知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『史上最強の柔道家・木村政彦 vs 元関脇で稀代の興行主・力道山』―昭和の巌流島で、木村には、「当て身」と「腕がらみ」を禁じ手に!何故か―

2022-06-26 11:08:26 | 格闘技

『史上最強の柔道家木村政彦 vs力道山元関脇で稀代の興行主』

 『昭和の巌流島で、木村には、「当て身」と「腕がらみ」を禁じ手に!何故か』

 木村政彦も力道山も、レジェンド・伝説的な格闘技家です。 

 木村政彦はプロレスの前の柔道が光り輝いています。 後述しますが、神永がオランダのヘーシンクに日本のお家芸『寝技』で敗れました。 『神永の代わりに47歳の木村を当てようとした』話があったほど、木村は強かったようです。 

 力道山は、関脇で相撲界から引退ですが、現役時代は幕内勝率:0.581、優勝なし、三賞は一回だけ等から、やはり凄かったのは、第二の人生ともいうべき、プロレス界での活躍と大成功と、政界・財界との広いつき合いと、実績です。

 

エリオ・グレイシーとの死闘、

『木村は2Rで得意の大外刈りから腕緘(わんかん)に極め、エリオの腕を折った(脱臼等の暗喩ではなく紛れもなく「骨折」である)』

         ウキペデイアより引用

 

昭和の巌流試合と呼ばれた試合

『木村は素足、力道山は真鍮板を貼ったシューズのつま先で、どこかを蹴った後、不意打ちの張り手連打で腰から崩れ落ちた木村政彦の前に立つ力道山』

          ウキペデイアより引用

 

アマスポーツとプロスポーツ

 柔道界のレジェンド・木村政彦は、奥様の結核治療のストレプトマイシンを、アメリカから輸入するお金のために、プロ柔道を立ち上げ、そして失敗・解散から、プロレスへと進み、力道山は相撲界からプロレスへと進み、稀代の興行主兼プロレスラーとして成功した。

  木村政彦は、戦争を挟んで日本選手権13連勝で15年間無敗という成績で、あったが、このレジェンドを講道館は七段以上には昇段させなかった。

 アマポーツとプロスポーツの違い、それぞれの運営と興行、ローマ時代の格闘技の目的などとも、いろいろと比較・想像が広がります。

  『昭和の巌流島の戦い木村政彦vs力道山』には何が起こったのか、その結果は、周知のごとく多く人々(特に還暦・古稀世代)の記憶に鮮明にあります。

  講道館と全柔連の関係と方針・動きの中に思いを馳せながら、柔道の変革、打撃技(当て身)なしで、寝技にも制限、立ち技中心の現在の柔道になった。  これは嘉納治五郎館長の方針とは異なる、三船十段の意志貫徹の結果か『何故』と、考えさせられる。

  東京五輪の無差別級、で神永五段がオランダのヘーシンク四段にナント寝技『袈裟固め』で敗れ、銀メダルになった結果はあまりに有名。 ヘーシンクは講道館・天理大学で柔道を学び、寝技も得意であった。

 ヘーシンク198㎝・120㎏ vs 神永179㎝・102㎏、この身長・体重差(特に足の長さは『袈裟固め』有利。 この東京五輪でヘーシンクに対して、すでに47歳の木村を当てようという話も出たほどに、講道館滞在研鑽時のヘーシンク四段を木村五段は相手にしてなかった。

  嘉納治五郎は、この時代にすでに現在の総合格闘技で使われている、オープンフィンガーグローブの製作・採用実現を考えていた。この慧眼、柔道を「総合格闘技」と見た加納館長に感心し、「理論の加納、実践の三船」と言われていたが、これが皮肉に聞こえる。

  『プロスポーツならでは・・・』ですが、昔、タイソンのプロボクシングの15ラウンドの、ファイトに54億円のファイトマネーが支払われた記録も米国、にある。 メディア(テレビ)の所為でしょうか。

  力道山はメディアや政財界の大物を後援会にプロレス興行を大成功させた。これもメディアの所為が大きいのでしょう。 その間木村政彦はずっとヒ―ル役でした。

  ヒ―ル役から二強共存でヒーローの交替制興業実現を狙い、柔道出身の、木村政彦と相撲出身の力道山は、『昭和の巌流島』といわれる『世紀の一戦』をブック、(筋書き)ありで戦うことになり、木村政彦はいつもの『素足」』で、19541222日に戦われた。 

  ブックには「木村の当て身」だけは禁止とあったが、『腕がらみ技』さえも禁止、であった。 全盛期の相撲出身者がここまで恐れた、全盛期を過ぎた木村柔道、の凄さを想います。 ブックには、第一戦は各一本取り合い引分けとあったが、木村の反則(と云われている)の素足での急所蹴りを引き金に、ブックなしの、ガチンコ・セメント勝負になり、力道山の拳打ち(空手チョップではない)と、金具のカバー付きのつま先蹴りで木村が敗れ、意識不明になり、山王病院、に担ぎ込まれた。 その後、木村政彦は格闘技の世界から消えた。

  プロレスは、益々、大盛況が続いた。9年後、この同じ病院に、やくざに、刺された力道山が救急搬送され、そこで亡くなった。

  こんな、柔道家の覚悟を持っていた柔道家師匠と弟子、木村政彦の恩師、牛島辰熊は、過去2回の天覧試合(不定期)、第一回(昭和4年)と、第二回(昭和8年)に決勝で敗れ、優勝を逸している。 自分の、分身として、木村政彦をスカウトして鍛えた。 木村政彦の指導・練習稽古は、厳しく、特に、大外刈りは、失神者もよくでて、警視庁にも、講道館にも練習、相手がいなくなり脱臼者も続出するので、警視庁、講道館でもこの大外刈りは禁止された。さらに、『腕がらみ技』も、禁止されるほどであった。 この『腕がらみ技』も『昭和の巌流島』では禁じとブックに書かれた。

  第三回(昭和15年)の天覧試合を全試合一本勝ちで優勝、恩師の雪辱を果した。この記念品の短刀を子供の鉛筆削りに使っていたという、逸話もあるが、大事な試合の決勝戦の前夜には、この短刀を持って瞑想し、切腹の作法を、繰り返すほどの覚悟であった。

ところで、余談です。

 切腹について、作法道理の介錯なしで切腹した乃木大将と、立会人に最後まで介錯させず切腹した柔道家・猪熊功(柔道三冠王)の二人が記憶に鮮明です。

 元禄時代には、赤穂義士・四十七士も、自分では腹は切らず、もろ肌脱ぎか、小脇差の取りあげを合図で介錯された。 これが今では定説です。 元禄武士の覚悟の問題ではなく、『四家中に分散預けの46人の大人数の切腹で、短時間に』あったようです。

                   (記事投稿日:2018/12/23、最終更新日:2022/06/26、#041)


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