知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『ヨルダン・ペトラ(自然の要塞で、人や物の行き交う要衝の地)』『「人や商品の交流」で栄えた、サバテア王国の首都ペトラ(岩の意)』

2023-02-25 18:34:09 | 風景

『ヨルダン・ペトラ(自然の要塞で、人や物の行き交う要衝の地)』

『「人や商品の交流」で栄えた、サバテア王国の首都ペトラ(岩の意)

『隊商都市と認識して理解できた、キャラバン交易路のターミナル機能で発展』

 

ペトラ周辺は広大な岩石砂漠に囲まれてり、その間に『シーク』と呼ばれる渓谷が交通路になっている。(中央がエド・ディル)

ウエブ情報から引用

 

エド・ディル

ウエブ情報から引用

 

シークの中央の『アル・カズネ(エル・ディルより少し小さい)』

ウエブ情報から引用

 

シークの間から見える『アル・カズネ』

ウエブ情報から引用

 

ペトラのある地は、自然の要塞であった。 また西にガザ、北にダマスカス、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあった。 ナバテア人の首都、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられてきた。

ナバテア人;歴史に登場するのは紀元前4世紀のこと。 紀元前6世紀、後にナバテア王国が栄えることになる土地には、エドム人が住んでいたと言われている。 エドム人はアラブ系の民族で、山脈から銅や鉄を採掘し、また、交易路の十字路を支配していたためそこを通る隊商から利益を得ていた。 そのため、彼らの領土の西にすむユダヤ人とは、交易路の支配権を巡って長い間敵対関係にあった。 ソロモン王の時代、エドム人はナバテア人に敗北し、交易路はナバテア人の支配下に入る。


立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えた。 ペトラの特徴として、スパイス交易の拠点機能と治水システムがあげられる。

完全な岩礁地帯であるので、農業には不向きであった。 また雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していった。 ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水設備を作り上げたことが分かっている。

 

当時のユーラシアのアジアとヨーロッパを結ぶ交易路(サプライチェーン)のターミナルでした。 岩石砂漠の不思議な遺跡と単純に理解していましたが、最近の中国の『シルクロード経済ベルト(一帯)』、『21世紀の海上シルクロード(一路)』の先駆けとして、やはり凄いと思います。

(記事投稿日:2023/02/25、#631)

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『松江・出雲の旅の車窓からの沿線風景、里山に竹林が拡大!』 『昔見た総武本線沿線の里山に孟宗竹・真竹の竹林拡大が関東以西全体に?』

2023-02-25 12:23:08 | 風景

『松江・出雲の旅の車窓からの沿線風景、里山に竹林が拡大!』

『昔見た総武本線沿線の里山に孟宗竹・真竹の竹林拡大が関東以西全体に?』

 

先日、新幹線と、JR在来線と、私鉄ローカル線で、松江・出雲を旅して、車窓から見た沿線の風景、里山に竹林が拡大されているのに驚かされました。

 

『八雲立つ出雲』の風景にも散見される竹林拡大

数年前に、総武本線を利用した時を思い出しました。 当然ですが、昔、50数年前に飯岡駅津田沼駅間の通学時に見た車窓風景とは様変わりし、線路沿いにも立ち並ぶ住宅が増えています。 それでも、総武本線の沿線の田畑の奥に重なる里山は、それ程は、住宅地化されず、かなり残っていました。 神奈川・東海地方では、里山の天辺まで、かなり住宅地になっています。

 

しかし、総武本線沿線の、里山群は、半世紀余前と比較して随分竹林に浸食されています。 この里山に増えた、多島海状に分散した竹林群の増加は、筍栽培のために、人為的に移植したものと思われます。 自然の拡大であれば、竹林はもっと『分散せずに集中大型化』するはずです。

 

この度の山陰地方の旅で、車窓に見た竹林の繁茂の様子は、昔、50数年前に、総務本線で見た車窓風景と同じでした。

 

ウェブ情報から抜粋・引用です

竹林が分布する可能の高い地域は西日本に多く(地図上の赤色の地域)、都道府県別の分布平均確率は長崎県、佐賀県、山口県、千葉県、福岡県、大分県島根県、京都府、兵庫県、静岡県で高い。 逆に大型タケ類の分布北限と考えられる北海道、東北各県では分布確率は低くなっている。 これらの竹林の分布確率が高い地域では、竹林が広く拡大しているか、または今後の拡大が予測されることから、モニタリングや早めの拡大防止対策が必要である。 特に、これまで自然環境保全基礎調査の植生図のレベルではほとんど竹林が記載されていなかった鳥取県、愛媛県、長崎県などにおいても、実際にはかなりの面積で竹林が分布していると考えられることから、特に注意が必要である。

 

竹林が分布する可能性の高い地域を示した地

この地図では、竹林分布の実態把握や今後の分布拡大防止への対策の基礎とするため、先行研究によって環境要因から推定された竹林が分布する可能性の高さを、竹林分布確率として表示した。

ウエブ情報から引用

島根県の竹林では、近年タケノコ生産の減少など竹林利用の減少に加え、過疎化や竹林所有者の高齢化が進んでいるため、竹林の放置荒廃化が進み、竹林の造林地や宅地等への侵入が発生して、大きな問題となっています。

そのため、竹林の荒廃や拡大防止を図るため、タケ有効利用技術が求められています。 中山間地域研究センター資源環境課ではタケ利用技術の開発を、農業、畜産および林業各分野の共通課題と位置づけて、試験研究を進めています。

中山間地域;日本における地域区分のひとつで、平野の外縁部から山間地にかけての地域を指す。日本の国土面積の約7割を占めている 。

 

竹林の拡大防止は、『昔よく見た、道端の雑草が畑に侵入するのを防ぐ、深さ1ⅿ前後の溝』、と同様の溝を、竹林の周囲に造るか、溝に代えて地中に、1m前後の遮蔽板を造ることが有効と言われますが、これが徹底されているか、興味は尽きません。 この溝の日陰の水は、湧き水で冷たく、スイカやウリを冷やして、海で遊泳の帰路に食べるのが楽しみでした。 竹林拡大問題は、筍栽培が儲からなくなったことと、竹林の手入れ不足の複合原因ではないでしょうか。

(記事投稿日;2023/02/25、#630)

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『即刻解決すべき課題が山積みでも、議論・検討の掛け声ばかり 3』 『日経の電子書籍の広告『安いニッポン価格が示す停滞』に衝撃』

2023-02-19 21:27:06 | 日本・産業

『即刻解決すべき課題が山積みでも、議論・検討の掛け声ばかり 3』

『日経の電子書籍の広告『安いニッポン価格が示す停滞』に衝撃』

 

数十年前から海外4カ国に20数年間駐在して、国内と交互に住んでいました。その間、はじめの頃は、ゆっくりと、最近は、凄い速さで『世界に冠たる日本の…』がどんどん少なくなってきていることを感じていました。 心配・懸念していたことが電子書籍『安いニッポン「価格」が示す停滞』が発売されると、いきなり増刷です。

 

半世紀も前に、工場で働き始めたころは、日本の工場という工場は『CD(コストダウン)』一色でした。

 

  • 『CD』のために『IE』(industrial engineering管理方式に科学的方法を導入するための専門分野の総称)の導入。 企業内部の研究、調査、標準化、統制、協同関係のあり方などを主たるテーマとする。

 

  • 『CD』のために『時間研究』(time study)作業研究の一分野で、個々の作業についてその標準所要時間を科学的に測定・設定し、課業(標準作業量)の決定に資料を提供し、さらに作業の計画的遂行に寄与する研究をいう。

 

  • 『CD』のために『WF』(work factor method)ワークファクター法。 動作分析により標準作業時間を決める方法の一つ。 ストップウォッチを使わずとも、作業時間を測定できる。

 

  • 『CD』のために『VA(ブイエー)』(value analysis)価値分析。 経営管理の用語。 企業が購買品を機能と価格の面から調査分析し、コストダウンや新製品開発に役立てようというもの。

 

これらのアメリカのフォードをはじめ大企業が採用した合理化の手法を、日本のメーカーも徹底的に採用して、『CD』を継続的に実現して、アメリカの製造業に、追いつけ、追い越せを進めて成功しました。 

 

安い商品(適正価格だったかどうか疑問)で儲けて国と国民を、継続的に豊かにすることできなかったように思っています。 一方『国民一億中流』の実際的な実現は、欧州国家と比較してできてはいなかったようです。

 

また、昔のことですが、競輪・オートレースからの収益金を機械産業への補助金にして振興させたことなどあり、米国の工作機メーカーに、決定的なダメージを与えました。

 

先日の日経新聞の記事下の電子書籍中藤玲氏の著書『安いニッポン「価格」が示す停滞』の広告のフレーズに驚きました。 

 

日本の初任給は、スイスの3分の1以下

海外のエリート学生が日本企業を避けるわけ

日本のディズニーは世界最安値水準

④物価の安さに感動する訪日外国人

⑤アジア国籍になる日本の町工場

⑥お家芸「アニメ」人材流出の深刻さ

⑦「爆買い」ブームの裏にあったリスク

 

今後は、このシリーズ『即刻解決すべき課題が山積みでも、議論・検討の掛け声ばかり』で気が付いた課題を取り上げて、調べてブログに纏めていきたいと思っています。 

 

電子書籍『安いニッポン 「価格」が示す停滞』

ウェブ報から引用

日経BP 日本経済新聞出版本部

ウェブ情報の抜粋引用です。 『この本は、2019年に中藤玲さんが受けた衝撃から始まります。 中藤さんが韓国に行った際に、日本でチェーン展開している100円ショップがあったのですが、そこで手にした商品の多くが倍以上の価格だった。全く100円で買えなかったそうです。 ここで中藤さんは「日本が安くなっているのでは?」というふうに気付いた。』

 

現状ですが、結果的に閉塞感・無力感が蓄積されるのは、政・官・メディアの;

縦割り組織・規制で、懸案先送りの縦割り行政が、数十年続く!

❷すべて先送りの巨額のツケは、将来、すべて税金になって国民に掛かる!

❸メディアは政・官へ常に「定量的な分析情報」提示で理解・改善の実現を!

 

対策・改善が簡単にいかない、原因・理由は沢山あり、繰り返しになりますがご容赦願います。 みんなで目の前のことから取り組んでいきたいものです。 必ず、ITの強い・実行力のあるリーダーが必要になります。

 

  • 縦割り組織とそれに伴う縦割り規制、『庁と大臣』の増設乱発、『議論する・検討する』が常套句で『総括的検証』がない、
  • 大きな予算を持つ組織が、いまだに大福帳で複式簿記にできず、
  • 多くの方々が『俺・僕・私、関係ねー』と国・政治に無関心常態化、
  • 選挙の仕組みと、投票率の低さ、この仕組みさえも自グループ優先の

部分最適で全体最適ではない、

  • 行政に改善を求めたくても署名運動の困難さ、
  • 外国人も見ている、一党支配体制に変化を求めない、無気力さ、
  • 視聴率最優先テレビは、『怒鳴り・激高・大笑い・嘲笑』等で荒む世情、
  • 外国に比べ、コミュニティが崩壊・修復なかなか進まない現状、
  • 日本語『漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字混在』の難しさ、
  • 微妙な意味の外国語は、日本語への変換を忘れ、まずカタカナに、

 

これらの改善には、大変な時間がかかりますが、繰り返しになりますが、『俺・僕・私、関係ねー』と言わずに、みんなで目の前のことから取り組んでいきたいものです

(記事投稿日:2023/02/19、#629)

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『小泉八雲 漂泊の果てにたどり着いた神々の国日本で精神性の豊かさ発見』 『ギリシャ生まれの感性で「神々の国の首都に住まふ443日」の足跡が凄い』

2023-02-19 11:49:17 | 読書

『小泉八雲 漂泊の果てにたどり着いた神々の国日本で精神性の豊かさ発見』

『ギリシャ生まれの感性で「神々の国の首都に住まふ443日」の足跡が凄い』

 

62年ぶりの松江・出雲の旅で、是が非でも立ち寄りたかったのが、『小泉八雲記念館』と『小泉八雲旧居』です。 松江城の鬼門である水ノ手門跡の必見『巨大、食違い石垣』の目と鼻の先にありました。

小泉 八雲(こいずみ やくも、1850/06/27 – 1904(明治37年)/09/26)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者。 

八雲が居間として使用の、9畳の部屋からは三方(の南側・左と、西側・右)に日本庭園を望む

ウエブ情報から引用

 

八雲が居間として使用の、9畳の部屋からは三方(の北)に日本庭園を望む

ウエブ情報から引用

  

昔、夢中になって読んだ本と、俳優が変わるたびに、何度も見た映画が『怪談』でした。 『怪談』は、小泉八雲が著した怪奇文学作品集、最晩年の1904年に出版された。 八雲の妻である節子から聞いた日本各地に伝わる伝説、幽霊話などを、独自の解釈を加えて情緒豊かな文学作品としてよみがえらせ、17編の怪談を収めた『怪談』と3編のエッセイを収めた『虫界』の2部からなる。

 

1890年から晩年14年間は日本で大活躍され、この間、1896年には松江の士族の娘、小泉セツと正式に結婚し、日本に帰化。 三男一女に恵まれます。 著作家としては、翻訳・紀行文・再話文学のジャンルを中心に生涯で約30の著作を遺しました。

 

大活躍・波乱万丈の54年の生涯年譜抜粋

  • 1850年– ギリシャにて誕生。
  • 1967年- 大叔母の破産でダラム大学セント・カスバーツ・カレッジを退学。
  • 1869年- 米国のニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに。
  • 1872年- トレード・リスト紙の副主筆。
  • 1874年- インクワイアラー社に入社。 黒人マティとの結婚で、正式な届け出が受理された形跡はない。
  • 1875年- マティとの結婚も一因となり、インクワイアラー社を退社。
  • 1876年- インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社。
  • 1882年- タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる。
  • 1884年- 8月末から1か月余り、メキシコ湾内のグランド島に滞在する。ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で高峰譲吉に会う。
  • 1890年- 世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカ合衆国でのハーンの公式伝記の著者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた美女でもあり、かつ年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。 なお、来日の動機は、このころ英訳された『古事記』に描かれた日本に惹かれたとの説もある。
    • 7月、アメリカ合衆国で知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高校)と島根尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる。
    • 8月30日、松江到着。
  • 1891
    • 1月 - 中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(1868/02/04 – 1932/02/18)と結婚する。 同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)
    • 11月、熊本市の第五高等中学校(熊本大学の前身校。 校長は加納治五郎)の英語教師となる。 熊本転居当時の家は保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復原され、熊本市指定の文化財とされた。
  • 1894年– 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
  • 1896年– 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。 日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する(1902年の春まで在住)。
  • 1903年- 東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)。 1月15日付、東京帝国大学学長・井上哲次郎名で、解雇通知を受け取る。3月、英文科の学生数名が八雲の留任を請うが、結局3月31日、東京帝国大学講師を辞す。
  • 1904年 - 2月、早稲田大学講師として招聘され、3月9日より出勤。
    4月、『怪談』を出版。
    9月、『日本―ひとつの解明』が出版される。09/26 -  狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。

 

『知られぬ日本の面影』(Glimpses of Unfamiliar Japan )は小泉八雲が来日後初めて著した作品集。 1894年に出版された。 日本語訳は他にも『知られざる日本の面影』『日本瞥見記』などがある。 『怪談』『心』と並ぶ八雲の代表作の一つ。 出雲地方と松江でのエピソードを中心に描かれている。

 

ウエブ情報にある『出雲』の由来の抜粋引用です。

出雲(いずも)は、かつての令制国の出雲国にあたる地域。 現在の島根県東部にあたり、雲州(うんしゅう)とも呼ばれる。 出雲(いずも)という地名は、「八雲立つ出雲」と言われるように、美しく雲が湧き出る様子から名付けられたというのが一般的である。

 

日本に来て6年目の1896(明治29)年、ようやくその願いが叶い日本国籍を取得し、“小泉八雲”と改名を果たします。 “小泉”は妻・セツの姓であり、“八雲”は日本最古の歴史書『古事記』の中にある、八雲が日本に来て初めて住んだ土地、松江の伝説に由来する『八雲たつ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を』の出雲にかかる枕言葉からとったものだそうです。

 

他方、一説には、出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にはファーストネームとして知られているが、実際はミドルネーム。 この『ハーン』が『ハウン』と読めるので『八雲(ハウン)』と漢字を充てたともいわれ、こじつけの様にも見えますが、捨てがたいものです。

 

稀代の博識多才の小泉八雲のこと、ますます興味津々です。

(記事投稿日:2023/02/19、#628)

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『日本の城郭 014(62年ぶりの松江城は、記憶より大きく・堅城)』 『輪郭連郭複合式の平山城の天守閣は高さ22.4ⅿ日本史上14位』

2023-02-18 19:03:34 | 城・城郭・城塞・宮殿

『日本の城郭 014(62年ぶりの松江城は、記憶より大きく・堅城)』

『輪郭連郭複合式の平山城の天守閣は高さ22.4ⅿ日本史上14位』

『標高29mの亀田山に建つ天守閣から宍道湖を、城主のための最上階の造り』

 

松江城の、昔の印象・記憶は小ぶりで、『江戸城の三層の富士見櫓』くらいと思っていました。 今回は見直しました。 

 

先ずは天守閣のこと、

江戸城の富士見櫓は『八方正面の櫓』と言われ天守閣の代わりに使われたほどのものでした。 明暦大火で寛永天主閣消失後、再建を断念(江戸城天守再建を後回しに、江戸町民の生活を優先させたのは、江戸時代の初めの稀代の名君は保科正之、家康の孫し、一時期は天守閣代わりの江戸城の象徴でした。 ごく最近のこと、大失敗の『ハコモノ』濫造時代がありました隔世の感があります。

 

天主閣に居住した織田信長の安土城の天主閣は特別で、標高199ⅿの急峻な独立峰に5層7階の、後の大阪城より『超巨大な山城』でした。 一般的には、城の天守閣は『武器庫・塩蔵・食糧庫』等、貯蔵に使われました。 

 

西洋の城のキープ(英語: Keep)またはドンジョン(フランス語: Donjon)は、中世ヨーロッパの城で中心となる建造物のことです。 日本語では日本の城の天守との性質の類似性から天守と訳される。 日本の城と同様に『武器庫・塩蔵・食糧庫等』等、貯蔵に使われました。

 

『現存天守閣』の大きさ比較

ウエブ情報から引用

『日本歴代天守閣』の高さ比較

1位     寛永度 江戸城 44.8m

2位     徳川大阪城 44m

3位     名古屋城 36.1m

4位     駿府城 33.5m

5位     安土城 32.5m

6位     姫路城 31.5m

7位     豊臣大阪城、福山城、名護屋城 30m

8位     大垣城 28m

9位     高松城 26.5m

10位    広島城、丹波亀山城 26m

11位    松本城、島原城、今治城 25m

12位    岡山城 24m

13位    津山城、小倉城 23m

14位    松江城 22.4m

15位    岩国城、水戸城 22m

 

『歴代巨大天守閣』の大きさ比較(安土城は唯一山城他は平城・平山城

(徳川家光の三代目寛永江戸城の天守閣が群を抜く、四代目は再建できず)

ウエブ情報から引用

標高20ⅿ 標高30ⅿ 標高46ⅿ 標高199ⅿ 標高60ⅿ

冒頭から余談でした。

 

標題『日本の城郭 62年ぶりの松江城は、記憶より大きく・堅城)』に戻ります。

 

松江城の総構えの縄張り(機会を見つけて外堀探索をしたい!

ウエブ情報から引用

 

先ずは松江城の特徴です。

松江城天守閣の特徴は、外観は4重、内部は5階地下1階付きの構造。 高さは、石垣を含め約30m、天守のみが約22mになります。 現存する12天守の中で姫路城、松本城に次いで3番目の高さ、天守の総床面積は姫路城に次いで2番目の大きさです。 松江城は美しい外観だけでなく、攻守に優れた構造をもち、戦に備えた工夫が随所に凝らしてあるのも特徴の一つです

 

松江城天守の階段は1階から6階までの全て急階段はよく知られています。 傘寿と喜寿の老夫婦には本当にきつかったです。 最上階に上る階段は桐造りで、イザってときには、取り外して最上階に引き上げ、城主が落ち着いて最後を迎えるためと、62年前に説明を聞いて、以来『城マニア』になりました。

 

美しい松が多い松江ですので、その名前の由来を、すぐに比較したのが関東湘南の『江ノ島』の由来『絵のように美しい島』でした。 江ノ島の場合も、数ある説の中でこれが一番もっともらしいと納得しました。 

 

松江の名前の由来ですが、『その風景が、中国大陸の杭州の西湖のほとりにある「淞江」(ずんごう)に似ている』という説とか、いろいろありますが『形の良い松が沢山生えていて、絵のように美しい』が、最も相応しいと、この度の旅で思いました。 

 

インスタ映えする『雪の松江城』を期待しましたが、先日10日、東京は雪でも、松江は曇り時々晴れでした。 松江城の大手門は石垣のみが残るが巨大な枡形を形成しており、江戸城や大阪城に匹敵する規模。 壁面は初重・二重目は黒塗の下見板張り、三・四重目と附櫓は上部を白漆喰塗、その下を黒塗下見板張りとする。 南北の出窓部分の壁も白漆喰塗。

 

大手門跡

 

南櫓・多門櫓・天守閣(後方)

 

天守閣

1638年(寛永15年)譜代大名、信濃国松本藩より松平直政が出雲18万6千石で入封、西国の外様の抑えの最前線になった松江城です。

(記事投稿日:2023/02/17 #627)

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