知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 1』—インパクトは、印象派の語源にもと言われる『印象・日の出』にも影響を―

2019-03-24 09:32:11 | 絵画

『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 1』

『インパクトは、印象派の語源にもと言われる『印象・日の出』にも影響を』

     

最近、外国の方々がよく言う『日本は凄い・日本人は凄い』と、昔、時々、先輩の方々から聞いた『世界に冠たる日本の・・・』でした。 これから余生には、少しは、この実態『ホントに凄いのか』を勉強してみたいと思いました。

 

北斎の最大インパクトは、なんといっても、印象派の語源にもなったと言われる『印象・日の出』にも影響を与えたと言われています。

 

日本の絵画史上には『凄い絵師・画家』が大勢居りますが、そのランキングがウェブ情報にありました。 国宝とランキングには、殆ど関連性がありませんでした。 芸術の世界の絵師・画家のランキング『いぶし銀の日本絵師 ベスト50はナンセンスとは思いましたが、絵画にズブの素人の自分には、『贔屓(ひいき)の絵師・画家』については、随分と参考になりました。  

 

ランク圏外にも、多くの画家・絵師と国宝が沢山あり、ランキングの難しさが判ります。 一部の国宝作品の追加は、他のウェブ情報からの引用です。

DNAの所為でしょうか、狩野派ファミリー6人で国宝7点は驚嘆ものです。 国宝絵画にも作者(絵師・画家)が不明の多い事にも驚きました。 いつものことですが、一般に、ウェブ情報を判断・理解するのは難しい上に、絵画のことは尚更です。

 

『イブシ銀の日本絵師 ベスト50』

1.葛飾北斎  『富嶽三十六景・神奈川沖浪裏&尾州不二見原』『えびすとヒラメ』『百物語・皿やしき』

        『北斎漫画・10&12編』

2.歌川(安藤)広重   『近江八景之内・唐崎夜雨(やう)』『名所江戸百景・大晦日の狐火』『東海道 

              五拾三次・亀山&蒲原(かんばら)』

3.横山大観(たいかん)   『海山十題・黎明』『潤声(かんせい)』『紅葉』『屈原(くつげん)』

4.長谷川等伯   『紙本金地著色松に草花図』(国宝)『松林(しょうりん)図屏風』(国宝 『千利休 

           画像』(国宝

長谷川等伯と長谷川久蔵   『松に草花図・桜楓図・松に梅図・松   

              に黄蜀葵及菊図』(国宝

5.棟方志功   『釈迦十大弟子』『空晴』『歓喜自板像』

6.曽我蕭白(しょうはく)   『群仙図屏風』『美人図』『達磨図』

7.雪舟   『紙本墨画淡彩慧可断臂図』(国宝)『四季山水図巻』(国宝)『破墨山水図』(国宝

       『秋冬山水図・冬』(国宝)『天橋立図』(国宝)『山水図 牧松周省・了庵桂悟賛』(国宝

8.菱田春草   『夜桜』『夕の森』『落葉』『六歌仙』   

 9.  上村松園   『姉妹三人』『待月』『焔』

10.歌川国芳   『讃岐院眷属(けんぞく)をして為朝を救ふ図』『東山桜荘子』『相馬(そうま)の古

           内裏』『源頼光館土蜘作妖怪図』『里すずめ寝ぐらの仮宿』

11.喜多川歌麿    『姿見七人化粧』『寛政三美人』『夏姿美人』

12.尾形光琳   『紅白梅図屏風』(国宝)『八ツ橋蒔絵硯(すずり)箱』(国宝)紙地著色燕子花

           図(国宝

13.円山応挙   『紙本淡彩雪松図』(国宝)『雨竹風竹図屏風』『氷図屏風』

14.佐伯祐三   『ガス灯と広告』『テラスの広告』『広告貼り』

15.東洲斎写楽   『三代目大谷鬼次の奴(やっこ)江戸兵衛』『鬼次の川島治部五郎』

16.青木繁   『黄泉比良坂』『日本武尊』『海の幸』

17.鏑木清方(かぶらききよかた)   『三遊亭円朝像』『朝涼(あさすず)』

18.前田青邨(せいそん)   『知盛幻生』『洞窟の頼朝』『先斗町・清水寺~京名所八題』

19.俵屋宗達   『紙本墨画蓮池水禽図』(国宝)『風神雷神図屏風』(国宝

          『紙本金地著色源氏物語関屋及澪標図』(国宝)『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』『松島図   

           屏風』

20.狩野永徳   『洛中洛外図屏風』(国宝)紙本金地著色桧図(国宝

          『方丈障壁画』(国宝)(紙本墨画花鳥図・紙本墨画淡彩琴棋書画図)

21.横山操   『十勝岳』『ウォール街』『雪原』『越路十景・出雲崎晩鐘  

22.与謝蕪村   『紙本淡彩十宜図』(国宝)『夜色楼台(やしょくろうだい)図』『鳶(とび)図』 

          (国宝)『奥の細道図屏風』

23.伊藤深水   『湯気』『暮方』           

24.川合玉堂   『月天心』『深林宿雪』

25.狩野芳崖   『悲母観音図』『達磨図』       

26.小磯良平   『斉唱』『練習場の踊り子達』

27.伊藤若冲(じゃくちゅう)   『野菜涅槃図』 

28.黒田清輝   『鉄砲百合』『ブレハの少女』『舞妓』

29.英一蝶(はなぶさいっちょう)   『一休和尚酔臥(すいが)図』『檜に蝉図』

30.竹久夢二   『立田姫』    

31.小野竹喬(ちっきょう)   『奥の細道句抄絵』『京の灯』『夕空』

32.橋本雅邦(がほう)   『弁天(騎龍弁天)』『龍虎』

33.竹内栖鳳(せいほう)   『秋興(しゅうきょう)』『宿鴨宿鴉(しゅくおうしゅくあ)』

                『雪中噪雀(そうじゃく)』

34.岩佐又兵衛   『豊国祭礼図屏風』        

35.酒井抱一   『三十六歌仙図貼付屏風』

36.渡辺崋山(かざん)   『鷹見泉石像』(国宝

37.土田麦僊(ばくせん)   『大原女(め)・1927年版』『三人の舞妓』  

38.川端龍子(りゅうし)   『筏(いかだ)流し』

39.富岡鉄斎   『阿倍仲麻呂 明州望月図』     

40.司馬江漢   『捕鯨図』

41.坂本繁二郎(はんじろう)   『張り物』『能面』  

42.安田靭彦(ゆきひこ)   『夢殿』『守屋大連(おおむらじ)』

43.速水御舟(ぎょしゅう)   『蟻』         

44.福田平八郎   『鯉・1921年版』『雨』

45.東郷青児   『サルタンバンク』          

46.浅井忠   『八王子付近の町』『秋林』

47.岸田劉生   『自画像』              

48.藤島武二   『黒扇』

49.小林古径(こけい)   『阿弥陀堂』        

50.鈴木春信    『縁先美人・見立無間の鐘』

 

その他の絵師・画家(上記ランキングに載ってない絵師・画家)

円伊     『絹本著色一遍上人絵伝』(国宝

池大雅        『紙本著色山水人物図』(国宝)『紙本金地著色楼閣山水図』(国宝)『紙本淡彩十便図』

      ()   

藤原信実      『紙本淡彩随身庭騎絵巻』(国宝)『紙本著色後鳥羽天皇像』(国宝) 

久隅守景   『紙本淡彩納涼図』(国宝

狩野松栄(狩野永徳の父) 『方丈障壁画』(国宝)(紙本墨画瀟湘八景・本墨画竹虎遊猿図)

狩野長信      『紙本著色花下遊楽図』国宝

狩野正信   『紙本墨画淡彩周茂叔愛蓮図』国宝

狩野秀頼狩野元信の次男)    『紙本著色観楓図』(国宝

藤原信実(絵)、九条良経(書)    『紙本著色紫式部日記絵巻』(国宝

常盤光長土佐派)   『紙本著色伴大納言絵詞』(国宝

住吉慶恩   『紙本著色平治物語絵詞』(国宝

可翁   『紙本墨画寒山図』(国宝

周文   『紙本墨画淡彩竹斎読書図』国宝)『紙本墨画淡彩山水図』(国宝

浦上玉堂   『紙本墨画凍雲篩雪図』(国宝

宅間勝賀   『絹本著色十二天像』(国宝

藤原隆信   『絹本著色伝源頼朝像、伝平重盛像、伝藤原光能像』(国宝

豪信   『紙本著色花園天皇像』(国宝

吉山明兆   『紙本墨画渓陰小築図』(国宝

専阿弥陀仏   『紙本墨画親鸞聖人像』(国宝

如拙   『紙本墨画淡彩瓢鮎図』(国宝

鳥羽僧正   『紙本墨画鳥獣人物戯画』(国宝

藤原宗弘   『絹本著色両部大経感得図』(国宝

定智    『絹本著色善女竜王像』(国宝

平清盛32人の平家一族   『平家納経』(国宝

 

『北斎の凄さと世界に与えた、影響(インパクト)』を、最近のテレビ特番からメモって見ました。

 

先ずは、『北斎の凄さ』;

❶オランダ人の絵の注文を受けたこと。 さらに、オランダ紙(洋紙)が滲まないことを知り,和紙の滲みを自分の作品に活かした。 更に遠近法を取り込んだ。

 

➋後世は、後刷りの赤富士を認めたが、北斎の本当の狙いは初刷りの『ピンク富士(ベージュに近い)』であった。

 

漫画絵は、現在のアニメーションの元祖

 

❹バイタリティ、6歳から80歳まで、筆をとり、嘆きながら90歳まで描いた

 自分の本来の絵は、100歳、110歳の作品だと言い、老いてもどん欲な創作欲。

 

❺遺作『富士越龍図』死の直前に、この力強い絵を描いた。

 

北斎が西洋・世界に与えた影響;

(1)北斎の秀逸な点は、その作品のダイナミックさでありユーモラスなところでもあり、写実性に富んだところでもありと、多様な画風の作品を多く残している。

(2)大胆な構図と、日本独特の色遣いは、やや柔らかくなりがちなヨーロッパの絵画の色調に、ビビッドな明るさをもたらした。

(3)『竹林の富士』はバカラのガラス工芸にも影響

             (記事投稿日:2018/05/20 、#

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『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 2』 —北斎は身長が180㎝ほどもあったらしい、弟子も200人以上―

2019-03-23 19:13:58 | 絵画

『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 2』

—北斎は身長が180㎝ほどもあったらしい、弟子も200人以上―

ウキペデイアから引用(晩年の宮本武蔵を彷彿)

 

(葛飾北斎の有名な作品『神奈川沖裏浪』は、芸術華やかなヨーロッパに、いろいろな影響を与えています。ただ、 冒頭から余談になりますが、自分の故郷の九十九里海岸で見ることができた大きなうねりが起こす『土用波』がこのように見えましたが少し様子が違っていました。 遠浅海岸のかなり砂浜に近いところで、これほどの沖合ではなかったようでした。 

 

北斎の多数の作品とその人生を紹介する『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』は、島根県に寄贈された『永田コレクション』の1,000点の内の多くを東京で見られる最後のチャンスでしたので、行ってきました。 北斎については『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 1』で纏めましたが、今回の『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』で、北斎を知れば知るほど『凄い絵師・画家』でした。

 

先ずは、画号を変える(改号)すること30回、そのウェブ情報です。 

彼は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用したは「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などと、それらの組み合わせである。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている[5]。仮にこの説が正しいとしても、主な号を5度も変えているのはやはり多いと言えるだろう。

 

なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説や、北斎の自己韜晦(とうかい)癖が影響しているとする説もある。ちなみに、「北斎」の号さえ弟子の鈴木某、あるいは橋本庄兵衛に譲っている。

 

今回の『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』の中では、葛飾北斎の絵師人生を作風の変遷と、主に用いた画号によって6期に分けていました。 展示替えありで、当日見られたのは、展示予定の約6割でした。

Chapter 1
春朗期(2035歳頃) 勝川派の絵師として活動した、

      展示替えありで展示予定作品66点中の29点 

 

Chapter 2 宗理期(3645歳頃) 勝川派を離れて肉筆画や狂歌絵本の挿絵といった新たな分野に意欲的に

                取り組んだ、

      展示替えありで展示予定作品92点中の43

 

Chapter 3 葛飾北斎期(4650歳頃) 読本の挿絵に傾注した、

                  展示予定作品83点中の50

 

Chapter 4 戴斗期(5160歳頃) 多彩な絵手本を、

                 展示予定作品57点中の29

 

Chapter 5 為一期(6174歳頃) 錦絵の揃物を多く制作した、

                 展示予定作品127点中の61

 

Chapter 6 画狂老人卍期(7590歳頃) 自由な発想と表現による肉筆画に専念した、

                  展示予定作品54点中の29

     合計、展示予定作品479点中の271

 

改めて北斎の作品の多さには驚きます。 この北斎は身長が180㎝ほどもあったらしい、弟子も200人以上、生涯の作品数は3万点余ともいわれ、毎日1枚ずつ画いても82年かかる計算になります。  今までは、北斎は『小柄・細身の絵師・画家』をイメージしていましたが、『画家でもあった武蔵』を思い出させる、『偉丈夫・怪物』でした。

転居すること93回、これもウェブ情報です。

北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名である。一日に3回引っ越したこともあるという。75歳の時には既に56回に達していたらしい。当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保713年版ともに「居所不定」と記されており、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人である。

 

最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことである。

 

確かに、江戸の文化・芸術盛んで、江戸時代から続いている習慣や娯楽が今でもあります。 『潮干狩り』、『土用の鰻』などです。 大湿地帯にも関わらず、急増され、いっきに当時の人口百万都市ロンドンに次ぐ世界で二番目の大都市に急拡大しました。 やはり驚かされるのは、江戸には上水道が整備されていました。 赤坂には、そのため『溜池』と呼ばれる外濠兼用の上水源がありました。 玉川上水系と神田上水系を合計すると総延長は152㎞にも達していた。 当時の、徳川家康とその幕閣、やはり凄かったのです。 現代の保身のために『ハコモノ』など造ってしまう、昨今の『政治屋』とは違います。

 

ながい余談でした。 『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』関連は、ほんとに奥が深いので、この後は、次回の『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 3』に先送りです。      

 

北斎の広範囲の活躍は、

浮世絵(役者絵・美人画・錦絵など浮世絵木版画の最終形態)、

黄表紙(草双紙・絵入り娯楽本)、

洒落本・狂歌本・読み本の挿絵、摺り物の下絵、

北斎漫画(絵手本として発行したスケッチ集)

に及びます。 心技体充実北斎だからできた、江戸時代の絵師・画家はだれもがこのようではなかったと思っています。

 

『富岳百景』初編には自ら『九十歳にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん歟百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん』云々と記している。

 

北斎のこと、若冲と合わせて、今後も調べていきます。

                  (20200323纏め #094)

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『鎌倉報国寺の竹林が雪化粧(歩けるときに見る・撮る)』—雪景色を撮りに出かけると、いつも「一期一会」が、報国寺と桜田門と—

2019-03-09 18:43:59 | 寺院・仏閣・神社・お社

『鎌倉報国寺の竹林が雪化粧(歩けるときに見る・撮る)

—雪景色を撮りに出かけると、いつも「一期一会」が、報国寺と桜田門と—

 

この報国寺の竹林の雪景色は自分も依然から狙っていました。 寺の開門の9時に間に合えば良いので遅い出発でした。 

大雪の翌朝は晴天でしたが、特に、横須賀線は大幅遅れ、ダイヤの乱れた車中で『しまった雪が解けて、雪景色は撮れないかも』と、気にかけながら、報国寺に向かいました。 自分もやはり日本人です。 次からは、日本画によく見るように、モノトーンで『雪は降っているとこを撮ろう』と思いました。

 

雪景色を撮りに出かけると、いつも運よく『一期一会』があります。 昨年は桜田門で、240万円のライカ中判デジカメを大事そうに持ったドイツの方に。

 

今回はこの報国寺の竹林だけを見るために、撮るために来た一人旅の台湾美人に『一期一会』がありました。 今回の運の悪さと良さは、まずは運の悪さです。報国寺の門の張り紙『本日は荒天のため閉門』でした。 自分は、裏に回り込み墓地から竹林に近づき、外部から撮りました。 運の良さです。 帰り際,回り込む入口でこの美人に綺麗な英語で入れるかと聞かれましたので、『墓地から回り込めば何とか』と答えると、雪景色にぴったりの表現『フォロウ ユア フートプリント』と。 帰路のバス停で、追いついてきて一言『除雪作業の方から、寺も墓地にも入れません』とにべもなく追い払われたとのことでした。 

 

雪の竹林などは、想像もせずに、ただ報国寺の竹林を見たい・撮りたい一心で来て『雪化粧のおまけまでついたのに』と、帰りのバスの中で、しきりに残念がっていました。 この方、今は亡き祖父母の日本語を思い出し、半年前から日本語を勉強中とのことでした。 バス停・バス中では英語・台湾語・日本語で、『台湾と日本の竹』の話ができました。

                    (20180124 纏め、20190309改 #090)

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『湘南鷹取山でロッククライマー志望をギブアップしたとき』ー懸垂下降中、心の中で叫んだ『高所恐怖症は直せる』は、その後も実現せずー

2019-03-07 21:46:57 | 記憶

『湘南鷹取山でロッククライマー志望をギブアップしたとき』

ー懸垂下降中、心の中で叫んだ『高所恐怖症は直せる』は、その後も実現せずー

 

(記憶は、昔のことは、はっきりと、最近のことは、ぼんやりと)

 湘南妙義と呼ばれる鷹取山に半世紀ぶりで行って来ました。 昔の山行きは、某メーカーの小向工場の山岳部部長に『まるで金魚の・・』の如く自主性ゼロで、ついて行っていた、だけでした。 

 

今回は、後期高齢者の自分が、昔を思い出し、ロッククライミングもナントか出来そうかなと、思うほどの、衝動にかられた、救いようのないオオボケ振りでした。 

 

❶『三段あぶみ(縄梯子)を使ったオーバーハングの登攀』の訓練場所、右側の壁を、垂直に、天井の壁を水平に移動して、左上の垂直の壁を登攀する

ここで天井を水平移動中に、ハーケンが抜け、仰向けの状態で、約3メートル背中から落下し、運よく頭は打たず、『ウグッ』と唸り、一瞬息が止まりましたが、大事にならずに、すみました。 『何事も運がすべて』。

 

『懸垂下降(アプザイレン、このドイツ語の響きは麻製ザイルだけで、専用用具は使わず、肩絡みなど体の摩擦を使って制動かけながら下降する)』。 こんな危険なことをやった時代でした。

 

ここでは、向って右側の壁を、懸垂下降するときに、壁の縁に立つのですが、この時、両膝が震えだし止まりませんでした。 今なら対処可能『太極拳式の大深呼吸を数回』でOKです。  

 

左側の壁の裏から、登ってきて(当時は、自己責任で登れた良き時代)縁から見ていた子供たちが言いました『あの人、膝が震えている』と。 心の中で叫んだ『高所恐怖症は、直せる』は、その後も実現せず、クライマーギブアップの瞬間でした。

                   (20180217纏め、20190307改 #087)

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『天保水滸伝の時代から発展が停滞した旧飯岡町(現旭市飯岡)を想う』ー総武本線は単線で短い線の終点が銚子駅の『どん詰まり』で途中駅の飯岡駅ー

2019-03-04 17:56:54 | 歴史・日本

           『天保水滸伝の時代から発展が停滞した旧飯岡町(現旭市飯岡)を想う』

      ー総武本線は単線で短い線の終点が銚子駅の『どん詰まり』で途中駅の飯岡駅ー

 

天保水滸伝を調べていたら、『川端のおじいさん』と晩年呼ばれた、好々爺の飯岡助五郎を世間は、大利根河原の決闘と、それ以降の悪評で、当然だが悪役とした。 二足草鞋の助五郎は、関東取締出役の命令で笹川繁蔵を捕縛に向かった時の争いがこの決闘であった。 

 

江戸時代の大衆は、決闘・喧嘩・出入等の講談・芝居を楽しんだ。 意外と江戸時代も娯楽が少なかったようだが、この決闘後の飯岡方の復讐の残酷物語を大衆は好まなかった。

 

余談です。

❶やくざの決闘・喧嘩を『出入』とも言うが、これは本来『訴訟』のことで江戸時代、山林・河川等への     入会権の訴訟のことを『出入』といった。 

❷対決した二人ですが、関東東海の大親分、清水次郎長・大前田英五郎・国定忠治などとも付き合いがあった。 笹川村も、飯岡村も、博徒が大きな一家を構えるほど、豊かな半農半漁村であった。 

 

この決闘で、飯岡方は、半数を失い大敗北、笹川方の死者は、平手造酒一名であった(講談や芝居の通り)。 この逮捕失敗に対し幕府より、助五郎は入牢という屈辱を味わい、これが後の、繁蔵暗殺の引き金になったし、繁蔵を結局はヒーローにした。 

 

助五郎は、相模国公卿村山崎(現在の横須賀市三春)の生まれ。 この縁で、飯岡漁港の整備、発展のために、生まれ故郷の公卿村や三浦半島一帯の漁師の二男や三男を移住させ、飯岡港の発展に尽力した。

 

大利根河原の決闘の後の、繁蔵は子分の騙しにもあったが、独力で、助五郎を討とうとするも、これを察知した飯岡方の、虚無僧に変装した3人の子分に繁蔵は、闇討ち、暗殺された。今風に言えば、このシーンこそ判官贔屓の大衆受しそうだが・・・)。 

 

天保水滸伝の凄さはまだある。 繁蔵暗殺は助五郎の指示かどうか、今でも不明だが、首塚が飯岡の定慶寺にあり、助五郎は懇ろに弔い香華を絶やさなかったと言われている。  暗殺の後、笹川一家は、繁蔵の首は、元より胴体の発見ができず血痕のしみ込んだ土を代わりに葬った。 胴体は昭和7年に銚子で発見された。

 

これで繁蔵は更に悲劇のヒーローになった。 後を継いだ子分、勢力富五郎は、助五郎(関東取締役道案内の二足わらじに大出世)の謀略に敗れ、自分は自刃、子分は処刑され、笹川一家は崩壊した。 

 

蛇足ですが繁蔵も富五郎も力士あがりであった。自分の小さい頃に旧三川村(現旭市三川)の古老から聞きました『勢力富五郎が表通りを通ると皆が雨戸を閉めた』と。

 

講談も芝居も、繁蔵の死をあまり描いていません。 判官は殺させたくない江戸時代の大衆の、大の判官贔屓ぶりでした。 飯岡方が繁蔵を暗殺した事実を知ったとき、自分(旧飯岡町に吸収合併された旧三川村の出身)には大きなショックでした。 

 

さて前置きが長くなりました。 飯岡助五郎の時代には、飯岡は半農半漁で大発展していたがその後、現在まで発展ができず停滞しているこの理由を山口瞳氏の著書『巷説 天保水滸伝』から探ってみました。

 

総武本線いまだに、単線で短い線の終点が銚子駅で『どん詰まり』であり、途中駅の飯岡駅からの数キロ離れた飯岡町は、発展の余地があまりない。 同時に下記の鉄道網にヒントがあります。

この町にも、そこを中心とした繁華街があるが、飯岡の細長い街にはそれがない。 町役場を中心とすれば、飯岡駅まで直線で4km、道なりで6km、

この地理的ハンデが大きい。 鉄道も、当初の計画は、東京➡佐倉➡芝山(成田山に次ぐ名刹・観音教寺あり)➡八日市場➡飯岡(飯岡港近く)銚子と引く案から更に、千葉を通すので、佐倉まではV字になったが、それでも佐倉から銚子は、ほぼ一直線。 

 

ここからは自説です。

この成東を通らない、佐倉➡芝山➡八日市場➡飯岡(飯岡港近く)➡銚子、の『√(ルート)字』ラインは実現されず、現在の総武本線は、成東経由で『W字』ラインで、『√(ルート)字』ラインより長い(成東の皆様にはご容赦のほど)。 総武本線の終点の銚子駅は一般的なターミナル駅、どん詰まりの終着駅でハブ機能は持っていない。

                                   

どん詰まりの銚子駅が終点で且つ、この総武本線に在旧飯岡町の飯岡駅は実現せず、飯岡駅は在旧海上町で、飯岡町は、発展出来ず停滞したと言われる。

 

地元の住民の反対で、採用されなかった佐倉➡芝山➡八日市場➡飯岡(飯岡港近く)➡銚子、の『√(ルート)字』ラインのメリットは関東ローム層の切通しやトンネル掘削工事が激減する。 このルートに地元住民が反対した理由は、稲の花、桑の葉への悪影響でした(この迷信をなぜ信じたのか!)。 蒸気機関車は日本国中のどこでも、田圃・桑畑の中を走っていた。

  

九十九里海岸には大きな漁港は、南端の大原港と北端の飯岡港のみであった。飯岡港の最寄りに飯岡駅があったらと、だが歴史に『if・イフ』はありません。

                                                                          (2017.6.14纏め、20190304改 #085) 

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