知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『空海の凄さ様々 2(遣唐使推薦の運の良さと、万端の事前準備)』 —通常20年の長期留学生(私費)は、今日の換算で数億円相当が必要―

2023-09-09 07:43:53 | 偉人

『空海の凄さ様々 2(遣唐使推薦の運の良さと、万端の事前準備)

『通常20年の長期留学生(私費)は、今日の換算で数億円相当が必要

 友人である画家の、安野光雅氏が、ある時、司馬氏に『自分の作品でどれが一番好きですか』と聞くと、『まあ、「空海の風景」かな』と言われましたと記
録があります。

 ウェブ情報には高村薫氏の空海について、次の感想が載っていました。
高村薫の目的がどちらかというと、空海死後の現代に至るまでの変化を描くことにあったことに気づき、おもしろい作品?だと思った。 作品と言うより、ルポルタージュなのだろうか。

 天才が感得した悟りの世界は、死後誰にもわからなかったのだろう。 最澄の延暦寺が、その存在を維持していたのに、比べ空海の信仰は世俗化をしていった。高野聖が世俗の者に理解しやすい伝説を作り上げていった。 福島県の猪苗代湖にまで伝説があるというのがすごい。

凄さ❶ 準備の良さと、巨大なスポンサー
空海は私費留学の遣唐使としての入唐前7年間で『資金作り』と『中国語マスター』をしたが、当時の記録は、この事実をほとんど残していない。空海は通訳を必要としないほど、中国語を流暢に話せた

空海研究者の間で「空白の7年」に何があったのか、これを知ろうとする関心が高まりました。 この間の空海の事跡を語る歴史資料が発見されていないことから、さまざまな仮説が独り歩きをしています。

20年の長期留学生(私費留学僧)が必要とする多額の金銭(今日の換算で数億円相当)が当時は無名の空海に布施などの手段で調達できるとは考えられません。 20年間ではなく、2年間の留学で帰国できる決定をだれができたか、2年間の留学費用を、誰が工面したかを考えると、想像もできない『巨大なスポンサー』がいたはずです。

巨大なスポンサーは桓武天皇の根拠 ウキペディアより引用
延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。 
延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられる。

このスポンサーなくして、国司でもない郡司の息子が『空白の7年』の維持も、 薬生で推薦された遣唐使も悪天候で断念、その翌年には、学問僧として入唐、通常学問僧は20年だが、二年余で帰国できた。

 

凄さ➋ 運の良さ
第十六次遣唐使船『よつのふね』の第一船に空海、第二船に官費留学の最澄が乗船した。 『よつのふね』全船が暴風で遭難、第三・四船は入唐できなかった。
 
  ウェブ情報(遣唐使の画像)から引用


凄さ❸ 格調高い嘆願書で『入唐』実現と事前勉学の環境(中国人の教師)の提提を巨大なスポンサーが。空海の第一船も、遭難し、目的地よりはるか南の福州に漂着したため、入国を許可されなかったが旅の苦渋を切々と、名文で訴え、その見事な漢文に感嘆した役人が、快く一行の入国を許可した。

凄さ❹ 密教の正統な唯一の継承者
金剛頂系と大日経系の二つの密教体系を習得した恵果は大唐でも唯一の僧であった。 恵果は、空海を自身の後継者として真言密教第八世法王の灌頂を与えた。                                            

日本仏教界の頂点に立つ最澄が、7歳年下で身分も低い空海の弟子となったが、空海は、当然ながら、伝法阿闍梨の灌頂を最澄には授けず、更に最澄の『理趣経釈』借用申し入れを断った。 『理趣経釈』は経文『理趣経』の注釈書で、密教の根本原理にかかわる重要な書
   
   ウェブ情報(空海の密教の画像)から引用

 

凄さ❺ 留学のアイテムに『土木』も
知識だけでなく経典や仏具などのソフトも、ハードも真言密教のシステムまるごとを持ち帰った。 そのほかに「工巧明」という学問書も書写している。
ここにこそ工学や技術が含まれている土木の指南書である可能性がある。

凄さ❻ ひらがなの創始者(これからもエビデンス検証・研究がされる)
ひらがなを作ったのは空海であるという言い伝えがあるが、現在では俗説であると考えられている。 現存の平仮名文献は、その字体もまちまちであって、一通りでないことなど から、一個人の作ではなく、多くの人の手を経て徐々に整備されていった、 社会的産物と考えられている。

凄さ❼ 私費留学の長期滞在(vs最澄の超短期官費留学)
遣唐使の留学期間は、本来・当初は20年、この条件で留学する僧が激減。 
末期は、1-2年の短期留学が多くなった。 空海は『早く帰国し学んだ知識を母国で、役立てたい・教えたい』の一心で、恩師『恵果』と相談し、空海は在唐2年余で帰国。 官費留学の最澄は在唐8ヶ月余で帰国。
(記事投稿日:2018/04/21、最終更新日2021/01/08、#173)

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『平和戦略、歴史に学べ(91歳の宗教学者・山折哲雄氏に聞く』 『長引く疫病と戦争の惨禍に揺れる現代を、超高齢者の碩学はどう見ている』

2022-08-22 17:13:43 | 偉人

『平和戦略、歴史に学べ(91歳の宗教学者・山折哲雄氏に聞く』

『長引く疫病と戦争の惨禍に揺れる現代を、超高齢者の碩学はどう見ている』 

半世紀以上昔のこと、香港駐在時代、『経団連』の会長を4期12年務められた偉大な人物との『香港金田中』の昼食会の末席に加えて頂きました。 この席で某関連会社の駐在員が『共産主義と民主主義の将来は』というような主旨の質問をされました。 これに対して『人間は「業」を持っているので、どちらも修正されながら継続するだろう』と話されました。 若気の至りで『理想社会の実現』は難航すると理解、トラウマになり、それ以来、悲観論者になりました。

この方に、今、質問出来たら『権威主義(独裁政治・専制政治・神権政治)体制と民主主義の将来』をお尋ねしたいと思いました。 

先日(2022/06/11)日経新聞文化蘭に記事『平和戦略、歴史に学べ『平和戦略、歴史に学べ(宗教学者・山折哲雄に聞く』が載っていました。 見出しにはこうありました。 『長引く疫病と戦争の惨禍に揺れる現代を、超高齢者となった碩学はどう見つめているのだろうか。 生死の先をさまよった肺炎から復活した宗教学者の山田哲雄(91)を京都に訪ねた。』 この記事の抜粋・引用です。

新型コロナが流行し始めた2年前の3月末から4月にかけて、発熱・咳・呼吸困難で、コロナの疑いで、受診、コロナではなかったが、肺炎が重症化し入院、『最後は断食して自然死に希望』したが、『「それは医師としては認めることはできません」と。 それなら、せめて意識レベルを下げて痛みや苦痛を下げるセデーション(鎮静)をしてもらえないか、と言いましたがそれもダメでした。』

しかし、2-3日後頃から病状が改善、九死に一生を得てから二年余り、断っていたお酒も、一年前から再開した。 夜は9時ごろ寝て、2時ごろには目を覚ます。 『しばらくは妄想の時間です。』 

朝3時ごろから原稿を執筆。 朝食後の小一時間は、朝食の時間だ。昼食後は昼寝もする。 『妄想三昧、執筆三昧、昼寝三昧の生活です』と笑う。 『老いをありのままに受け入れる』心境は最新の著書『心の風景』(海風社)にも書かれている。

ウエブ情報から引用

今、気がかりなのは、コロナ禍と戦争をめぐる議論の行方である。 『このところの世界の動きを見てふと思いました。 人類の歴史とはまさに、こういうものではなかったか、とね』。 頭に浮かんだのは、古代の民族大移動だった。

『まずはアーリア人です』。 紀元前、現在のインドやイラン高原に侵入して征服した。 『次ゲルマン民族とノルマン人の大移動がある』。 紀元後、北欧方面から南下して、ヨーロッパ各地に侵入する。 『その間に彼らは略奪、殺戮をしている。 ローマ帝国は、略奪、殺戮をさらに大規模に繰り返した その後十字軍戦争もある。 こうして地中海文明が形成され、ルネッサンス、宗教改革、産業革命と続くわけです。』  

『この間に、西欧諸国がしたことは、アフリカ大陸の略奪と奴隷の売買、アメリカ大陸の征服だった。 今のウクライナでの戦争における略奪と殺戮には、先例があると私は思った。 ウクライナでの戦争は、人類がこの2000~3000年の間にしてきたことと無縁ではありません。

『一種の狩猟社会的な野蛮な人間の姿が、再び現れてきたな、と感じます。 憎悪と復讐の連鎖が止まらなくなってきた。 危機を感じとるにつけ、振り返るのは日本の歴史だ。』 

『この日本列島は、いつも大文明に脅かされてきた。 大文明の傘に守られた従属関係の中で、必死に生き延びてきた。 「我々の先祖は凄いぞ」と私は言いたいんです。』 

『日本は、平安時代の350年、江戸時代の250年は大きな戦争がなく、世界史的にも奇跡と呼べるような平和な時代が続いた。 第二次大戦での敗戦以外には、日本は長きにわたり外国の侵略を免れてきたんです。 流血が止まない今、なぜその歴史を見つめ、ノン・バイオレンスの日本モデルを世界に示そうとしないのか。 

二大先哲のお教えを、さらに勉強して、なかなか早く『悲観論からの脱出』をしたいと思っています。

(記事投稿日:2022/08/22、#563) 

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『空海の凄さ様々 1(満濃池の大修復) 20200531改訂』 ―「空海の風景』は、生前の司馬が最も気に入っていた作品とみどり夫人が―

2022-07-10 14:00:47 | 偉人

『空海の凄さ様々 1(満濃池の大修復) 2022/07/10改訂

『「空海の風景」は、生前の司馬が最も気に入っていた作品とみどり夫人が』

 

香川県 満濃池(写真右下がダム)
 
ウェブ情報情報(満濃池ダムの画像)から引用

満濃池ダム(ソイルフィルダム・土堰堤)初代ダムは今のダムより少し下だった)
 
ウェブ情報情報(満濃池ダムの画像)から引用

満濃池の歴史
701~704年   (大宝年間)  讃岐の国守 道守朝臣がつくる。
821年        (弘仁12年)     嵯峨天皇の命令で弘法大師空海が再築
1184年          (元暦1年)     洪水により堤防がこわれる。 約450年間修理されないままになり池の中に人が住み、 「池内村」となる。
1628~1631年 (寛永5~8年)  西嶋八兵衛が再築。

 現在の満濃池のダムの高さは32ⅿですが明治から昭和にかけて3回の嵩上げで、10ⅿほど高くなっていますので空海が大修復をした当時は高さ22ⅿ、貯水量は、500万トンで、現在の1540万トンの約三分の一です。 

 『満濃池』は空海が造ったとものと、昔からずっと思っていました。 それから、改修しただけだったと言われていたことを知ったのは、だいぶ後のことでした。 とこらが、最近この大修復の事実を知れば知るほど『空海の凄さ』が分かりました。 ウェブ情報です。

 「萬農池後碑文」によると大宝年間(701年~704年)に讃岐の国守道守朝臣の創築と伝えられています。 しかし弘仁9年(818年)に決壊、朝廷の築池使路真人浜継が復旧に着手しましたが、技術的困難と人手不足によって改修がならず、国守清原夏野の発議により、弘仁12年(821年)空海が築池別当として派遣されました。 空海が郷土入りをすると人々は続々と集まり人手不足は解消し、唐で学んだ土木学を生かして、わずか3ヵ月足らずで周囲2里25町(約8.25km)面積81町歩(約81ha)の大池を完成させました。 朝廷は空海の功を賞して富寿神宝2万を与え、空海はこれによって神野寺を池の畔に創建しました。

 大宝年間の初代の満濃池は現在の位置よりも少し川下の谷川が縊れた位置に『直線』のソイルフィルダム(土堰堤)で造られていた。 当時、この初代ダムの高さは不明だが、空海はこれを少し川上に位置を変えて、ダムの高さは22ⅿ『アーチ型』のソイルフィルダム(土堰堤)とした。 

 それよりまして凄いことは空海が「築池使」として讃岐にやってきたのが822年の6月、そのわずか4ヵ月後の9月には帰京している。 大修復というよりは再構築、この時代としては、巨大な構築物で、ごく最近まで、1300年余も日本最大の溜池で、讃岐平野の農地を潤してきた。

 ソイルフィルダム(土堰堤)の維持・保守は、台風とモンスーン気候の国では難しいようで、『12世紀末に、洪水により堤防がこわれ、約450年間修理されないままになり、池の中に人が住み、「池内村」となる。』と記録があります。 

 かんがい用ため池として名実ともに日本一である満濃池の歴史は、大宝年間(701年~704年)にはじまり、讃岐の国守道守朝臣(みちもりあそん)が築いたといわれています。しかし、弘仁9年(818年)に決壊、朝廷の築池使真人浜継(まびとはまつぐ)が復旧に着手しましたが、改修がならず、空海が築池別当(つきいけべっとう)として派遣され、わずか3ヶ月足らずで周囲2里25町(約8.25km)面積81町歩(約81ha)の大池を完成させました。

 

この大修復について調べてみました。
 ため池は、水さえ溜めればいいというわけにはいきません。堰と同じように、そこから農地まで水路を引いてこなければならない。ということは、農地よりも高いところに造らなければならないということになります。さらに、ため池から水を抜く構造が必要になります。10mも水が溜まると水圧はかなりなものとなります。木製の取水口を人の手で開け閉めするわけですから、その構造には高い技術が要求されました。また、ため池の水は、底に溜まった水よりも表面にある水の方が温かく水質も良いので、表面から取水するような工夫もなされています。
満濃池では図のように、ため池の水位に応じて、5ヶ所の堅樋(取水口)から底樋を通して水を流す工夫がなされています

ウェブ情報から引用
満濃池の竪樋と底樋 画像提供:満濃池土地改良区

 空海が考案したといわれる堤防改修のポイントはふたつ。
❶堤防の形をまだ当時の日本には見られなかった「アーチ型」にしたこと。 現在のダムなどでは当たり前の形なのですが、これにより堤防にかかる水の圧力が分散されて、より水圧に耐えられる、決壊しにくい堤防になるということ。 
❷水抜き路と言える「余水吐き」と呼ばれる設備を付加したこと。 雨季になると溜池の水かさがどんどん増えて水量はコントロールが不 可能になって、決壊する恐れがある。余分に溜まった水を溜池の外に流し出す調整溝を作ることにより決壊を未然に防ぐというもの。
 
これらのアイデアは空海が土木建築にも精通しており、唐であらゆる分野で学んだ一つの表れと言えるのかもしれません。しかもこれらの工法で整えられたこの溜池の堤防の基本形は現在に至るまで継承されている。


『満濃池』を、土木技術で大修復した空海は、思想・芸術、それに学問・技術の諸分野でも時流に抜きんでていた『万能・博識の大天才』、です。 本題に戻ります。

本人の名言『虚しく往きて、実ちて帰る』、数年の準備期間をかけて準備万端の留学であった。 周囲から期待されたエリートコースの大学をやめて、数年経過した時点での入唐決意。 準備万端の空海だから言える『虚しく往きて・・・』と(頭脳を空・無にして留学)。 

こうも言っている『たまたま志願者が少なかったので、留学僧の末席につらねてもらった』と、これって『ウイット・ユーモア・エスプリ・アイロニー、それとも、空海のこと、もっと深い意味が・・・』。
遣唐使廃止前の、遣唐使末期であり遣唐使の選抜基準・試験の記録がほとんどない環境でもあり、こんな皮肉を込めてのコメントになったのかもしれません。

空海の偉業の一環です。 曜日・七曜はヨーロッパから伝わったのではなく、空海が9世紀初めに唐から持ち帰ったもので、『宿曜経』という占星書に書かれています。

そこで余談です
先輩に紹介されて夢中になって並行読み中の、新しい本『系外惑星と太陽系』岩波新書、2017.2.17初版。 何故か、稀有の大天才の空海を偲んでいます。
 
空海の伝記本・小説は沢山ありますが、昔、読んだのは、司馬遼太郎氏の『空海の風景』と、最近読んだのが高村薫氏の『空海』です。

『空海の風景』は、第三十二回(昭和50年度)芸術院恩賜賞文芸部門受賞作で、平安時代初期に密教を独自に体系化し、真言宗の開祖となった空海を扱った作品。 世間では『坂の上の雲』構想5年半・連載4年半を含め、約10年を費やした作品を、司馬氏の『ライフワーク』と言うが・・・。

司馬夫人の福田みどり氏によると『「空海の風景』は生前の司馬が最も気に入っていた作品で、サイン本を献本する際にも必ず本作を用いたほどであり、そのため冨士霊園の「文學者之墓」(日本文藝家協会会員の共同墓)にも本作を埋葬した』と言われた。  
(記事投稿日:2018/04/21、 最終更新日:2022/07/10、#172)

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『鑑真の凄さ様々 1(5回目の挑戦で、海南島に漂流失明後、日本に渡航)』 『昨今の世情から,凡人には想像もできない,鑑真の使命感・生き様』

2022-03-13 11:52:27 | 偉人

『鑑真の凄さ様々 1(5回目の挑戦で海南島に漂流失明後、日本に渡航)

    『凡人には想像もできない、鑑真の使命感・生き様』 

 

奈良時代の鑑真と行基は、ともに渡来人として、両人物とも、日本のために力を尽くしてくれた人物です。 その違いは国籍と貢献内容でした。 

鑑真は唐人。 

行基は朝鮮渡来人系の日本人。

鑑真は日本の仏教の制度を整え、様々なものを伝えた。 

行基は国内インフラ制度の社会事業に貢献した。 

聖武天皇や行基が奈良の大仏を建立している頃に乱れた僧の風習をどうにかしたいと頼まれ、唐から日本にやってきたのが、鑑真で、皇帝からも才能豊かで博識高い僧侶として認められており、日本に行くことを止められていたほどの人物です。 しかし、日本から遣唐使の使いでやってきた普照と栄叡の必死の願いにより、鑑真は日本へ戒律を伝えに行くことを決意します。 

鑑真の来日については有名なお話の通り、来日に5度失敗し、遣唐使として来日した大伴古麻呂(おおとものこまろ)らの助けにより、6度目にして奇跡的に来日することに成功します。

その間、密航をばらされたり、投獄されたり、鑑真の目が失明したり、志半ばで栄叡が亡くなったりと波乱万丈の日本渡航でした。

 

日本における『律宗』の開祖

『律宗(りっしゅう)』は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。 中国で東晋代に戒律について翻訳されると、唐代には道宣が成立させた。 日本には鑑真が伝来させ、南都六宗の日本仏教の一つとなった。』

ウキペデイア情報から引用

釋鑒真・鑑真(唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和尚像」)

名:淳于(俗姓)

号:唐招提寺住持

尊称:傳燈大法師

生地:唐朝揚州江陽縣 

 

688-763, 奈良時代の帰化僧

鑑真(がんじん、旧字体:鑑、繁体字:鑑真、簡体字:鉴真、688-763年、奈良時代の僧人。 日本における律宗の開祖。

奈良時代、日本人僧の求めに応じて日本渡航を決意した高僧・鑑真。 しかし渡航は失敗を繰り返す。 5回目の挑戦では漂流して海南島まで流され、鑑真自身が失明してしまう。 それでも日本の朝廷は鑑真の渡航を求め続ける。 実は鑑真以前にも何人もの高僧が日本にわたっており、大仏開眼の導師も務めていた。 それでも鑑真を招かなければいけなかった理由はなんだったのか?最新の研究をもとに、聖武天皇の目的と鑑真来日の意味をこれからは調べてみたいと思いました。 鑑真は、あの密教や天台宗の教えも伝えています。 空海や最澄も影響を受け、比叡山や高野山もなかったかもしれません。  

更に驚きですが、鑑真が、みそ汁や豆腐、漢方薬が伝えられています。 和食のルーツも、こうやって今でも食べられているのは、命を懸けて鑑真が持ってきてくれたからですね。

三大宗教の二つ、キリスト教とイスラム教の発祥は砂漠でした。 緑豊かな国・日本は『八百万(やおよろず)の神』だとか『無神教』また『無宗教』と言われます。 内田希氏の『鑑真、最澄、空海 -平安仏教の成立-』ウエブ情報の抜粋・引用です。 長文の引用ですが読んでない著書、みてない映画おありますので備忘録としました。 

『日本人は「無宗教」だ、という言説を見かけることがあるがこれは誤りだと思う。 基本的には日本は仏教(お寺さん)と神道(神社さん)のハイブリッドのような宗教環境にあり、目をつり上げて宗教活動、布教活動をすることは余りないが(カルト宗教以外は)、ケースバイケースでそれぞれの宗教儀式(お宮参りとか 法事とか)に参加することで、心の平安を得ている、という辺りではないだろうか。 日頃宗教に関心は無くとも、自分の家の宗教は何なのか、知っておくのも大人として何かの際に必要になるだろう。 この稿で取り上げる本は、8世紀の鑑真和上招聘から真言宗、天台宗が定着する9世紀までの日本仏教の確立期を扱った小説(または史伝)である。

 

『天平の甍』  

話は天平四年(西暦732年:奈良時代前半)から始まる。6世紀に伝来した仏教 は朝廷の保護により全国に広まっていたが、僧が守るべき戒律を定めた「戒」を授ける僧、戒和上が未だ存在していなかった。 日本仏教の完成を目指すべく、戒和上招聘を目的として第九次遣唐使に4人の日本僧が留学僧として参加するが、 その使命は簡単なものではなかった。 無事唐土に到着はしたものの、戒和上として日本に渡ってくれる僧は簡単には見つからない。 在唐10年、ようやく高名な学僧鑑真が、日本へ行こう、と言ってくれる。 しかし、妨害、難破、皇帝の不許可などで5回の渡日の試みが失敗し、その間、日本僧の内、帰国を拒む者、他の夢 を追う者が現れ、そして一人は唐土に客死する。鑑真和上も5度の渡日失敗の中 で失明してしまう。様々な困難の後、一人残った日本僧普照(ふしょう)はつい に鑑真和上一行と共に帰国を果たす。  井上靖氏の研ぎ上げられた日本語は簡潔かつ美しい。 できればこのような文章 を書いてみたいものである。 井上靖氏がもう少しご存命だったらノーベル文学賞日本人二人目は井上氏だったろう。

 

『氷輪』  

鑑真和上は日本に上陸し、和上招聘の目的であった 授戒の儀式が行われ、そして唐招提寺が建てられた、と一応のハッピーエンド的 に語られるが、「氷輪」は和上一行が都に到着した辺り(天平勝宝6年、西暦754 年:奈良時代中期)から始まる。  都に到着した一行は朝廷によって大歓迎を受けるが、その後の事態は鑑真らと 共に帰国した普照が思い描いていたようには進まない。 授戒権を握ることで仏教 界を完全に支配下に置くことを目論み、一旦、日本人の戒和上が誕生すれば唐僧達を棚上げ(用済み)扱いにしようとする朝廷、新参の唐僧に改めて戒を授けて 貰わないと僧として認められないことに反発する日本の仏教界、さらに朝廷内部での主導権争い、藤原仲麻呂の乱、道鏡事件。 教科書に載らない話と、教科書で は関連性抜きで語られる事件が複雑に絡み合い、歴史が進行してゆく。  修学旅行の定番となっている奈良の唐招提寺は、今でこそ立派な伽藍となっているが、鑑真和上の生きていた時代、そこは寺未満 の唐律招提という私塾に過ぎず、それも失脚した皇族の屋敷跡にその屋敷の古材を利用して建てられた粗末なものでしかなかった事をこの本で知った。 そのことを知ると、20年の歳月の果てに日本に戻った普照、5度の失敗にめげずに波濤をこえて来日した和上一行は、空しく感じなかったのだろうか、と思ってしまうが、そう思うのは私が凡人だか らなのだろう。 唐招提寺の、あまり観光客の行かない一角に、和上達が命がけで 伝えた「戒」を授ける戒壇の跡がある。

 

『曼陀羅の人』  

弘法大師空海、間違いなく日本史上のスーパースターの一人だろう。 この作品は空海の生涯の内、遣唐使に留学僧として同行して入唐(西暦804年;平安時代初期)するところから、20年滞在の予定を2年で切り上げて離唐するまでを扱っている。 海賊と疑われて上陸できないでいる遣唐大使の窮地を、名文達筆の手紙で 救う所から始まり、長安に着けば瞬く間に梵語(サンスクリット語)をマスターするわ、当時長安に集まっていた様々な宗教者と親交を結ぶわ、外連味たっぷりに密教の大阿闍梨(カソリックだとローマ法王みたいなもの)恵果のもとを訪ねれば「我先より汝の来るのを待つや久(来るのずっと待ってたよ)」と言わしめ、僅か三ヶ月足らずで密教を完全にモノにするとすぐに大阿闍梨の位を授けられ、東アジア密教世界のトップに立ってしまう。  頗る格好良く、日本人として痛快である。  「氷輪」で西域出身の少年僧として登場した如宝(にょほう)は後年唐招提寺を完成させた人とされている。 『曼陀羅の人』の中の空海の回想で、若き空海が老僧となった如宝と対話する場面がある。 ここで鑑真と共に来日した唐僧の名を見る と、旧知の人が苦難の末に平安を得たことを知らされたようで、懐かしく何だかホッとする。

 

『雲と風と 伝教大師 最澄の生涯』  

弘法大師と並び称される伝教大師最澄。 教科書では単純に並列標記されてしまうが、2人の運命は複雑な綴れ織りをなしている。 天衣無縫で数々の伝説に彩られた空海に対して最澄はあくまでも真面目である。  琵琶湖のほとりの豪族の子として生まれた最澄は仏門に入る。 時代は桓武天皇が国家事業として、新都造営(長岡京と平安京)、蝦夷(東北)征伐、遣唐使派遣を推し進めていた頃にあたる。 真面目に12年の山籠もりをした後、桓武天皇の近くに上がった最澄は、悩める帝を救わんと真面目に天台教学の研究を始め、日本国内だけでは限界があると感じると真面目に遣唐使とともに渡唐することを志願する。 空海と同じ遣唐使節で渡唐するが、長安には行かずに真面目に天台山に直行して大急ぎで教典を集め日本へ帰る。 帰れば古い仏教界と真面目に論争し、そして自分が唐で偶然のように拾ってきた密教が不完全なモノだと知ると、後から 戻った空海に真面目に弟子入りしようとする。  華やかな空海に比較して最澄は真面目で地味なように思えるが、彼の建てた延暦寺はその後、法然、日蓮などの日本仏教の指導者を多く輩出している。 天才空海に対して最澄は真面目な教育者として優れていたのだろうと思わせるその後の歴史である。

 

『空海の風景』  

香川県(空海の生地、讃岐)出身者には必読書だろう。 空海の生まれから入定まで、当時の社会情勢、歴史のうねり、最澄との絡みも含めて膨大な資料を基に分厚く描いている、所謂「司馬文学」である。 『曼陀羅の人』に比較すると、やや空海と距離を取っているようで、少し突き放しているような感じもうける。 空海と最澄の間で交わされた論争や、密教とは何か、についての司馬氏の解釈も興味深い それでは問題の理趣経、それから大日経と法華経も読んでみようか、という気になる。  高野山(真言宗の総本山)では、空海は入滅(死)したのではなく今でも奥の 院の廟所の中で定(じょう;生と死の間の定常状態?)にあるのだとされているらしい。 現在でも、毎日の食事と衣服を整える特別な役割の僧侶が存在しているそうである。  奈良時代は何々の乱とかが頻発し、都が結構血なまぐさいけれど、平安時代に入るとあまりそういうことがなくなる(武士の登場までは)。 真言宗、天台宗などが成立し、古代日本が成熟してきたということなのだろう。 理工系の人間は、「宗教」、と聞くと、迷信だ、と否定するのがかっこよさそうに見えるが、元来、宗教 と科学とは別次元のものだと思う。 歴史的には宗教の持つエネルギーは否定のしようがない。

 

『弘法大師御入定1150年御遠忌記念映画 空海』  

高野山の全面協力で作られた、弘法大師の生涯を描いた映画。 空海役は北大路欣也氏、最澄役は加藤剛氏、ほか大物俳優多数。 当時の歴史をかなり忠実にトレースしているので、観てから読んでも、読んでから観てもなかなか感慨が深い。

 

今回の追加を含め、余生の読書計画が、既にオーバーフロー状態です。

(記事投稿日:2022/03/13、#491)

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『「謎の空海・誰でもわかる空海入門」を読んで』 ―空海の由来の「空と海」の風景は四国であったと言われるが江の島にも―

2021-04-29 22:10:46 | 偉人

      『「謎の空海・誰でもわかる空海入門」を読んで}』

   空海の由来の「空と海」の風景は四国であったと言われるが江の島にも―

 

空海の風景の洞窟 高知県「御厨人窟(みくろど)」

ウェブ情報から引用

高知県の室戸岬にあるパワースポット「御厨人窟(みくろど)」、平安時代初期に弘法大師・空海が修行をしたという伝説が残る、海水の侵食によりできた洞窟です。当時青年だった弘法大師はこの地で開眼し、洞窟の中から見えた風景が“空と海”だったので「空海」の法名を得たと言われています。

 

江の島にもありました空海の風景の洞窟

ウェブ情報から引用

島の最奥部にある海食洞窟。古くは弘法大師や日蓮上人も修行したといわれ、江の島信仰発祥の地として崇められてきました。 

 

江の島大師(数十回訪れた江の島ですが、この大師様は初参り)

ウェブ情報から引用

江の島は552年に海底より隆起して生まれたとされ(江嶋縁起)。 814年には弘法大師空海が岩屋に参拝し社殿を創建したとのを起源とする。

 

さて表題に戻ります。 三田誠広著『謎の空海・誰でもわかる空海入門』を読む前に、読んだ空海の本は司馬遼太郎氏の『空海の風景』と高村薫氏の『空海』でした。この本、高村薫氏の『空海』は日経新聞に、大きく紹介されていたので『読書は図書館利用派』の自分が、座右の書としようと、購入して読んで見ましたが、歯がたちませんでした。

 

結構、司馬遼太郎氏の歴史小説は読んでいたのですが、『空海の風景』は、気が付きませんでした。 パナマ駐在中に商用でサンパウロ出張の機会があり、ブラジル・サンパウロの日本人街『リベルタージ』に行ってみました。 その時、古書店で見つけたのが司馬遼太郎著の『空海の風景 上下巻』でした。 

 

古本なので、当然ですが、ご丁寧にセット販売で麻ひもで、がっちりと結わかれていました。 何故か地球の裏側で巡り合った本ですので、即購入して、パナマに戻り、それからは、熱帯の高木林の木陰で、CERVEZA PANAMA(パナマのラガービール)を飲みながら、数日掛けて読みました。 

 

以前に投稿した『空海の凄さ様々 1』の繰返しになりますが、司馬夫人の福田みどり氏によると『「空海の風景」は生前の司馬が最も気に入っていた作品で、サイン本を献本する際にも必ず本作を用いたほどであり、そのため冨士霊園の「文學者之墓」(日本文藝家協会会員の共同墓)にも本作を埋葬した』とのことです。

 

それ以来、空海vs最澄の比較で、空海の謎めいた入唐までの半生と,その後の凄さに、感服していると同時に、将にその生涯も『謎の空海』です。

 

謎の空海❶ 

空海は18歳で大学に入って、儒教を学ぶ。 それからの唐へ留学の十年ほどの期間は、どこで何をしていたか不明。

 

謎の空海➋ 

長く中断されていた遣唐船が派遣され、空海が留学僧として乗船した。 この遣唐船は、桓武天皇の側近で宮中の供奉僧を務めていた最澄の為のものであり、最澄は東大寺で修業し、飛び切りの優等生で受戒している正式な僧であった。 反対に、空海は、山岳修業者であり私度僧と呼ばれ、非合法の僧であり、当然留学の資格はなかった

 

謎の空海❸

最大の謎は、空海は遣唐使の一行と共に唐の首都長安まで往って、青龍寺の『恵果』から、『唯授一人』と称せられる秘法である『瑜伽密教』の秘伝と、膨大な経典と、金箔を貼った曼荼羅と、秘宝と言っていい法具の全てが、空海に伝えられた。 空海の修行期間は、半年にも満たない。

この密教は、天竺僧・金剛智から唐の名僧・不空を経て、『恵果』に伝えられたもの。 

 

謎の空海❹

この時の遣唐使の主役は、最澄であった。 最澄は、遣唐大使と一緒に、トンボ返りで帰国できる『環学僧』で、首都長安にも行かず、海岸近くの天台寺での教えを学び、実質6ヶ月ほどの唐滞在で帰国。 空海は実質二年余の唐滞在。一般に『留学僧』は、20年余の唐滞在であったが『環学僧』でもない空海がなぜ、2年余で帰国できた。

高村薫の目的がどちらかというと、空海死後の現代に至るまでの変化を描くことにあったことに気づき、おもしろい作品?だと思った。 作品と言うより、ルポタージュなのだろうか。

天才が感得した悟りの世界は、死後誰にもわからなかったのだろう。 最澄の延暦寺がその存在を維持していたのに比べ空海の信仰は世俗化をしていった。 荒野聖が世俗の者に理解しやすい伝説を作り上げていった。 福島県の猪苗代湖にまで伝説があるというのがすごい事。

 

『満濃池』を、土木技術で大修復した空海は、思想・芸術、それに学問・技術の諸分野でも時流に抜きんでていた『万能・博識の大天才』、です。 

 

本人の名言『虚しく往きて、満ちて帰る』、数年の準備期間をかけて準備万端の留学であった。 周囲から期待されたエリートコースの大学をやめて、数年経過した時点での入唐決意。 準備万端の空海だから言える『虚しく往きて・・・』と(頭脳を空・無にして留学)。 

 

こうも言っている『たまたま志願者が少なかったので、留学僧の末席につらねてもらった』と、これって『ウイット・ユーモア・エスプリ・アイロニー、それとも、空海のこと、もっと深い意味が・・・』。

遣唐使廃止前の、遣唐使末期であり遣唐使の選抜基準・試験の記録がほとんどない環境でもあり、こんな皮肉を込めてのコメントになったのかもしれません。

 

空海の偉業の一環です。 曜日・七曜はヨーロッパから伝わったのではなく、空海が9世紀初めに唐から持ち帰ったもので、『宿曜経』という占星書に書かれています。

 

そこで余談です

先輩に紹介されて夢中になって並行読み中の、新しい本『系外惑星と太陽系』岩波新書、2017.2.17初版。 何故か、この本の中で、稀有の大天才の空海を偲んでいます。

なぜか、空海を、自分なりに知るにも、時間と体力が限りなく、要るようです。

                          (20210428纏め、#323)

 

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