知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『ミャンマー・バガン・世界三大仏教遺跡の一つ(信仰心の強さ)』 『3,000のパゴダや寺院のほとんどが、11世紀~13世紀に建設!』

2023-03-07 09:00:36 | 寺院・神社・教会

『ミャンマー・バガン・世界三大仏教遺跡の一つ(信仰心の強さ)』

『3,000のパゴダや寺院のほとんどが、11世紀~13世紀に建設!』

 

先ずは、神道について、自然の豊かな日本では『山川草木悉皆成仏』と言われ、自然を信じる八百万の神が親しみやすいですが、この八百万の神とは、『日本の神道で無数に存在する神々の総称』です。 『八』は多いという意味で、神は自然や人間のあらゆるものに宿ると考えられています。 

 

山川草木悉皆成仏』;「山も川も草も木も皆悉く仏に成る」という意味で、草木国土悉皆成仏、山川草木悉皆仏性などと言われ、山も川も草も木などの心を持っていない存在で、自らの意思で修行できない存在であっても仏に成れるという思想は、本来の仏教には無い思想です。

 

日本の宗教は、神道と仏教が多数派を占めています。 その日本においては、『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する』と定められ、国教は定められていません。 また、特定の宗教を信仰していないとして自身を無宗教と認識する者も多くおります。

 

宗教とは、『霊や神を語る文化』などと簡単には言えない難しい課題です。 世界三大仏教遺跡を知ったときに、同じ仏教の遺跡でも規模や形が大きく異なることが解りました。 宗教は、どのようなものを前提としているかによって、次のように分けられているようです。

 

アニミズム………動物や自然物、先祖などの「霊」を信じる
多神教……………さまざまな権能を帯びた「神々」を礼拝する
一神教……………宇宙の独裁者である「唯一神」の権威に服する

悟りの宗教………人生の霊妙な理法を「悟る」ことを目指す

 

宗教のこと、ほんの少しでもわかるほど、宗教の起源が砂漠にある、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の『一神教』では、長い歴史的の中での、終わりなき争いには驚かされています。 同じ『一神教』でも仏教世界の、標題『ミャンマー・バガンの世界三大仏教遺跡の一つ(信仰心の強さ)』、『2,000~3,000のパゴダや寺院のほとんどが、11世紀~13世紀に建設』には凄ささえ感じます。 世界三大仏教遺跡からも夫々が独特の遺跡を残しています。 

 

世界三大仏教遺跡の一つ、広さも最大(信仰心の強さと豊かさ

  • ミャンマー・バガン遺跡群(約40平方km)

ウキペデイア情報から引用

ミャンマーの中央部、エーヤワディ川の中流域に広がる約40㎢の広大な原野に11世紀にビルマ族によって築かれた都市、及び遺跡群。 2000とも3000ともいわれる寺院や仏塔が林立するバガン遺跡。 国民の80%以上が仏教徒といわれるミャンマーにあって、今も多くの仏教徒が参拝に訪れる聖地です。

  

世界三大仏教遺跡の他の二つ

  • カンボジア アンコール遺跡群(約2平方km)(信仰心の強さと豊かさ

ウキペデイア情報から引用

カンボジアのプノンペンの北西約240kmにある世界遺産で、9世紀初頭から約600年間カンボジアを支配したアンコール朝の建築物です。 大小700にも及ぶ遺跡は、自然の浸食や戦禍により荒廃し、崩壊の危機にあり、国際支援による保存、修復が急がれています。

 

  • インドネシア ボロブドゥール遺跡(約15平方km)(信仰心の強さと豊かさ

ウキペデイア情報から引用

インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する大規模な仏教遺跡で世界的な石造遺跡。 8世紀後半に建造された、世界最大級の仏教寺院であり、ボロブドゥール寺院遺跡群の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。

 

宗教と建造物のこと興味は尽きません。

(記事投稿日:2023/03/07、#633)

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『塔(継承と改革 息づく匠の精神) 4(古代日本 塔の来歴)』『「日本で唯一」二層、三層へと登ることができる安来市清水寺』

2022-09-08 23:24:26 | 寺院・神社・教会

『塔(継承と改革 息づく匠の精神) 4(古代日本 塔の来歴)』

『「日本で唯一」二層、三層へと登ることができる安来市清水寺』

 

先般(2020/03/08・03/15・03/22)、日経新聞の日曜日版に美の粋という特集があり、『古代日本 塔の来歴』を掲載していました。


日本の塔は2層から上には上ることを想定していない造り(吹き抜け)だということを知りませんでした。 裳階(仏堂・仏塔などの軒下壁面に取り付けた庇状の構造物)辺りに見える回廊のようなものは、単なる飾りのようです。塔は、観たときには、上りたいと思いますが、上るものでは無く、下から見るものようです。

 

余談ですが、世界盆栽展の最優秀作品を大勢の観客の後ろから呆然と見ていたら、『南ア』から、来日された講師の方から、突然教わったこと、『盆栽は下から見て、巨木に見えるものが良い』とアドバイスをいただきました。 盆栽ズブ素人のアラ傘寿(当時)には、『目から鱗』で即納得でした。


通常、五重塔、三重塔の内部は、立ち入り禁止です。 いつでも、そうですが、特例はあります。 通常、仏塔の中は基本的に非公開で立ち入り禁止ですが『日本で唯一』二層、三層(最上階)へと登ることができる階段が設けられていて『塔の中に入って最上層へと登り「外に出る」こともできる』仏塔が島根県の安来市にある清水寺(きよみずでら)です。

 

安来市清水寺

ウキペデイア情報から引用

天台宗の寺、山号は瑞光山(ずいこうざん)。 中國観音霊場第28番札所、出雲観音霊場第27番札所、出雲国神仏霊場第11番札所。 開山は尊隆上人、本尊は十一面観世音菩薩です。

大阪市堺市中区土塔町の大野寺土塔

塔として、瓦や石で作った仏塔もあるという。 土塔と呼ばれるこれらの塔の存在すら私は知らなかった。 堺市にある土塔は1辺53m、高さ9m、頂部まで13の階段が設けられた13層。 727年、行基によって創建。 これを『ピラミッド』と呼ばす『土塔』と呼ぶ、先哲の方々の敬意と同時にエジプトの影響がここまで及んでいることに驚きました。


平成9年周辺発掘調査時の土塔

ウエブ情報から引用

 

土塔(北西隅より)

ウエブ情報から引用
大野寺は行基(ぎょうき)が建立したといわれる。

行基668-749 飛鳥(あすか)-奈良時代の僧。 和泉(いずみ)(大阪府)の人、百済系渡来人の末という。 義淵(ぎいん),道昭に法相(ほっそう)をまなぶ。 各地で布教のかたわら架橋,築堤,池溝開削,布施(ふせ)屋の設置などにつくして多数の信者を得,菩薩(ぼさつ)とあがめられる。その活動は百姓をまどわすとして一時禁圧されるが,聖武(しょうむ)天皇の帰依をうけ,天平15年東大寺大仏造営の勧進(かんじん)をおこなった。 17年わが国初の大僧正。畿内に49寺院をひらいた。

 

同じような塔・遺跡が岡山県の赤磐市熊山遺跡の山頂にあります。 割石を3段に積んだ、1辺は8m、高さ3.4mの「龕」(仏像を納める区画)を持つ構造だ。

全国唯一の石積遺構

ウエブ情報から引用
この塔の源流はどこかと云う事は分からないらしいが、インドネシアのボロブドール遺跡の名前も類似としてあげられていた。

ウエブ情報から引用

『所変われば・・・』では済まされない、文明・文化の交流は凄いです。

(記事投稿日:2022/09/08、#571)

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『三本柱の鳥居・三柱鳥居(みはしらとりい)のルーツはペルシャ?』 『「木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居」が日本唯一といわれるが!』

2022-08-26 21:33:57 | 寺院・神社・教会

『三本柱の鳥居・三柱鳥居(みはしらとりい)のルーツはペルシャ?』

『「木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居」が日本唯一といわれるが!』 

京都・太秦天神川『木嶋坐天照御魂神社』の、三柱鳥居(みはしらとりい)は日本でもここにしかない珍しい3本柱の鳥居と言われています。 『日本唯一の三柱鳥居』は中国における景教(中国に伝来したネストリウス派キリスト教)の遺物ともされる謎の多い鳥居です。 『木嶋坐天照御魂神社は「このしまにますあまてるみたまじんじゃ」と読み、通称「木嶋神社」と呼ばれています。』

『日本唯一の三柱鳥居』と言われる木嶋神社の三柱鳥居以外は、本来の三柱鳥居とは、少し異なるようです。 

木嶋神社の鳥居

木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)-石造りの三柱鳥居が境内の「元糺の池」の中に建てられている。 現在のものは1831年に再建されたものだが、「北斎漫画」十一集「三才鳥居」に描かれているものは木造。

ウキペデイア情報から引用

 

ウキペデイア情報から引用

三柱鳥居(みはしらとりい)は、鳥居を3基組み合わせたものをいう。 正三角形平面に組み合わされ、隣り合う鳥居同士が柱を共有するため柱は3本である。笠木は井桁状に組まれ、貫は柱を貫かない。神明鳥居を組み合わせたものや、木嶋神社の例のように、笠木に曲線を施したものを組み合わせたものが見られる。 撤去されて現存しないもの、類似したものを含めて12基ですが。

全国の三柱鳥居と呼ばれてはいるが、本来の三柱鳥居とは少し異なる。

  • 東京都墨田区向島三囲神社の石造りの三柱鳥居に囲まれるように井戸が設けられている。『三角石鳥居、三井邸より移す、原形は京都・太秦 木島神社にある。』と説明されている。 三井家では、三囲神社を江戸における守護社と定めた事が理由である。
  • 岐阜県大和町山麓にある三柱鳥居は、標高1000メートルほどの場所にあるが、鳥居がある場所に神社はない。 近隣の林業関係者が山の神への感謝として建立したもので特定の宗派的なシンボルではない。
  • 京都市南禅寺、臨済宗南禅寺派大本山である大寧軒の庭に三柱鳥居がある。この三柱鳥居は木嶋神社のものを模したものであるという。
  • 山梨県富士吉田市不二阿祖大神宮の三柱鳥居、離れた海岸と路上に
  • 長崎県対馬市豊玉町和多都美神社(わたつみじんじゃ)には、社殿横と境内の池に二つの三柱鳥居がある。
  • 東京都新宿区成子天神社境内の手漕ぎポンプが乗っている井戸を覆うように三柱鳥居がある。
  • 岐阜県武儀郡徳積三柱鳥居、中部電力の三岐幹線の鉄塔建設とそれに伴う送電線が鳥居の上空付近を横切って建設されたため、三柱鳥居の神域が汚され、本来の聖地でなくなったと言うことで、撤去された(その場に埋められた)ため現存しない
  • 徳島県名西群神山町の金属製の三柱鳥居は、神山スキーランドホテルの近くにある。
  • 徳島県徳島市の船蓋比売神社の高さ1m弱の3柱の自然石にテーブル状の石板が載っており、鳥居というよりはドルメンのよう、三柱鳥居の原形のようにも見えるのが。
  • 長崎県長崎市の鎮西大社諏訪神社の摂社である「蛭子社(ひるこしゃ)」前にかつて三柱鳥居があったが、今は現存しない

 

『日本唯一の三柱鳥居』と言われる木嶋神社の鳥居の、『中国における景教(中国に伝来したネストリウス派キリスト教)の遺物ともされる謎の多い鳥居』という情報に、興味津々、課題が残りました。 今後の勉強にための、ウエブ情報からの抜粋・引用です。 

『世に三柱鳥居は多数あれどそのほとんどは最近になって建立されたものである。 古代にまで遡れるものといえば、わずかにひとつ。 京都府太秦(うずまさ)にある木嶋坐天照御魂(このしまにいますあまてるみたま)神社、通称、蚕(かいこ)の社の境内にある三柱鳥居だけである。 ちなみに、三井家は蚕の社の氏子で、三囲神社の三柱鳥居も、太秦の三柱鳥居をモデルに造られている。
この三柱鳥居は元礼(もとただす)の池という水の中に立っているのだが、三角形の中心に石積みがしてあり、そこに幣帛(へいはく)が1本建てられている。ここに祀られている神の名は天之御中主神。そう、元初の唯一神なのである。

神社の由来書等には記されていないが、三柱鳥居の中心に天之御中主神が祀られているならば、それを囲む三本柱が意味するのは造化三神にはかならない。大神教会の西野氏が見抜いたように、太秦の三柱鳥居もまた、造化三神のはたらきを象徴した鳥居だと見て間違いないだろう。
しかし、その三柱鳥居に関する案内板を見ると、なんとそこにはこう書かれている。
「一説には、景教(けいきょう)(キリスト教の一派ネストル教、1250年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと云う」 またしてもキリスト教である。 景教とは東アジアに伝来したキリスト教のことで、主にネストリウス派と考えられている。 今日、カトリックやギリシア正教、そしてプロテスタントをはじめとするキリスト教の正統派は、アタナシウス派と呼ばれる流れに属しており、彼らからすればネストリウス派は異端。 451年のカルケドン公会議において、その教義が否認された一派である。 以後、アタナシウス派が地中海やヨーロッパ地方に広がっていくのに対して、ネストリウス派はシリアを拠点として、シルクロードを経由してアジア全域に伝播していくことになる。

中国に伝来したのは、記録によれば635年。これを記念して「大秦(たいしん)景教流行中国碑」が造られている。 日本は、このころ飛鳥時代。 盛んに中国と交流を深め、遣隋使や遣唐使が派遣されていく。 特に、唐の都である長安(ちょうあん)には景教の教会「大秦寺(たいしんじ)」があった。 空海など、日本からの留学生が景教の存在を知っていたのは、ほぼ間違いない。 彼らが大陸の進んだ宗教として景教の教典や教義を日本に持って帰った可能性は大きい。

しかも、興味深いことに、景教、すなわちキリスト教の発祥の地が「大秦」と表記されている。 大秦とは、古代ローマ帝国を指す言葉である。 ひるがえって、三柱鳥居が建っている土地の名前は「太秦」という。「大」と「太」、ともに同じょうな、意味を持つこともさることながら、古文献には太秦を大秦と記したものも少なくない。

さらに、太秦にある広隆寺は別名「太秦寺(うずまさでら)」と呼ばれる。 太秦が大秦と表記されるなら、太秦寺は大秦寺に等しい。 中国の大秦寺は景教の教会ゆえ、広隆寺もまた景教の教会だった可能性が高い。 この事実に初めて気づいたのは、江戸時代の儒学者「太田錦城(おおたきんじょう)」である。彼は随筆集『梧窓漫筆拾遺』の中で、太秦と大秦は同義と指摘。広隆寺は天教(キリスト教)の教会であると主張した。 広隆寺を建立するように指示したのは聖徳太子である。 彼は6~7世紀に活躍した人物で、遣隋使からの情報を一手に握る立場にいた。

籠神社の極秘伝によれば、神道の唯一神信仰が隠されたのは、記紀が編纂される8世紀である。 言い換えれば、8世紀以前の神道には唯一神信仰が存在した。その神道を仕切るのは天皇であり、その一族である。 聖徳太子は、まさにその中心人物だった。となれば、神道の原点に景教、すなわちキリスト教が関与していた可能性は十分あるのだ。』

聖徳太子とキリスト教・景教のこと、この度の表題『「木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居」が日本唯一といわれるが!』をきっかけに勉強していきたいと思いました。

(記事投稿日:2022/08/26、#566)

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『塔(継承と改革・息づく匠の精神) 3(奇数の層塔は耐震構造?)』 『著書「塔」は、哲学者・梅原猛氏の日本学黎明期のエッセイ集』

2022-08-25 09:21:40 | 寺院・神社・教会

『塔(継承と改革・息づく匠の精神) 3(奇数の層塔は耐震構造?)』

『著書「塔」は、哲学者・梅原猛氏の日本学黎明期のエッセイ集』 

梅原猛氏の『塔』への興味を、まだまだ追いかけます。 仏塔の源流は仏舎利を納めるインドのストゥーパ。 大陸や朝鮮半島には、古い木造仏塔が現存せず来歴がはっきりしない、大切なのは相輪であり、塔の木造部分は単なる土台だと表現される。 

鍵を握るのは、心柱の存在かもしれない。 大陸の塔は内部空間を、確保するため心柱はない。 一方日本の塔は、中軸を心柱が貫き、建築構造とは無関係に、独立して立ち、天辺の相輪を支える。

奈良県には世界最古の木造建築が三つあります。 奈良の薬師寺東塔(730年建立)と、それに先立つこと半世紀余、世界最古の木造建築である斑鳩の法隆寺五重塔(金堂と同時の660年頃建立)と法起寺三重塔(706年建立、三重塔では最古)です。 これらの三つの塔は、建立時代はほぼ同じです。

 

法隆寺五重塔

現存する木造建築の五重塔としては世界最古のものである法隆寺五重塔は、初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高く設計されていることが大きな特色です。 五重目の屋根の一辺は、初重の屋根のおよそ半分のサイズです。 塔身もまた、下層から上層へ行くにつれ、細くなっています。

ウエブ情報から引用

 

法起寺三重塔

聖徳太子の実在を裏付ける寺、聖徳太子が実在しなかったとすると、聖徳太子が山背大兄王に遺言として法起寺(岡本宮の寺への改編)の創建を託したことも事実では無かったことになり、法起寺が誰によって創建されたのかも謎になってしまいます。 聖徳太子のシンパは聖徳太子複数人説の方が信じられます。

ウエブ情報から引用

『塔』は、唯一実用性のない建築物だ。 時計台や鐘楼に利用するのは二次的なもので、あくまで非現実的、精神的目標の表れともいわれる。 梅原猛氏は、西洋の塔は『生』だという。 頂上に権力者がいる。 上へ、上へ無限に己を越えて進行する、生への意志の表現。

 

ドイツ ケルン大聖堂:世界最大のゴシック建築

ウエブ情報から引用

それに対し、日本の塔は「死」のしるし。 塔の始まりである仏塔には、下に釈迦の舎利が埋まっている。 この死の思想が西洋と違うところで、キリストは復活するから。 果て無く上を目指す限り塔は未完。 けれど日本では、完結しないものは美しくない。 終の美学がある。死の哲学が存在する。 

実は仏教が来る前から、日本にも塔はある。 それが古墳。 権力の象徴、かつ死の記念塔。 その割に古墳は高くない。 古墳制作者には明確な意図があるという。 それは『円部の高さと直径を等しく』することで、目指したのは三輪山の形。 権力者は神になることを目指したのか。

 

三輪山=御神体

ウエブ情報から引用

だから、高くするには直径が必要になる。 故に古墳は世界一大きいが、高くはならなかった。 そして円部が埋葬場所なら、方部は、死者との交渉の場ではないか。 時代と共に方部先端は広がる。 権力者が強大化すると、支配される人も増え参拝や祭祀を行う場所も広がっていったのではないか。

 

前方後円墳

ウエブ情報から引用

円と方のバランスは変化する。

 

大仙陵古墳は世界一大きなお墓

ウエブ情報から引用

『隠された十字架』を読んだときは、法隆寺が聖徳太子の怨霊封じ込めだ、というのが印象的だったけれど、ここでは聖徳太子伝説の作成に『景教』が影響していることを考察していてそれがとても興味深かった。

 

談山神社の十三重塔は唯一現存する十三重塔

ウエブ情報から引用

『「塔」は、唯一実用性のない建築物だ。』という方もおるようです。 『十三重塔』は当初、白鳳7年(678年)に定恵(藤原鎌足の長男で、遣隋使と共に唐に留学)が父の供養のために建立していました。 現存する重要文化財の美しい『十三重塔』は享録5年(1532年)に再建されたものです。 木造の十三重塔としては日本で唯一であり、そして世界最古。 

やはり、日本の塔は、神秘と夢があり、これからも楽しみが残りました。

(記事投稿日:2022/08/25、#565〙

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『塔(継承と改革・息づく匠の精神) 1(奇数の層塔は耐震構造?)』―著書「塔」は、哲学者・梅原猛氏の日本学黎明期のエッセイ集―

2021-03-17 13:31:45 | 寺院・神社・教会

『塔(継承と改革・息づく匠の精神)1(奇数の層塔は耐震構造?)

著書「塔」は、哲学者・梅原猛氏の日本学黎明期のエッセイ集―

 

薬師寺国宝東塔

薬師寺境内の建物は、西塔などが近年復元された建物であるのに対し、この「東塔」は薬師寺の建築物としては最も古い天平2年(730年)頃に建立されたとされる築1300年近い存在.(現代の鉄筋コンクリート造りの耐久年数100年前後に対して、『凄い』の一言です。) 

 

『更に、余計な一言ですが、この度のオリンピックスタジアム(新国立競技場)の建造費があれば、木造天守閣の建設が期待されている、江戸城・駿府城・名古屋城・他が建造できます。』

 

「薬師寺東塔」は、2009年7月に全面的な解体大修理事業に着手しました。2020年4月に落慶法要及び一般公開を予定しておりましたが、新型コロナウイルス感染拡大により延期しております。

 ウェブ情報から引用

 

塔、特に層塔、に興味を持ったのは、偶数層塔はなく、皆奇数層塔であること。

また、当然ですが、高層ビルが地震で一番大きく揺れる階は、最上階であることですがそれなら、層塔には、奇数層塔に限らず、偶数層塔もあっても良いではないかと素人は思ってしまいました。

 

ウェブ情報の抜粋・引用です。

『五重の塔と超高層ビルは周期2~3秒以上の固有周期を持つ構造物と見れば「同じもの」といえる。 基礎から天頂部までを貫通する「心柱」が全体を支え、各層の「側柱」が地震時にずれることで振動を減衰させるようになっているが、その減衰作用は、超高層ビルでは「制震ダンパー」という装置が担っているのだ。そして、超高層ビルという建物が持つ、とてつもなく大きな垂直方向の自重に加えて、地震と風といった水平方向の外力に耐える、しなやかな高強度材料による骨組みも、超高層ビルの高い変形能力を支える、折れない工夫なのである。』

 

一方、偶数層塔が存在しない理由は、奇数は縁起が良いものであると考えられていたためです。 ただし、物や行う事の内容によっては適さないとされるものもありますが、奇数が陽であり、偶数が陰であるとされています。

 

この思想は、古くからインド哲学(六師外道・六派哲学の思想など)にあり、 古代インド思想では、火・水・地を「三大」、または地・水・火・風を「四大」 とする。 これらに「虚空(アーカーシャ)」を加えて「五大」とする思想が現れた。

 

なぜ五重塔が多いのかと言えば,五大思想にあうからです。 偶数のものを作らないのは,縦に作るものは陰陽思想から奇数と決まっているからです。 奇数は動的,陽的で不安定を表し,偶数は静的,陰的で安定を表します。 偶数のものは横に広がるものに使われます。方位も四方位とか八方位です。 逆に縦に登っていくもの,例えば神社の石段の数は奇数で作ります。

 

仏教では、とくに奇数を重視するという考えはありません。 しかし、8は悟りを表す聖数として意識します。 そうして聖数であるがためにあえて表示せず(例えば、日本古代に天皇の姿を御簾で隠すのと同じ発想です。 あえて8を明確には表さず、その直前の7で代用するという方法が採られます。 例えば、末法の世界に再び救済をもたらす弥勒の降臨は、56億7千万年後ですが、これは弥勒の成仏を8と捉え、5→6→7という形で8への接近を表現したものです。

 

七重塔なども、こうした表現のひとつであると理解できます。 一方中国においては、古く殷帝国の頃より3を神聖な数として意識し、後天・地・人を表象するものとして意味づけされてゆきます。また、易の概念では奇数は陽数であり、天を象徴するものであって、とくに9がその最大の数であると位置づけられています。恐らくはこのような観念の複合から、神聖なる7に隣接する陽数として、3や5、9などが選択され、とくに天へ伸びてゆく建築である塔の〈理屈〉として構築されていったのでしょう。

 

偶数・奇数について余談です。

『欧米諸国では違って、英語では、偶数を「even」(ちょうど)、奇数を「add」(付け加えられたもの)から転じた「odd」(奇妙な・半端な)と言い、明らかに偶数優先主義である。 モーゼは「十戒」、キリストの弟子は「十二使徒」、オリンピックや米大統領選挙は四年に一度だ。外国紙幣では、二十米ドルや二万インドネシアルピアなど、偶数のお札は不思議ではない。』

 

『塔』はインドのサンスクリット語の『stupa 卒塔婆(そとば)』又は、プラークリット語の『thuva 塔婆(とうば)』の略称と言われています。

 

なぜ、三重塔・五重塔・七重塔・九重塔・十一重塔・十三重塔なのか。

層塔で一番多いのは、三重塔、次いで五重塔、百済大寺には七重塔(現存せず), 京都決勝時には九重塔(現存せず)、バリ島のPura Taman Ayunの茅葺十一重塔、十三重塔は、奈良談山神社に現存します。

 

中国の陰陽思想では、奇数を陽、偶数を陰とします。 陽は能動的、陰は受動的働きを表すが、どちらが良い悪いでなく、あくまで陰陽の和合によって宇宙のバランスが保たれると。

 

表題に戻ります。

 

昔、お世話になった会社が、有楽町の朝日新聞本社(当時、今は築地に)の向いでしたので、近くのバーで朝日新聞の方々にお会いする機会があり、その頃、梅原猛の著書を初めて紹介頂いたのが、下記三点でした。 当時は普段全く目に触れない本でしたので新鮮な感激でした。

 

『塔』

ウェブ情報から引用

 

『隠された十字架』

ウェブ情報から引用

 

『水底の歌』

ウェブ情報から引用

 

人物・梅原猛氏のウェブ情報です。

日本仏教を中心に置いて日本人の精神性を研究する。 西洋哲学の研究から哲学者として出発したが、西田幾多郎を乗り越えるという自身の目標のもと、基本的に西洋文明(すなわちヘレニズムとヘブライズム)の中に作られてきた西洋哲学、進歩主義に対しては批判的な姿勢をとる。 その根幹は、西洋哲学に深く根付いている人間中心主義への批判である。 西洋哲学者が多い日本の哲学界の中で、異色の存在である。

 

『塔』の中でこう言っています。

まったく同感! 「日本書紀は正史」とは言うが、当時の権力者による「勝者の記録」であり、藤原不比等の意向が反映されている。

 

法隆寺に建立に関する独特の解釈。 『隠された十字架-法隆寺論』(1972年)で展開。 法隆寺を聖徳太子一族の霊を封じ込め鎮めるための寺院とする説。その中から、大胆な仮説を刊行して毎日出版文化賞を受賞している。

 

柿本人麻呂の生涯に関する新説。 『水底の歌』(1972年-1973年)で展開。 「柿本人麻呂は低い身分で若くして死去した」という近世以来の説に異を唱え、高い身分であり高齢になって刑死したとする説。 正史に残る人物、柿本を柿本人麻呂とする。

 

その問題作に至る過程の思索が、この本で。1970(S.45)から2年間、「芸術新潮」に連載の梅原日本学黎明期のエッセイ集が『塔』です。

 

『塔』への興味はまだまだ続きます。

        (20210317纏め、#296)

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