知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『文学者と医学者と科学者が見た、縄文・弥生・古墳・奈良時代 1』『文字がなかった縄文時代は、最近まで教科書の歴史にも載らなかった文化』

2023-05-18 09:35:10 | 日本・歴史・先史-古代

『文学者と医学者と科学者が見た、縄文・弥生・古墳・奈良時代 1』

『文字がなかった縄文時代は、最近まで教科書の歴史にも載らなかった文化』

 

古代史は難しい、何故なら『卑弥呼・邪馬台国は神秘的で、その真実を知ることが困難』とか『邪馬台国はどこ?北九州か畿内か、そんなに古くて遠い話か』などといろいろ言われています。 

 

日本古代史の『邪馬台国』と『出雲王朝』はまだまだ発掘による発見の夢があるのではないでしょうか。 卑弥呼でおなじみ『邪馬台国』はどこにあった?古代史ミステリーは、なんでも自分の脳の中で、勝手に、自由に想像できる素人にとっても永遠のテーマです。 明治時代に、東京と京都の帝大で勃発した『距離かそれとも方角か・・・』の邪馬台国論争がいまだに決着つかずに続いています。

最近、決着つきそうな発見が、畿内説と北九州説の両方にありました。 

❶「畿内説」(奈良盆地説)が近年急激に巻き返したのは、奈良盆地の「纏向(まきむく)遺跡」の中の「箸墓(はしはか)の古墳」が卑弥呼の墓という説。 

❷「北九州説」が根強いのは北部九州には、吉野ケ里遺跡や平塚川添遺跡などの環濠集落の遺跡があり、神武の東征神話、さらに漢から贈られた金印が出土していることから、九州説を唱える学者も多い。

 

「畿内説」❶に、ずーっと、自分も傾いていましたが、最近、副島隆彦氏の著書『歴史再発掘』のタイトルに魅かれ読み始めました。

 ウエブ情報の引用

 

特に圧巻は『邪馬台国はどこにあったのか、最近の話題』でした。 最近では、下記理由で「北九州説」に傾いています。

  • 西暦57年の邪馬台国・『倭奴国』「漢倭奴国王」の金印は、福岡県福岡市東区志賀島で、1784年4月12日に発見された。
  • 西暦57年の『魏志倭人伝の道程』の中に、『南至邪馬壹國女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸』と記録がある。
  • 邪馬台国の卑弥呼の後継者・臺與(「とよ」あるいは「いよ」、生没年不詳)は、日本の弥生時代3世紀に『三国志 (歴史書)』、魏志倭人伝中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女にして、卑弥呼の跡を13歳で継いだとされる女性である。 魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『梁書倭国伝』『北史倭国伝』では「臺與」と記述されている。
  • この邪馬台国が、熊襲(九州南部)に攻められ、西暦247年、卑弥呼は「狗奴国が攻めてくるので助けてください」と魏の皇帝に使いを出している。 当時、小国分立の中で畿内の邪馬台国が九州南部の熊襲に攻められたとは考えられない。
  • 上記の二件のエポックからも、200余年続いた王朝が、途中で、福岡から奈良に遷都したとは考えられない。 こんな『遠距離遷都』は、遷都頻繁の奈良・平安時代にない。
  • 後述の弥生時代の鉄器の出土数1は熊本(2018年現在)、鉄器こそが権力の象徴ととらえる学者もおり、やはり『九州北部の邪馬台国』が南部の熊襲に攻められた客観的事実が重い。

 

傘寿プラスには、体力的にも精神的にも実地踏査はタフな課題ですので、『歴史再発掘』抜粋させて頂き、今後の国会図書館通いで自分なりの理解をしたいと思っています。  

ここから先は、今後の調査のための備忘録です。 お時間と興味がありましたら、ご覧いただければ幸いです。

昔の話ですが、1964/07/06~1971/04/12に7年余も、週刊文春に連載された松本清張氏の『昭和史発掘』が、装丁版・8巻で刊行されたとき、香港駐在中で、新聞の半ページ記事(パブリシティ)で知りました。 『昭和史発掘』の発掘に強い印象を受けた記憶がありました。 

この記事の中に、まだ歴史にはなってない昭和史を書くので『昭和史発掘』としたのではということも言われていたと同時に『歴史』と『歴史小説』との違い等にも触れていたような記憶があります。 最近のテレビのドキュメンタリー番組もドラマも、自信満々で、これが史実、と言っているような面が多々あり、勉強になります。 

北九州北部の邪馬台国の旅は、国土地理院地図とグーグルマップで我慢して、コロナ禍後の奈良明日香・飛鳥路の旅が楽しみになりました。      

(記事投稿日:2023/04/15、最終更新日:2023/05/18 #647)

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『文学者と医学者と科学者が見た、縄文・弥生・古墳・奈良時代 2』 『邪馬台国の女王 卑弥呼が、貢物を「魏王」に、西暦239年、貢物を献上、魏帝国の正史にとされる「三国志魏志」に記録ある』

2023-04-15 18:38:37 | 日本・歴史・先史-古代

『文学者と医学者と科学者が見た、縄文・弥生・古墳・奈良時代 2』

『邪馬台国の女王 卑弥呼が、貢物を「魏王」に、西暦239年、貢物を献上、魏帝国の正史にと

    される「三国志魏志」に記録あるも、当時日本には文字なし』

 

『歴史再発掘』の著者、副島孝彦氏はこう言っています。 今の日本は、『天皇家(皇室)以外は、皆、平等で、皆、平民、一般人、普通の人たち』という、疑似民主政体デモクラシー)で、デモクラシーと、王国の2重構造、入れ子構造の国だ。 このことは、私の、重要な本である、「愛子天皇待望論」弓立社、2022年刊)に書いた。』そうです。

 

日本の天皇制の歴史は2700年~、皇室は世界最古で唯一「天皇(Emperor)」の称号を持つ。 令和に即位した今上天皇は「126代目」になります。 日本の天皇制の歴史は2700年~、この天皇制にはおける遷都の回数と理由は、今後の課題です。

ウエブ情報の引用

 

副島隆彦氏はこの本の『まえがき』でこうも、言っています。 

『歴史は再発掘されるべきである。 今も隠されたままなっている、大きな真実が土中に埋められている。 それらを敢えて掘り出して、白日の下にさらけ出すことを、私は常に決意してきた。 故松本清張氏の晩年の長い連載作品に「昭和史発掘」週刊文春に連載。 1964-1971年がある。 この歴史発掘という言葉に私は魅かれて、これにあやかろうと思った。 それでこの本の書名となった。』

 

副島隆彦氏の著書『歴史再発掘』の抜粋引用です。

『邪馬台国論争の最前線、

(1)「畿内説」(内藤湖南派)京都大学の学者たちが唱えた。  邪馬台国は奈良県の南にあった。 やや奇抜だが、「畿内説」(奈良盆地説)が近年急激に巻き返したのは、奈良盆地の「纏向(まきむく)遺跡」の中の「箸墓(はしはか)の古墳」が卑弥呼の墓という説。 この古墳は日本最古の前方後円墳でもある。 箸墓古墳はヤマト王権最初の王墓と考えられている。 宮内庁は孝霊天皇の皇女の墓として管理。

 

(2)「九州説」(白鳥倉吉派)主に東京大学の学者たちが主張した。 大陸や朝鮮半島に近い北九州の当たりにあった。 有力であるが、問題は、邪馬台国は3世紀であることははっきりしている。 これが6世紀の畿内の大和朝廷とどのようにつながるか。』

 

『天皇や皇太后葬った「陵(みささぎ)」と、それ以外の皇族の「墓」などからなり、合計850。 他に被葬者を特定できないが陵墓の可能性がある「参考地」が46ある。 皇室用財産として宮内庁が管理する。 明治憲法公布直後の1889年に古墳時代の天皇陵がすべて定まり、その後の変更はない。』

 

『西暦57年邪馬台国『倭奴国』「漢倭奴国王」の金印(見つかっている)「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)、1784年4月12日発見された。』

ウエブ情報の引用

西暦239年、邪馬台国『倭国』「親魏倭王」の金印(見つかっていない)

邪馬台国は中国の文献に出てくるコトバだ。 邪馬台国は、中国古代の「魏」という帝国の時に、邪馬台国の女王・卑弥呼が、貢物を「魏王」に、貢物を献上している。 それは西暦239年。 このことが魏帝国の正史にとされる「三国志魏志」の中の第三十の「東夷伝倭伝」にある。

 

その中に、「倭の女王の卑弥呼から、朝貢使が来た」と書いてある。 それに対して、魏の皇帝が、「親魏倭王」という称号を「倭の女王」に与え、承認した

だから邪馬台国は倭国である。 この時国王としての称号と。金の印鑑「親魏倭王」の金印をもらっているが、この金印は見つかっていない。

 

西暦247年、卑弥呼は「狗奴国が攻めてくるので助けてください」と魏の皇帝に使いを出している。

 

狗奴国が攻めてくるというのは、おそらく「熊襲」と呼ばれていた、今の熊本や鹿児島に住んでいた人たちだと私は思う。 魏は助けには来なかったが、錦の御旗を送ってきた。 このあと「倭国は大きく乱れた」と「魏志倭人伝」に書いてある。』

 

この「魏志倭人伝」の情報から、邪馬台国が九州南部であった可能性が高くなります。 熊襲のウエブ情報です。

 

熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に、抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。 古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。

 

『私、副島隆彦は、どう考えてもこの邪馬台国(倭国)は、北九州の当たりだと考える。 今の福岡市そのものだ。 邪馬台国(倭国)は、紀元前100年から紀元後663年(白村江の戦いで大敗)までは存在しただろう。 

 

朝鮮半島の南の沿岸部一帯にも倭人は住んでいた。 だからこの辺りも倭国だ。 北九州一帯と同じ言葉を喋って同じ文化だったろう。 漁労民(海洋性の民族)だったろう。 だから、倭国というのは、今の釜山を含む南のほうと北九州一帯と、今の山口県のあたりまで含んでいた。

 

 百済という朝鮮半島で一番大きな国があって、倭国は百済の弟分のような国だった。 両国民は言葉が自然に通じたようだ、 2600年を遡ると、日本語と朝鮮語は同一だったようだ。

 

大和とヤマト

前述したとおり、西暦200年代の「邪馬台国は大和(ヤマト)だ」と言って奈良盆地に無理やり決めてしまおう、という動きが文部科学者の文化審議会を牛耳る頑迷な古代史の学者たちから出ているのが今の今の動きだ。

 

中国から、この「大和」(大きな平和)という漢字を700年代にもらってきてそれを「やまと(山門)」という日本の土地の言葉に覆いかぶせた。 そして、漢字の大和と読ませた。

 

北九州あたりにあった邪馬台国(倭国)がいつ滅んで消えてなくなり、いつの間にか奈良盆地が、日本の中心で大和朝廷・ヤマトになったのか。 西暦300年代、400年代か、500年代には『山門・ヤマト(奈良盆地)』が中心だ。

 

西暦400年代の100年間は、今の難波(大阪)や、その南の河内地方に大王(おおきみ)たちが大国をつくっている。 これが仁徳天皇や雄略天皇。 中国側の文献『正史宋書』では『倭の五王』と言われる。

 

西暦663年の『白村江の戦い』のとき、2万8000人の全軍を出して大敗北したとき倭国(倭国連合の中心に卑弥呼の子孫の邪馬台国があったか? 夢のある課題が残った。)は滅んだ。 

 

北九州北部の邪馬台国の旅は、国土地理院地図とグーグルマップで我慢して、ますます、卑弥呼と邪馬台国のこと調べたくなりました。      

(記事投稿日:2023/04/15、 #648)

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『古事記と日本書記から古代史の不思議を(神話-邪馬台国-大和へ)』 『大国中国のように文字による記録を!と記した歴史書「記紀」』

2023-04-11 17:29:13 | 日本・歴史・先史-古代

『古事記と日本書記から古代史の不思議を(神話-邪馬台国-大和へ)

『大国中国のように文字による記録を!と記した歴史書「記紀」』

 

傘寿プラスはせっかち(語源は急き勝ち)で、いつも結論を急ぎ過ぎてしまいます。 『文字記録と歴史』、『文字記録と文明・文化』とかいろいろ言われますが、縄文(文明・文化)時代が1万年以上も続いた日本です。 無文字文化とは民俗学の世界でよく言われるそうですが、当然だと思っています。 ケルトも日本(縄文)も同様に文字を持たない文化であり、かなり高度な文明を育んでいる。

 

専修大学 文学部 斎藤達哉教授の日本への漢字の渡来・伝播の様子が分かり易いウエブ情報ありましたので抜粋・引用させて頂きます。

 

日本語は,当初は文字を持っていませんでした。 文字は言語を記録するために、後から誕生するものです。 したがって,日本語に限らず,どの言語も最初から文字を伴っていたわけではありません。 現在,地球上に存在する言語の数は諸説あって,3000,5000,6500,8000とも言われています。 これは,数え方の規準の違いによるものですが,いずれにしてもかなり多くの言語があることが分かります。 一方で,文字を持っている言語は400程度と言われており,文字を持たない言語の方が圧倒的に多いことが分かります。

 

漢字の歴史

ウエブ情報から引用

 

『古事記』は、一般に現存する日本最古の歴史書であるとされる。 その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。 上・中・下の3巻。 内容は天地開闢(日本神話)から推古天皇の記事を記述する。 8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書記』とともに神代から上古までを記した史書として、国家の聖典としてみられ、近現代においては記紀と総称されることもあるが、『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある。

ウキぺデイア情報の引用

真福寺収蔵の『古事記』(国宝。信瑜の弟子の賢瑜による写本)

 

『日本書紀』は、奈良時代に成立した日本の歴史書。 養老4年(720年)に完成したと伝わる。 日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。 神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。 全30巻。系図1巻が付属したが失われた。 同じく奈良時代に編纂されたとされる『古事記』と共に、日本のみならず東アジアの古代史、文学史、言語学における重要史料の一つであり、両者合わせて『記紀』と呼ばれる。

ウキペデイア情報から引用

巻第一(神代巻上)の写本(吉田本、2巻のうち)京都国立博物館蔵 国宝 鎌倉時代・弘安9年(1286年)卜部兼方奥書 画像は巻頭部分

 

六国史(りっこくし)とは、古代日本の律令国家が編纂した6つの一連の正史のことである。一部に紀伝体的要素をとりいれつつも、概ね編年体で記されている。

 

最初の「書かれた歴史」とみなされるのが、ギリシアのヘロドトスの『歴史』,中国の司馬遷の『史記』,日本の『古事記』などと言われます。 『歴史』と『古事記』についてはこれからの調査ですが、中國の『史記』について印象に残っていることがあります。 時のトップ武帝に書かされたものではないことです。

 

『史記』のような歴史書を作成する構想は、司馬遷の父の司馬談が既に持っていたが、歴史書を完成させる前に憤死した。 司馬遷は父の遺言を受けて『史記』の作成を継続する。 司馬遷は、匈奴に投降した友人の李陵を弁護したゆえに武帝の怒りを買い、宮刑に処せられる。 獄中にて、古代の偉人の生きかたを省みて、自分も歴史書を作り上げようと決意した。 出獄後は、執筆に専念し『史記』が成立した。 

 

古事記の神話部分について、表題の『古事記と日本書記から古代史の不思議を(神話-邪馬台国-大和へ)』『大国中国のように、文字による記録をと記した歴史書「記紀」』に入ります。

 

先ずは、歴史書・史書と歴史小説について予習です。

歴史書、史書は事実(とその当時判断されたことも含めて)を列記する書物。 歴史小説は虚実を問わず、著者の主張を物語の形式を借りて記述した書物。 最大の違いは『著者、編纂者の首長が文章内に含まれるかどうか』。 ただし、小説という形式の書物が現れる前は史書自身の主張を紛れ込ませた史書編纂者もいるのでその境界は厳密なものではないと言われ、素人には微妙な境目の判断は難しいと思っています。 

 

更に、最近はメデイアの、出版物でも、映像(ドラマかドキュメントを問わず)でも、センセーショナルなキャッチフレーズと内容で『歴史書・史書と歴史小説』の区別が分かり難いことがあります。

 

こんな時に、中田力氏の『古代史を科学する』という書物に出会いました。この本の目次に沿って、これから、古代史を調べて、備忘録に纏めてみたいと思いました。 同氏の経歴と著書も凄いです。

経歴 

  • 1976年東大医学部医学科 卒業。
  • 1978年 渡米。カルフォルニア大、スタンフォード大にて臨床研修。
  • 1982年-1992年 カリフォルニア大学デービス校 脳神経学 准教授。
  • 1992年 カリフォルニア大学デービス校 脳神経学 教授。
  • 1996年- 新潟大脳研究所 脳機能解析学 教授。
  • 2002年- 新潟大学脳研究所 統合脳機能研究センター長(併任)。
  • 2018年7月1日サンフランシスコで死去。

 著書

  • 『脳の方程式 いち・たす・いち』
  • 『脳の方程式 ぷらす・あるふぁ』
  • 『アメリカ臨床医物語―ジャングル病院での18年』
  • 『天才は冬に生まれる』
  • 『脳のなかの水分子―意識が創られるとき』
  • 『脳脊髄MRA―基礎と臨床-流れの画像化』(共著)
  • 『穆如清風(おだやかなることきよきかぜのごとし)―複雑系と医療の原点』
  • 日本古代史を科学する
  • 『科学者が読み解く日本建国史』 

漢字から、ひらがな・カタカナを創り、さらにローマ字までも、表意文字の漢字に、表音文字のひらがな・カタカナ・ローマ字を持ちました、昨今話題の『キラキラネーム』や『カタカナ英語』の氾濫は、傘寿プラスは。大変混乱させられています。

(2023/04/11、#645)

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『昔の日本は・日本人は凄かった 2(古代史のエポックを調べる』 『情報氾濫の昨今ですが、さらに継続して調べるために備忘録に』

2023-04-09 07:04:02 | 日本・歴史・先史-古代

昔の日本は・日本人は凄かった 2(古代史のエポックを調べる』

『情報氾濫の昨今ですが、さらに継続して調べるために備忘録に』

 

今までは、歴史も歴史小説も戦国や幕末時代に興味を持っていましたが最近は、俄然古代史で、いろいろあります。

 

・縄文の土偶(縄文のビーナスと遮光器土偶)、

・大和王権と出雲王朝の関係、

・大和言葉と漢文の融合、

・古墳時代の大規模古墳、

・聖徳太子の実像、

・二千年近くも続いた皇室、

・古代史からは外れますが、菅原道真の遣唐使廃止

等々、興味は尽きません。

 

さらには、下記情報も参考に、情報氾濫の昨今ですが、さらに調べるために備忘録にしました。 

 

松本清張氏の『古代史疑義』『火の路』などありますが、『古代史疑義』は、特に難解でした。 近く再挑戦です。

ウエブ情報から引用

梅原猛氏の『梅原古代学』は著名です。 最初の衝撃を受けた著書が『隠された十字架 法隆寺論』、その二年後には『水底の歌 柿本人麻呂論』を発表、遺作が『葬られた王朝-古代出雲の謎を解く-』でした。

 

百田尚樹氏は『永遠の0』や『海賊と呼ばれた男』の著者で知られています。 最新の著書『日本国紀』がいろいろ議論されていますが、この著書の古代史部分に興味がありました。

 

先ずは、世界史の古代史の地域別区分です。 先史時代と歴史時代の区分は文献の存在有無とありますので、エジプトの初期王朝は、エーゲ海文明より古く、古代史に入るのではと思っています。

 

西洋史: 約3000年から約5000年前、古代ギリシャのエーゲ海文明の成立から、476年の西ローマ帝国の滅亡まで。

 

東洋史: 中国、紀元前778年の秦王朝の成立から220年の後漢王朝の崩壊まで。

 

日本史:  日本、縄文・弥生時代の後の562年の飛鳥時代(もしくは古墳時代)から12世紀末の平安朝後期まで。

 

中南米:  約3500年前の先古典期・古典期・後古典期から、15世紀に始まった植民地化まで。

 

縄文の土偶 縄文のビーナス

約4000年から5000年前といわれる、縄文時代中期のもの。 エジプトの大ピラミッドの時代に、日本でもこの豊かな表現力。

 

縄文時代の土偶:遮光器土偶

約3000年から4000年前と言われる東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。 この時代にこのファッション、ただ驚くばかりです。

 

大和王権と出雲王朝の関係

弥生時代の日本について書かれた記録は、『魏志』の中の「東夷伝・倭人の条」

とある。

 

これからは、腰を落ち着けて、項目ごとに調べていきます。

(記事投稿日:2023/04/09、F644)

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『古代の日本は・日本人は凄かった 1(文字なき時代の卑弥呼の謎)』

2023-03-10 23:28:37 | 日本・歴史・先史-古代

『古代の日本は・日本人は凄かった 1(文字なき時代の卑弥呼の謎)』

1万年以上にわたって、農耕なしで、採集・漁労・狩猟により定住した人々の生活と精神文化を伝える文化遺産が、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」として登録されました。 その様なときに、センセーショナルなウエブ情報が目につきました。

 

東北大学名誉教授・田中英道監修、「卑弥呼、埴輪、縄文...、教科書から抹殺された日本史、3つの謎」

卑弥呼の“謎”

ユダヤ人埴輪の“謎”

日本人の起源の“謎”あなたは、

こんな歴史の“謎”をご存知だろうか?

ウエブ情報から引用

最も気になったのは『卑弥呼の“謎”』です。

「中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された、日本史初の女王・卑弥呼。 「邪馬台国」を支配し、中国皇帝からも認められた「倭国の王」である。 しかし不可解なことに、卑弥呼に関する記録も、お墓も、日本では全く見つかっていない。


一国を支配するほどの権力者であれば、死後、地域の神社で祀られるのが普通だが、日本各地の神社にも、遺跡にも、卑弥呼が存在した痕跡が一切見当たらないのだ…(*日本では、聖徳太子や菅原道真、平将門など、国を直接治めていない偉人でさえも、鎮魂の祈りをささげるため、神社がつくられてきた伝統がある

 

また、“邪馬台国の人々の顔や身体には刺青がある”と「魏志倭人伝」には書かれているが、当時の遺跡や遺物をいくら調べてみても、刺青をしているような痕跡はほとんど確認されていない…

 

ちなみに、著者の陳寿という中国人は、実は日本に来たことはなく、伝聞のみ。 つまり“フィクション小説”として、この作品を記したようだが、一体、卑弥呼とは何者だったのか? 本当に邪馬台国は存在していたのだろうか?

 

今までは、歴史も歴史小説も戦国や幕末時代に興味を持っていましたが最近は、俄然古代史です。

・縄文の土偶(縄文のビーナスと遮光器土偶)、

・大和王権と出雲王朝の関係、

・大和言葉と漢文の融合、

・古墳時代の大規模古墳、

・聖徳太子の実像、

・二千年近くも続いた皇室、

・古代史からは外れますが、菅原道真の遣唐使廃止

等々、興味は尽きません。

 

次の既読著書を参考に、さらに下記情報も参考に、情報氾濫の昨今ですが、さらに調べていこうと思っていますが。 

・元首相の言、『歴史は歴史小説から学んだ』と、

・塩野七海氏と五木寛之氏の対談にあった、歴史上の人物の頭の中まではよめない。 だから著者は自由に想像できる、ほとんど

・昭和史発掘の松本清張、

・応仁の乱の評判、

・日本国紀のコピペ騒動、 

 

松本清張氏の『古代史疑義』『火の路』などありますが、『古代史疑義』は難解でした。 近く再挑戦です。

 

梅原猛氏の『梅原古代学』は著名です。 最初の衝撃を受けた著書が『隠された十字架 法隆寺論』、その二年後には『水底の歌 柿本人麻呂論』を発表、遺作が『葬られた王朝-古代出雲の謎を解く-』でした。

 

百田尚樹氏は『永遠の0』や『海賊と呼ばれた男』の著者で知られています。 最新の著書『日本国紀』がいろいろ議論されていますが、この著書の古代史部分に興味がありました。

 

先ずは、世界史の古代史の地域別区分です。 先史時代と歴史時代の区分は文献の存在有無とありますので、エジプトの初期王朝は、エーゲ海文明より古く、古代史に入るのではと思っています。

 

西洋史: 約3000年から約5000年前、古代ギリシャのエーゲ海文明の成立から、476年の西ローマ帝国の滅亡まで。

 

東洋史: 中国では、紀元前778年の秦王朝の成立から、220年の後漢王朝の崩壊まで。

 

日本史:  日本、縄文・弥生時代の後の562年の飛鳥時代(もしくは古墳時代)から12世紀末の平安朝後期まで。

 

中南米:  約3500年前の先古典期・古典期・後古典期から、15世紀に始まった植民地化まで。

 

縄文の土偶 縄文のビーナス

約4000年から5000年前といわれる、縄文時代中期のもの。 エジプトの大ピラミッドの時代に、日本でもこの豊かな表現力。

 

縄文時代の土偶:遮光器土偶

約3000年から4000年前と言われる東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。 この時代にこのファッション、ただ驚くばかりです。

 

大和王権と出雲王朝の関係

弥生時代の日本について書かれた記録は、『魏志』の中の「東夷伝・倭人の条」

とある。

 

先日(20190802)の日経文化欄に載っていました。 

キャプションは『音楽療法、江戸の昔から』です。 まさかと思うほど『昔の日本は凄かった・日本人は凄かった』にぴったりです。

 

光平有希氏の『音楽療法、江戸の昔から』の抜粋です。

音楽療法は、認知症や脳の疾患による後遺症の治療、発達障害の対応など医療現場に広く取り入れられている。 音楽を聴くだけでなく、患者が楽器を演奏したり歌ったりすることで、症状を和らげたり心身の発育を促したりする。

 

日本の音楽療法の起源については、1950年代後半、米国など静養の療法の模倣から始まったという捉え方が主流であったが、江戸や明治の文献『養生書』、『衛生書』に、音楽が心身に与える効能を指摘する場所が見つかった。 

 

江戸期を代表する養生書に、儒学者の貝原益軒の著した『養生訓』(1713年)がある。 益軒は『古人は詠歌舞踏して血脈を養う、身を動かし、気をめぐらし、体を養う』と記す。

 

同じ頃、医師の芝田祐祥は『人養問答』(1715年)でより具体的に『糸竹歌舞は鬱を開き、心を養い、気を巡らす良法なり』と書いた。 『糸竹』つまり三味線や筝。

 

19世紀になると、精神面と並行して、身体機能に音楽が作用を指摘した議論が現れた。 医師の八隅景山は『養生一言草』(1831年)で能楽の謡の発声が、呼吸機能の安定を促すとした。 

 

明治に入ると、東京音楽学校の神津仙三郎の『音楽利害』(1981年)は、『バイオリン演奏が手術時の鎮痛効果を持つ』『笛の音色が耳の神経系に作用し、てんかんなどの治療に効果があるという説。

 

東京府巣鴨病院の医長などを務めた精神科医の呉秀三は明治の終わりに音楽療法を現場で実践した。 1902年の新聞記事に、同病院は音楽界を開き、精神疾患の患者にピアノやバイオリンの演奏、唱歌の合唱などを聴かせて治療効果を測る様子が描かれている。 音楽会には患者自身が三味線を弾いたり清元を謡ったりする演目もあった。

 

興味深いのは、西洋音楽より日本の歌謡音曲のほうがはるかに患者の精神状態を動かしている様子だ。 これ以後、同病院の音楽療法には筑前琵琶や浄瑠璃、浪花節などの演目が頻繁に採用されていく。 と、あった。

 

このシリーズのテーマ『「日本は凄い・日本人は凄い」探し』に、最近、行き詰まっていましたが、今回から捉え方を変えました。 最近の現状を受け止め過ぎて残念ではあり、ちょっと寂しいですが『昔の日本は凄かった・日本人は凄かった』にします。

(記事投稿日:2023/03/10、#635)

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