知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『アフリカ大陸と欧州大陸の衝突が造ったグアダルキビル川・渓谷・断層を挟み何回も民族の衝突が!』

2020-08-29 12:08:37 | 地球・火山・地震・津波

『アフリカ大陸と欧州大陸の衝突が造ったグアダルキビル川・渓谷・断層を挟み何回も民族の衝突が!』

 

二大宗教の十字路・スペインを巡るキリスト教徒勢力vsイスラム教徒勢力

年代

多数派の宗教

紀元前205年~

キリスト教(ローマ帝国の一部)

711年~

イスラム教(ウマイヤ朝カリフ王国の一部)

13世紀末

北部はキリスト教、南部はイスラム教

1492年~

キリスト教

 

イベリア半島地勢

ウキペデイアより引用

 

グアダルキビル川流域平野とグアダルキビル川・渓谷・断層

ウキペデイアより引用

 

ペティカ山系シェラ・ネバダ山脈地帯は地殻構造としては、欧州大陸の地殻でも、アフリカ大陸の地殻でもなく、別物の『地中海の海底』の地殻が隆起したものです。

 

 その昔、北から侵攻してきたケルト人から、この『グアダルキビル川・渓谷・断層』を最後の戦線として、『イベリア人・スペイン人』は守り抜き、ケルト人と住み分けていた時代や、アフリカから渡ってきたイスラム教勢力とキリスト教勢力『イベリア人・スペイン人』が争った時代があったが、その時の境界が『グアダルキビル川・渓谷・断層』だった。 その後拡大するイスラム教勢力は、❷北に拡大するときも、❷アフリカに撤退するときも、この『グアダルキビル川・渓谷・断層』を境に、欧州大陸の南側の一帯『アンダルシア州グラナダ県』を橋頭保にしたようです。

 

ここ『アンダルシア州グラナダ県』には、ヨーロッパの人気のお城・宮殿!上位に入る『アルハンブラ宮殿』があります。 この宮殿が、地政学的に重要な『ペティカ山系シェラ・ネバダ山脈地帯』の中央に位置し、イスラム教勢力とキリスト教勢力の攻防の目玉になってきました。

 

アルハンブラ宮殿

ウエブ情報です。

 宮殿と呼ばれているが城塞の性質も備えており、その中に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えて、数千人が居住する城塞都市でもあった。 現代に残る大部分は、イベリア半島最後のイスラム王朝・ナスル朝時代の建築とされ、初代ムハンマド1世が建築に着手し、その後のムスリム政権下で増築された。スルタン(王)の居所であるとともに、数千人が居住する城塞都市でもあった。 

1492年1月2日、カトリックのレコンキスタによってグラナダが陥落するとアルハンブラ宮殿にも一部手が加わった。 グラナダがキリスト教徒の手に渡った直後に、カルロス5世がこの地を避暑地として選び、カルロス5世宮殿を建設。 当時イタリア留学であったペデロ・マチューカが、正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるという設計をし(現在も未完成)、スペインにおける純イタリア様式の成功傑作と称されている。

 

 以前に、竹村公太郎氏著『日本史の謎は「地形」で解ける』がベストセラーでしたが、今回は、『アダルキビル川・渓谷・断層』と『ペティカ山系シェラ・ネバダ山脈地帯』の成り立ちと、そのほぼ中央グラナダ市と、アルハンブラ宮殿の存在と、二大宗教の攻防も解り、歴史がますます面白くなりました。

              (20200829纏め #211)

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『世界の城郭 10(歴史上の最大城郭都市は、城壁ではなく、堀代わりの運河で守られた、オランダ・アムステルダムの防塞線)』

2020-08-26 21:15:36 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 10(歴史上の最大城郭都市は、城壁ではなく、堀代わりの運河で守られた、オランダ・アムステルダムの防塞線)』 

  広さで世界最大の城郭都市は、南京(南京城面積:248㎢)でもなく、パリ(パリ市面積:87㎢)でもなく、なんとオランダの城郭都市、アムステルダムでした。『アムステルダムの防塞線(面積:490㎢)』と呼ばれています。 小田原城とその支城ネットワークは規模は、それより更に大きいのですが、城壁や堀で囲まれた集合体ではありませんので、比較になりません。

 アムステルダム防塞線

ウキぺデイアより引用

 『アムステルダムの防塞線』はオランダにある世界遺産登録物件の一つ。 アムステルダムの防塞線はオランダのアムステルダムにある『42の要塞』が配置された全長135kmに及ぶ堤防です。 この防塞線は1880年から1914年にかけて建設され、各要塞はアムステルダム中心部から10-15kmに位置しており、アムステルダムの街中を水没させることにより防衛機能を働かせるためにつくられました。 冠水時の水深は30cm程度で、ボートが使えないように配慮されていた。 また、防塞線の1km以内の建造物は、可燃性や可動性を考慮されて木製だった。

 

 水上ボートによる上陸を阻むため深さは30cmほどになるようににつくられましたが、実際には完成後は飛行機や戦車が実践に投入されたことから使用されることはありませんでしたが、1963年までは実践に備えられるよう手入れがなされていました。なぜこのように時代遅れの産物になってしまったかについては、建設の法律がなされた際に、建材をコンクリートでつくる必要があったが、建築技術の遅れにより着工が法律制定後の23年後になったからだといわれています。

  城壁ではなく、海面より低い土地が多いオランダならではの、水による防衛法である。しかし完成したのは戦闘機の活躍する20世紀になってからで、実際に防塞線として機能することはなかった。

 ザーンセ・スカンスの風車群

ウキペデイアより引用

  この風車群は、アムステルダムの中心街と北側の防塞線の中間に位置してます。 風車数は現在は約1,000基ですが全盛期は10,000基以上あったと言われてますので、堀代わりの防塞線は、こんな風景だったと想像ができます。 防塞線は『冠水時の水深は30cm程度で、ボートが使えないように配慮されていた』とありますので、日本の岡山県津山市の神楽尾城と。埼玉県比企郡嵐山町の菅谷館跡の泥田堀(どいたぼり)のことを思い出しました。 

  最後に日本でも見られる風車の夕景です。 地元の写真同好会の作品展に展示したところ、多くの問い合わせ『どこで撮りましたか』がありました。 やはり風車は、絵に・写真になります。 夕景が最高です。 

 印旛沼のほとりの風車の夕景です。

                    (20200826纏め #210)

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『古代の日本は・日本人は凄かった 2(出雲王国 vs 倭王権・大和朝廷)』ー古代日本の出雲王朝・大和朝廷の起源・歴史は教わってなかったように記憶ー

2020-08-25 21:07:49 | 歴史・日本

『古代の日本は・日本人は凄かった 2(出雲王国 vs 倭王権・大和朝廷)』

ー古代日本の出雲王朝・大和朝廷の起源・歴史は教わってなかったように記憶ー

 

  半世紀余りも昔のことですが、インターハイの岡山蒜山登山大会の後に、山岳部の顧問の恩師に、お連れ頂きまして『縁結びの神』の出雲大社に参拝しました。 この時は盛りだくさんで、島根県の松江城も参観できました。 この松江城『イザって時に、最上階へ登る桐の階段を外して、その階段を最上階に持ち上げられる構造と、その目的』を知って、それ以来、城マニアになりましたが、これは余談です。 

  出雲大社は、いまも当時も、広義の『縁結びの神』でした。 『出雲大社に祀られる「大国主大神」は、古くから「縁結びの神様」として信仰されています。 ここで言う「縁結び」とは、男女の縁だけでなく、人間関係や、人々を取り巻くあらゆるつながりのご縁のことを指します。』とありました。 このご縁か、社会に出てからは世界の十数カ国の人々と仕事でのご縁はできました。

  当時の出雲王国の出雲大社ですが、時系列的には、法隆寺五重塔(創建1410年前)とか、東大寺大仏殿(創建1260年前)と中間に建造されていますが、その出雲王国は、知らぬ間に歴史から消えていったように覚えています。

 法隆寺五重塔(創建1410年前)

 

出雲大社本殿(創建1360年前)

中古(平安時代)には16 (48m)、さらに上古(神代の後、平安より前)には32丈(およそ96mも存在したと伝えられています。

 東大寺大仏殿(創建1260年前)

 

 出雲王国・出雲大社が、従来の理解よりもっと奥の深い歴史を持っていると思う様になったのは下記の理由でした。

 

❶古代の巨大な出雲大社

 奇しくも2000年の春に境内の八足門前で発見された、南棟持ち柱に相当する宇豆柱(うづはしら)は、島根県立古代歴史博物館で公開展示。

 かつての本殿は、現在の8丈(24m)よりもさらに高く、中古(中世)には16丈(48m)、上古(古代)には32丈(約96m)であったと伝えられています。 しかし、96mもしくは48mの社殿は建築上不可能ということでずっと疑問符が付けられていましたが、2000年の境内発掘調査の結果、杉の大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3ヶ所で発見され注目されました。 この巨大な柱が社伝に伝わるものであるということが判明し、『中古には16丈(48m)』の実在の可能性はかなり高くなりました。

❷大量に発掘された銅剣

 1984-1985年の2か年の『荒神谷遺跡』発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土。 1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されている。 なかでも358本の銅剣はそれまでに全国で発見されていた本数を上回る量であり,注目を集めた。

 

❸天武天皇が作らせた『古事記・日本書紀』編集方針の違い

 哲学者 梅原猛著『神々の流竄』『葬られた王朝-古代出雲の謎を解く-』の中に解説された出雲王朝について、こう解説されています。

 

 『かつて、スサノオやオオクニヌシの出雲王朝がこの国を支配していた。 韓国から渡来したスサノオは人々を苦しめる豪族=ヤマタノオロチを退治し、出雲平野に豊かな王国を築くがやがて衰亡。 南九州から東征してきた天孫族に国譲りを迫られる。その出雲王朝の存在を歴史の闇に葬ったのは? 『隠された十字架』『水底の歌』に続く3部作の完結篇にして、日本古代史を塗り替える衝撃的論考。』

 古代日本の大和朝廷の起源は、歴史の勉強の中では教わってこなかったように記憶しています。 なぜ日本では天皇制が、長く維持できているのか。 手がかりは『古事記』と『日本書紀』にありそうですが、浅学菲才の自分には、まだまだ五里霧中です。 難しい課題ですが、『日本人のルーツ』とか、『邪馬台国』とか、『卑弥呼』など、自分の齢などは言ってはいられないこの頃です。 『ラジオ体操・みんなの体操』と『漫歩散歩』をやっておれば、『COVID-19 籠り』も、『調べ物』への追い風と思えてきます。

                  (20200825纏め #209

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『円形・球体は美しい(微積分はいつ役立つの、地元地区センター図書コーナーにて)』―微積分派はは忘れても、やはり、円・円形、球・球体は、美しい—     

2020-08-20 11:01:41 | 科学・数学・物理

『円形・球体は美しい(微積分はいつ役立つの、地元地区センター図書コーナーにて)』

―微積分派はは忘れても、やはり、円・円形、球・球体は、美しい—

 

  宇宙には円形・球体が多いようですが、高速で運動しているためか、少し楕円形か、回転面に少し潰れた球体が多いようです。 地球上には、自然界で安定しているはずの円形・球体が少ないようですが、真円・真球となると違います。 地球上には、人工物の真円・真球に近いものは、結構あります。

 

 米国・カンサス州の円形農場

ウキペデイアより引用

 

コスタリカの石球

ウキペデイアより引用

  COVID-19のコロナ禍の直前のことでした。 およそ二年半前に開催された、地元の『合同避難訓練』の中で、AEDの取り扱い訓練があり、たまたま、その時、一緒だった、高校生の三人組と、地元地区センターの図書コーナーで相席になりました。 『微積分なんて、いつどこで役立つのだろう、受験用であって、将来、専門分野以外では役立ちそうもない』と、いうような会話でした。 高校では数学A・Bと、数学Ⅰ・Ⅱ・Ⅲと、数学盛り沢山の中で、数学Ⅱ・Ⅲの微積分が鬼門なのか、あまり好かれない科目のようでした。

  ひょんなことで会話に入る機会がありました。 多分、『微積分は中学数学で習った、、べき関数の微分・積分の公式は覚えやすいし、万が一、忘れても、「円周円面積球体積を求める計算式」から導き出せますよ』と説明しました。 すると三人組は、しばらくして、納得してくれた様でした。 昔は『微積分の公式は丸暗記すべし』と言われました。

 

流石に高校生三人組は『球表面積を除き、円周、円面積、球体積を求める計算式』は、覚えていました。 

  円周の長さ  ℓ=2πr

        微分↑ ↓積分

   円の面積   S=πr²

 

   球の表面積  S=4πr²

         微分↑ ↓積分

   球の体積   V=4πr³/3 

 

  アラ傘寿の年寄りが、これに関連して覚えていたのは、べき関数の『微分の公式』、だけでしたが、喧々諤々とやっている間に『積分の公式』にたどり着きました。

 

『微分の公式』

『積分の公式』

 

 やはり、円・円形、球・球体は、美しいです。

                        (202000820纏め #206)

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『「暗」から「明」へ反転した「正岡子規死生観・仰臥漫録」』―子規の時代、感染症の対策(検査・追跡・隔離)は『国民の安全ファースト』と万全を―

2020-08-10 22:14:07 | 読書・文学・文字・漢字

『「暗」から「明」へ反転した「正岡子規死生観・仰臥漫録」』

―子規の時代、感染症の対策(検査・追跡・隔離)は『国民の安全ファースト』と万全を―

 

 毎週日曜日のNIKKEI The STYLE(ライフスタイルに知的な刺激を提供する無料情報サイト)を楽しみにしています。

  今回は『「暗」から「明」へ反転した死生観・正岡子規「仰臥漫録」をたどる』でした。 有名な作家の大作には、高名な俳人・文学者・文豪が登場します。 

 

 『昭和史発掘』と芥川龍之介

 松本清張「昭和史発掘」の中に記された「芥川龍之介の死」はすぐれた芥川 龍之介論である。 清張は芥川をこう論じている。 「自分をさらけ出すことの出来ない作家。 自意識の強い男」彼の作品世界はまさにそれであった。

 

 『坂の上の雲』と正岡子規

『旧伊予国(愛媛県)松山出身で、日本陸軍における騎兵部隊の創設者である秋山好古、その実弟で海軍における海戦戦術の創案者である秋山真之、真之の親友で明治の文学史に大きな足跡を残した俳人正岡子規3人を主人公に、彼らの人生を辿りながら物語が進行する。』

 

正岡子規と野球

 この写真を見た時は、文学と野球の文武両道の『二刀流』と思いましたが、そこまでではなかったようです。

 

 子規は日本に野球が伝わったころから熱心にプレーをしていたといわれています。  しかも、他のスポーツにはまったく興味を示さなかったにもかかわらず、野球だけは夢中になったのだとか。 そんな正岡子規は、このような俳句を詠んでいます。  「まり投げて 見たき広場や 春の草」 春の草が生えてきた広場をみて詠んだ句です。

 

 感銘を受けた『「暗」から「明」へ反転した死生観・正岡子規「仰臥漫録」をたどる』の『抜粋』と感想を備忘録に纏めました。

ウエブ情報より引用

 

 『34年と11カ月と、明治時代、短い生涯の間に、俳句や短歌、文章表現の世界に革新をもたらした正岡子規は、当時、死に至る感染症だった脊椎カリエスに襲われ、寝たきりになる。 

 死の一年前から書き始めた日記『仰臥漫録』などの行間からは、死が近づくにつれ、「暗」から「明」への死生観の変化が読み取れる。 一体、何があったのだろう。』

 

『「暗」あの世で古白が呼んでいる』 

 『子規が亡くなったのが明治35年(1902年)919日、そのほぼ1年前の明治3492日から翌年の93日まで、『仰臥漫録』と題した日記2冊の中に、死に向かう人間の揺れ動く心理を書き残していた。

 明治341013日付けの墨で描いた図だ。 原寸大の小刀と千枚通しが正確に描写され、その上に「古白日来」の謎の墨字が書き込まれている。 「古白」とは子規のいとこで、明治28年に、ピストルで自死した文学者、藤野古白。「日来」は「いわくきたれ」と読む。 つまり「あの世から古白が、おいでーな、と招いている」という意味だ。 自死を暗示する図なのである。』

 

 藤野古白 明治488日(1871年)-明治28412日(1895年)は日本の俳人・劇作家・小説家。本名・藤野潔。 従兄弟に正岡子規と服部嘉香がいる。 自殺した。没後、正岡子規が『古白遺稿』(1897

ウキペデイアより引用

 

『「明」今を楽しむ境地に至る』

『「仰臥漫録の第一部は小刀千と千枚通しの図で終わる。 よほど体調が悪化したためか、1029日で日記は中断し、翌年の310日に再開。 麻痺剤(モルヒネ)を使うようになったことを記している。 

 

 余談です。 『脊椎カリエス』の発作時の激痛のこと、鎮痛はモルヒネだけと、本で読んだことがあります。 自分も半世紀も昔のことですが、香港に赴任してすぐに、まだホテル(国泰酒店)住まいの時に、香港大丸の寿司カウンターで食事をした後、夜中の2時頃に、慢性盲腸炎の発作を起こし、ベッドの縁にブル下がった格好で「激痛」に耐えながら、ホテルのマネージャーに状況を説明して「医者(中医でなく西医)とモルヒネを」と頼みました。 モルヒネを打った後は『正に夢心地』で、7時間後の翌朝10時には手術が終了でした。 生涯一度の経験ですが、モルヒネの鎮痛効果は凄いと思いました。

 

 『3日間続けた日記はまた中断。 ところが、彼が明治3555日から死の2日前の917日付けまで、新聞「日本」に、書いたコラム「病床六尺」や、水彩で描いた「果物帖」「草花帖」は明るい光彩が放たれ、内面が安定してきたことがはっきりと感じ取れるのだ。

ウキペデイアより引用

 

例えば「病床六尺」62日付け。

「余は今まで、禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。 悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違ひで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きて居ることであった。」

 

「病床六尺」726日付け。

「病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きて居ても何の面白みもない」

 

「病床六尺」86日付け。

「この頃はモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみになって居る」 で始まり「草花帖」が段々に描き塞がれていくのが嬉しい」と結ぶ。

 

 根岸界隈を訪ねた日、休館中の子規庵をのぞかせてもらった。 子規が仰臥していた部屋の庭の棚にぶら下がる細いヘチマと黄色いヘチマの花の上に明るい空が広がっていた。 

 多くの人がコロナ禍の暗いトンネルの中で不安を深めがちだ。 そんな時代だからこそ、子規の「暗」から「明」への死生観の転換に学ぶべきものがあるのではないか。』

 

 コロナ禍の長い・暗いトンネルの中で不安を深めています。 正岡子規の時代、感染症の対策(検査・追跡・隔離)は、『国民の安全ファースト』と万全を尽くしていました。

           (20200810纏め #203 )

 

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