうです。 これは100年ほどで完成していますが、これに対して、ストーンヘンジは、ウエブ情報によれば、ストーンヘンジの複合体は2,000年間に渡る数段階に分けて建設されたが、その前と後の期間にも活動があった証拠もあると。 ストーンヘンジは、そのネーミングからも、けた外れの工期からも、1,000個以上あるストーンサークルの中ではユニークな存在です。

 ストーンヘンジの語源は古英語で石を意味する “sta-n” と、蝶番を意味する “hencg”(横石が縦石に蝶番のように積んであるから)もしくは絞首台または拷問具を意味する “hen(c)en” から来ているとされる。

『ストーンズ・オブ・ステネス』も、工期は100年以上をかけていますが、別格なのは、ストーンヘンジです。 補修・小改造をカウントしなくても少なくても500年以上かかっています。  昔から不思議に思っていた、欧州の大きな教会の建築に、1,000年以上かけることも、やっと解りました。

ストーンズ・オブ・ステネス

ウエブ情報から引用

 

ウエブ情報から引用

 

 ところで、日本ではもっと古く、6,000年前頃から、3,000年前には頻繁に作られていたといわストーンサークルが各地に存在します。 その数178ヵ所。しかもその約4割(74ヵ所)が東北の秋田県で見つかっているのです。 なぜ、ここ秋田にこんなにたくさんあるのでしょうか? またここで何をしていたのでしょうか。 古い昔のことにはロマンがあります。

大湯環状列石

ウエブ情報から引用

 これらのストーンサークル・環状列石を見ると、古今東西、人間の考え方は、同一であったようです。 これらのストーンサークルは一種の天文台のように、太陽を用いたカレンダーの機能を果たし、そこで祭祀儀礼が行われること。

 日本の場合は、日時計状組石が各ストーンサークルに作られ、各サークルの日時計状組石を結んだ方向、あるいは日時計状組石からストーンサークルの中心を結ぶ方向は、ほぼ“夏至の日没方向”を指していました。この事からこの施設では、季節の移り変わりを確認していたといわれます。

 イギリスの場合、ストーンズ・オブ・ステネスは、中心には何かの儀式に用いられていたセントラル・ストーンがあり、空に向かって直立する一枚岩は神々しく聳え訪れる人を魅了しています。太陽信仰の頂点にあって新石器時代の数千年続いた古代ブリトン人が、築いた巨石文明は、ストーンヘンジを最後に、イギリスの巨石文明は終焉しています。 この終焉の引き金は、この文明を築き維持してきた古代ブリトン人の滅亡です。 約4,000年前に、古代ブリトン人は、❶大陸からの銅器(のちには青銅器)扱うビーカー人の襲来で滅びた。 又は❷大陸からの疫病説もあります

 新石器時代にブリテンに入ってきて、定住した古代ブリトン人のDNAは、現在の英国人であるケルト人(ビーカー人)に、ほとんど遺伝・混血してないと言われる。 理由は上記二つの、どちらからか、又は両方で、『根絶やし』にされたようです。 人種的には古代ブリトンは滅び、ビーカー人(ケルト人)が残ったのに、古代ブリトン人が語源のブリテン・ブリティッシュが今も使われています。

さて、日本の場合ですがウエブ情報です
縄文人は1万年以上の永い年月をかけて、他の地域から移動して来た異なる人種、民族が混じって形成されていきました。 そのため東アジアのみならず、インドや東南アジア、アフリカ人の遺伝的形質がみられます。 
華北は、現在の黄河流域の位置する五つの省と首都北京や天津がある地域です。ところがその後、中国の主たる漢民族の支配権力に耐えられなくなり、彼らは日本列島に逃れて来ました。彼らが「縄文人」として「縄文時代」をつくっていきます。

弥生人は『約5000年前に、北方のシベリアのバイカル湖近辺に住んでいた日本人の祖先が、東アジアの方面に下ってきました。 やがてその人々は、今の中国の華北地域に住み着きました。 
やがて年月は経過して、中国の長江流域で水田をつくり、米を育てて暮らしていた日本人の祖先が、やはり漢民族からの圧政に壊滅的打撃を受けて、日本列島にやって来ました。今の九州地方から日本列島に入り込み、彼ら「弥生人」による「弥生時代」が始まります。

縄文人も弥生人もルーツは同じで、日本への渡来時期が数千年の時間差があり、
縄文人は弥生人とゆっくりと共存・混血した。 弥生人には縄文人のDNAがかなり残っているようです。 古代ブリトン人の急な滅亡とは異なるようです。 一部の縄文人は南に移住して沖縄人に、一部は北に移住してアイヌ人になったと言われています。

日本も英国も、島国です。 このDNAの違いを、興味津々の縄文時代・弥生時代・古墳時代で、もう少し調べてみようと思っています。     

(記事投稿日:2020/02/18、#145)

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『世界の城郭 13(中世の西洋の城郭・城壁 vs日本の城郭・詰め城)』『生死観の違いか、西洋の堅固城壁は自殺できず、最後まで戦う堅固な造作』

2021-12-23 10:49:47 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 13(中世の西洋の城郭・城壁 vs日本の城郭・詰め城) 

『生死観の違いか、西洋の堅固城壁は自殺できず、最後まで戦う堅固な造作』

日本の城には最後には、降伏せず、自決するための詰城や、天守閣に造作』

 

半世紀も前に、インターハイの蒜山三山の登山大会の後に、立ち寄った島根県松江市の松江城の天守閣の、最上階への桐の階段が『いざという時に取り外して、最上階に持ち上げ、下の階から敵が侵入できない』ような仕掛けとガイドの方から説明頂きました。 理由は心落ち着いて自決するためと。 

 

この桐の階段には、いろいろ説がありますが、自分は半世紀前のガイドの方のご説明が、最も信憑性があると、今でも、信じています

 

その時以来、城マニアになり、最近は、行く先々(国内外問わず)で城を見学しています。 当時は(今は、一部ですが)モーレツ社員の時代で、仕事最優先でしたので、なかなか、その土地の城への立ち寄りできませんでした。 

 

先ず、驚くのは島国日本の城の数、主には山城でですが、全体で、2万5千以上あったと言われています。 これほどの城・城跡・城址が高密度にあった国は世界にも類をみないと思います。

 

今迄、ずっと気にかかっていた、西洋の城郭と日本の城郭の比較ですが、複合・複雑な要因(地理・地形・築城材料・武器・機動力・宗教観・死生観・その他)とは思いますが、やはり、宗教観・死生観が最大の要因かと思っています。

 

西洋では、古代から中世まで発達し続けた、攻城兵器と重装・軽装騎兵が城郭をを山上に押し上げ、城壁を高く・厚くしました。 この攻城兵器と重装騎兵をあまり当てにしなかったのはモンゴル軍です。 今回のテーマからは外れ、余談ですが、モンゴル軍が最強であった要因は;

  • 食料が豊富、羊・ヤギ・乳製品
  • 最強の騎兵、軽騎兵(ヨーロッパの重装騎兵は歯が立たず)
  • 火薬を使用、(ルネサンスの3大発明の1つ、火薬の発明は間違い)
  • 兵士への褒賞
  • 情報収集
  • 残虐性  と言われています。

 

 

 

 

古代ローマの攻城兵器

ウエブ情報から引用

 

中世ヨーロッパの攻城兵器、投石器

ウエブ情報から引用

 

中国明時代の攻城兵器

ウエブ情報から引用

 

ヨーロッパの堅城

コカ城・スペイン

ウエブ情報から引用

スペインカスティーリャイレオン州セゴビア県コカにある城です。 この城はゴシック=ムデハル様式という、アラビア系の様式に基づいて建築されているようです。 重装騎兵、弩、小銃では攻め落とせません。

 

サンレオ城・イタリア

ウエブ情報から引用

イタリアエミリア=ロマーニャリミニ県サンレオにある城です。 この城は、アニメ『ルパン三世カリオストロの城』のモデルになった城だと言われています。  その上、『世界の名城25選』に選ばれるなど、人気ランキングでは上位に食い込む城のようです。 ここも同様に、重装騎兵、弩、小銃では攻め落とせません。

 

日本の堅城(攻城兵器はないが、山上に城を、詰の城もあった) 

岐阜城

ウエブ情報から引用

もとは稲葉山城と言い、鎌倉時代以来の歴史があり、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三の時期だと考えられ、織田信長が1567年の斎藤龍興から奪取し、本拠地を小牧山から当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城。『信長公記』に『尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越し、岐阜と名付けさせられ』と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれることになった。

「天空の城」となった岐阜城、朝日を浴び、雲海に包み込まれた=岐阜市の百々ケ峰から望む。

ウエブ情報から引用

近年の調査によりこの城の価値が見直されるようになり、2011年(平成23年)に岐阜城跡つまり山頂の城の城跡および山麓の織田信長公居館跡を含めた金華山一帯の約209haが国の史跡に指定された。 その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。

 

日本の堅城(日本独特の詰め城を持つ城)

詰め城『守護や戦国大名が領国内に設けた戦時の最後の拠点となる山城・ 敵方に包囲された城の最後の砦』

 

  • 甲斐国、武田氏三代の詰城『要害山城』、躑躅ヶ崎館の詰城として築かれた山城。
  • 伊勢国、霧山城、北畠氏は平常時は多気御所に住み、霧山城は詰め城として使用。
  • 会津若松、小田山城は会津若松城を見下ろす詰城。
  • 伊豆、守山城跡、堀越御所の詰城として築城され、其の後は小田原北条氏、豊臣軍が利用。
  • 能登国、籠城山城(どんじょ山、道場山)、畠山氏七尾城の詰め城(籠城用山城)が結合した巨城。
  • 南勢、多芸御所、(多芸御所・詰の城・霧山城)の3城を含めて多気城ともよばれる。
  • 諏訪、高原諏訪城、 江馬下館の詰の城。
  • 近江国、三岳城、井伊谷城の詰の城。
  • 上野、平井金山城、平井城の詰の城。
  • 大和、高取城、筒井順慶が大和郡山城の詰の城として復興。

 

中世の西洋の城郭・城壁を見るにつけ、日本の城郭と支城ネットワークワと、その先進性に驚きます。 

 

今後の比較調査のために次の備忘録を付けました。

日本の城の『反りのある石垣』『反りのない石垣』を、なんとなくボーっと見ていました。 西洋の城には『日本の城の石垣』のような風景が、ほとんど見られません。 

 

雪景色を撮りに出かけると、いつも運よく『一期一会』があります。 数年前の冬の桜田門で、240万円のライカ中判デジカメを大事そうに持ったドイツの方に。 この方『唐破風』をご存じの『日本の城郭』オタクでした。 この機会には『西洋の城郭vs日本の城郭』について、話すほどの知識を自分が持ってなく、残念至極でした。

 

日本ではなぜ攻城兵器が発展しなかったのでしょうか。
西洋や中東では特に、各種攻城兵器が発達、使用されていました。 モンゴル遠征軍は投石機、攻城塔等をしようしています。 日本には、2万5千以上の城がありましたがほとんどが、山城と平山城でしたので攻城戦は、力攻めか、調略か、兵糧攻めとなっています。

 

先ずウエブ情報です。

積み方による分類

石垣の積み方は、布積と乱積の2つに大きく分けられる。 石垣最上部の天端(てんば)が垂直になった箇所を雨落とし(あめおとし)といい、雨落としの下に反りがあるものを「寺勾配」(寺院屋根が由来)雨落としが浅い・無いものを「宮勾配・扇の勾配」という。 この日本の石垣と西洋の城壁の構造と縄張り・造作が大きく異なります。

 

攻城戦で考えられる4つのパターン、

敵の城を攻めるといっても、その時の状況によって方法は、かなり違っています。 大別すれば『力攻め』、『持久戦』、『奇襲』、『自落』に分けられる。

 

まず『力攻め』は文字通り、城を囲み四方から攻め立てることです。 攻め手に圧倒的な戦力がある場合や、どうしても急いで城を落とさねばならない時に用いられます。 しかし味方にも損害が多く出ることがあり、悲惨な攻城戦になることが多いですね。

 

『持久戦』は豊臣秀吉の代名詞といえる作戦であり、兵糧攻めとも呼ばれますね。 長期にわたって城を包囲して水や食糧を尽きさせます。 敵が音を上げて降伏する、または弱り切ったところを見計らって攻撃を掛けるのです。 この戦法なら味方の損害はありません。

 

『奇襲』は、攻城戦において稀に見られるもので、敵が油断したところを見計らって奇襲を掛け、そのまま城を奪い取ってしまうものです。

 

『自落』は、攻め手が圧倒的多数のために城兵の士気が下がり、何もせずに逃亡してしまうことです。 攻城戦というわけではありませんが、戦国時代に最も多く見られたパターンかも知れません。

 

大坂冬の陣では徳川型の砲撃により和議となっておりますし、会津戦争では小田山からのアームストロング砲2800発の砲撃で『打つ手無し』まで追い込まれ降伏開城に至っています。

攻城兵器と砲撃とでは比較は難しいかもしれませんが、なぜ日本には攻城兵器はほとんどなかったようです。 逆に、攻城兵器の発達した国や地域では山間部が無い訳ではありませんが、お城がある(とくに大規模な)のはもっぱら平野ですし、大規模ともなると高い城壁に囲まれた城郭都市です。

石材を活用する文化圏です。 木柵の簡便な陣地や砦もあったでしょうが、特に、拠点防衛とか重要な役割があると、規模の大小を問わず石材で構築です。石材ですから、簡単に破壊するのも大変ですから、カタパルトや、バリスタ(据え置き式の大型弩砲)で、少しづつ破壊していく。 城の作り方が変遷するなかで、投擲タイプの攻城兵器も同時に発達。 やがて、カタパルトやバリスタの代わりに、火砲が発達して攻城砲が登場します。


投擲兵器・破城槌で破壊が容易でも無い、厚く高い城壁をもつ様な城や、城塞都市であれば、破壊しての侵入が困難であるので、直接に乗り込める方法破壊攻城棟(攻城車)、あるいは雲梯の登場です。

 

カタパルトや、破城槌、攻城棟は、今見ても、割と大きいサイズ、当時だと巨大兵器であり、さらに重たい兵器です、バリスタも強力になるほど大きく重たい、携行出来る兵器では無い固定砲台の様なモノです。

 

この様な兵器は、運用する場所が限られるでしょうけど、攻め入る側の敵は、巨大で大きな城、城郭都市ほど平野部にあるから、出番は十分にあります。
逆に、丘どころか、急峻な山に城があると、巨大な攻城兵器は持ち出しは難しく、山道を攻城棟を移動は厳しい、敵方が高所にいるほど、投擲タイプの兵器の射程や威力には制限もでる。

日本は、山がちな国です。 そして、日本のお城の始祖・基本系は、山城です。 地の利を考えて、活かしているお城ですし、難しいことを考えずとも、自然を上手く利用すると形で、自然発生的に山城となっていったのでしょう。 戦国期の前半(あるいは、中盤あたり)までは、城攻めと言えば、山城を攻めるというパターンです。

攻城兵器は、山間部における山城の戦いにおいては、有用な兵器では無いと見なされたかもしれませんし、そのまま、日の目を見ないままで、攻城兵器が発展することも無かった。

一方で、戦国期も後半ともなると、生活や物流の変化もあり、集落というよりも、町、都市が出来上がり、平野に平城が出来る、あるいは、平野部の小高い丘や山に、平山城という変化をしてきます。


各種の攻城兵器の登場や発展がなかったのは、既に、火砲が登場と発達をしているので、旧来の攻城兵器の出番が無かったとも言えるかもしれません。 その後は、徳川幕府の平和時代となり、兵器の発達が事実上止まる事になり、銃や火砲の進化はとまり、当然、出番の無かった攻城兵器も、出番の無いままに終わりました。 

 

この長い徳川幕府の平和な時代が明治以降にどんな影響を与えて、現代にいたっているか、近代史・現代史の勉強はこれからです。

(記事投稿日:2021/12/23、#449)

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『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ 8』『ロードハウ島のロードハウクイナ、自然絶壁が守った最後の20羽』

2021-12-22 11:54:52 | 地球・火山・地震・津波

『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ 8』

        『豚が卵を食べ、ロードハウ島のロードハウクイナを絶滅危惧種に』

         『豚持ち込んだ人間、豚の数減らしも人間が、だが絶滅危惧種に』

        『ロードハウ島のロードハウクイナ、自然絶壁が守った最後の20羽』

 

シドニーの北東700kmの海に浮かぶロードハウ諸島。 700万年前に海底火山の噴火で誕生した絶海の孤島は、独自の進化を遂げた固有種の宝庫です。 島には、恐竜時代から姿を変えないシダが生い茂る太古の森が残り、海には、南極に最も近いサンゴ礁も広がります。 中でも一番の特徴は、垂直の絶壁がそそり立っていること。 

 

このロードハウ島は昔の海男・山男の二刀流にはたまらない島で、スキューバ&シュノーケリング • ボートツアー(ボートピクニック)と水上スキー、その上に、洋上の岩山(トランジットヒル)のロッククライミングや登山が楽しめます。

 

ロードハウ島と位置

ウエブ情報から引用

 ウエブ情報から引用

ロードハウ諸島には、南極に一番近いサンゴ礁が広がります。 そこには、本来サンゴ礁の海には生息しないシマアジなどの温帯の魚が泳いでいます。 熱帯と温帯、2つの違う世界の生物が同居しているヒミツは、海流にありました。

 

ロードハウクイナ

ウエブ情報から引用

『形態』

全長32 - 42センチメートル。 オスの方がやや大型になる。 全身の羽色は緑褐色。

 

『生態』

標高825メートルの山地の頂上周辺の森林に生息する。 以前はロードハウ島全域に生息していたと推定されている。 飛翔する事はできない。 危険を感じると走行して逃げる。 甲殻類、陸棲の貝類、ミミズ、鳥類の卵、花、果実、地衣類、キノコなどを食べる。

 

『人間との関係』

人為的に移入されたブタ・ヤギによる生息地の破壊、人為的に移入されたイヌ・ネコ・ブタによる捕食などにより生息数は減少した。 保護対策により2013年現在の生息数は安定傾向にあると考えられている。 近年ではネズミ駆除用に人為的に移入されたオオメンフクロウによる卵や雛の捕食、交通事故死、水槽での溺死、感染症、自然災害による影響が懸念されている。 1980年からブタの駆除、飼育下繁殖させた個体を低地へ再導入する保護対策が進められている。 1980年における生息数は約30羽と推定されている。 2002年における生息数は220 - 230羽と推定されている。

 

『絶壁が守った最後の20羽』

天敵がいない島で飛ぶことをやめた鳥“ロードハウクイナ”。 19世紀に人間が入植すると、持ち込まれたブタが卵を食べつくし激減しました。 しかし、島で最も標高の高いガウアー山の絶壁がブタの侵入を拒み、山頂で僅か20羽が生き延びたのです。

 

それほど大きくない島の、それほど数が多くない生態系も、人間は、いとも簡単に破壊するが、最後に守るのは自然でした。

(記事投稿日:2021/12/22、#448)

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『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ 6』 『永久に残したい、似た風景、中国の九塞溝とメキシコのアグアアスール』

2021-12-18 19:59:08 | 地球・火山・地震・津波

『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ 6』

『永久に残したい、似た風景、中国の九塞溝とメキシコのアグアアスール』

『所変われば品変わる』と言われますが、『中国の九塞溝』は、名称で.色には全く触れておりませんが、『メキシコのアグアアスール』はずばり『蒼い水』です。 『青い』と『蒼い』の違いですが、次の通りウエブ情報にありました。

『「青」は一般的な青、「蒼」は深い青、「碧」は浅い青という使い分けがあります。 ただ青天が、蒼天や碧空とも言われるように混用される場合もあります。  ちなみに現代中国語では、「青」色を作り出す染料の名前だった「藍」が一般的な青を表すようになり、「青」は熟語や文語でしか、使われなくなっています。  やはり蒼のほうが深い色をさすようです。』

ビジネスの世界では、当然、色サンプルが必要になります。 日本語は『表意文字の漢字、表音文字のひらがな・カタカナ、さらにローマ字と豊かな言語です。 文学・詩歌には、ぴったりのようです。

中国の九塞溝

ウエブ情報から引用

チベット人など少数民族の居住地としても知られ、「九寨溝」の名もチベット人の村(山寨)が9つある谷であることから付けられたものである。 九寨溝を強く印象付けるもののひとつに、独特の青い水があげられる。 白い砂地の場所に少しの水が流れている状態でも水は僅かに青く見える。 この『青い水』の理由は水中に溶け込んでいる石灰分(炭酸カルシュウム)の影響や、湖底の苔、水深、光の屈折率などによるもの。

メキシコのアグアアス-ル

ウエブ情報から引用

メキシコ、パレンケの近くに熱帯雨林の中にある滝、アグアアスール、サンクリストバルからパレンケへ向かう山道の途中にアグア・アスール(蒼い水)と呼ばれる観光地がある。 周辺地域は、石灰岩になっており階段のようにできた小さな池が、いくつかあり水が流れて、滝ができている所。 石灰を多く含んだ水によって棚田のような景観を作っており、丁度中国の九寨溝のミニチュア版のよう。

(記事投稿日:2021/12/18、#447) 

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『歴史のこと 丸暗記をやめたら、世界史と日本史に興味が‼』 『昔、高校の歴史教科書には、とっつきにくく、部厚い参考書へ』

2021-12-17 16:00:07 | 読書

『歴史のこと 丸暗記をやめたら、世界史と日本史に興味が‼』

昔、高校の歴史の教科書にはとっつき難く、部厚い参考書へ』

先日(2021/11/21)日経新聞の文化欄に、タイトルは『岩波「世界歴史」同時代を見通す・四半世紀ぶり 地域結ぶ視点』と見出しは『岩波書店の大型企画「岩波講座 世界の歴史」(全24巻)の刊行(第3次)が四半世紀ぶりに始まった。 地域ごとの通史ではなく各地域をつなぐ「グローバル・ヒストリー」を重視した。 過去2回のシリーズと異なり、同時代を横断的に見通す視点が際立つ。とありました。

第1次シリーズ:1969 - 1971年

第2次シリーズ:1997 - 2000年

ウエブ情報から引用

岩波書店は戦後3回目の刊行となる『岩波講座 世界歴史』(全24巻)を、四半世紀ぶりに10月5日から刊行開始する。 300人を超える執筆者を迎え、従来手薄だった太平洋地域やアフリカの歴史にも目を配り、新高校教育課程「歴史総合」に対応して日本史とも接合させる。とありました

 

特に、『岩波講座 世界歴史』から印象に残ったのは、『4500年前に始まった長いピラミッド建造の歴史・約1000年間の前半に規模と技術のピークがあった。』

古王国時代初期から建造され始め、その後、中王国時代までピラミッドは建造されますが、現在でも当時の形をとどめたのは古王国時代中期のメンカフラー王のピラミッドまでです。 以降の新王国時代には、王の墓としては、ピラミッドに変わり、王家の谷のように大規模な岩窟墓に変わっていきました。

 

世界歴史に興味を持つまでには長い道のりがありました。

昔のことですが、日本史は難しい漢字が多いので、漢字の代わりにカタカナの多い世界史を選択した記憶があります。 世界史も日本史ほどは漢字が多くありませんが、とにかく暗記、丸暗記が必須で、やはり苦手な教科でした。 

ある時、学期末試験に備えて部厚い世界史の参考書を読み始めました。 これが学校で教わる世界史より、かなり面白く、歴史の本を読むようになりました。 その後は、歴史ブームもあり、仲間と歴史と歴史小説の違いなどを酒の肴にしたこともあります。

 

長い道のりの間に読んだ本

①世界の歴史 中央公論社 全17巻 

ウエブ情報から引用

印象に残ったのは『古代ローマは、イタリア半島中部に位置した小さなポリスから、地中海世界全域を支配下にいれる大帝国にまで成長した国家の総称です。 その歴史は、ローマ建国の前8世紀から、ゲルマン人により西ローマ帝国が滅ぼされる後5世紀まで続きました。 古代ギリシャは国ではない。 古代ギリシャは、ローマのように周囲の自治体や民族を吸収し、一つの統一国家を樹立したわけではなかった。』ことです。 この違いが分かった時、地理と地政学の奥深さを知りました。

 

②日本の歴史 中央公論社 全26巻

ウエブ情報から引用

印象に残ったのは、『伊達騒動は、江戸時代前期に伊達氏の仙台藩で起こったお家騒動です。 黒田騒動、加賀騒動、仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。 騒動は3期に分類され、それぞれが関連性を持っている』と、この歴史の本の中で、山本周五郎氏の著書『樅の木は残った』が参考になるとありました。

 

③大世界史 文芸春秋 全26巻

ウエブ情報から引用

世界史の全集から日本史の全集と読み進み、日本史と世界史の両方をカバーした歴史の全集がないかと思った時期がありました。 その時に発売をスタートしたのが『大世界史 文芸春秋 全26巻』でした。 この全集は1巻で中断しましたが、理由は思い出せません。 『岩波講座 世界の歴史』(全24巻)第3次シリーズと、この『大世界史 文芸春秋 全26巻』の読み比べのために、これから傘寿は『速読法』の勉強です。

 

④昭和史発掘 文芸春秋 全13巻

ウエブ情報から引用

松本清張氏の作品は、推理小説・現代小説・時代小説・歴史小説・伝奇小説・歴史全般と幅広い。 印象に残ったのは『昭和史発掘(第18回菊池寛賞受賞作)』を読んだときに、歴史(特に現代史)と、歴史小説、さらにはテレビの歴史ドラマ(特に大河ドラマ)を、どう楽しむか難しいと思いました。 特に『古代史疑』と『火の路(火の回路)』は歴史と推理小説ですが、まだまだ読みこなせずに、余生も、残り少なくなりました。

(記事投稿日:2021/12/17、最終更新日:2021/12/18、#446)

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