知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『「桜田門外の変」今回のNHK歴史探偵で、自分には随分新しい情報が判明、「彦根藩と水戸藩」に一発触発の危機と、そのあとの「第二の忠臣蔵」が回避できたことは幸い』

2024-04-21 15:39:21 | 歴史。日本・中世
『「桜田門外の変」今回のNHK歴史探偵で、自分には随分新しい情報が判明、「彦根藩と水戸藩」に一発触発の危機と、そのあとの「第二の忠臣蔵」が回避できたことは幸い』

『彦根藩の供回り警護60余人に対して襲撃側脱藩浪人と他は18人』

『拳銃コルト18ネービーが3丁準備され、井伊直弼は被弾も、そのあと、籠外からの突きと、引き出されて、斬殺されたと、記録が』

2024/04/10 NHK歴史探偵「桜田門外の変」を視聴しました。 センセーショナルなキャッチフレーズ『桜田門外の変。 新史料が発見され、従来のイメージが大きく変わろうとしている。 井伊直弼暗殺にかかわったピストルと事件直後に起きた内戦の危機。幕末の大事件を調査する。』でした。

白昼堂々と時の最高権力者を襲うという幕末最大の事件である桜田門外の変、この後の政治の流れを大きく変わりました。

井伊邸と桜田門の位置関係 井伊家の屋敷が、距離にして400m桜田門の直ぐ側
 
ウキペデイア情報から引用
安政7年(1860/03/03)、天気は大雪、籠に乗って江戸城に向かう、彦根藩の行列の供回りはおよそ60人、対して、襲撃者は水戸浪士17名と薩摩藩士1名の18人。 井伊直弼は、新心新流の居合の達人で、すごい腕前でした。 水戸浪士には身を潜める方法がありました。

 
大勢の見物人が集まり、見物人のための出店までありました。(江戸時代は、テレビ放送もないので、野次馬根性が凄く、四十七士の討ち入り後の泉岳寺への義士行列も、夜明け前から早朝に、見物がありました。)

ウキペデイア情報から引用
彦根藩行列が見え、水戸藩士のリーダー関鉄之介が、行列を遮るため仲間に指示を出しました。 直訴状を差し出します。 一発の銃声が鳴り響きます。
それを合図に一斉に斬りかかる浪士たち。 彦根藩の行列に異変が起こります。
次々に逃げ出しました。 井伊直弼の籠は置き去りにされました。 『供侍の多くは「アルバイト』だったので、命を捨てるまでの覚悟はありませんでした。』
 人材の斡旋業者のリストまでありました。 60人の行列のうち、半分が逃走し、26人にまで減りました。 ところが、彦根藩の人たちは次々と倒されていきます。寒さで手がかじかみ、刀が抜けず一人ひとり斬られました。
江戸時代のアルバイト
代表例といえば、『参勤交代』。 いわゆる、大名行列ですが、これは各藩も自分達の藩の威信をみせるために、仰々しく、さらに人数も多くみせて自藩の威光などを通る人々に見せ付けていました(江戸城への登場にも同様にアルバイトを)。

当時の、最新型拳銃3丁が準備・使用、拳銃は『コルト18ネービー』
ウエブ情報から引用
桜田門外の変の後、幕府は孝明天皇への歩み寄りを見せるようになります。 幕府も尊王の意思を示すことで、尊王攘夷派の攻撃のかわすためです。 こうして幕府と朝廷(天皇)の歩み寄りが見えるようになると、幕府と朝廷は両者が協力して政治を行う公武合体の政治を目指すことになります。
しかし、いがみ合っていた朝廷(天皇)と幕府が一丸となるのは簡単なことではありません。 なぜなら、朝廷の幕府の考え方は真っ向から対立するものだったからです。

朝廷と幕府の考え方の違い
  • 朝廷(孝明天皇):「開国なんかしないで外国をぶっ倒す」という攘夷派
  • 江戸幕府:「外国と戦争しても勝てないからとりあえず開国しとけ」という開国派
まさに水と油の関係です。この両者を結びつけるために利用されたが孝明天皇の妹『和宮』でした。 和宮を14代将軍の徳川家茂に嫁がせる政略婚を利用することで、ようやく公武合体を実現することになります。
1862年には、公武合体を目指していた老中の安藤信正が坂下門の前で襲撃を受ける事件も起きています。(坂下門外の変)

さらには、これに合わせるかのように攘夷の運動も盛んとなり、1863年には、長州藩と薩摩藩が外国船に砲撃する事件も起きました。 このように桜田門外の変をきっかけに、これまでの『開国して戦争を避ける』という考えから、攘夷の思想へと日本全体が大きくシフトしていくことになりました

表題の『「桜田門外の変」今回のNHK歴史探偵で、自分には随分新しい情報が判明、「彦根藩と水戸藩」に一発触発の危機と、そのあとの「第二の忠臣蔵」が回避できたことは幸い』をもっと調査を続けていきたいと思いました。
(記事投稿日:2024/04/20、#741)


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『滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」のモデル・安房里見一族の盛衰を、日本の悲劇についての名著「高貴なる敗北」に加えたい!』

2024-01-07 15:24:51 | 歴史。日本・中世
『滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」のモデル・安房里見一族の盛衰を、日本の悲劇についての名著「高貴なる敗北」に加えたい!』

『「高貴なる敗北」とは日本史の中で悲劇的な死を迎えた、九人と、戦闘団を外国人・アメリカ人の視点から書かれている本』

『九人と一戦闘団は日本武尊、浦島部万、有間皇子、菅原道真、源義経、楠木正成、天草四郎、大塩平八郎、西郷隆盛他、神風特攻隊

日本文化に造詣の深いアメリカ人、アイヴァン・モリス氏(三島由紀夫氏とも昵懇)による、日本史での「滅びの美学」を体現する人々から日本人が「何故、敗者を愛するのか」を考察した本です。

彼らの末路を“もののあわれ”という日本人の視点と、彼らの死に対する意味をモリスという外国人の視点で語られている処に意義があるのではないでしょうか? 欧米人は勝利者を高らかに語っても、敗者の悲劇はあまり感動を呼び起こさない。 せいぜいシェークスピアの悲劇(創作物)でしかないというが、モリスの語りは、彼ら日本人の敗者に対しても手を差し伸べようとしていますが、数少ない中で、米国には『アラモの砦』の悲劇もあります。

 
この『高貴なる敗北』日本史の悲劇の英雄たち(1981年)の『九人と一戦闘団』に加えたいと思う『里見一族』を調べてみました。

里見一族の家紋『二つ引両
家紋の一つ。 輪の中に一~三本の太い横線を引いたもの。新田氏・足利氏などの家紋。輪のないものや、縦線のものもある
 ウキペデイア情報から引用

里見氏は新田氏の庶宗家であり、「大新田」氏とも呼ばれた。 鎌倉時代には御家人として将軍に近侍し、鎌倉時代末の動乱では総領家の新田義貞と行動をともにした。 南北朝期には一族も分かれ、南朝方・北朝方に別れて戦った。
安房里見氏の家伝では、里見氏の嫡流である里見義実が安房に入国したとされるが、系譜関係は定かではない。 安房里見氏は戦国大名として成長して房総に割拠し、江戸時代初頭には安房一国を治める館山藩主となったが、1614年に里見忠義の代で改易された。

改易の理由としては、主として大久保忠隣の孫婿であるための連座であったとされる。 その他の理由としては城郭修補、牢人召し抱えが挙げられる。 同年には下野国佐野藩の佐野氏も改易されており、結果として関東地方で外様大名の勢力が縮小していくことになった。

これが江戸時代の本願びいきの、『滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の安房里見一族』
の誕生につながったようです。

里見八犬伝のモデルになった、里見八遺臣の墓は、安房・館山城の南側、山麓と言うよりは麓に近い低いところにあります。 ここは、昔お世話になった会社の勝浦保養所へ横浜から、よく通いましたので、その往路か復路には、よく立ち寄りました館山城の散策途上で見つけました。 

館山城の模擬天守のほうから南下すると、ずっと下り、その途中、右手に開けた場所(城山公園の梅林)が望めますが右手には降りずに、そのまま左手気味に進んでいくと、崖下の窪地にあります。

ウキペデイア情報から引用

里見家八遺臣の墓
この墓は、城山公園の南麓にあり、丘陵斜面の横穴が埋没して奇妙な形をしていたため、「姥神様(うばがみさま)」とよばれて祀られ、かつて多数の人々がお参りしていたそうです。 伯耆国倉吉において、里見氏十代目にして最後の当主となった忠義の死に際して倉吉随従の家臣たち数名が殉死しました。 後日、これを伝え聞いた安房の里見の旧臣が漁師姿に身をやつして伯耆に出向き、蛸壺に分骨して持ち帰り、ここに埋めたのだといわれています。 また、江戸時代の文豪、曲亭馬琴が書いた「南総里見八犬伝」の「八犬士」のモデルにされたともいわれています。

里見八犬伝のあらすじ
南総里見八犬伝は、安房里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)を主人公とする物語です。八犬士はそれぞれ、忠義、仁義、礼節、智謀、勇気、信義、誠実、名声の八つの徳を象徴する犬の紋章を持ち、この八つの徳を守り、悪と戦うことを誓います。
八犬士は様々な困難を乗り越えながら、里見家に仕え、関東大戦では北条軍を破り、里見家を勝利に導きます。
そして最後には、伏姫と八房の魂が合体した犬神の助けを得て、悪の化身である安西景連を倒し、物語は幕を閉じます。
南総里見八犬伝は、日本文学の古典の一つに数えられており、多くの翻訳や映画化、テレビドラマ化されています。

印刷技術の発展から、江戸時代後期より数多くの本が出版されるようになり、瞬く間に娯楽小説が世に広まりました。そんな時代にベストセラーになったのが、今回ご紹介する馬琴著の『南総里見八犬伝』です。「伝奇ロマンの最高峰」と称される『南総里見八犬伝』を読んで、馬琴の不思議な世界に江戸の町民も、現代人も触れられるようになりました!
(記事投稿日:2024/01/07、#714)
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『武家政権を京都で創始した初代征夷大将軍足利尊氏と室町幕府』 『古代の邪馬台国・出雲・大和、と室町・南北朝時代で調べて天皇制の理解を』

2023-03-19 12:33:01 | 歴史。日本・中世

『武家政権を京都で創始した初代征夷大将軍足利尊氏と室町幕府』

『古代の邪馬台国・出雲・大和、と室町・南北朝時代で調べて天皇制の理解を』

日本史上の幕府のうち、鎌倉幕府の鮮烈さ、江戸幕府の堅牢さに比較し、その間の室町幕府は地味で安定しない印象が、否めず?

明治時代に天皇への忠誠心を煽る為に「足利尊氏は天皇に反旗を翻した、不忠の者」と宣伝、江戸時代にも徳川家の正統性を強調するのに利用された。

 

日本史の中で、南北朝・戦国・安土桃山時代へと、続く重要な時代にもかかわらず、最も難解だったのが『室町時代』! 理由は後醍醐天皇と足利尊氏を理解することの難しさでした。

 

南北朝時代の天皇系図(両統迭立で始まり最後は両統鼎立で終焉に)

両統迭立;鎌倉時代後半、後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統から交互に皇位につくとされた皇位継承の原則。

ウエブ情報から引用

 

足利尊氏家系図(地味で不安定な室町幕府は意外に長く230年)

ウエブ情報から引用

室町幕府は1336年11月、足利尊氏が幕府の基本的法令となる「建武式目」を作成した時から始まり、3代将軍義満が、京都の室町に「花の御所」と呼ばれる大邸宅を造り、そこを中心に活動するようになったので、室町幕府と呼ばれ、1573年、15代将軍義昭の時に滅亡します。

 

一方、室町幕府の成立は1338年。 足利尊氏が征夷大将軍に任じられた事によって成立したと見られています。 1333年の鎌倉幕府の滅亡から5年後の事。 尊氏は、はじめ後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府を倒すことに尽力しますが、後醍醐天皇による建武の新政が武家勢力を排斥したことから離反、自ら武家政権の樹立をめざします。

鎌倉時代は、初の武家政権とも言われますが、それ以前の政治体制を全否定した革命政権ではなく、多分に旧勢力と並存するバランスの上に成り立っていました。 その二元性から、朝廷一元化を目指したのが後醍醐天皇であり、武家一元化を目指したのが足利尊氏と言えます。

 

しかし、室町幕府の始まりの時期は、将軍家である足利氏そのものが一枚岩ではありませんでした。 幕府の発足直後に発生した『観応の擾乱』において、尊氏・直義兄弟による骨肉の争いが幕府方を二分してしまいます。 また、後醍醐天皇が開いた南朝の勢力が奈良の吉野を中心として全国に存在しており、政権が安定するには3代将軍、足利義満の時代を待たなければいけない状況でした。

 

室町幕府は不安定な状態が続いたのは、足利義満の時代に最盛期を迎えた室町幕府でしたが、その統治は不安定な状態が続く傾向にありました。 室町幕府が不安定だった理由、守護大名の力が強かったのです。 

 

鎌倉時代の守護は、赴任した土地の軍事を司る存在だったのに対して、室町時代の守護は南北朝時代の混乱を通して、その領地の政治までも担う存在へと成長。 このため、幕府はその領地は守護を通して支配する他なかった。

力を持ちすぎた守護大名を幕府が討伐し、三管領(細川・斯波・畠山)や四職(赤松・一色・京極・山名)といった制度を創設して、有力大名を相互に牽制させ、結局は有力守護大名の連合政権のような不安定な政権運営を続けた。

 

財源の問題、室町幕府の収入は足利家の所領であった『御料所』に依存していたのですが、この直轄地が少なく、また日本各地に点在、金額は決して多くなかったは。 また、将軍家の直轄軍である『奉公衆』の数も1万人前後と、圧倒的な軍事力を持っていなかった事も、室町幕府が不安定だった要因。

 

興味の尽きない足利尊氏と室町幕府と時代、今後の勉強のために、ウエブ情報の抜粋と引用を備忘録にしました。

 

室町幕府が滅亡した3つの原因
①直接の原因は、1573年に織田信長が将軍・足利義昭を京都から追放した事。 ただし義昭は毛利家が治めていた備後国に移り1588年まで将軍として在位していたため、この年を室町幕府の滅亡年とする見方もあります。

②間接的な原因としては、1467年から10年間に渡って続いた
応仁の乱の影響も見逃せません。 この戦争によって足利将軍家は二つに分かれただけでなく、結果として幕府やそれを支えていた守護大名の衰退も、室町幕府が滅亡した大きな原因。

 

③1493年に勃発した明応の政変、この出来事は、10代将軍であった足利義稙を管領であった細川政元や、前将軍足利義尚の母親であった日野富子がクーデターによって廃嫡し、11代将軍に足利義澄を就任させた出来事です。 こうした足利将軍家の内部分裂が、信長が1568年に足利義昭を上洛させる前には見られました。

 

室町幕府の始まりや不安定だった理由、そして滅亡の原因は、吉野の南朝の存在や観応の擾乱の勃発、滅亡の原因として挙げられる応仁の乱や明応の政変でも、将軍家が二つに分かれる状態が続いた室町幕府。 こうした失敗を学んだ徳川家康は、幕府の直轄地を増やし、大名統制においても抜かりありませんでした。

足利尊氏について

【北条氏への不信】 

1331年、父の貞氏の服喪中の尊氏は、執権の北条高時から笠置討伐の命を受け、上方に向かいます。 笠置は簡単に落ち、後醍醐天皇は隠岐に配流されました。

それから2年後の1333年2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆で兵をあげます。 その時尊氏は病気にかかっていましたが、またも出征の命を受け、北条高家とともに伯耆に向かうことになりました。

2度の事情を顧みない出征命令に、尊氏は北条氏に異心を抱いたといいます。1333年4月、尊氏は北条に対し公然と反旗を翻し、人質の妻子を鎌倉から脱出させます。 翌5月、尊氏は六波羅探題を攻め落とし、新田義貞は鎌倉を陥れ、北条氏が政権を担っていた鎌倉幕府が滅びました。

 

【建武の新政】

政権を獲得した後醍醐天皇は、まず内裏の造成に取り掛かります。 税を課したため民心を失い、恩賞は公家に重く武家に軽くしたため、武士たちを失望させました。 この時尊氏は、諸国から到着する武士の名を帳簿にとどめ、その労をねぎらい彼らの心をつかみます。 1336年、建武の新政に不満を持つ武士の集団を率いて、尊氏は入京します。そして後醍醐天皇を追い落とし、政権を奪取しました。 

 

【室町幕府】

尊氏は、持明院統の光明天皇を擁した後、施政方針として17条からなる建武式目を制定し、武家政権の基本姿勢を示しました。そして1338年、征夷大将軍に任命されると、弟の直義とともに政権を主導します。

尊氏は恩賞の給与や軍事指揮といった武士の統率者としての権限、直義は裁判、本領安堵といった統治者としての権限を持っていました。

 

【観応の擾乱】 

尊氏、直義兄弟によって運営された二頭政治は争いの時代を迎えます。その争いが激しかった時期が観応年間(1349年~1352年)であったことから「観応の擾乱」と呼ばれています。ちなみに擾乱とは内紛のことです。

1349年、足利家の家宰である高師直(こうのもろなお)が、直義の排除を尊氏に求めます。 尊氏はこの要求を入れ 、直義は政務を返上、直義派の上杉重能と畠山直宗は殺害されました。すると直義の養子、直冬が九州で一大勢力圏を打ち立てます。 これを討つために尊氏、師直が進発しますが、その留守中に直義は京都を脱して大和に入り、南朝に接近して尊氏追討の宣旨を得るのです。ここで兄弟の対立は決定的になります。

 

数度の決戦で尊氏、師直は敗れ、師直、師泰兄弟は上杉重能の養子、上杉能憲に殺害されました。 高一門の滅亡で直義の執政が再開されますが、その半年後、身の危険を感じた直義は京を出奔して鎌倉に入ります。 尊氏は南朝と講和を結び、自ら駿河まで出陣し、勝利しました。 捕縛された直義はその後死亡しますが、毒殺されたともいわれています。 一方、九州にいた直冬の勢力は、西中国に活動の場を移しました。1353年に南朝から尊氏の息子、義詮追討の綸旨を得ます。直冬は京都に入り、尊氏、義詮軍と戦いますが敗れて敗走。これにて観応の擾乱が終わりました。

 

【尊氏の死】

1358年4月、尊氏は京の二条万里小路の館で亡くなりました。死因は悪性の腫瘍だったといわれています。

 

武家文化の発展

【北山文化】

室町幕府の全盛期であり、文化の栄えた3代将軍義満から、その子義持の代にかけての約半世紀を、義満の弟にちなんで北山時代といい、その文化を北山文化といいます。 北山文化の代表的なものとして、北山第にある金閣が挙げられます。公家社会の阿弥陀浄土信仰、鎌倉時代から交流した禅宗信仰をひとつに融合した構造は、将軍と公家、禅宗との融合を表していて、まさに北山文化を象徴する建造物でした。 

 

義満は能の大成者となる、観阿弥、世阿弥親子を支援します。 世阿弥は貴人の好みに合うように、能を大成させました。 彼の理念とした「幽玄」は、情緒的、ロマン的な余剰を漂わせることでした。

 

【東山文化】

東山時代は、8代将軍足利義政が1443年に将軍についてから、1490年に亡くなるまでの約半世紀のことで、この期間の文化を東山文化といいます。 この時代は一揆が頻発し、京都では「悪党」と呼ばれる不満分子の跳梁、また全国では守護大名に分裂が起こり、やがてそれは応仁の乱を引き起こすことになるのです。 義政はこの社会情勢に目を向けることなく、東山山荘の造営に力を入れます。 山荘の中心は銀閣と東求堂です。 銀閣の完成は義政没年の前の年で、銀を塗る計画は間に合いませんでした。

 

東求堂は寝殿造りと書院造を含む構造で、義政はここにこもり、美術品のコレクションに励みました。この蒐集品を東山御物といいます。 東山時代には、禅の精神を融合させた侘茶や、生け花が創出されます。 また造園法では「枯山水」という岩と白砂で自然を表現する作庭がおこなわれました。竜安寺の石庭や、大徳寺大仙院庭園が有名です。

 

室町幕府を創った兄弟の争い

観応の擾乱とは、室町幕府創世記に起こった、足利尊氏とその弟直義の争いのことをいいます。 後醍醐天皇を追い落としてから始まった室町幕府ですが、当初は尊氏、直義の職務を分けた統治がうまくいっていました。 彼らは同腹の兄弟です。 それが一転、家臣や息子を巻き込んだ戦いは、互いに復讐合戦の様相を見せ、泥沼化していきます。

 

中公新書から『応仁の乱-戦国時代を生んだ大乱』という大ベストセラーがあります。 本書とあわせて読むと、室町幕府についての理解はよりよく進むでしょう。

 

足利将軍の政治

室町時代の寺院や大規模建築の造営をとおして、時の政治や朝廷との関係がわかります。 その一例として、『大塔』があります。 3代将軍足利義満は報国寺に大塔を建立しましたが、その高さはなんと100mもありました。 父義詮の法要のために建立したといいますが、それ以上に義満の権勢を誇るのに役立ったことでしょう。

大塔(相国寺の大塔、「塔マニア」には魅力たっぷりのアイテム)
金閣寺(北山鹿苑寺)で、室町幕府3代将軍足利義満が建立した「北山大塔」

 

室町幕府は鎌倉幕府と同様の武家政権から脱却し、公家社会まで支配下におさめるようになります。 そしてその支配は宗教界にもおよびました。 歴代将軍の大規模な法要は、幕府の権威を世に知らしめる場になるのです。 室町幕府の拠点は京都です。 この京都中心の政治が、後に地方の支配がおざなりになり、下克上の要因になっていきます。

 

暗殺された室町幕府6代将軍義教は、くじ引きで決まった将軍でした。 彼はいかなる政治をおこなったのでしょうか。そしてなぜ暗殺されてしまったのでしょう。 義教暗殺の「嘉吉の乱」までの史実を描きます。 僧から還俗して6代将軍になった義教の政権移行は、たやすいものではありませんでした。 当初は管領や重臣の意見をよく聞き、政策を進めていましたが、しだいに「恐怖の世」といわれるほどの強権政治になっていくのです。
 

室町幕府は意外にも長く、230年ほど続きます。しかし3代将軍足利義満時代が最盛期で、中期以降は一揆や応仁の乱、それに続く戦国時代など、ほとんど幕府の影響力がおよばない時代になっていきました。

京都に地盤を築いた室町幕府、その影響は、後に群雄割拠する下克上の時代を引き起こします。

 

昔、歴史教科で教わり、ずっと気になっていた『明治時代に天皇への忠誠心を煽る為に「足利尊氏は天皇に反旗を翻した、不忠の者」と宣伝、江戸時代にも徳川家の正統性を強調するのに利用された。(新規情報でした。)』このことを、これからも調べていきたいと思っています。

(記事投稿日:2023/03/19、#637)

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『信長は「天守閣」ではなく「天主閣」と呼び、そこに住まい!』 『「天下布武」の後「本能寺の変」がなければ、後の信長の狙いは

2023-01-27 09:58:41 | 歴史。日本・中世

『信長は「天守閣」ではなく「天主閣」と呼び、そこに住まい!』

『「天下布武」の後「本能寺の変」がなければ、後の信長の狙いは』

 

織田信長が居城とした城

  1. 織田信長がその生を受けた那古屋城 標高14ⅿ
  2. 織田信長が家康と同盟を結んだ事でも知られる清州城 標高4ⅿ
  3. わずか4年間の間、信長の居城だった小牧山城 標高86ⅿ
  4. 織田信長が天下取りの足がかりとした岐阜城 標高329ⅿ
  5. 天下人信長が築いた居城・安土城 標高199ⅿ

信長は誕生した平城と二回目に引き継いだ平城がたびたび水害に合い、それ以来ずっと山城だった。 最後に築城を考えていたと言われる東本願寺跡の大阪城も、標高31ⅿで、淀川に面していますが水害の心配はなかった。

 

安土山の全容、ほぼ中央の山頂付近に本丸、天主

ウキペデイア情報から引用

(西洋の星形要塞を彷彿させる)

 

安土城図(急峻さは強調されているが、これが安土城)

ウキペデイア情報から引用

 

天下布武

これは「織田信長が朱印に用いた印象の印文」です。 いわゆる織田信長が天下統一を意識して考えた印鑑のマークのようなものです。 「武」という言葉には「(める)争いや戦いを止める」という意味があります。 また、「武」には「七徳の武」の意が込められているといわれています。

七徳の武とは
 1. 暴を禁じる
 2. 戦をやめる
 3. 大を保つ
 4. 功を定める
 5. 民を安んじる
 6. 衆を和す
 7. 財を豊かにする
というものです。

そのため、天下布武とは織田信長による「天下に七徳の武を布く」という思い、天下泰平の世界を築くという強い意志の表れだったのではないかと言われております。

 

さて、天下布武の信長は天主閣に住んだのでしょうか

史実によると、日本の城の天守閣が居住空間として使用された例は、じつはほとんどないようです。 天主は「権力の象徴」であり、「籠城戦の際に立てこもる最後の砦」としての向きが強く、そもそも居住用には作られていない。

 

余談です。 『中世ヨーロッパの城の中心的役割を担う建造物キープですが、日本の城の天守との類似性から「天守」と訳されます。 平時には城主の住まいとして機能していました。 形状は、初期はシンプルな四角形でしたが、時代が下るにつれ、円筒形型、四つ葉型、多角形型など多彩になっていきます。』

 

標題に戻ります。 日本にも、例外があります。 普通は住まない天守閣で、唯一日常生活を送っていたといわれるのが織田信長です。 さすがは第六天魔王(※信長の異名)だ。 常識にとらわれないというか、本丸御殿という立派で住みやすそうなお屋敷がほかにあるのに、あえて一番でっかい建物に住まおうという豪胆さ。他の諸大名とはやはり一味違います。 普通は居住しない天主閣を居住空間にしてしまう信長は、やはり革命的です。

 

この革命的な武将の究極的な狙いは何であったのでしょうか。 『信長公記』でもそれはわからないようです。 これは当時の宣教師の日記と手紙に期待したいです。

 

三好三人衆を京都から追い出した織田信長は足利義昭を将軍に仕立て上げると、自身を幕府体制の中心に据えて自ら京都の統治に乗り出しました。 ルイス・フロイスを始めとした宣教師達は自分達を追い出した三好三人衆がいなくなったことを知り、新たな統治者に布教許可をもらうために京都へ戻ります。

 

ルイス・フロイスは織田信長との謁見でヨーロッパや東南アジアの情報を提供すると共に、キリスト教の布教許可を求めました。 当時の織田信長は利権を追い求め武装までしている仏教の在り方に疑問を覚えていたのでしょう、ルイス・フロイスは織田家領内での布教許可を得て、ここでようやく布教活動を始めています

 

信長とフロイスの、二人はそれぞれ36歳と38歳の同世代、気もあったのでしょうか、それでも信長が日本国の天下布武の後の野望をルイス・フロイスと話したとは思えません、有名な人たらしの秀吉ではありませんので。 信長の野望については、春になったら国会図書館で、ご専門の先生方をお尋ねすることを楽しみにしています。

(記事投稿日;2023/01/24、#622)

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海外の古文書が日本史の謎を解く(手紙・日記等)から解る 2』 『信長の先取性・先見性に、刺激受けた秀吉の無理難題の半島・大陸進攻へ』

2022-09-26 09:50:58 | 歴史。日本・中世

『海外の古文書が日本史の謎を解く(手紙・日記等)から解る 2』

『信長の先取性・先見性に、刺激受けた秀吉の無理難題の半島・大陸進攻へ』

『洋の東西でも元は、異なる宗教間、宗派間の戦争、今は政治対宗教の戦争に』 

 

NHKスペシャルのタイトル『戦国~激動の世界と日本~第1集 秘められた征服計画 織田信長×宣教師』を見ました。 島国日本の中世・近世に興味津々、益々調べたくなります。 

『キリスト教勢力が世界制覇、信長は石山本願寺をキリスト教で鉄砲を得、キリシタン大名高山右近の力借りた。 

聖職者の宣教師たちが なぜ、軍事物資を利用してまで、布教を行っていたのか? その背景にあったのは、世界の覇権を巡る争いで、スペインなど、ヨーロッパの強大なキリスト教勢力に対して、オスマン帝国に代表される、イスラーム教の勢力

両者が激突し、キリスト教勢力が勝利を収めたのが、1571年『レパントの海戦』

日本にやって来た宣教師たちは、軍事物資の取引を通じて、天下統一にまい進する信長と、タッグを組んだ。

『レパントの海戦』

ギリシャ西岸のレパント(Lepanto)沖で,スペイン・ローマ教皇・ベネチアの連合艦隊がオスマン帝国海軍を撃破した戦い。

戦国時代 仏教勢力の中心となったのは、大坂の石山本願寺。 信長の、最大の敵となり、10年に及ぶ死闘を繰り広げます。 石山本願寺は、各地の大名と連携し、信長包囲網を形成。 その勢力は 信長軍を、はるかにしのいでいました。

リスボン大学 ペドロ・コレイア
過激な理論だが、改宗は精神を征服すること。つまり心を支配することで、ヨーロッパ型の思想や社会を広めようとした。 『我々には、日本を征服する権利がある。 日本布教長 フランシスコ・カブラル。  信長をキリスト教に改宗させる。 そうすれば日本人を素早く、キリスト教に改宗させられる。 布教の妨げになる仏教勢力を排除し、日本人を改宗させようとしていました。デウス様のみが国を支配する力がある。』
 

セビリア大学 ファン・ヒル
信長をキリスト教に改宗させることは、信長にとって、それは天下統一のためでした。 キリスト教勢力が力を増すことは、秩序も乱すリスクでもあった。 信長は、仏教勢力に対抗するための駒として、リスクに目をつむっていた。
一方の宣教師は、仏教勢力を倒す策を巡らせていました。 聖イグナシオ洞窟教会のレリーフに描かれているのは、キリストの信仰に人生を捧げた人です。 フランスの国王、スペインの総督、日本の右近殿。 カギを握った日本人が描かれていました。 キリシタン大名 高山右近 右近は 石山本願寺に近い、大坂の摂津の領主

ウエブ情報から引用

1614年、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、長崎から家族と共に、マニラに追放された。


記録によれば、1578年、宣教師は 右近に接触し、苦戦を続ける信長を支援するよう、説得していました。 右近を中心に1万人を超える、キリシタンの援軍を得た信長軍。 最大の敵をついに破り、天下統一へ まい進してゆくのです。
 

宣教師は 予想を超える、日本の軍事的発展を、驚きをもって記しています。 その最大の変化は、ヨーロッパから伝わった鉄砲。 国産化が進む中、急速な技術革新が生じていました。

昭和女子大学 田中眞奈子
こちらは、国友の火縄銃です。 放射線で透視した銃身の断面を比較すると、海外産と比べ国産は、不純物が均等に分散し、銃身の強度が安定している。 その秘は鍛造と呼ばれる、技法で日本刀の製作で、磨かれたものでした。 弾を発射する時、火薬を大量に詰めても、銃身がゆがむことはなく、その爆発力を弾丸に伝えます。

更に日本では、この進化した鉄砲の大量生産も、進められていました。 堺の町で鉄砲の製造について記された、2万点の古文書が見つかりました。 注目したのは 鉄砲を作っていた職人たちのリスト。 銃身から 台座 火蓋まで、パーツごとに分業制がとられ、鉄砲の大量生産が行われていたと考えられています。 戦国日本にあった鉄砲の数は、30万丁といわれ、世界一の銃大国になったとされています。 

宣教師たちは、強大な軍事力を持っている、日本の力は利用する価値がある。 戦国日本をより大きな世界戦略に、組み込もうとしていたのです。 「スペインの征服王と呼ばれた フェリペ2世が、ポルトガルを併合し、巨大な帝国が誕生した。」 当時スペインは 無敵艦隊と呼ばれる、130隻の軍艦を持ち、世界有数の海軍力を、誇りました。

解読が進む宣教師の機密文書。 
スペイン帝国に宛てた報告書が、残されていました。
「我々の最大の目標は、
と呼ばれた中国の征服(*)である。 アジア征服のため、日本の軍事力を利用しようとする宣教師。 宣教師がもたらす軍事物資を使って、天下統一を目指す信長。 しかし 両者の蜜月は終わりに近づいていきます。」

ペイン帝国に宛てた報告書が、残されていました。
「我々の最大の目標は、
と呼ばれた中国の征服(*)である。 アジア征服のため、日本の軍事力を利用しようとする宣教師。 宣教師がもたらす軍事物資を使って、天下統一を目指す信長。 しかし 両者の蜜月は終わりに近づいていきます。」
 

と呼ばれた中国の征服(*)

信長はこのスペインの『と呼ばれた中国の征服(*)』を知っていたかどうかが興味津々、今後の課題です。 この一見、気宇壮大に見えた秀吉の『「信長の先取性・先見性に、刺激受けた唐・天竺までと、無理難題の半島・大陸進攻へ」』で、豊臣政権の崩壊に進みました。 徳川政権は、鎖国(貿易を管理・統制・制限の)へと転換しました。 ここにも『織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川』の狂歌に尽きます。 徳川を『徳の川』と気遣っています。

(記事投稿日:2022/09/26、#577)

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