知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『平安時代、天皇家の子孫も含む朝廷の武官が地方で成長し、豪族武士団となり、地方豪族間で発生した戦乱が拡大、承平天慶の乱「平将門と藤原純友」対「朝廷」に発展!』

2024-08-08 16:45:23 | 寺院・仏閣・神社・お社
『平安時代、天皇家の子孫も含む朝廷の武官が地方で成長し、豪族武士団となり、地方豪族間で発生した戦乱が拡大、承平天慶の乱「平将門と藤原純友」対「朝廷」に発展!』

古代から続く日本の歴史、特に、『天皇制』という素晴らしい歴史の中で、『神話と共に成立し、以来二千年近く、一つの国が続いた例は世界のどこにもありません。 これ自体が奇跡といえるほどです。』と百田尚樹氏著の『「日本国紀 上」の序にかえて』にありました。 そんな中で、公家社会は、奈良時代から平安時代にかけて形成され、特に平安時代(794年~1185年)に栄えました。

武士社会は、平安時代末期から始まり、鎌倉時代(1185年~1333年)に本格的に成立しました。その後、室町時代(1336年~1573年)、戦国時代(1467年~1603年)、江戸時代(1603年~1868年)を経て、明治維新(1868年)まで続きました。

その武士社会の始まりは、一般的にはこう紹介されています。 中世の主役は武士で、武士の出現した理由は、律令体制の下、税が払えず口分田を捨て逃亡した人達が、その土地の権力者や貴族に雇われ、新しい田を作ります。 『墾田永年私財法』により新しく耕作した田は、自分の物にして良いことになったからです。

このような方法で権力者や貴族は、各地で私有地を拡大し、これらは荘園と呼ばれるようになりました。 労働力と金さえあれば、荘園はどんどん増やすことが出来ます。 時には、荘園の奪い合いが起こりました。 自らの土地は自らで守るために、貴族が武士となる場合もありますが、専門的職業として武士になる者もいて、荘園を守る警備の役割として雇われることもありました。
以上が、武士が現れてきた過程のようです。 
 
10世紀になると、いよいよ各地で武士が成長し始めます。
初めは荘園を守るためであった武士も、いつしか朝廷や国の役人になって、天皇御所の警備、犯罪の取り締まりなどに当たるようになりました。
 都では、貴族の屋敷を警備する武士もいました。

地方の豪族たちも武士になりましたが、中央では、天皇の子孫も武士として台頭し、活躍したのです。  天皇の血を引く武士団、彼らは特別に源氏と平氏
 と呼ばれます。 源氏平氏の名が全国に響き渡った出来事がりました。

平将門の乱(935~940年)
平氏の始祖、高望王は関東で勢力を造った武士で、元々は関東の役人で勢力を広げ、領土が大きくなり、一族に争いごとが起こります。 高望王の孫、平将門は戦上手で、領民からの評判も良く、他の土地から流民も増えました。
平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。 やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、その拗れから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。 将門は関東を制圧して新王と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた
新王
『桓武天皇の血を引いているものとして、新王を名乗り関東を治めよ』との菅原道真の霊魂からのお告げがあったという伝説があります。

藤原純友の乱(939~931年)
藤原純友は藤原道真の子孫でエリート族、瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていたが、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。 結果として蜂起に至った。 西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた

前九年の役(1051~1062年)
永承6年(1051)から康平5年(1062)にかけて、陸奥の豪族安部頼時とその子貞任・宗任らが起こした反乱を、朝廷が源頼義・義家を派遣して平定させた戦役。 後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築くきっかけとなった。

後三年の役(1083~1087年)
永保3~寛治元年(1083~87)に奥羽で起きた戦い。 前九年の役後、奥羽に力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守として赴任した源義家が介入し、藤原清衡を助けて清原家衝・武衝を滅ぼしたもの。 清衡は奥羽の地盤を引き継ぎ、源氏は東国に基盤を築いた。

 ウエブ情報から引用

承平天慶の乱は、平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称である。 一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。 ただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものであった。 「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。 鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなった。

瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。

なお、この反乱は一般に承平・天慶の両元号の期間に発生したことから「承平天慶の乱」と呼称されているが、承平年間における朝廷側の認識ではこの当時の将門・純友の行動は私戦(豪族同士の対立による私的な武力衝突)とその延長としか見られていない。

承平天慶の乱意義
二つの乱は、ほぼ同時期に起きたことから将門と純友が共謀して乱を起こしたと当時では噂され、恐れられた。 これらの乱は発生期の1世代目から3世代目にかけての武士が、乱を起こした側、及び鎮圧側の双方の当事者として深く関わっている。 乱を起こした側としては、治安維持の任につく武芸の家の者としての勲功認定、待遇改善を目指す動きを条件闘争的にエスカレートさせていった結果として叛乱に至ってしまった面を持ち、また鎮圧側も、乱を鎮圧することでやはり自らの勲功認定、待遇改善を図った。 結果として鎮圧側につくことでこれらの目的を達成しようとする者が雪崩的に増加し、叛乱的な条件闘争を図った側を圧倒して乱は終結した。
また、鎌倉時代には源実朝が「将門合戦絵」を描かせたり、神田明神が江戸幕府によって「江戸総鎮守」とされたりするなど、武家政権が将門を東国武家政権の先駆けとして強い親近感を抱いていることも特徴的である。
(記事投稿日:2024/08/08、#763)
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