知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『平安時代、天皇家の子孫も含む朝廷の武官が地方で成長し、豪族武士団となり、地方豪族間で発生した戦乱が拡大、承平天慶の乱「平将門と藤原純友」対「朝廷」に発展!』

2024-08-08 16:45:23 | 寺院・仏閣・神社・お社
『平安時代、天皇家の子孫も含む朝廷の武官が地方で成長し、豪族武士団となり、地方豪族間で発生した戦乱が拡大、承平天慶の乱「平将門と藤原純友」対「朝廷」に発展!』

古代から続く日本の歴史、特に、『天皇制』という素晴らしい歴史の中で、『神話と共に成立し、以来二千年近く、一つの国が続いた例は世界のどこにもありません。 これ自体が奇跡といえるほどです。』と百田尚樹氏著の『「日本国紀 上」の序にかえて』にありました。 そんな中で、公家社会は、奈良時代から平安時代にかけて形成され、特に平安時代(794年~1185年)に栄えました。

武士社会は、平安時代末期から始まり、鎌倉時代(1185年~1333年)に本格的に成立しました。その後、室町時代(1336年~1573年)、戦国時代(1467年~1603年)、江戸時代(1603年~1868年)を経て、明治維新(1868年)まで続きました。

その武士社会の始まりは、一般的にはこう紹介されています。 中世の主役は武士で、武士の出現した理由は、律令体制の下、税が払えず口分田を捨て逃亡した人達が、その土地の権力者や貴族に雇われ、新しい田を作ります。 『墾田永年私財法』により新しく耕作した田は、自分の物にして良いことになったからです。

このような方法で権力者や貴族は、各地で私有地を拡大し、これらは荘園と呼ばれるようになりました。 労働力と金さえあれば、荘園はどんどん増やすことが出来ます。 時には、荘園の奪い合いが起こりました。 自らの土地は自らで守るために、貴族が武士となる場合もありますが、専門的職業として武士になる者もいて、荘園を守る警備の役割として雇われることもありました。
以上が、武士が現れてきた過程のようです。 
 
10世紀になると、いよいよ各地で武士が成長し始めます。
初めは荘園を守るためであった武士も、いつしか朝廷や国の役人になって、天皇御所の警備、犯罪の取り締まりなどに当たるようになりました。
 都では、貴族の屋敷を警備する武士もいました。

地方の豪族たちも武士になりましたが、中央では、天皇の子孫も武士として台頭し、活躍したのです。  天皇の血を引く武士団、彼らは特別に源氏と平氏
 と呼ばれます。 源氏平氏の名が全国に響き渡った出来事がりました。

平将門の乱(935~940年)
平氏の始祖、高望王は関東で勢力を造った武士で、元々は関東の役人で勢力を広げ、領土が大きくなり、一族に争いごとが起こります。 高望王の孫、平将門は戦上手で、領民からの評判も良く、他の土地から流民も増えました。
平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。 やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、その拗れから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。 将門は関東を制圧して新王と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた
新王
『桓武天皇の血を引いているものとして、新王を名乗り関東を治めよ』との菅原道真の霊魂からのお告げがあったという伝説があります。

藤原純友の乱(939~931年)
藤原純友は藤原道真の子孫でエリート族、瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていたが、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。 結果として蜂起に至った。 西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた

前九年の役(1051~1062年)
永承6年(1051)から康平5年(1062)にかけて、陸奥の豪族安部頼時とその子貞任・宗任らが起こした反乱を、朝廷が源頼義・義家を派遣して平定させた戦役。 後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築くきっかけとなった。

後三年の役(1083~1087年)
永保3~寛治元年(1083~87)に奥羽で起きた戦い。 前九年の役後、奥羽に力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守として赴任した源義家が介入し、藤原清衡を助けて清原家衝・武衝を滅ぼしたもの。 清衡は奥羽の地盤を引き継ぎ、源氏は東国に基盤を築いた。

 ウエブ情報から引用

承平天慶の乱は、平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称である。 一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。 ただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものであった。 「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。 鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなった。

瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。

なお、この反乱は一般に承平・天慶の両元号の期間に発生したことから「承平天慶の乱」と呼称されているが、承平年間における朝廷側の認識ではこの当時の将門・純友の行動は私戦(豪族同士の対立による私的な武力衝突)とその延長としか見られていない。

承平天慶の乱意義
二つの乱は、ほぼ同時期に起きたことから将門と純友が共謀して乱を起こしたと当時では噂され、恐れられた。 これらの乱は発生期の1世代目から3世代目にかけての武士が、乱を起こした側、及び鎮圧側の双方の当事者として深く関わっている。 乱を起こした側としては、治安維持の任につく武芸の家の者としての勲功認定、待遇改善を目指す動きを条件闘争的にエスカレートさせていった結果として叛乱に至ってしまった面を持ち、また鎮圧側も、乱を鎮圧することでやはり自らの勲功認定、待遇改善を図った。 結果として鎮圧側につくことでこれらの目的を達成しようとする者が雪崩的に増加し、叛乱的な条件闘争を図った側を圧倒して乱は終結した。
また、鎌倉時代には源実朝が「将門合戦絵」を描かせたり、神田明神が江戸幕府によって「江戸総鎮守」とされたりするなど、武家政権が将門を東国武家政権の先駆けとして強い親近感を抱いていることも特徴的である。
(記事投稿日:2024/08/08、#763)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『美しい地球!旅行のススメ 005(南米アンデス山脈の不思議な風景「レインボー・マウンテン」、と同様に中国の「七彩山」がシルクロード沿いに、どちらも海洋プレートの大陸への潜り込みで!』

2024-07-28 22:58:21 | 寺院・仏閣・神社・お社
『美しい地球!旅行のススメ 005(南米アンデス山脈の不思議な風景「レインボー・マウンテン」、と同様に中国の「七彩山」がシルクロード沿いに、どちらも海洋プレートの大陸への潜り込みで!』

『原因は、「アンデス山脈の下に太平洋プレートの潜り込み」、アンデス山脈が隆起・褶曲、「ユーラシアプレートの下にインド洋プレート潜り込み」チベット高原が隆起・褶曲」!』

『「アフリカ大陸がユーラシア大陸に衝突」でアルプス山脈が、「インド大陸がユーラシア大陸に衝突」してヒマラヤ山脈に!』

南米ペルーアンデス山脈のレインボー・マウンテン(標高5100ⅿ)

 ウエブ情報から引用

ペルーのアンデス山脈の標高約5,100mの「ヴィニクンカ山(Vinicunca)」は、山頂が青や黄色、青など、虹色に染まることから、「レインボー・マウンテン(Rainbow Mountain)」と呼ばれています。 このカラフルな色は、地層に含まれている鉱物が太陽光に照り付けられて酸化したことによって、生まれたそうです。 この山が発見されたのは10年前とかなり最近のこと。 温暖化で氷河や万年雪が溶解したためだそうです。

地球は不思議です。 大陸が衝突してできた、ヒマラヤ山脈やヨーロッパアルプスには活火山はありませんが、プレートの衝突(太平洋の下のナスカプレートが南米大陸にぶつかりその下に沈み込んだ結果形成)によりできた褶曲山脈の、アンデス山脈やロッキー山脈は、火山が沢山あります。 ヒマラヤ山脈やヨーロッパアルプスには、地球温暖化で、万年雪や雪渓や氷河が溶けても、レインボー・マウンテンが現れることはないでしょう。

アジアの中国甘粛省の絶景、張掖丹霞地貌(七彩山)

ウエブ情報から引用

丹霞地貌とは、切り立った断崖などを特徴とする、赤みがかった堆積岩が隆起した地形を言います。 名前の由来は広東省の丹霞山ですが、『丹』は赤や朱色、『霞』は夕焼け等で空が赤く染まることやそれに伴ってできる鮮やかな色の雲を表します。 2002年に発見され、2008年により一般公開されたまだまだ新しい観光地である張掖丹霞地貌は、漢の武帝がこの地に張掖郡を置いてからシルクロードの中枢都市として栄え、また元代にはマルコポーロも滞在した張掖市より西へ約40㎞のところに位置します。 2400万年前に形成された砂岩やその他の鉱物による堆積、隆起、風化、浸食作用などにより、赤に限らず様々な色や形の岩が形成され、また太陽光により色の見え方が変わることから「七彩山」とも呼ばれています。

大陸の衝突でできたヒマラヤ山脈には『七彩山』は存在しません。 ユーラシアプレートの下に潜りこんだインドプレートの浮力でチベット高原が隆起をはじめ、それは今も続いています。 この褶曲山脈には、『張掖丹霞地貌(七彩山)』が存在します。 広いユーラシア大陸には、欧州アルプス山脈とアジアのヒマラヤ山脈がありますが、褶曲山脈ではありませんので、『七彩山』も『レインボー・マウンテン』は存在しません。 地球は不思議でいっぱいです。

この掛替えのない『宇宙船地球号』『水の惑星』『緑の地球』を守っていかなければなりませんので、何とか間に合ってくれと、祈りながら、みんなでやれる『節電・節水・節肉食、移動には歩行・自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂きたい、CO2排出削減は、次のビッグ3『発電業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 

みんなでやる『「節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車」「プラチック使用減らす(土に還るプラスチックでも製造時はCO2を!)」は、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小にはなりますが、これ以外に80億人の個人で、何かできるでしょうか。 限界のある狭い地球で80億人が暮らすには、皆で摂生し、質素な生活が必須です。
(記事投稿日2024/07/28、#762)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『美しい地球!旅行のススメ 004(海の京都の五つの絶景『日本に10ヶ所だけのユネスコ世界ジオパーク」に認定された「山陰海岸」』

2024-07-23 15:48:47 | 寺院・仏閣・神社・お社
『美しい地球!旅行のススメ 004(海の京都の五つの絶景『日本に10ヶ所だけのユネスコ世界ジオパーク」に認定された「山陰海岸」』

『その山陰海岸の京都の丹後地方の驚きの五つ風景が「天橋立」「伊根」「経ヶ岬」「立岩」「美山かやぶきの里」』

先日BS朝日で、丹後半島にある、数百万年もの長きに渡る地球の営みが生み出した雄大な絶景の数々が、そこは日本にわずか10ヶ所しかない「ユネスコ世界ジオパーク」に認定された『「山陰海岸」の丹後地方』の驚きの風景が広がっていました。 

2024年6月3日現在、日本ジオパーク46地域、その内10地域(「アポイ岳」「洞爺湖有珠山」「糸魚川」「山陰海岸」「島原半島」「室戸」「隠岐」「阿蘇」「伊豆半島」及び「白山手取川」がユネスコ世界ジオパークです。 ジオパークをめざす準会員地域も8地域あります。
ユネスコ世界ジオパーク
ユネスコ世界ジオパークは、48か国213ヵ所あります。(2024年3月28日現在)
 そのうちの10ヵ所は、日本にあります。

  1. 「天橋立」、龍が天に舞い上げるような眺め
 
ウエブ情報から引用

「天橋立」、国宝 雪舟の絵 

 ウエブ情報から引用

自然は不思議でいっぱい。 天橋立の奇跡のような地形がどのようにして生まれたかの理由『宮津湾の海岸流と阿蘇海の海岸流の「せめぎあい」でも「合成波」にはならず、巨大な、長さ3.6㎞、最大幅170ⅿの「砂州」作った』。
 
ウエブ情報から引用

2. 「伊根」、「京都のヴェネツィア」と言われる伊根の舟屋
 
 ウエブ情報から引用
江戸時代の中頃から作られるようになった舟のガレージ「舟屋」が真っ青な海の上に並び建つ姿はまさに圧巻。

伊根湾内の波は穏やかで、また三方を囲んでいる山は硬い岩山で傾斜が急なまま海低にまで続き、水深が急激に深くなり、波を起こしにくい地形を形成している。 また潮の干満の差も少なく年間の平均潮位差は50 cm程度である。 世界によくある干満の潮位が数メートルから十数メートルと大きいところは遠浅で逆Ⅴ字形の海岸に即納得できました。

3.「経ヶ岬」地名の由来
 
ウエブ情報から引用

丹後半島北端を構成する岬の周囲は、安山岩による柱状節理の発達した海蝕崖になっている。 名前の由来は『宮津府志』によると、岬を取り巻く柱状節理が経巻を立てたように見えることによるとされている。 世界中どこにでも、と言っていいくらい柱状節理は見られます。 生成原理は同じですが、主な分布は四角形、伍角形ですが、七角形もあります。

4.「立岩」、「丹後のエアーズロック」と呼ばれる名所には、あの聖徳太子にまつわる伝説と、天橋立にも通じる古代ロマン。

まさに「丹後のエアーズロック」
 
ウエブ情報から引用
高さは20ⅿですが、昔、ほんの少し「岩(ロッククライミング)」やったプチ山男なら、フリークライミングでもいいからヤラセテほしいなどと不謹慎なことは言いません。

日本海の夕景はやはり美しい

 ウエブ情報から引用

5. 「美山かやぶきの里」江戸時代から昭和にかけて建てられた、懐かしさ感じるニッポンの原風景。 平家の落人部落ではなかった。 最高の風景「藁ぶき屋根の山里に赤いポスト」。
 
ウエブ情報から引用

当集落は中世には、林業を主産業とする山村集落。 集落の中を通る街道は、いわゆる鯖街道の一つとされ、京都と若狭の中間地であり、多くの旅人が行き来していた。 そういった背景から、この集落の建築や生活様式はいろいろな地方の影響を受けたといわれる。 北村は近世には篠山藩に属し、近隣の村とともに「知井9か村」と称された。

「天橋立」の生成と大きさに驚き、
「伊根」「京都のヴェネツィア」の潮汐の不思議を思い、
「経ヶ岬」と「立岩」「丹後のエアーズロック」に柱状節理を身近に感じ、
「美山かやぶきの里」は日本の冬景色にシビレました。

この掛替えのない『宇宙船地球号』『水の惑星』『緑の地球』を守っていかなければなりませんので、何とか間に合ってくれと、祈りながら、みんなでやれる『節電・節水・節肉食、移動には歩行・自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂きたい、CO2排出削減は、次のビッグ3『発電業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 

みんなでやる『「節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車」「プラチック使用減らす(土に還るプラスチックでも製造時はCO2を!)」は、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小にはなりますが、これ以外に80億人の個人で、何かできるでしょうか。 限界のある狭い地球で80億人が暮らすには、皆で摂生し、質素な生活が必須です。
(記事投稿日2024/07/23、#761)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『卑弥呼・邪馬台国は神秘的? その真実を知ることは難しい 2』 『邪馬台国 vs 出雲王朝 vsヤマト王権(大和朝廷)の歴史的つながりを知るため日本古代史の「空白の150年」「空白の4世紀」を』

2024-07-13 10:24:29 | 寺院・仏閣・神社・お社
卑弥呼・邪馬台国は神秘的? その真実を知ることは難しい 2』

『邪馬台国 vs 出雲王朝 vsヤマト王権(大和朝廷)の歴史的つながりを知るため日本古代史の「空白の150年」「空白の4世紀」を』

『文字の記録がない邪馬台国と、文字の記録があるヤマト王権は、其々が北九州(?)と畿内に100年以上の時間差で存在し、邪馬台国は、後発のヤマト王権に組み込まれたか、滅ぼされた可能性?』

冒頭から余談で恐縮です。 先ずは、「卑弥呼」の名前のこと、
「卑弥呼」という名前は、中国の歴史書『魏志人伝』にのみ登場します。 
魏志倭人伝
 ウエブ情報から引用
そして卑弥呼の時代の日本には、まだ漢字が文字として使われていませんでした。 これらの点から「卑弥呼」の漢字名は、この名前を聞いた中国の役人が発音に近い漢字を当てたものと考えられています。 「卑しい」という差別的な漢字が当てられている理由としては、中国側が日本を格の低い国と見くだしていたとする見解が有力です。

 
次に「倭人・倭国」の「倭」の意味
紀元前から中国各王朝が中国東南の地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国と自称した。 なお倭人は、倭国の国民だけを指すのではない。 邪馬台国、卑弥呼はまちがいなく蔑称。 中国は周辺の民族自体を、『南蛮東夷北狄西戎』と。 倭国、倭人というのも蔑称だが、人偏の漢字を充てているだけまだ良いと言われています。

標題に戻ります。
日本古代史の四世紀の記録が中国の歴史書にだけで、日本の歴史にはほとんどなく『「空白の150年(266年~413年)」または「空白の4世紀」に日本で何が起きていたのか』とかと、問われています。 漢字が朝鮮半島経由で渡来し、本格的に使われ始めたのは5世紀以降ですので記録のない「空白の4世紀」は、やはり興味津々です。

今後の調査のためにこの『4世紀の空白の150年(文字の記録がない)』を箇条書きに整理してみます。 空白の150年はいつなのかと言えば、西暦266年から413年までの約150年間を指します。

名前  空白の150 年
別名  空白の4世紀
時期  266年~413年
空白の150年前夜:
卑弥呼の朝貢
   西暦238年に遼東の公孫淵が魏の司馬懿によって滅ぼされると、すかさず
 邪馬台国の卑弥呼は魏に朝貢。

邪馬台国と魏の蜜月関係
  魏の曹叡または曹芳は邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王とし厚遇。

呉の遼東半島進出
  孫権の遼東半島への進出は確実にあったわけであり、呉は楽浪郡や帯方
   朝鮮半島にまで影響力。
  倭国で言えば魏が邪馬台国に味方し、狗奴国の裏には呉がおり、邪馬台
  国と狗奴国の戦争は魏と呉の代理戦争。

西暦266年に至るまでの経緯
  邪馬台国の卑弥呼は狗奴国を完全に滅ぼす事が出来なかった様であり、
  248年頃に死去。 倭国では男王が立ちますが、国を安定させる事が
  出来ず13歳の台与が後継者に、晋書によれば256年に倭国の女王が
  朝貢、これが台与か。

空白の150年の前期:
 邪馬台国の衰退
  空白の150年は266年からですが、空白の150年の前半では邪馬台国の
  衰退。

 大和王権の国力増
  卑弥呼の時代に九州では鉄が普及、近畿ではまだ青銅器の時代。
  雑木林が多い九州の地形に対し、大和盆地の中央には奈良湖があり、
  湿地帯が多かった事で開墾が非常にやりやすく大和王権は勢力を拡大
  邪馬台国や狗奴国が戦争を繰り広げる中で、大和王権は地形効果と
  天然の要塞に守られ国力を高めた。

空白の150年の中期:
 中国・四国地方の動向
  近畿の大和王権と九州の邪馬台国の間には、四国や中国地方などが
  存在。 四国や中国地方の諸国では九州の邪馬台国に与するか近畿の
  大和王権に与するかの選択肢はあった。

 ツヌガアラシトの来日
  朝鮮半島南部にも倭人がいた事が分かっていますが、邪馬台国が弱体化
  し頼りにならず、代わりに大和王権に後ろ盾になってくれる様に要請。

 邪馬台国の滅亡
  古事記や日本書紀の記述に、景行天皇が自ら九州に遠征。
  日本書紀によると神功皇后の時代に百済から七支刀を贈ってきた話しが
  あり、この七支刀が現存しており銘文から神功皇后の52年が紀元前369
  年。記紀には仲哀天皇や神功皇后が九州に上陸した話も掲載
  空白の150年の中期には邪馬台国は滅亡したと考えるのが妥当。 邪馬
  台国が滅亡した時期は、中国では五胡十六国となっており、北方は異民
  族の流入もあり大混乱の時代。倭国を見ている様なゆとりはなかった。

空白の150年の後期:
 倭国と大和王権
  神功皇后が摂政を行っていた時代に、田油津媛の討伐に成功するなど
  九州北部も大和王権の支配下に。 神功皇后が九州を平定する前であれ
  ば倭国と言えば邪馬台国や奴国などの北部九州に国々を指した。 神功
  皇后が九州を平定してからは、倭国と言えば大和王権を指す。

 朝鮮半島から見た空白の150年
  高句麗を北に駆逐した百済は首都を漢城に遷し国として勢い。 高句麗
  が再び南下して攻めて来る可能性は十分にあり、対策を練る必要。
  当時の東晋は山東半島まで領土を得ており、百済は黄海を渡り東晋への
  朝貢を、さらに、百済は倭とも友好を深める。

空白の150年の末期
 前秦の崩壊
  前秦は370年に前燕を滅ぼしただけではなく、376年には前涼を滅ぼし
  たが、383年に前秦は南下しますが、淝水の戦いで東晋の謝玄に大敗
  北。 急激に衰え、394年には呆気なく滅亡。

 騎馬隊の恐ろしさ
  高句麗は歩兵と騎兵合わせて5万を率いて、高句麗は重装騎兵まで持っ
  ており、日本軍は新羅の救援に赴き、公開土王妃によれば倭軍は退却す
  るも高句麗軍に蹴散らされた。

413年の謎
 倭と高句麗の共同入貢説
  空白の150年は一般的には、413年に倭国が高句麗と共に東晋へ朝貢を
  行った事で終わったと考えるのが普通。

 高句麗が嘘を述べた説
  413年には倭国は朝貢してはおらず、高句麗側が自分を大きく見せる
  為に、倭国の者を引き連れて入貢したとする説。

今後も『空白の150年(空白の4世紀)に日本で何が起きていたのか』を、さらに調べていくと、もう少し『記録のない部分の日本の古代史』が分かるような気がしてきました。
(記事投稿日:2024/07/13、 #758)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日経新聞(20240709)の『「中国の水問題、深刻化は不可避」 対岸の火事、他人ごとではありません。多組織・多規制を乗り越えて!』

2024-07-09 16:07:58 | 寺院・仏閣・神社・お社
『日経新聞(20240709)の『「中国の水問題、深刻化は不可避」 対岸の火事、他人ごとではありません。多組織・多規制を乗り越えて!』

『水不足の危機発生が、広範囲の電力不足と食糧価格の高騰へ』

中国中央部に広がる平原に位置する河南省確山県――。 通常ならこの時期、畑ではトウモロコシが青々と育っているはずだが、今年は土が茶色く乾燥し、砂ぼこりが舞い上がっている。 この2カ月ほぼ雨が降らず、村の井戸は干上がりかけている。
『我々が食べていけるかは天帝次第だ』と農業を営むヤン・ニンさん(67歳)は天候をつかさどる神に触れ、こうこぼした。 『祈ってどうにかなるものでもない』。中国の8つの省を襲っている今の干ばつは、多くの地元民の記憶の中でも最もひどいという。
中国の中央部と北部の一部の水不足は、そこそこ深刻になると予想される。 中国人口の4割が暮らす北部の省の多くは、国連が定めた『水供給の基準』に足りていない。

一方、南部では集中豪雨が以前より頻発しており、6月には洪水と土砂崩れで数十人か死亡、数千人が避難を強いられた。 だが南部ではこの3年、毎年干ばつも起きている。

中国では今後、豪雨の頻度が高まる一方で、降雨不測の期間が長期化すると予想されているという(昨年水不足に直面した浙江省台州市)

 ウエブ情報から引用
世界にの淡水に占める中国の割合は6%だがこれで世界人口の2割を占める同国民の渇きを満たさなければならない。  そのため中国の指導者らは長年、水を比較的豊かな地域から少ない地域に運ぶ大型インフラ計画を進め、水不足に対応してきた。 (大型インフラ京杭大運河は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500kmに及ぶ大運河。 途中で、黄河と長江を横断。 この運河は物流のみと思っていましたが閘門を使って水も運んでいたのです。
ただ、水需要が拡大する中、天候不順が悪化しているため水移転計画は一段と複雑さを深めている。 問題は干ばつと洪水だけでなく、温暖化による異常気象の影響;
①  西部地域では水源、ヒマラヤ氷河が縮小を、氷河からの雪解け水が減少、
②  四川省では何か月も雨が降らず水力発電量が半減、
③  南水北調(南の水で北を潤す)のための京杭大運河も物流が主、
④  人工雨(クラウドシーディング)まだ『コスパ』が定まっていない、
⑤  中国北部の人為的に低く抑えた水道料金もあり、節水・値上げも困難、
⑥  大量の冷却水を使うデータセンター、
⑦  地下水くみ上げの限界、
⑧  食料輸入を増やし、仮想水輸入、
関係者は、中国のどこかで水の危機が発生し、それが広範囲の電力不足と食糧価格の高騰招く事態は避けられないとみている。 もし中国政府が水需要の抑制への取り組みを遅らせるのであれば『それだけ問題はさらに深刻なものになる』とけいこくする。
水問題は、ほんの一部の国を除き、世界中共通です。 中国は強いリーダーの元で、IT・AIが進んでいます。 日本の多組織・多規制の下で『なんでも、先送り』ですので、本当にタフな問題です。
毎度の繰り返しになりますが、多組織・多規制の国です。 このようになった現状を、一つずつ丁寧に『部分最適』ではなく『全体最適』を常に考えて何事も進めて行きたいものです。
便利さの追求は、地球に、どんどん負担をかけます。 人類がより楽に楽しく過ごそうとすれば、いつでも環境に負荷をかけることになります。 この掛替えのない『宇宙船地球号』『水の惑星』『緑の地球』を守っていかなければなりませんので、何とか間に合ってくれと、祈りながら、みんなでやれる『節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂きたい、CO2排出削減は、次のビッグ3『発電業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 
みんなでやる『「節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車」「プラチック使用減らす(土に還るプラスチックでも製造時はCO2を!)」は、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小にはなりますが、これ以外に80億人の個人で、何かできるでしょうか。 限界のある狭い地球で80億人が暮らすには、皆で質素な生活が必須です。
(記事投稿日:2024/07/09、#757)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする