知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『「六義園」の黒松・赤松は、松くい虫にも負けず、現代でも健やか!』 ―春夏秋冬楽しめる大都会のコンクリートジャングルのオアシス―

2020-09-28 22:48:37 | 歴史・日本

『「六義園」の黒松・赤松は、松くい虫にも負けず、現代でも健やか!』

―春夏秋冬楽しめる大都会のコンクリートジャングルのオアシス―

 

 東映のチャンバラ映画では、大概、悪役になる江戸時代の『太平の世の梟雄・スピード出世の柳沢吉保』の下屋敷は、現代では、アマチュアカメラマンにはたまらない庭園『六義園』です。 とにかく、四季を通じて、被写体と撮る時間を選り好みすると、その時間配分が大変です。

 

いち藩士から幕臣として大出世、そのスピード出世ですが、これが凄い;

徳川綱吉の小姓から川越藩七万石、老中上座、松平の姓を与えられ美濃守吉保となり、甲府藩十五万石を領する。 学問奨励の・萩生徂徠の登用等文治政治の推進者として評価される。正徳4(1714)歿、57才。』と。

 

 さて、六義園の被写体ですが、内庭大門、出汐之湊、妹山・背山、臥龍石、蓬莱島、石柱、滝見之茶屋、躑躅茶屋、藤代峠、蛛道、渡月橋等々、いろいろあります。

これほど多い庭園の『パーツとその組み合わせを被写体』として理解するためにも、江戸時代の大名の藩邸の役割を調べてみました。

 

 徳川幕府の260年の長期政権を維持できた、その背景の、ほんの一部が解ります。 御三家も大名も、徳川家本家を守るために江戸城の周りを、御三家と大名の、上屋敷・総構えの内側の屋敷(藩主が住む)、中屋敷・総構えの外側の屋敷(奥方,、側室、子息が住む)、下屋敷・総構えからかなり離れたところに屋敷(他の目的、別荘など)を構えていました。 

 

 これは、意外と思えますが、織田信長の安土城の裾野の大手門から頂上の天主閣(信長だけが天守閣でなく天主閣)への合坂の両側の家臣団の屋敷の縄張りが『元祖』と思えます。 

 

 前置きが長くなりました、表題の『「六義園」の黒松・赤松は、松くい虫にも負けず、現代でも健やか!』―春夏秋冬楽しめる大都会のコンクリートジャングルのオアシス―になります。

 

六義園(5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保の下屋敷の大名庭園)

江戸城からは少し離れていますが、いざ鎌倉って時には役に立ちそうです。

      

ウィキペデイアより引用

 

藤代峠(豪快な築山からの展望、かなり高い・剛毅なもの)

このアングル『大都会のコンクリートジャングル』の一角とは見えません。

      

ウィキペデイアより引用

 

 先日、六義園を散策したときに、庭師の方から伺いました。『ここの黒松も、赤松も、今まで松くい虫に、一本もやられていない』そうです。 『何故かは、はっきり解からない』とのことでした。 ズブ素人の推測ですが、コンクリートジャングルの中に、隔離された庭園であり、かつ、高木・亜高木・低木・下草で構成された『本物の森』であったからでしょうか

 

 『桃栗三年、柿八年』に続くのは、いろいろありますが、先ずは『柚子は九年でなりかかる』、『柚子は九年の花盛り』,『柚子の大馬鹿十八年』などと続くと言われます。 昔の人は、柚子にも豊かな観察眼を持っていました。 最近の人工物は『やっつけ仕事』が多いですね。

                      (20200928纏め #230

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『「イエローストーン火山」は破局噴火が危惧される火山』 ―噴火すれば人類滅亡の危機!イエローストーンに起こる異変―

2020-09-27 07:56:58 | 地球・火山・地震・津波

『「イエローストーン火山」は破局噴火が危惧される火山』

『噴火すれば人類滅亡の危機!イエローストーンに起こる異変』

 

  『水の惑星・奇跡の星』の地球には、その地球を『核の冬』ならぬ『噴火の冬』にしてしまう『スーパーボルケーノ』がいくつもあります。 その星にある日本は、四枚のプレート(太平洋プレート・北米プレート・フィリッピンプレート・ユーラシアプレート)交差点にある『奇跡の島国』です。 日本にもスーパーボルケーノまでは言えませんが、次のように巨大カルデラ・コールドロン、❸~❺が存在しています。

 

世界には、『噴火の冬・氷河期』を起させるほどの、巨大火山噴火の痕跡・カルデラはあります。 トップ5;

❶南北約70km、東西約50km  米国のイエローストーンカルデラ

➋南北約100km、東西約32km  インドネシアのトバカルデラ 

❸南北約32km、東西約37km  日本大崩山(コールドロン))

❹南北約26km、東西約20km  日本の屈斜路カルデラ

❺南北約25km、東西約18km  日本の阿蘇山カルデラ

これらに続くのは、南北約11km、東西約8km日本の箱根カルデラです。

 

先ずは❷~❺は、かなり安定しています。 その安定している内の代表格の巨大火山噴火は;

 

インドネシアのトバカルデラ

 74,000年前に起きた最新の超巨大噴火は、同時期に、ヒトDNAの多様性が著しく減少する「ボトルネック(遺伝子多様性減少)」が見られることから、この噴火で当時の人類の大半が死滅したという説もある(トバ・カタストロフ理論)。

       

      ウキペデイアより引用

 

 イエローストーンは地球上の最大規模のカルデラですが、中規模な群発地震が発生・火山性の湖の水温上昇・動物の異常行動などもあり、一部に危機感もあるが、反対に次のような安心できる『説』もあり、『杞人天憂』であれと神頼みです。

 

 先日(20200908付け)日経新聞The STYLEに載っていました。

『「お熱いのがお好き アメリカ」、米国中西部に広がるイエローストーン国立公園。 公園内最大の規模を誇る熱水線「グランド・プリズムマティック・スプリング」が水蒸気を上げる。 この公園の約三分の一の地域は、超巨大火山(スーパーボルケーノ)のカルデラ内にある。 火山は今も活動中で、マグマから発せられる熱が多くの温泉や間欠泉地帯を生み出しているが、近い将来に超巨大噴火を起こす確率は極めて低いと予想されている。』とありました。

 

米国のイエローストーン国立公園

 モンタナ州、ワイオミング州、アイダホ州にまたがった、1872年に世界で初めて、「国民のために永久に保存するには、国立公園とすることが適当」と、アメリカ政府が指定した、世界初の国立公園です。 また、1978年には、初めての世界遺産のひとつとして選ばれています(この写真も、この公園のほんの一部です。

       

       ウキペデイアより引用

イエローストーン火山

 下図の一番下の円は1815年のタンボラ噴火。 イエローストーンの噴火史の中では比較的小さいとされる64万年前の噴火でもこれより遥かに大きい(この図には、イエローストーン火山の大きさ表示はない)。

                   

                    ウキペデイアより引用

           

 

 イエローストーンは60-70万年前毎の周期で巨大噴火を起こしており、前回の巨大噴火より既に60万年が経過しているので、いずれ近いうち(近いといっても地質学的時間スケールであって数千年から数万年)に巨大噴火が起こることが予想されている。 噴火の規模は最悪ピナトゥボ山の噴火(1991年)の100倍以上の規模になるとされる。 ユタ大学イエローストーン火山観測所のボブ・スミス所長によれば、超巨大噴火が起きた場合、イエローストーン国立公園は完全に消えてなくなるという。 イギリスの科学者によるシミュレーションでは、もし破局噴火が起きた場合、3-4日内に大量の火山灰がヨーロッパ大陸に着き、米国の75%の土地の環境が変わり、火山から半径1000㎞以内に住む90%の人が火山灰で窒息死し、地球の年平均気温は最大10度下がり、その寒冷気候は6年から10年間続くとされている。

 

 『地震より怖いのが火山』とかねがね思っている自分が驚いた表現が、イエローストーン火山には『近い将来に超巨大噴火を起こす確率は極めて低いと予想されている。』ことでした。 超巨大噴火は、起こらないに、越したことはありませんが、比較的高頻度で起こる、地震・津波は、不謹慎な言い方ですが。局所的です。 超巨大噴火は、その火山ガスによる太陽光線の遮断で、地球の気候まで変えてしまう、『核の冬』ならぬ、『噴火の冬』に、記録にあるものが下記の通りです。 以下ウェブ情報です。

 

➊【7万年前から75千年前】トバ火山(インドネシア)※火山噴火の噴出物量は9000立方kmと過去200万年で最大。

  今から7-75000年前に、トバ火山が火山爆発指数でカテゴリー8の大規模な噴火を起こした。 これがきっかけとなり、劇的な寒冷化はおよそ6000年間続いたとされる。 その後も気候は断続的に寒冷化し、地球はヴュルム氷期へと突入する。 トバ事変の後まで生き残ったホモ属はネアンデルタール人、デニソワ人と現世人類のみで、現世人類も、総人口が1万人にまで激減したという。 人類史を揺るがした大事件であったといえるだろう。

 

❷【7300年前】鬼界カルデラ(日本) 火山噴火の噴出物量は100立法km

  今からおよそ7,300年前、鹿児島市の南方およそ100kmの島で激しい噴火が発生し、島の大部分が失われて海底に巨大なカルデラが形成。 活火山のない四国も厚い火山灰で覆われ、南九州から四国にかけて生活していた縄文人は死滅するか、食料を求めて火山灰のない地域に移動し、1,000年近く無人の地となった。

 

❸【紀元前17世紀】サントリーニ島(ギリシャ)火山噴火の噴出物量は60立方km

  高さ30mの津波がギリシャ本島やクレタ島を襲ったという。このためクレタ島を中心に栄えていたミノア文明が大打撃をこうむった。 ギリシャ文明が戦争的色彩を強めるきっかけになったといえるかもしれない。 またこの噴火の噴煙は世界を覆い寒冷化を生みだした。 中国でも異常気象の記録があり、ちょうどこのころ夏王朝が滅亡した。

 

❹【535年】クラカタウ(インドネシア)火山噴火の噴出物量は不明

  NASA研究員が発表した仮説で、過去3000年間で最大という説あり。 火山噴火の噴出物量は不明だが、かなり広範囲な影響と中国の歴史書記録から、クラカタウ爆発が推定されている。 この巨大噴火による気候変動を発端として、東ローマ帝国の衰退やネズミを媒介とするペストの蔓延、さらにはイスラム教の誕生やマヤ文明の崩壊にもつながったとされる。

 

 カルデラ・Calderaの語源はスペイン語のCaldera(鍋)に由来しますが、さらに遡ると、後期ラテン語のCaldâriaにまでたどり着きます。 これはコールドロン・Cauldron(大釜、大湯わかし)と同じ語源です。

 

『イエローストーン火山噴火(予想される規模)』です。

 過去3回の超巨大噴火は、現在の国立公園内で起きた。最も新しい噴火は64万年前に発生し、その規模は、1980年に57人の犠牲者を出した、ワシントン州セント・ヘレンズ山の噴火の1000倍に相当する。研究者たちの推計によると、火山灰は上空約3万メートルにまで達し、噴出物は西部一帯を覆い、南はメキシコ湾にまで達したという。また、800℃に達した灼熱の火砕流が渓谷一帯を席巻し、比重の重い、高温の噴出物が数百メートルの厚さで堆積(たいせき)した。緑豊かな谷が、一瞬にして、アスファルトのようなもので覆われたのだ。

 

 しかし、イエローストーンでは、さらに規模の大きな噴火が発生している。210万年前に起きた噴火の規模は、64万年前の2倍を超え、地表には広さ4000平方キロもの巨大な穴が開いた。これら2回に比べると、小規模だが、それでもなお壊滅的な被害をもたらした噴火が、130万年前にも発生している。

 

 超巨大噴火のたびに、影響は地球全体に及んだはずだ。噴出したガスは成層圏にまで達し、水蒸気と混ざり硫酸塩エアロゾルの薄い層が形成され、太陽光をさえぎっただろう。このため地球では、「噴火の冬」と呼ばれる気温の低い期間が数年も続いた可能性がある。

 

 驚異的な破壊力の割に、超巨大噴火が残した痕跡はあまり目立たない。イエローストーンのカルデラは浸食が進み、後に発生した小規模な噴火(最近では7万年前に起きた)の際に流れ出た溶岩や火山灰が溜まり、氷河によって表面が削られて平らになっている。そして、森が噴火の痕跡を覆い隠しているのだ。そのため、ドーン少尉のような鋭い観察眼をもっているか、地質学者に教えてもらわない限り、噴火の跡を見つけることは不可能と言えよう。

 

 「ここから見えるカルデラは、全体の3分の2にすぎません。あまりに巨大なので、全体を見渡せないのです」と、イエローストーンの超巨大火山を研究する地質学者、ボブ・スミスは語る。私たちはイエローストーン湖東端にそびえる丘、レイク・ビュートの上にいた。そこからはカルデラが見渡せるということだったが、私には見えなかった。その大半は湖底に水没しているし、直径が約72キロと巨大なためだ。

 

 これまで地質学者たちは、イエローストーンの噴火のサイクルを数十万年単位の長いものとして考えていて、その噴火プロセス、つまり「噴火の予徴が始まってから実際に噴火するまで」の時間は数千年単位で移行するものだろうと推測していました。

 

 ところが、最近の科学者たちの調査で、「イエローストーンの噴火プロセスの時間的推移は《数十年以内》」だということがわかったのです。

 つまり、何らかの兆候があった後に、これまでは「あと数千年のうちに噴火するかもしれない」というような考え方だったのですが、この発見により、「兆候が始まってから、わりとすぐに噴火までに至るかもしれない」ということを科学者たちが認め始めているというものです。

 

過去にこんな記事もあります。

 

 アメリカ地質調査所(USGS)の科学者たちは、これまでイエローストーンのカルデラに関連して「何も心配することはない」と述べ続けてきた。しかし、最近の新しい情報を見て、彼らは自分たちの発言を見直している可能性がある。

 

  しかし、イエローストーンが噴火した時の爆発や降灰、そして、その影響による気候がどのようになるのかを経験したことがあるものは誰もおらず、噴火した場合にどうなるかということについては、実際のところは何もわかりようがない。

 

 イエローストーンは北アメリカで最大の火山地帯でもあります。 イエローストーンの見所のいくつかは、この火山によるものです。これらの火山が活動した記録は、近年だと2004年から2006年にかけて、部分的に地盤が上昇したことや、2017年に地震が起こったなどがありますが、噴火には至っていません。

 

 2018年の7月、イエローストーン国立公園で30メートルに及ぶ巨大な裂け目が出現し、一時は噴火ではないか、と騒がれる事態がありましたが、これも噴火とは関係のないもので、一部のジャーナリストが騒いだだけのことでした。

 

 しかし、イエローストーンはいつ噴火してもおかしくない、という話もあります。なぜなら、イエローストーンは60万年から70万年の周期で噴火を起こすと言われているからです。 調査によると、イエローストーンが最後に噴火したのは64万年前であり、周期だけで考えると、いつ噴火してもおかしくない、と言えるのです。

 

 先般、NHKBSプレミアムで、イエロースト―ンカルデラのマグマ溜まりの大きさが、測定できることが紹介されていました。 このマグマ溜り、東西約80km、南北約40km。 このマグマ溜りの成長速度が不明、どこまで成長したら破局爆発するかも予測できないし、巨大彗星や隕石の衝突の様に、人類には全く、予知も、防ぐ術もない。 


この20年ほどのイエローストーンでの異変としては、

2004 - 2006年にかけて、イエローストーン公園の東西 80km南北 30kmの範囲で地盤が最大 12cm上昇。過去にはなかった現象

1999年にイエローストーン公園内の湖の底で高さ 30m以上、長さ 700mの巨大な隆起が発見される

❸イエローストーンの地下 20kmから 50kmまでに、東西 80km南北 40km(容積は約 4.6km3)の世界最大のマグマだまりがあることが判明

 

 イエローストーンの破局噴火が起こると『噴火の冬』が数十年~数百年続き、人類滅亡の心配もあり得ます。 起こると分かっても、人類には何もできないという『運命』を思い知ることになります。

    (記事投稿日:20200927、228

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『日本の城郭 5-2(石垣山一夜城はハコモノだった?)』 ―巨大城郭小田原城を陥落させた後、関東初の総構え石垣城が廃城同様に―

2020-09-26 16:15:03 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 5-2(石垣山一夜城はハコモノだった?)』 

巨大城郭小田原城を陥落させた後、関東初の総構え石垣城が廃城同様に―

 

 石垣山一夜城散策、箱根登山鉄道の入生田駅から石垣山一夜城に登る裏側ルートは4度、車で登った表側ルート2回を加えると合計6回になりました。 山城でいつも心配になるのは、井戸(水源)でした。 

 

石垣山一夜城(手前の早川を前にした天然の要衝の山城)

      

      ウキぺデイアより引用

 

小田原城(武田軍・上杉軍も落とせなかった巨大城郭)

     

       ウキぺデイアより引用 

 

 一見『水』に苦労しそうな山城、久留里城や安土城等も、天主(天守)閣や本丸のある頂上部の近くに自噴井戸や深堀抜き井戸があったのに驚きと同時に、縄張りに抜け目がなく、『流石』と思いました。

 

 この『石垣山一夜城』は、数万人を動員して3カ月弱で築城をしています。 秀吉・官兵衛、名将・名参謀の本格的な築城であったようです。 建設中には小田原城側の樹木は切らず、完成直後に切り払い『一気に見せて敵の戦意を削いだ』と言われています。 5月20日付けの浅野長政の文書には、現地の報告として、『日番と夜番の二交代制で、昼夜休む事のない突貫工事が行われていて、その規模は大坂城や聚楽第にも劣らない』などという事が書かれています。

 

 朝鮮出兵に備えた10万人住める城下町の、総構え城郭『名護屋城』を、およそ8カ月で完成ていますので、その『名護屋城』の規模との比較からみても、『石垣山城』をだれが呼んだのか、『一夜城』と呼ぶには、もったいない程の本格的築城であったと考えます。 ましては、天皇の勅使をこの城で迎えていますので。

 

 さて表題の『日本の城郭 5-2(石垣山一夜城はハコモノだった?)』―巨大城郭小田原城を陥落させた後、関東初の総構え石垣城が廃城同様に― 戻ります。 

 

 『石垣山一夜城』の建物は、瓦葺であった由。 現在も城址からは瓦が出土するとの事ですが、その出土した瓦の中に、北条氏政・氏直父子が小田原城を開城した翌年の年号の銘が入っていたので、小田原城の落城・開城後も『石垣山一夜城』の建設が続いていたと言われています。 今となって立証も極めて困難でしょう。

 

 この総構えの山城の城郭に、豊臣家からも、徳川家からの城主は出ておらず、『廃城』なっています。 徳川家の『豊臣家への備え、豊臣恩顧の西国大名への備え』には『石垣山一夜城』は不要となり、それに変わる『駿府城』と『小田原城』の大改築があったのが真相のようです。 結果的には『石垣山一夜城』は、今流にいう『ハコモノ』に終わったようです。 

 

 昭和の終わりから平成の初めかけての『ハコモノ』は、いかがであったでしょうか、安土桃山の『ハコモノ』と比較、考え込んでしまいます。

                             (20200926纏め、#227

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『本格的木造建築は、鉄骨造より堅牢で長寿命を寺院・城郭が証明』 ―木造建築の普及には、無垢の木材では無理、新建材 CLT のコスト削減を―

2020-09-22 13:32:15 | 技術

『本格的木造建築は、鉄骨造より堅牢で長寿命を寺院・城郭が証明』
『木造建築の普及には、無垢の木材では無理、新建材 CLT のコスト削減を』

 

 先ずは、表題の寺院・城郭の長寿命の一例の紹介です。 天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気回復を祈り創建した奈良市の薬師寺・東塔は 730 年の完成から、幾度も修理を繰り返したが、全解体は 2006 年始まった今回の『大修理』が令和 2 年春に終わった。 約 1,300 年以上も『もって』いる。

          ウエブ情報から引用

 期待の画期的な新建材 CLT(Cross Laminated Timber)の普及には、日本の林業の現状では、多々困難な面がありそうです。 ましてや、林業大国のロシア・ブラジル・カナダ・アメリカ等とコスト面で競合できることが条件になります。

 平野よりも山野、それも急傾斜地の多い日本でも、期待が持てそうなのは、比較的適合した樹木があります。 代表的な樹木は、杉や檜で、傾斜地でも、まっすぐ伸びる木で、成長も早く、建築材として、新建材 CLT の材料としても、優れています。 しかも、杉や檜は円錐形に育って場所あまりとらず、植林の効率も良いと言われています。

 数年前に、新建材 CLT について開発・実用化された発表されました。 この時、久々のヒット製品だと感激したのが下記ウェブ情報です。 再度確認します。

 ひき板(ラミナ)を並べた後、繊維方向が直交するように積層接着した木質系材料です。 厚みのある大きな板であり、建築の構造材の他、土木用材、家具などにも使用されています。

 その強度は『鉄筋コンクリートに匹敵』する。 オーストリアで最も進み、すでに 9 階建てまで許可され、ロンドンでも 9 階建てが実現している。 この新建材 CLT はベニヤ板とは区別されている。

 新建材 CLT は、救世主のように思われますが、日本の林業の弱点である;

『森林所有が小規模で、土地が急峻である。 伐採搬出が旧態依然でコストが高すぎる。 外材のように大量安定供給ができない。 木材の流通ルートが複雑すぎる。 乾燥させた木材が少ない。 品質がバラバラで使いづらい。』
 
 これをカバーできるか疑問が多く、更に単層人工林・人手不足・山林の地主不明問題まである中で、林業大国のロシア・ブラジル・カナダ・アメリカ・中国等が、新建材 CLT の生産、輸出を始めたら、原木輸出より輸送効率も良く、新建材 CLT の国際競争力は日本には、分が無いように思われます

 前置きが長くなりました。 先日(20180725)テレビ民放某局がワイドショーで、新建材 CLT の超高層ビルの紹介がされました。 その概要はウェブにありました。 早速ウェブ情報からです。

 住友林業は、2 月 8 日、2041 年までに木造を主部材とした超高層ビルを都内に建設する構想「W350」を発表した。 高さ 350m、地上 70 階建ての複合施設で、総工費は約 6000 億円。 同社が日建設計の協力を得て計画をまとめた。 実現すれば、現在三菱地所が東京駅北側の常盤橋街区で建設を進める高さ約390
メートルの超高層ビルに次ぐ高さとなる。 新建材 CLT の耐用・耐久年数は、50-70 年と言われておりますが、鉄筋コンクリートビルとの正確な寿命比較はデータがなくできません。

     

ウエブ情報から引用

 因みに、
あべのハルカスの総工費は、1,300 億円(高さ 300ⅿ、60 階)、
横浜のランドマークは、総工費は、2,700 億円(高さ 296ⅿ、70 階)です。

 さて、この新建材 CLT 工法の優位性;
① 建築期間の短縮、工場で製造・加工できる。
② 断熱性が高く、省エネ効果、木材は多孔質材料で断熱性大。
③ 優れた耐震性、PC コンクリートに対して、四分の一の重量。

 この新建材 CLT と CO2 削減について;
一部は、先の備忘録『木を植えよう』に重複します。 森林は、言わば CO₂の一時貯蔵庫で、樹木がすべて枯れ、完全に分解してしまえば、樹木が吸収したCO₂がすべて放出される。 しかし実際には、枯れ死した樹木の全てがすぐ分解されるわけではありません。 その多くは、有機物として土壌中に長く蓄え
られます。

 一方、伐採した樹木すべてが、すぐに燃やされて、 CO₂になるわけでなく木材として住宅や家具になります。 長く使うほど CO₂が長く固定されます。 ここで新建材 CLT は再利用もできます。 因みに、昔の木造の神社仏閣・城郭は数百年の寿命(これは鉄筋コンクリートより長寿命)です。 名古屋城の完成
1612 年、1945 年空襲で焼失から判るように、優に 300 年以上持ちます。

 然しながら、現在の戸建て木造住宅の平均耐用年数ですが、日本では約 30-40年、米国約 40-50 年、英国約 50-70 年と言われます。 田舎には今でも築後 100年以上の木造民家が多々あります。 『エコの本質』を、昔の人は感覚的に知っていたが、現代人は、『安価最優先』でした。

 日本は森林大国で、狭い国土にすでに沢山の森があるので、大規模植林の余地はあまりないと言われます。 更に課題は沢山あります。 傷んだ森を、木、亜高木、低木、下草、そして土の中のカビやバクテリヤで構成される『本物の森』に戻さなければなりません。 『本物の森』でない、単層人工造林(杉、松、カラマツ等)では最近の異常な豪雨や津波には耐えられません。 今では、開発で激減、細々と残っている、日本の『鎮守の森』が将に『本物の森』です。

 偏見ではありますが、『鎮守の森・本物の森』は、多神教(自然の造物、何にでも神は宿る)の賜物です。 余談ですが、今の三大宗教(一神教)は奇しくも、森ではなく砂漠で生まれています。

 『京都議定書』には、先進国が発展途上国に援助して植林などの CO₂削減策を行った場合、その先進国の削減として認めようとする『グリーン開発メカニズム」があります。 『森が泣いている』先進国日本は、日本の木材大量輸入に起因する森林伐採跡地のある国の植林支援は元より、足元の日本の森林回復
も必須です。

 『本物の森』には、必ず直根性・深根性の照葉樹、楠、シイ、椿があります。楠は、葉が全部焼けても再生しますし、シイ・椿は潮風や津波に強いです。 松は、横根性で、津波に弱く、油分が多く火にも弱いことは、東日本大震災でもよく判りました。

 新建材 CLT の利用・活用をベースに、日本の林業と住宅事情が改善されることを期待しています。 新建材 CLT の材料、杉・檜をいかに輸入材より安くできるか、無花粉杉は十分足りているか等、問題も山積みですが頑張りましょう。
(記事投稿日:2020/09/22、最終更新日:2023/02/02、#225) 

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『八つの切通しに守られた鎌倉は新田義貞の猛攻に耐えたが、源頼朝が恐れた大型軍船攻めではなく、由比ガ浜の干潮が弱点(虎口)に!』

2020-09-20 23:32:18 | 城・城郭・城塞

『八つの切通しに守られた鎌倉は新田義貞の猛攻に耐えたが、源頼朝が恐れた大型軍船攻めではなく、由比ガ浜の干潮が弱点(虎口)に!

     

 鎌倉には、御所が置かれませんでしたので、日本の三大古都の一つと呼ばれる鎌倉ですが、奈良・京都とは異なります。 源頼朝は伊豆半島の三島大社がある三島近くの蛭ヶ小島に配流(流罪・島流しと同意)、源義経も源氏ゆかりのものを通じ、鞍馬山の鞍馬寺に(お預け)でした。

 平家の平清盛は関東伊豆半島の知識や京都周辺の山寺事情に、疎かったのでしょうか。 それとも源氏正統の御曹司二人には、寛大であった所為でしょうか、『流罪とお預け』は、実に寛大で、その後の源氏の隆盛をみると、興味は尽きません。

天然の要塞・鎌倉

             

ウキペデイアより引用

鎌倉に現存する主な切通しは8つ

                

ウエブ情報より引用

  鎌倉市の中心部に当たる地域三方を山に、一方を海に囲まれている。 源頼朝が創設し、北条時政、北条義時らによって実権が継承され、鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。 天然の要害です。

  鎌倉に現存する主な切通しは八つ、朝比奈・名越・大仏・化粧坂・亀ヶ谷坂・極楽坂・釈迦堂口・巨福呂坂です。 これは物流のためと、防御のためです。

 鎌倉の寺社、と鎌倉を囲む尾根筋は、結構歩きましたが、鎌倉幕府以前の鎌倉は、どうだったか、いつも気になり、興味を持っていました。 先ずはウエブ情報です。

・ 古事記に、「鎌倉之別」とある。
・ 倭名鈔に、「加末久良」という郡名あり。
・ 万葉集に、「可麻久良」とある。
・ 古風土記に、「鎌倉」とある。
・ 詞林采葉集に、「鎌足が鎌を大蔵松岡に埋めてから鎌倉となった」とある。


 上記の情報では、文字のない大和言葉、『かまくら』という音に漢字をあてて「加末久良」「可麻久良」と読んだのか、後に鎌倉に変わったのかは不明で、今後の課題ですが、鎌倉という地名の由来は:

❶伝説的なもの

❷地形的なもの

❸その他の説、 等あるようです。

 

 さて、やっと表題の『七つの切通しに守られた鎌倉は新田義貞の猛攻に耐えたが、源頼朝が恐れた大型軍船攻めではなく、由比ガ浜の干潮が弱点(虎口)に!』です。 この鎌倉・城郭都市を守る北条孝時を攻めたのは、新田義貞です。

 

 城郭都市・鎌倉は南が海で、東西は山に囲まれた天然の要害であり、鎌倉へ入るには朝比奈・名越・大仏・化粧坂・亀ヶ谷坂・極楽坂・釈迦堂口・巨福呂坂の八ヵ所だけであった。 従ってこの八ケ所を守れば鉄壁の要塞となった。 双方ともこの切通しの攻防が中心となった。 特に化粧坂、極楽寺坂は激戦地となった。鎌倉攻防の戦いは518日から開始され、22日に稲村ケ崎から鎌倉へ突入し、鎌倉は火の海となり、東勝寺で北条一族自害し、150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。

  自分の住む鶴見に、ごく近いところに、これほどの歴史大絵巻の物語がありました。 特に興味と課題なったのは、源頼朝が遠浅の由比ガ浜には大型軍船が近づけないと思ったところを、新田義貞が干潮時に『稲村ケ崎を渡渉』で攻めた故事です。 大げさになりますが『モーゼの紅海渡渉』を想像して、これからの鎌倉散策が楽しみです。

                            (20200920纏め #223

<追補>

稲村ケ崎

               

     ウキペデイアより引用

 

稲村ケ崎と由比ガ浜の海岸地形について;

  • 新田義貞軍の稲村ケ崎海岸の渡渉が実際にできたか、そして
  • 源頼朝が恐れた大型軍船の由比ガ浜接岸、について気になっていました。 

  九十九里海岸育ちとしては、実際に踏査したい衝動に駆られていました。 が最近貴重な情報をウエブで見つけました。 情報諸説ありますので、コロナ禍が収まったら、国会図書館地図部の専門家にお尋ねしたいと思っています。 

  • 5月18日大干潮の日、一部の兵300ばかり率い、干潟を通り由比ヶ浜の奇襲を敢行、波打ち際に逆茂木をして守りを固めていた北条軍に敗れ、大敗。 義貞はこれを聞き、大軍で干潟を渡ることにして、21日深夜ながら、大干潮ではない中を強行しました。 難渋の反面、逆に油断していた北条軍はやすやすと侵攻を許し、敗北することになりました。

    その後現在まで数度の大地震に見舞われ、地形も変わり現在の状態から当時を想像するのは困難といわれます。 当時は小氷期で海岸線は今より後退していたようです。

  • ただ『太平記』では稲村ヶ崎を「沙頭路狭きに」と表現しています。 「沙頭(しゃとう)」つまり砂浜の事です。 これは当時の稲村ヶ崎が遠浅だった事を意味しますので、現在の姿だけで判断することは危険ですね。

 

  • 稲村ヶ崎は奇襲作戦ではなかった。実際の鎌倉攻防戦は5月18日ころから始まっていますが、このときすでに新田軍は稲村ヶ崎を突破して前浜の在家にあったとあります。 つまり稲村ヶ崎は、さほど強固な防衛線では無かった事になります。 突破するかなどという問題は元々存在せず、その作戦も奇襲とは言いがたいものだったことになります。

               (20200920纏め #223 20200924追補)

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