知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『日本の城郭 11 忍城(水攻めに強かった平城、別名「浮き城」・「亀城」)』―忍城水攻めは、堤防・石田堤を築いて水攻めしたが、忍城を落とせなかった―

2019-10-25 22:46:15 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 11 忍城(水攻めに強かった平城、別名「浮き城」「亀城」)

―忍城水攻めは、堤防・石田堤を築いて水攻めしたが、忍城を落とせなかった―

 

忍城は、埼玉県行田市にある湿地帯を利用した平城です。 元々沼地だったところに島が点在する地形で沼を埋めずに島に橋を渡す形で城を築かれていたようです

「忍」は中世のころ忍氏が住み、忍荘と呼ばれていました。 「忍」の意味はアイヌ語の「ウシ」で入江や湾のことで、その方言では組木や石積の堤防を表すとのことです。

利根川と荒川の扇状地で、川の流路が頻繁に変わった湿地帯に築城された忍城、別名『浮き城』又は『亀城』は当然水攻めには強かったはずです。 忍城は、1590年頃(自然流下最後の状態)の地図の利根川本流と荒川本流の合流点の少し上流・扇状地に位置します。 先日の台風19号の被害、河川の堤防越水・堤防損壊・堤防決壊災害を見ていると、江戸時代の治水・利水事業は凄かったし、ただ現在の『その延長での対応』では『気象激化』耐えられるか心配は尽きません。 またまた、表題から脱線です。

ウエブ情報から引用

 

ウエブ情報から引用

 

先ずは忍城の鳥観図です。 かなりデフォルメされて水城に見えますが、利根川・荒川の扇状地の平城・忍城です。

ウエブ情報から引用

 

この扇状地は忍城あたりは海抜およそ18ⅿでほぼ平らで、水攻めしようとしたら堤防は長くなるハズです。 秀吉の『小田原城とその支城群』攻めの一つ、忍城水攻めは、攻め軍の大将・石田三成のアイデアか、秀吉の命令かは、不明ですが、そのため24㎞(一説には14㎞ともいわれる)堤防・石田堤を築いて水攻めしたが、忍城を落とせなかった。 

ウエブ情報から引用

 

三成は忍城から、およそ15㎞離れた崎玉(さきたま)古墳群の丸墓山古墳 海抜36ⅿに布陣したので、ここから忍城は遠見できたでしょうが、梅雨の時期とは言え、水攻めのままならぬ進捗には焦ったことでしょう。 昔、この崎玉古墳を散策し、丸墓山古墳に登ったことはありますが、三成の水攻め作戦は、知る由もありませんでした。

 

一般に城塞は、独立の山や丘、または尾根の途中や先端に、構築されますが、この忍城は、荒川流路の変遷とその痕跡の後に築城された不思議な城です。

 

忍城の天守閣、御三階櫓とは、

ウエブ情報から引用

 

江戸時代の武家諸法度や一国一城令などの発布により、天守の建てられなかった、または建てなかった城にあった3重の櫓のことです。

幕府への配慮から天守の名称を避け、そう呼んだ「実質上の天守」です。 御三階櫓は忍城で一番高い櫓なのですが、天守閣が焼け落ちた江戸城に遠慮をして、(遠慮させられた?)関東の他の多くの城のように、この櫓を天守閣とは呼ばなかったのです。 関東で天守閣があったのは、小田原、沼田、笠間の3城だけでした。 忍城址の復元では、千葉の大多喜城址を始めとする他の模擬天守ように、安易に天守閣などと呼ばないことにも好感が持てます。 ただし三階櫓にしては一回り大きくて、下から見上げると石垣の高さもあって見違えるほど立派です。

更に、噂スズメはこう言います。 天守は建てられず、その場所は家康の鷹狩りに使われたそうです。

豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、近くを流れる利根川を利用して水攻めを行い、そのため総延長24㎞にも及ぶ石田堤を建設しました。 その一部は今にも残っています。 それまでしても落城せず、結局は本隊の秀吉が小田原城を先に落城させた事による開城となりました。

このことから、忍城は水攻めでも落城せず、忍の浮き城と呼ばれるようになりました。

また、別名を亀城といわれているのには、忍城が、この巨大な沼地の中に浮かぶ姿が亀のようということから名付けられたようです。 忍城は、関東七名城の一つであり、日本三大水攻めの城としても有名です。

                (20191025纏め #129) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本の城郭 10 堅城・月山富田城と、山中鹿之助旗下の尼子十勇士』―尼子十勇士をモデルに創作されたのが真田幸村信繁麾下の架空の真田十勇士―

2019-10-24 11:55:36 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 10 堅城・月山富田城と、山中鹿之助旗下の尼子十勇士

―尼子十勇士をモデルに創作されたのが真田幸村信繁麾下の架空の真田十勇士―

 

先日、BSプレミアムで『悲劇の山城スペシャル(1)難攻不落!月山富田城~尼子vs毛利、史上最大の籠城戦~』で紹介されていました。 月山富田城は、『天空の城』と呼ばれ島根県安来市広瀬町富田の、標高184ⅿの月山に築城された日本五大山城と、日本五大山岳城に数えられています。

この堅城を舞台に、血沸き肉躍る大活躍をした、実在した山中鹿之助と尼子十勇士鹿之助と、6勇士の秋山宗信・横道英綱・五月早苗介・藪中刑助・寺本生死助・井筒女之介までは古文書に名前の記録があるを、モデルに創作されたのが、真田幸村信繁麾下の架空の真田十勇士(三勇士のモデルはいたらしいが、十勇士は実在はしなかったの活躍を、大の判官びいきの江戸町民としては、錦絵・芝居・浄瑠璃等に取り上げられたのを楽しんだのは当然でした。

昔、少年時代に、真田幸村と真田十勇士のメンコ・漫画・小説を楽しんだものでしたが、山中鹿之助と尼子十勇士、実はこちらが十勇士の本家でした。 今回のテーマとその主役は『月山富田城と山中鹿之助と尼子十勇士』です。

難攻不落で知られる尼子氏の本拠・月山富田城跡俯瞰 

ウエブ情報から引用

 

この等高線立体図、城郭の縄張り前の場所選び感性の凄さに感心します。

ウエブ情報から引用

山城は、籠城に備えて築城をしますので、飲み水が必要条件になります。 この堅城には、湧水量は不明ですが、現在確認されているだけで、二の丸に二ヶ所、三の丸,山吹、山中御殿にそれぞれ一ヶ所と合計四ヶ所、その他、湧水・沢水もあったようで堅城の重要な要件を満たしています。

余談です。

日本列島には、3万とも4万ともいわれる山城跡が存在する。それらの大半は14世紀から17世紀までの間に築かれたものである。 わずか300年間にこれだけの城が構えられたことは世界史的にみても日本だけであり、日本の中世はまさに大築城時代であった。

難攻不落の城として知られる月山富田城は、大きな戦いは、一勝一敗でしたがその後の第三次の尼子再興軍による毛利月山富田城包囲攻めも失敗でしたので尼子としては、一勝二敗の結果に終わりました。 この間に活躍したのが、山中鹿之助を将とした尼子十勇士でした。 やはり判官びいきの日本です。 戦いは、時(時代)の運と勝利の女神の微笑み次第でしょうか。

 

第一次月山富田城の戦い、山内・毛利連合攻城軍 対 尼子籠城軍・ウエブ情報の抜粋

天文11111日(1542126日)に出雲に向かって大内軍本隊が出陣。 大内軍は義隆自らが総大将となり、義隆の養嗣子大内晴持も併せて出陣、毛利軍も大内軍に合流した。 天文12年(1543年3月になって攻防戦が開始されたが、城攻めは難航する。 糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に苦しむ。 国人衆が再び尼子方に寝返った。これにより大内方の劣勢は明白となった。

57日、大内軍は撤退にとりかかり、毛利軍には殿が命じられていたが、尼子軍の激しい追撃に加えて、土一揆の待ち伏せも受けたため、壊滅的な打撃を受けた。 安芸への撤退を続ける毛利軍であったが、この時、毛利家臣渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、僅か7騎で追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。 この犠牲により元就は吉田郡山城への撤退に成功した。

 これが大内・毛利連合軍45千に対して、尼子軍15千の守り勝ちであった。 籠城軍の三倍では、攻めきれないようです。

 

第2次月山富田城の戦い、尼子攻城軍 対 毛利籠城軍・ウエブ情報の抜粋

当初は、第2次月山富田城の戦いの際も鉄壁の防御を誇ったが、永禄3年(1561年)12月に尼子晴久が亡くなると、嫡男尼子義久が家督を継いだ後に、毛利氏は雲芸和議を経て永禄5年(1562年)には石見銀山を手中に収めることに成功する。 一方の尼子側は、家臣団における不和や雲芸和議による不満の噴出もあって、出雲西部・南部国人衆の多くは毛利側へと離反していた。

白鹿城は月山富田城の日本海側の玄関口ともいうべき役割の城で、月山富田城を孤立させるためには、この城を落とすことにより船で日本海から兵糧を運び込ませるのを防ぐ必要があった。 白鹿城攻略のため、白鹿城の北にある真山(新山)城を元春が占拠して布陣し、さらに和久羅山を押さえ、中海児玉就方麾下の水軍を派遣して封鎖するなど、白鹿城と月山富田城の分断を進めた。

9月下旬になって、尼子側は義久の弟である尼子倫久らが援軍を白鹿城に送ったが、毛利軍の包囲網を突破することはできなかった。 後詰が敗退したことで城兵の士気は下がり、10月に降伏した(白鹿城の戦い)。

白鹿城を制圧した毛利元就は、尼子氏の拠点を次々と制圧し、毛利軍は月山富田城への総攻撃を行った。 士気旺盛な尼子軍は善戦し、連日攻め立てる毛利軍の城内侵入を阻止した。 28日に総攻撃を中止した元就は、洗合城に一時撤退した。

永禄8年(1565年)9月、再び毛利軍は月山富田城を包囲した。 この時、飯梨川を挟んで対峙していた両軍の中で、山中幸盛(鹿介)が品川将員(狼介)を一騎打ちで討ち取ったとされる(山中幸盛・品川将員の一騎打ち)。

しかし、毛利軍は力攻めを行わずに兵糧攻めを続けたため、やがて城内の兵糧が窮迫した。 その頃には投降者も出始めていたが、毛利側は城兵の降伏を一切認めず、投降した者は処刑された。

永禄9(1566年)1121日尼子氏は降伏。 熊野城など残っていた尼子方の城も月山富田城陥落後に開城した。

これが、毛利軍35千が、守備軍・尼子軍1万に攻め勝ちであった。 城攻め・籠城攻めの得意な秀吉の戦いとは異なり、攻める側の兵が少なく、、毛利側の犠牲が多かったようです。

 

尼子再興軍による月山富田城毛利籠城軍包囲戦(第三次)・ウエブ情報の抜粋

滅亡した尼子氏であったが、尼子諸牢人の中には一族の再興を目指す者がいた。その中心となった人物が山中幸盛である 永禄11年(1568年)、幸盛は各地を放浪した後に京へ上ると、京の東福寺で僧となっていた尼子氏一門の尼子誠久の遺児・尼子勝久を還俗させ、尼子再興軍の大将として擁立する。

末次城に本陣を移した尼子再興軍は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる。 中国地方の毛利軍は元就の命により多くの者が九州へ出陣していたため、月山富田城も例に漏れず天野隆重ら率いるわずかの兵しか残っていなかった。 月山富田城へ到着した尼子再興軍は、隆重の書状のとおりさしたる抵抗もなく城の奥深くまで進むものの、七曲りの終点付近(三の丸の前)において待ち構えていた毛利軍より急襲を受ける。反撃する間もなく多数の犠牲者・負傷者を出し末次城へ撤退した。

その後、尼子再興軍は山中幸盛と立原久綱らに1,000の兵を率いさせ再び月山富田城を攻める。しかし攻略することはできなかった。

月山富田城を攻略することはできなった尼子再興軍であったが、その後、出雲国内において16の城を攻略、その勢力を6,000余りにまで拡大させた。 出雲国一円を尼子再興軍が支配する状態となった。

出雲国内の支配を着々と進める尼子再興軍であったが、城内では兵糧が欠乏し、また、馬来、河本、湯原氏らが尼子再興軍へ投降するなど、優位な情勢で月山富田城攻略を進めていた。

毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、休むまもなく尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は尼子再興軍と布部の地(現在の島根県安来市広瀬町布部)で戦い勝利する(友部山の戦い)翌日2月15日(3月21日))には、城内の兵糧が全く無くなり落城寸前であった月山富田城を尼子再興軍の包囲から開放し救援に成功した。これにより以後の尼子再興軍と毛利軍との攻守は大きく入れ替わり、尼子再興軍は衰亡していくこととなった。

尼子再興軍の戦い様は、後世の人々(特に江戸時代の)に強い感銘を与えたのだろうと思います。

                                                             (20191024纏め #128) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『天才絵師 雪舟の天橋立図と、北斎の富嶽三十六景の鳥瞰図の謎)』ー雪舟の国宝『天橋立図』と北斎『富嶽三十六景』の鳥瞰図をなぜ描けたー

2019-10-19 10:26:27 | 絵画

『天才絵師 雪舟の天橋立図と、北斎の富嶽三十六景の鳥瞰図の謎)』 

雪舟の国宝『天橋立図』と北斎『富嶽三十六景』の鳥瞰図をなぜ描けた」

 

この国宝『天橋立図』ですが、描くときに雪舟が立っただろうと言われる場所、現在の『天橋立雪舟観 展望休憩所』から見ると、天橋立の後ろの『阿蘇海』は天橋立で遮られ見えません。 

 

『天橋立雪舟観 展望休憩所』から天橋立を、阿蘇海はよく見えません。

 

 

国宝『天橋立図』

まさに、雪舟の傑作の鳥瞰図、阿蘇海がはっきりと見えます。     

 

 

ウエブ情報です。

日本三景の1つ、丹後天の橋立を東側から鳥瞰的にとらえた図で、図中の智恩寺の多宝塔と成相寺の伽藍が同時に描かれることから、制作期が一応明応10年(1501)から永正3年(1506)の間とされる。雪舟(14201506)が80歳を越してなお現地に歩を運んで、実景を写したことは驚異である。 水々しい墨色と確実に形をとらえる筆致、雄大に組立てる構図は雪舟の優れた画技の極点を示している。 中国大陸に渡って大自然を写生し、宋元画を学び、禅画一致を求めて一生描きつづけた雪舟の傑作である。

 

北斎の『富嶽三十六景』の鳥瞰図、

稲妻が下に見え、後方の周辺の山並みが描かれている。

 

北斎の『富嶽三十六景』

稲妻も、後方の周辺の山並みが描かれていない。

 

 

北斎の稲妻を下に見下ろした『富嶽三十六景』の鳥瞰図と合わせ、雪舟の国宝『天橋立図』は、なぜ鳥瞰図を二人は描けたのでしょうか。

 

鳥瞰図を雪舟(14201506)と北斎(17601849)はどこで学んだか。 

ここでもウエブ情報です。

 

雪舟は15-16世紀の日本画家ですが、『遣明使』で中国に2年留学、中国画家・『実在』より中国の画法を学んだ。 中国絵画にも遠近表現はあり、北宋の画家・郭(かくき)はそれを「三遠の法」といった。 「三遠」とは高遠(仰角視)、平遠(水平視)、深遠(俯瞰視)の3をいうが、中国の山水画では、近景の岩は俯瞰視、遠景の山は仰角視で描くなど、同じ1枚の絵の中に複数の異なった視点が共存することが珍しくない。

 

ここにある『遣明使』ですが、不勉強で、遣隋使と遣唐使しか、今まで知らず、お恥ずかしき次第です。

 

『室町時代の幕府か明に派遣した。 応永11年(1404年)から天文16年(1547年)まで約1世紀半で17次(のべ84隻)。 のち、倭寇(わこう)が盛んになるに及んで廃止。』

 

北斎は18-19世紀の日本画家ですので、すでに鳥瞰図は見ていたと思われます。 

安永7年(1778年 浮世絵師・勝川春章の門下となる。 狩野派や唐絵西洋画などあらゆる画法を学び名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。 

文化9年(1812年 秋頃、名古屋の牧邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。

 

鳥瞰図のウエブ情報です。

海外の歴史的な鳥瞰図としては、レオナルド・ダ・ヴィンチの「トスカーナ鳥瞰図」ヤコポ・デ・バルパリの「ヴェネツィア鳥瞰図」(1500年)アルトドルファーの「アレクサンドロス大王の戦い」(1529年)などがある。

 

日本の歴史的な名所や神社仏閣を描いた鳥瞰図としては、古くは春日大社を描いた奈良時代の「春日曼荼羅」などがある。名所案内図としては、秋里籬島著、竹原春潮斎画「都名所図会」、斎藤月、長谷川雪丹「江戸名所図会、葛飾北斎「東海道名所一覧などがある。浮世絵にも鳥瞰図が描かれ、広重「江戸名所百景」の「深川洲崎十万坪」などがある。 現存最古の鳥瞰図としては『東大寺領荘園図』がある。

 

日本の江戸時代までの広域の景観を描いた鳥瞰図としては、室町時代の加納永徳の「洛中洛外図屏風」に代表される京都の景観、風俗を描いた各種の「洛中洛外図屏風、江戸初期の建設途上の江戸の名所、風俗を描いた「江戸図屏風」、江戸全景を描いた鍬形蕙斎の「江戸一目図屏風」などがある。

 

数年前、どこかのテレビで放送していました。 北斎の『神奈川沖浪裏』の解説の中で北斎には『空間認識能力』が特別優れていたと。 北斎よりおよそ300年も早く、雪舟は、高い崖、高い山、高い石柱の多い中国の「三遠の法」の「高遠(仰角視)、平遠(水平視)、深遠(俯瞰視)を理解していたように『ズブの素人』には見えました。 同時代1516世紀には、高い塔や高い山の多いヨーロッパには鳥瞰図や俯瞰図が現れても不思議はないと思います。

 

鳥観図と鳥瞰図(俯瞰図)、虫観図と虫瞰図(仰瞰図)、日本語は難しくて、奥が深いです。 漢字・ひらがな・カタカナ混在の言語・日本語はある意味でハンデでした。 自動翻訳機(双方向)のチップが体内に組み込まれる時代はまだずっと先でしょうか。

            (記事投稿日:2019/10/19、#126)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『世界の寺院・神殿 2(ギョベクリ・テペ遺跡の発掘を急いで!)』ー放射性炭素年代測定法によって1万1千年から一万2千年の間のもの証明―

2019-10-14 13:53:41 | 寺院・仏閣・神社・お社

『世界の寺院・神殿 2(ギョベクリ・テペ遺跡の発掘を急いで!)』

ー放射性炭素年代測定法によって1万1千年から一万2千年の間のもの証明―

 

超古代文明は本当に存在したのか、センセーショナルな、発掘途上のギョベクリ・テペ(トルコ語: Göbekli Tepe)遺跡のことです。

 

放射性炭素年代測定法によって1万1千年から一万2千年の間のものであることが証明されている。 ということは、『神々の指紋』の著者・グラハム・ハンコックのスーパーフィクションの世界が実在していたのか!

 

ピラミッドを調べることは『興味と疑問を残して』中断していますが、このギョベクリ・テペ遺跡には、填(ハマ)りそうです。

 

余談ですが、発掘をしない遺跡と理由が、アジアには、沢山ありますが、そのうちの二つです。

 

中国の始皇帝陵;

ここには、沢山ある理由の一つは、『現代の発掘技術では下手に発掘すると、貴重な遺産を破壊してしまう可能性があるため。(遺産保護説)』(周恩来元首相が言ったという説)

 

日本の大山古墳(旧仁徳天皇陵);

宮内庁の主張の要点は、発掘時の破壊からの保護と発掘後の保存の方法が確立されていないので時期早々である、というもの。

 

しかし、このギョベクリ・テペ遺跡は、上記の二つの理由とは、少し状況が違っているようですので、発掘を急いで欲しいものです。

 

スミソニアン博物館が取り上げています。

 

ウエブ情報から引用

 

ギョベクリ・テペの位置: トルコのシリア国境の近く

 

ウエブ情報から引用

 

複雑な構築物を築いて管理するほどの動員力を持ち得たのかまだ未解明

ウエブ情報から引用

 

ギョベクリ・テペの発掘現場の航空写真 

ウエブ情報から引用

 

 ギョベクリ・テペの発掘現場

ウエブ情報から引用

 

ギョベクリ・テペのトーテム、縄文時代のおよそ一万年前

ウエブ情報から引用

 

歴史上知られているうちでの最古の等身大の人間像

ウエブ情報から引用

 

ここでウエブ情報です。

今から20年ほど前の1994年に、トルコの一農夫が偶然掘り当ててしまった古代遺跡、ギョベクリ・テペ。

 

現在も発掘が続いており、全体の5%ほどが明るみに出てきていますが、発掘完了にはまだあと50年以上かかる見込みです。

 

人類史の書き換えを迫るような、とんでもない発見ですが、なぜかあまり知られていません。 おそらくあまりにも今までの定説に反する事実が出てきてしまったために、説明がつかないためでしょう。 

 

これは、いわゆる“トンデモもの”ではありません。れっきとした研究者、研究団体によって承認されている議論の余地のない考古学的大発見です。 ナショナル・ジオグラフィック・ソサエティー、BBC放送、ヒストリー・チャンネル、ディスカバリー・チャンネル、スミソニアン博物館などが取りあげて、ビデオなどを制作して公開しています。 日本ではすでに数年前にNHKがテレビ放送をしていますし、TBSの「世界ふしぎ発見」でも取り上げられていますので、知っている人は知っています。

 

にもかかわらず、一般にはほとんど知られていません。テレビで見たひとも忘れてしまっています。 なぜでしょうか。 おそらく考古学、人類学、歴史学、先史学などの学界ではまだこの “ギョベクリ・テペ” のきちんとした位置づけができずにいるからです。 さらに言えば、これを受け容れるということは、今までの文明史の定説をすべてひっくり返すことになるからです。 アカデミズムの世界は腰が重いのです。 自分たちが営々として築き上げてきた権威ある理論、説明原理を否定する事実に正面から向き合うことにはなかなか乗り気になれないのです。 おそらくあと20年、30年経っても学校の歴史の教科書に出てくることはないでしょう。 事実が“公認”されるのにはとてつもない時間がかかるものです。 そこにはたいへんな“見えざる抵抗”があるのです。 学界の権威者にとってはたしかに不都合な真実でしょう。 あなたが今初めて知ったということも、この事実が今リアルタイムで実にゆっくりでしか広まっていないことを物語っています。ウィキペディアで の記述も実に貧弱なものです。

 

又、 ニューズウィーク誌は、今回の発見をこう評しています。

現在率先して発掘作業に当たっているドイツの考古学研究チームはすでに20年近く現地で発掘作業を続けています。 リーダーのクラウス・シュミット博士は、こう言っています。

ギョベクリ・テペは石器時代の神殿であり、この説は考古学、歴史学、先史学の専門家にも支持されています。放射性炭素年代測定法によってばかりでなく、比較文化的、様式的分析によっても、ギョベクリ・テペは歴史上最古の宗教的施設であるとされています。 クラウス・シュミット教授によれば、この “丘の上の大聖堂” は周囲100マイル(160km)に住んでいた人々の巡礼地として信仰されていたものです。

 

この神殿の周辺で当時の現地の動物種、たとえば鹿、ガゼル、ブタ、ガチョウの骨が大量に発掘されていますが、いずれも野生種で、食用に狩猟されたものです。

 

ギョベクリ・テペは最大級の考古学的発見であり、人類史における重要な転機の理解に根底からの変更をせまるものであるとして、スタンフォード大学のイアン・ホッダー教授は、ギョベクリ・テペは人類史のすべてを変えてしまうと言っています。「ギョベクリ・テペはリンゴを荷車ごとひっくり返してしまう。我々の理論はすべて間違っていたのだ。」

 

これだけ、大騒ぎされている超古代遺跡発掘が、ゆっくりしているのが『トルコに存在している』という理由でしょうか、それとも何か、理由・背景があるのでしょうか。

                                                                                   (20191014纏め #123)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『没後90年記念、岸田劉生展を見て(満州で病気にならなかったら)』―「岸田劉生イコール麗子像」と、ところが、すべての面で、幅も奥もー 

2019-10-12 23:22:43 | 絵画

『没後90年記念、岸田劉生展を見て(満州で病気にならなかったら)』

―「岸田劉生イコール麗子像」と、ところが、すべての面で、幅も奥もー                   

昔、茨城県利根町に住んでいた頃、焼き物(陶磁器)好きの家内に引かれて、笠間に行くとき、岸田劉生の作品の中で、約70点になる『麗子像・麗子肖像』の作品が展示されていたら、必ず立ち寄ったのが『笠間日動美術館』でした。 

 

当時は、どの『麗子像』見ても、『岸田劉生イコール麗子像すべて』と思っていました。 フランス中心にひろまった、ポスト印象派の影響を受けた、ありのままの姿を描く『写実的』な、娘の麗子をモデルとした代表作品『麗子像』。 ところが、すべての面で、幅も奥も広かったです。

 

今回の作品展は、総数150点は、巡回展であり、一同には揃いませんが、第一章から第六章に、38歳で夭逝した天才画家の生涯をまとめた、作品展に感激しました。 印象強かった作品は下記です。

 

第一章『第二に誕生』まで:19071913ゴッホ、ゴーギャンの影響

 ・自画像

 ・銀座数寄屋橋畔

 

第二章『近代的傾向・・・離れ』から『クラシックの感化まで』19131915

    『劉生の首狩り』と言われるほど周りの人の肖像画を

 ・自画像 

 ・自画像(椿君に贈る自画像)

 ・画家の妻

 

第三章『実在の神秘』を超えて:191519181916年には肺結核になり、室内で生物を描く

 ・道路と土手と塀(切通之写生)重要文化財

  

ウエブ情報から引用

  

 ・代々木付近(代々木付近の赤土風景)

 ・麗子肖像(麗子五歳之像)

 

ウエブ情報から引用

 

 ・川端正光氏之像

 

第四章『東洋の美』への目覚め:19191921水彩画による東洋の美を

 ・麗子座像

 ・麗子像 重要文化財

 

第五章『卑近美』と『写実の欠除』を巡って:19221926西洋の美術に対す   

    る東洋の美術の優位性を探求

 ・麗子像

 ・冬瓜葡萄図

 ・童子煎茶

 

第六章『新しい余の道』へ:19261929肺結核で夭折しなければと、残念!

 ・田村直臣七十歳記念の像

 ・冬瓜葡萄図

 ・路傍秋晴(大連風景)

                   (20191013纏め #122)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする