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知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『美しい地球!旅行のススメ 004(海の京都の五つの絶景『日本に10ヶ所だけのユネスコ世界ジオパーク」に認定された「山陰海岸」』

2024-07-23 15:48:47 | 寺院・仏閣・神社・お社
『美しい地球!旅行のススメ 004(海の京都の五つの絶景『日本に10ヶ所だけのユネスコ世界ジオパーク」に認定された「山陰海岸」』

『その山陰海岸の京都の丹後地方の驚きの五つ風景が「天橋立」「伊根」「経ヶ岬」「立岩」「美山かやぶきの里」』

先日BS朝日で、丹後半島にある、数百万年もの長きに渡る地球の営みが生み出した雄大な絶景の数々が、そこは日本にわずか10ヶ所しかない「ユネスコ世界ジオパーク」に認定された『「山陰海岸」の丹後地方』の驚きの風景が広がっていました。 

2024年6月3日現在、日本ジオパーク46地域、その内10地域(「アポイ岳」「洞爺湖有珠山」「糸魚川」「山陰海岸」「島原半島」「室戸」「隠岐」「阿蘇」「伊豆半島」及び「白山手取川」がユネスコ世界ジオパークです。 ジオパークをめざす準会員地域も8地域あります。
ユネスコ世界ジオパーク
ユネスコ世界ジオパークは、48か国213ヵ所あります。(2024年3月28日現在)
 そのうちの10ヵ所は、日本にあります。

  1. 「天橋立」、龍が天に舞い上げるような眺め
 
ウエブ情報から引用

「天橋立」、国宝 雪舟の絵 

 ウエブ情報から引用

自然は不思議でいっぱい。 天橋立の奇跡のような地形がどのようにして生まれたかの理由『宮津湾の海岸流と阿蘇海の海岸流の「せめぎあい」でも「合成波」にはならず、巨大な、長さ3.6㎞、最大幅170ⅿの「砂州」作った』。
 
ウエブ情報から引用

2. 「伊根」、「京都のヴェネツィア」と言われる伊根の舟屋
 
 ウエブ情報から引用
江戸時代の中頃から作られるようになった舟のガレージ「舟屋」が真っ青な海の上に並び建つ姿はまさに圧巻。

伊根湾内の波は穏やかで、また三方を囲んでいる山は硬い岩山で傾斜が急なまま海低にまで続き、水深が急激に深くなり、波を起こしにくい地形を形成している。 また潮の干満の差も少なく年間の平均潮位差は50 cm程度である。 世界によくある干満の潮位が数メートルから十数メートルと大きいところは遠浅で逆Ⅴ字形の海岸に即納得できました。

3.「経ヶ岬」地名の由来
 
ウエブ情報から引用

丹後半島北端を構成する岬の周囲は、安山岩による柱状節理の発達した海蝕崖になっている。 名前の由来は『宮津府志』によると、岬を取り巻く柱状節理が経巻を立てたように見えることによるとされている。 世界中どこにでも、と言っていいくらい柱状節理は見られます。 生成原理は同じですが、主な分布は四角形、伍角形ですが、七角形もあります。

4.「立岩」、「丹後のエアーズロック」と呼ばれる名所には、あの聖徳太子にまつわる伝説と、天橋立にも通じる古代ロマン。

まさに「丹後のエアーズロック」
 
ウエブ情報から引用
高さは20ⅿですが、昔、ほんの少し「岩(ロッククライミング)」やったプチ山男なら、フリークライミングでもいいからヤラセテほしいなどと不謹慎なことは言いません。

日本海の夕景はやはり美しい

 ウエブ情報から引用

5. 「美山かやぶきの里」江戸時代から昭和にかけて建てられた、懐かしさ感じるニッポンの原風景。 平家の落人部落ではなかった。 最高の風景「藁ぶき屋根の山里に赤いポスト」。
 
ウエブ情報から引用

当集落は中世には、林業を主産業とする山村集落。 集落の中を通る街道は、いわゆる鯖街道の一つとされ、京都と若狭の中間地であり、多くの旅人が行き来していた。 そういった背景から、この集落の建築や生活様式はいろいろな地方の影響を受けたといわれる。 北村は近世には篠山藩に属し、近隣の村とともに「知井9か村」と称された。

「天橋立」の生成と大きさに驚き、
「伊根」「京都のヴェネツィア」の潮汐の不思議を思い、
「経ヶ岬」と「立岩」「丹後のエアーズロック」に柱状節理を身近に感じ、
「美山かやぶきの里」は日本の冬景色にシビレました。

この掛替えのない『宇宙船地球号』『水の惑星』『緑の地球』を守っていかなければなりませんので、何とか間に合ってくれと、祈りながら、みんなでやれる『節電・節水・節肉食、移動には歩行・自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂きたい、CO2排出削減は、次のビッグ3『発電業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 

みんなでやる『「節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車」「プラチック使用減らす(土に還るプラスチックでも製造時はCO2を!)」は、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小にはなりますが、これ以外に80億人の個人で、何かできるでしょうか。 限界のある狭い地球で80億人が暮らすには、皆で摂生し、質素な生活が必須です。
(記事投稿日2024/07/23、#761)
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『旭市飯岡は東日本大地震の震源に面していない、しかし襲った大津波は、多要因が重なったケースで、今後も万全の備えが肝要!』

2024-07-18 14:24:30 | 地球・火山・地震・津波
『旭市飯岡は東日本大地震の震源に面していない、しかし襲った大津波は、多要因が重なったケースで、今後も万全の備えが肝要!』

千葉県の銚子市犬吠埼・旭市飯岡刑部岬・いすみ市大東岬位置関係
犬吠岬は千葉県の最東端刑部岬は九十九里海岸(ほぼ中央右)の東北端大東岬は九十九里海岸(ほぼ中央右)の南西端です。

 ウエブ情報から引用

この地図を頭において、京都大学の間肇瀬教授(沿岸災害)による『旭市飯岡の大津波が生まれたメカニズム』と『大津波はなぜ起きた、三つの岬の波紋状の波が反射し、ぶつかり巨大化』が納得できます。

旭市飯岡は、銚子市の犬吠崎の南側に位置し、震源に面していない。 しかし住民の証言や堤防の高さから推定すると、より震源に近い茨城県大洗町(4.9ⅿ)や銚子(2.4ⅿ)より飯岡(7.6ⅿ)(犬吠岬を回った第3波の回析波と、大東岬で反射した第1波が飯岡の沖でぶつかり合成波になった)ほうが高かった。

京大防災研究所の間瀬教授によると、津波は水深が浅くなるにつれて大きくなるため、大洗町のような漁港よりも、砂浜が遠浅の九十九里浜の方が波が大きくなりやすい。 今回はさらに『岬を中心に「回析波」が発生した可能性がある』(間瀬教授)。

震源付近から伝わった波の力は銚子の手前で弱まったとみられるが、岬にぶつかると、岬を中心に円状の波が新たに発生するという。 この回析波が海岸沿いに進む『エッジウエーブ』となり九十九里浜の南端にある大東岬付近で反射。 九十九里の弓状の海を波が行ったり来たりする間にぶつかり、時間をかけて大きくなったのではないか』と間瀬教授は見る。

当初は、シンプルに(犬吠岬を回った第3波の回析波と、大東岬で反射した第1波が飯岡の沖でぶつかり合成波になった)と理解し、稀有のことと早合点していましたが、もっと複雑な要因があったようでした。

さて、足元の関東での地震の心配ですがウエブ情報によれば、
10万人を超える死者が出た関東大震災から9月1日で100年。 関東の南岸で繰り返し起きる海溝型地震の一つ。 当時は近代的な観測網がなく『震源域』『発生頻度』『活動期の有無』の3つ謎が今も残る。 解明が進めば、防災対策の練り直しを迫られる可能性がある。

❶震源域は東に長い?
野島崎海岸隆起の歴史から解かる『繰り返す海溝型地震』;
海溝型地震には、海のプレートと陸のプレートとの間のずれによって生じる地震(プレート間地震)と、海のプレート内部の破壊によって発生する地震(スラブ内地震)があります。

古くは房総半島と離れた島であり野島と呼ばれたが、1703年(元禄16年)の元禄大地震で隆起し、地続きとなったという説がある。 しかし、元禄大地震の7ヶ月後に書かれた法界寺(白浜海洋美術館付近にかつてあった寺院)届書に「野島崎は津波の後に地形が変わった」と記されているため、地震以前から野島崎は存在しており、すでに一部が陸続きであったという説(陸繋島)もある。

❷最短60年で再発も?
研究チームが房総半島の海岸段丘を調べたところ、元禄型の関東地震の発生間隔は数百~数千年とばらつきがあり、従来の定説より短い場合もあった。 大正関東大地震と同規模の地震については、地震調査委員会が2014年の公表の報告で『相模トラフのM8級の発生間隔は180年~590年』とした。 平均と言いながら約400年の幅がある。 

古文書によれば、M8級の地震、寺社に大きな被害の出た1293年の『永仁関東地震』、1495年鎌倉大津波の『明応鎌倉地震』、1703年の『元禄関東地震』は、相模トラフの地震は、ほぼ200年間隔で規則的に起きたことになる 

このように、何を根拠にするかで発生間隔は『ばらつきが大きく絞り込むのは難しい』のが実情のようだ。(首都直下型地震、元禄型関東地震の発生間隔のバラツキ大きいが、横浜市民としては、相模トラフの地震のほぼ200年間隔は不気味です。)

❸地震活動期はある?
関東地震が近づくと、内陸直下地震が増えて『活動期』になり、直後は静寂になるという関係も不明。 1853年の『嘉永小田原地震』では小田原城大破。 その2年後には、江戸で7000人の死者を出す『安政江戸地震』が続いた。 さらに1894年の『明治東京地震』M7級が続き、クライマックスが大正関東地震が発生した。

『元禄関東から大正関東地震までの220年間のうち前半は静穏期、後半は活動期だった』との見方がある。 プレート境界で関東地震が起きると、広域で地殻に加わる力が変化する。 活断層の位置や向きによっては蓄えたひずみを開放して自信を起こしやすくなり、活動期と静穏期が生じるという。

次の大地震の発生確率は『今後30年でほぼ、0~5%」と低いものの、津波や土砂災害などを含めた複合災害になる公算が大きい。 地震学の見地からも『関東大震災と同タイプ地震はまだ先』とは言い切れない。 再点検する時だ。

昔から『地震・雷・火事・親父』と言いますが、やはり、地震(津波)が一番怖いのですが、今、最も恐ろしいのは、地球をどんどん住み難くしている人間と、それに無関心な『俺・僕・私関係ネー』の世情ではないでしょうか。
(記事投稿日:2024/07/18、#760)
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『縄文人は・縄文文化は凄かった 0(DNAが解く「縄文と弥生」の謎)科学で迫る日本人祖先はどこから、従来の定説が訂正途上に!』

2024-07-15 14:59:00 | 歴史・日本・古代
『縄文人は・縄文文化は凄かった 0(DNAが解く「縄文と弥生」の謎)科学で迫る日本人祖先はどこから、従来の定説が訂正途上に!』

日本人のルーツで定説とされてきたのが『二重構造モデル』。 弥生時代に渡来した北東アジア系の人々と、東南アジア系の縄文人との混合が進み、日本列島の人々が誕生した。

だが近年、この定説が『単純すぎる』ことが分かってきた。 縄文人は様々なルートで渡来し、地域差があったようだ。 従来、日本列島で暮らしていた縄文人は比較的均一な集団と考えられていた。

日本人の起源である縄文人の祖先はいつ頃、どこからやってきたのか?

 ウエブ情報から引用

弥生文化は中国大陸、朝鮮半島から移住してきた渡来人によりもたらされた。

 ウエブ情報から引用

弥生人は弥生時代に日本列島に居住した人々。 大きく、弥生時代に朝鮮半島とアジア大陸等から日本列島に渡来してきた「大陸系弥生人」と縄文人が直接新文化を受け入れた結果誕生した「縄文系弥生人」および両者の混血である「混血系弥生人」に分けられる。

長期間続いた縄文時代は、且つ多民族国家であったので、いま世界中で注目を浴びる縄文文化が花開いたのでしょうか、すぐに閃くのが国宝6点、
  • 《火焰型土器》(前3000〜前2000)
  • 《土偶 中空土偶》(前2000〜前1000)
  • 《土偶 縄文のビーナス》(前3000〜前2000)
  • 《土偶 合掌土偶》(前2000〜前1000)
  • 《土偶 仮面の女神》(前2000〜前1000)
  • 《土偶 縄文の女神》(前3000〜前2000)

さらに重文4点、
❶《人形装飾付有孔鍔付土器》(前3000〜前2000)
❷《ハート型土偶》(前2000〜前1000)
❸《猪形土製品》(前2000〜前1000)
❹《尖頭器》(前1万6000〜前1万1000)
があります。

弥生時代は一般に2400年前ほどに開始したとされてきた。 そもそも弥生時代とは、弥生土器が使われている時代という意味であったが、現在では水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。
弥生時代・文化の前の『縄文時代』に、奇跡のような、狩猟採集生活でも定住生活ができた『縄文時代の人々』はやはり凄いです。

この掛替えのない『宇宙船地球号』『水の惑星』『緑の地球』を守っていかなければなりませんので、何とか間に合ってくれと、祈りながら、みんなでやれる『節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂きたい、CO2排出削減は、次のビッグ3『発電業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 

みんなでやる『「節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車」「プラチック使用減らす(土に還るプラスチックでも製造時はCO2を!)」は、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小にはなりますが、これ以外に80億人の個人で、何かできるでしょうか。 限界のある狭い地球で80億人が暮らすには、皆で質素な生活が必須です。
(記事投稿日:2024/07/15、 #759)
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『卑弥呼・邪馬台国は神秘的? その真実を知ることは難しい 2』 『邪馬台国 vs 出雲王朝 vsヤマト王権(大和朝廷)の歴史的つながりを知るため日本古代史の「空白の150年」「空白の4世紀」を』

2024-07-13 10:24:29 | 寺院・仏閣・神社・お社
卑弥呼・邪馬台国は神秘的? その真実を知ることは難しい 2』

『邪馬台国 vs 出雲王朝 vsヤマト王権(大和朝廷)の歴史的つながりを知るため日本古代史の「空白の150年」「空白の4世紀」を』

『文字の記録がない邪馬台国と、文字の記録があるヤマト王権は、其々が北九州(?)と畿内に100年以上の時間差で存在し、邪馬台国は、後発のヤマト王権に組み込まれたか、滅ぼされた可能性?』

冒頭から余談で恐縮です。 先ずは、「卑弥呼」の名前のこと、
「卑弥呼」という名前は、中国の歴史書『魏志人伝』にのみ登場します。 
魏志倭人伝
 ウエブ情報から引用
そして卑弥呼の時代の日本には、まだ漢字が文字として使われていませんでした。 これらの点から「卑弥呼」の漢字名は、この名前を聞いた中国の役人が発音に近い漢字を当てたものと考えられています。 「卑しい」という差別的な漢字が当てられている理由としては、中国側が日本を格の低い国と見くだしていたとする見解が有力です。

 
次に「倭人・倭国」の「倭」の意味
紀元前から中国各王朝が中国東南の地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国と自称した。 なお倭人は、倭国の国民だけを指すのではない。 邪馬台国、卑弥呼はまちがいなく蔑称。 中国は周辺の民族自体を、『南蛮東夷北狄西戎』と。 倭国、倭人というのも蔑称だが、人偏の漢字を充てているだけまだ良いと言われています。

標題に戻ります。
日本古代史の四世紀の記録が中国の歴史書にだけで、日本の歴史にはほとんどなく『「空白の150年(266年~413年)」または「空白の4世紀」に日本で何が起きていたのか』とかと、問われています。 漢字が朝鮮半島経由で渡来し、本格的に使われ始めたのは5世紀以降ですので記録のない「空白の4世紀」は、やはり興味津々です。

今後の調査のためにこの『4世紀の空白の150年(文字の記録がない)』を箇条書きに整理してみます。 空白の150年はいつなのかと言えば、西暦266年から413年までの約150年間を指します。

名前  空白の150 年
別名  空白の4世紀
時期  266年~413年
空白の150年前夜:
卑弥呼の朝貢
   西暦238年に遼東の公孫淵が魏の司馬懿によって滅ぼされると、すかさず
 邪馬台国の卑弥呼は魏に朝貢。

邪馬台国と魏の蜜月関係
  魏の曹叡または曹芳は邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王とし厚遇。

呉の遼東半島進出
  孫権の遼東半島への進出は確実にあったわけであり、呉は楽浪郡や帯方
   朝鮮半島にまで影響力。
  倭国で言えば魏が邪馬台国に味方し、狗奴国の裏には呉がおり、邪馬台
  国と狗奴国の戦争は魏と呉の代理戦争。

西暦266年に至るまでの経緯
  邪馬台国の卑弥呼は狗奴国を完全に滅ぼす事が出来なかった様であり、
  248年頃に死去。 倭国では男王が立ちますが、国を安定させる事が
  出来ず13歳の台与が後継者に、晋書によれば256年に倭国の女王が
  朝貢、これが台与か。

空白の150年の前期:
 邪馬台国の衰退
  空白の150年は266年からですが、空白の150年の前半では邪馬台国の
  衰退。

 大和王権の国力増
  卑弥呼の時代に九州では鉄が普及、近畿ではまだ青銅器の時代。
  雑木林が多い九州の地形に対し、大和盆地の中央には奈良湖があり、
  湿地帯が多かった事で開墾が非常にやりやすく大和王権は勢力を拡大
  邪馬台国や狗奴国が戦争を繰り広げる中で、大和王権は地形効果と
  天然の要塞に守られ国力を高めた。

空白の150年の中期:
 中国・四国地方の動向
  近畿の大和王権と九州の邪馬台国の間には、四国や中国地方などが
  存在。 四国や中国地方の諸国では九州の邪馬台国に与するか近畿の
  大和王権に与するかの選択肢はあった。

 ツヌガアラシトの来日
  朝鮮半島南部にも倭人がいた事が分かっていますが、邪馬台国が弱体化
  し頼りにならず、代わりに大和王権に後ろ盾になってくれる様に要請。

 邪馬台国の滅亡
  古事記や日本書紀の記述に、景行天皇が自ら九州に遠征。
  日本書紀によると神功皇后の時代に百済から七支刀を贈ってきた話しが
  あり、この七支刀が現存しており銘文から神功皇后の52年が紀元前369
  年。記紀には仲哀天皇や神功皇后が九州に上陸した話も掲載
  空白の150年の中期には邪馬台国は滅亡したと考えるのが妥当。 邪馬
  台国が滅亡した時期は、中国では五胡十六国となっており、北方は異民
  族の流入もあり大混乱の時代。倭国を見ている様なゆとりはなかった。

空白の150年の後期:
 倭国と大和王権
  神功皇后が摂政を行っていた時代に、田油津媛の討伐に成功するなど
  九州北部も大和王権の支配下に。 神功皇后が九州を平定する前であれ
  ば倭国と言えば邪馬台国や奴国などの北部九州に国々を指した。 神功
  皇后が九州を平定してからは、倭国と言えば大和王権を指す。

 朝鮮半島から見た空白の150年
  高句麗を北に駆逐した百済は首都を漢城に遷し国として勢い。 高句麗
  が再び南下して攻めて来る可能性は十分にあり、対策を練る必要。
  当時の東晋は山東半島まで領土を得ており、百済は黄海を渡り東晋への
  朝貢を、さらに、百済は倭とも友好を深める。

空白の150年の末期
 前秦の崩壊
  前秦は370年に前燕を滅ぼしただけではなく、376年には前涼を滅ぼし
  たが、383年に前秦は南下しますが、淝水の戦いで東晋の謝玄に大敗
  北。 急激に衰え、394年には呆気なく滅亡。

 騎馬隊の恐ろしさ
  高句麗は歩兵と騎兵合わせて5万を率いて、高句麗は重装騎兵まで持っ
  ており、日本軍は新羅の救援に赴き、公開土王妃によれば倭軍は退却す
  るも高句麗軍に蹴散らされた。

413年の謎
 倭と高句麗の共同入貢説
  空白の150年は一般的には、413年に倭国が高句麗と共に東晋へ朝貢を
  行った事で終わったと考えるのが普通。

 高句麗が嘘を述べた説
  413年には倭国は朝貢してはおらず、高句麗側が自分を大きく見せる
  為に、倭国の者を引き連れて入貢したとする説。

今後も『空白の150年(空白の4世紀)に日本で何が起きていたのか』を、さらに調べていくと、もう少し『記録のない部分の日本の古代史』が分かるような気がしてきました。
(記事投稿日:2024/07/13、 #758)
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『ヨコハマの大さん橋に「モナリザ」が!』—停泊中の客船の煙突に、場違いのモナリザの微笑ー

2024-07-11 07:23:20 | 

『ヨコハマの大さん橋に「モナリザ」が!』 

『停泊中の客船の煙突に、場違いのモナリザの微笑』


カメラをぶら提げて、歩くといろいろなことに遭遇します。 なんと、横浜港、大さん橋に接岸している客船の煙突に、場違いのモナリザの微笑です。 これには散歩中のワンちゃんもびっくりです。 千歳一遇のチャンスではありましたが、肖像権は気になりました。 特別に、ご勘弁いただき、ご婦人とワンちゃんのコスチュームについては、ひらに、ご容赦をお願いします。

モナリザだー

 

もう帰ろうよー。

モナリザは、やはりルーブルが似合うよー。

(記事投稿日:20189430、 最終更新日:2024/07/11、#006)

 

 

 

 

 

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