知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『天才絵師 雪舟の天橋立図と、北斎の富嶽三十六景の鳥瞰図の謎)』ー雪舟の国宝『天橋立図』と北斎『富嶽三十六景』の鳥瞰図をなぜ描けたー

2024-09-05 07:22:14 | 絵画

『天才絵師 雪舟の天橋立図と、北斎の富嶽三十六景の鳥瞰図の謎)』 

雪舟の国宝『天橋立図』と北斎『富嶽三十六景』の鳥瞰図をなぜ描けた」

 

この国宝『天橋立図』ですが、描くときに雪舟が立っただろうと言われる場所、現在の『天橋立雪舟観 展望休憩所』から見ると、天橋立の後ろの『阿蘇海』は天橋立で遮られ見えません。 

 

『天橋立雪舟観 展望休憩所』から天橋立を、阿蘇海はよく見えません。

 

 

国宝『天橋立図』

まさに、雪舟の傑作の鳥瞰図、阿蘇海がはっきりと見えます。      

 

 

ウエブ情報です。

日本三景の1つ、丹後天の橋立を東側から鳥瞰的にとらえた図で、図中の智恩寺の多宝塔と成相寺の伽藍が同時に描かれることから、制作期が一応明応10年(1501)から永正3年(1506)の間とされる。雪舟(14201506)が80歳を越してなお現地に歩を運んで、実景を写したことは驚異である。 水々しい墨色と確実に形をとらえる筆致、雄大に組立てる構図は雪舟の優れた画技の極点を示している。 中国大陸に渡って大自然を写生し、宋元画を学び、禅画一致を求めて一生描きつづけた雪舟の傑作である。

 

北斎の『富嶽三十六景』の鳥瞰図、

稲妻が下に見え、後方の周辺の山並みが描かれている。

 

北斎の『富嶽三十六景』

稲妻も、後方の周辺の山並みが描かれていない。

 

 

北斎の稲妻を下に見下ろした『富嶽三十六景』の鳥瞰図と合わせ、雪舟の国宝『天橋立図』は、なぜ鳥瞰図を二人は描けたのでしょうか。

 

鳥瞰図を雪舟(14201506)と北斎(17601849)はどこで学んだか。 

ここでもウエブ情報です。

 

雪舟は15-16世紀の日本画家ですが、『遣明使』で中国に2年留学、中国画家・『実在』より中国の画法を学んだ。 中国絵画にも遠近表現はあり、北宋の画家・郭(かくき)はそれを「三遠の法」といった。 「三遠」とは高遠(仰角視)、平遠(水平視)、深遠(俯瞰視)の3をいうが、中国の山水画では、近景の岩は俯瞰視、遠景の山は仰角視で描くなど、同じ1枚の絵の中に複数の異なった視点が共存することが珍しくない。

 

ここにある『遣明使』ですが、不勉強で、遣隋使と遣唐使しか、今まで知らず、お恥ずかしき次第です。

 

『室町時代の幕府か明に派遣した。 応永11年(1404年)から天文16年(1547年)まで約1世紀半で17次(のべ84隻)。 のち、倭寇(わこう)が盛んになるに及んで廃止。』

 

北斎は18-19世紀の日本画家ですので、すでに鳥瞰図は見ていたと思われます。 

安永7年(1778年 浮世絵師・勝川春章の門下となる。 狩野派や唐絵西洋画などあらゆる画法を学び名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。 

文化9年(1812年 秋頃、名古屋の牧邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。

 

鳥瞰図のウエブ情報です。

海外の歴史的な鳥瞰図としては、レオナルド・ダ・ヴィンチの「トスカーナ鳥瞰図」ヤコポ・デ・バルパリの「ヴェネツィア鳥瞰図」(1500年)アルトドルファーの「アレクサンドロス大王の戦い」(1529年)などがある。 

 

日本の歴史的な名所や神社仏閣を描いた鳥瞰図としては、古くは春日大社を描いた奈良時代の「春日曼荼羅」などがある。名所案内図としては、秋里籬島著、竹原春潮斎画「都名所図会」、斎藤月、長谷川雪丹「江戸名所図会、葛飾北斎「東海道名所一覧などがある。浮世絵にも鳥瞰図が描かれ、広重「江戸名所百景」の「深川洲崎十万坪」などがある。 現存最古の鳥瞰図としては『東大寺領荘園図』がある。 

 

日本の江戸時代までの広域の景観を描いた鳥瞰図としては、室町時代の加納永徳の「洛中洛外図屏風」に代表される京都の景観、風俗を描いた各種の「洛中洛外図屏風、江戸初期の建設途上の江戸の名所、風俗を描いた「江戸図屏風」、江戸全景を描いた鍬形蕙斎の「江戸一目図屏風」などがある。 

 

数年前、どこかのテレビで放送していました。 北斎の『神奈川沖浪裏』の解説の中で北斎には『空間認識能力』が特別優れていたと。 北斎よりおよそ300年も早く、雪舟は、高い崖、高い山、高い石柱の多い中国の「三遠の法」の「高遠(仰角視)、平遠(水平視)、深遠(俯瞰視)を理解していたように『ズブの素人』には見えました。 同時代1516世紀には、高い塔や高い山の多いヨーロッパには鳥瞰図や俯瞰図が現れても不思議はないと思います。

 

鳥観図と鳥瞰図(俯瞰図)、虫観図と虫瞰図(仰瞰図)、日本語は難しくて、奥が深いです。 漢字・ひらがな・カタカナ混在の言語・日本語はある意味でハンデでした。 自動翻訳機(双方向)のチップが体内に組み込まれる時代はまだずっと先でしょうか。

(記事投稿日:2019/10/19、最終更新日:2024/09/05、#126)

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『凄い画家・藤田嗣治、絵画で「白」の表現は素晴らしいと称賛を』

2024-04-22 11:15:43 | 絵画
『凄い画家・藤田嗣治、絵画で「白」の表現は素晴らしいと称賛を』
『日本生まれのフランスの画家・彫刻家 フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・ツグハル・フジタLéonard Tsugouharu Foujita』
『絵の具では三原色塗り重ねると「黒」に、光では「白」になぜ?』

日本人の画家で最初に世界的な成功を収めたのが藤田嗣治でした。 日本近代で最大の画家とも言ってもよいと言われます。 それまで、浮世絵などで日本美術が海外で高く評価されたことはあったが、画家本人が海外に渡りそこで評価をえたのは藤田が最初であったと。

藤田の絵画は細い輪郭線で裸婦を描き、エコール・ド・パリの画家としてもてはやされた。 手先の器用な日本人にしか描けない細い線、そして『乳白色の肌』が藤田の絵のトレードマークとなった。
エコール・ド・パリ
エコール・ド・パリ ( フランス語: École de Paris, 英語・School of Paris)は、「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン(ジプシーの異称) 的な生活をしていた画家たちを指す。

また藤田は『猫の画家』でもあった。 数匹の猫を飼い、猫を描き、人気を得た。 そんな猫も、この自画像には一緒に絵は描かれている。


 ウェブ情報から引用


ウェブ情報から引用

白い肌に魅せられて、裸婦像を描いた画家が居ります。 竹久夢二。

ウェブ情報から引用

以下、ウェブ情報ですが、今後の勉強のために備忘録にしました。 
特に、絵画において白色の表現は、実際には意外にも難しいようです。 その理由を調べてみました。 まず、光と陰影が絵画でどのように扱われているかですが、絵画には平面的なものと立体的なものがあります。 浮世絵やアニメ・イラストは平面的な表現が多く、日本人はこのスタイルを好む傾向がるそうです。 一方、西洋絵画は古典的にはリアルで立体的な表現が基本です。 立体的な絵画を描く際には、光と陰影の成り立ちを理解することが重要です。

  • 光と陰影とは、物体を見る際に生じる光と影の部分。 具体的には以下の要素に分解できます:
    • 光・光源: 光が当たっている部分と光自体。 太陽や月明かり、室内灯などが光源。
    • 陰: 光が当たらず暗くなっている部分。
    • 影: 物体が光源を遮って、背後の地面などが暗くなっている部分。

主光源と副光源は、絵画制作において重要な要素です:
  • 主光源: モティーフに当たる最も強い光。 外では太陽の光や月明かり、室内では蛍光灯などの光が該当。 主光源の色は、モティーフの固有色に光源の色を帯びた色味に。
  • 副光源: 主光源以外の光源で、陰影の部分を明るく照らす役割を。 副光源の色は、反射光によって影響される。

白色の表現にですが、絵画で白色を表現する際、以下の方法が:
  1. 塗らない: 白色の部分を塗らずに紙の色を活かす方法。 ただし、これは難しく、高度な技量を必要。
  2. 削る: 色鉛筆画などで、白色の部分を削って表現する方法。

絵画においては、白色を適切に表現するためには、光と陰影の理解と色の扱いが重要。

色の三原色は重ねると真っ黒になりますので、絵画については上記の情報を頭の隅っこにおいて、しっかり見ていこうと思いました。 写真は、光の三原色を重ねると白くなりますので『白飛び』させないように、これからも頑張って『下手の横好き』をやっていきます。
(記事投稿日:2024/04/22、#742)
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『特別展「画聖(カリスマ)の誕生」京都で開催、ぜひ東京開催も』 『水墨画で著名な絵師といえば雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』

2024-04-05 10:58:32 | 絵画
『特別展「画聖(カリスマ)の誕生」京都で開催、ぜひ東京開催も』
『水墨画で著名な絵師といえば雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』
『それでも、不器用・遅咲きの画聖雪舟の作品総数は36点と少ない』

15世紀後半に活躍した水墨画家・禅僧で、画聖ともたたえられる雪舟。 江戸時代に神格化され、日本の水墨画を一変させ、後世の画家に多大な影響をおよぼしたと言われるのが雪舟です。

冒頭から余談です。
一方、葛飾北斎は日本の画家、浮世絵画家、江戸時代の版画家。 雪舟をはじめ中国絵画の影響を受けたスタイルで、シュルレアリスティックに日本の風景や春画を描く、葛飾北斎ですが、実はその名前は本名ではありません。  45歳から5年ほど使っていた号(ペンネームみたいなもの)であり、しかも北斎はこの号を生涯で30回以上変えているのです。

この二人、『画聖』と、『幽霊から漫画まで描く「鬼才」』の世界での評価と影響度は、水墨画と浮世絵版画・漫画の異なる世界ですが、二人のその凄さには、ただ驚くばかりです。

京都国立博物館のウエブ情報です。 今後の調査に備え備忘録に!

 ウエブ情報から引用

展覧会の見どころ
日本美術史上もっとも重要な画家の一人である雪舟(1420~1506?)。 6件もの作品が国宝に指定されていることが象徴的に示しているように、雪舟に対する現在の評価は突出したものがあります。 しかし、それは単純に作品が優れているという理由だけによるのではありません。 雪舟とその作品に対し、歴史的に積み重ねられてきた評価の上に、今日の高い評価があるのです。
本展では、主に近世における雪舟受容の様相を辿ることで、「画聖」と仰がれる雪舟への評価がいかにして形成されてきたのかを検証します。 桃山時代に雪舟の後継者を自称した雲谷派と長谷川派、雪舟画風を流派様式の礎とした江戸時代の狩野派はもとより、これら漢画系の画家とは異なる実にさまざまな画家たちが雪舟を慕い、その作品に学びながら、新しい絵画世界を切り開いていきました。
 一口に雪舟受容といってもそれ自体複雑な性質を孕み、多角的に把握すべきものです。その多様な雪舟受容を通して、
「画聖」雪舟誕生の過程を明らかにすることを目指します。

第1章 雪舟精髄
雪舟筆と伝わる作品は数多く残っていますが、誰もが間違いないと認める作品は多くはありません。 まずは、雪舟の代表作と呼び得る作品を通して、「画聖」の原点を確認します。 雪舟の名声は決してそれだけが独り歩きしたわけではなく、その源には優れた作品の存在がありました。 ことごとく国宝や重要文化財に指定されるこれらの作品は、雪舟に対する現在の高い評価をも示しています。

第2章 学ばれた雪舟
雪舟の代表作を一覧できるのは、現代であればこそ。 江戸時代には秘蔵され、容易に見ることのできなかったものもあります。 ここでは、近世においてよく知られ、それゆえに大きな影響力をもった作品をご紹介します。 現在では雪舟その人の作ではないと見なされるものも含まれますが、こうした作品を通して、近世の雪舟理解は深まり、その主題や様式が継承されてゆくのです。

第3章 雪舟流の継承―雲谷派と長谷川派―
雪舟は、秋月や宗淵、等春など多くの弟子を育てましたが、その画系は必ずしも長くは続かなかったようです。 そんな雪舟の画風を継承、再生させたのは、桃山時代に活躍した雲谷等顔(1547~1618)や長谷川等伯(1539~1610)でした。 彼らは雪舟に師事したわけではありませんが、その後継者を名乗り、雪舟画風を規範とする作品を数多く制作しました。 江戸時代には、この二人が雪舟正系を争ったという逸話も流布しました。

第4章 雪舟伝説の始まり―狩野派の果たした役割―
近世における雪舟神格化の動きに最も大きな役割を果たしたのは、狩野探幽(1602~1674)です。 探幽の画風は、狩野派のみならず江戸時代絵画全般の一つの共通基盤となりましたが、その探幽が自らの画風を形成するにあたり拠り所としたのが雪舟だったのです。 探幽をはじめとする江戸時代の狩野派作品を通して、雪舟作品の主題・様式が継承されてゆく様相を確認します。

第5章 江戸時代が見た雪舟
江戸時代には、現在知られているよりもずっと多くの「雪舟画」が流通していました。 もちろん、それらのすべてが雪舟の真筆であったわけではないでしょう。 しかし、現在では雪舟筆と認められていない作品や、所在が知られない作品 も、当時は雪舟画として受容され、画家像の形成に一役買っていたのです。 狩野派画家が残した縮図や模本を通して、江戸時代の人々にとっての雪舟画を探ります。

第6章 雪舟を語る言葉
雪舟は、作品そのものがもつ力だけでなく、さまざまな人々が雪舟について語る言葉、言説によって、いっそうその存在感を高めていきます。 特に作品の図様を含めた情報の伝播という点で、出版物の果たした役割はきわめて重要です。江戸時代、雪舟はどのように語られてきたのでしょうか。 ここでは、版本や手紙をはじめとする文字資料を中心に、その一端をご紹介します。

第7章 雪舟受容の拡大と多様化
雪舟の神格化に寄与したのは狩野派ばかりではありません。 雲谷派や長谷川派、狩野派のように、漢画(主に宋・元の中国絵画に学んだ絵画)をもっぱらとした画家だけでなく、江戸時代の多くの画家がさまざまな観点から雪舟を規範として仰ぎ、新たな絵画世界を切り開いていきました。 特に、江戸時代中期以降に拡大、多様化してゆく雪舟受容が、「画聖」雪舟という現在の評価へと確かに繋がっているのです。

『水墨画で著名な絵師といえば雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』
『狩野派が室町~江戸約400年の作品が国宝4点・重文37点に比べ凄い雪舟』
狩野派の内訳は、
狩野正信 国宝1点、重文 7点
    狩野元信      重文16点
    狩野永徳 国宝3点、重文 3点
    狩野山楽      重文11点

とにかく孤高の雪舟、狩野派集団、どちらも凄い。 日本は、日本人は凄い中で雪舟は群を抜く。 雪舟は『万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチに比肩される画聖雪舟等楊、日本美術史の草創期に唐絵からやまと絵へという画期を形成した時代を見直し、近世への幕開けを準備した』と言われています。

雪舟等楊(水墨画家、禅僧、1420年 - 1502年または1506年)と桂庵玄樹(臨済宗の僧侶、薩南学派、1427年 - 1508年)・らが随行した、『遣明使(遣隋使と遣唐使は知っていましたが)』についても、調べるため・知るために国会図書館通いが続きそうです。
(記事投稿日:2024/04/05、#736)
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『モーリス・ユトリロの作品は約6000点に及び、1909~14年頃の孤独な魂の発露―「白の時代」の評価が高い』

2023-10-09 11:34:30 | 絵画
『モーリス・ユトリロの作品は約6000点に及び、1909~14年頃の孤独な魂の発露―「白の時代」の評価が高い』

『「白の時代」はその名の通り、教会や小路など描いた白を基調とする画面からは、静謐さと、何とも言えない寂しさを感じられる』

『鮮烈な印象は、「エコール・ド・パリ悲劇の画家」世界一の売れっ子画家、私生活はアルコール依存と囚人生活だった!』

生誕140周年モーリス・ユトリロ展を閉幕直前に見てきました。 モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883/12/26 – 1955/11/05)は、近代のフランスの画家(エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人)。 生活環境に恵まれなかったが、アルコール依存症治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。 母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。 7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリリョに認知されて、「モーリス・ユトリロ」と改姓した。

エコール・ド・パリ
「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちを指す。

ボヘミアン
自由奔放な生活を追求することを指す。 そうした生き方を実践する者をボヘミアンと呼ぶ。

絵画のことはよくわかりませんが、写真と同様に『白』と『黒』の表現は難しいのでしょうか。 白人女性の中の美人は、他の人種と比べて美しいと感じ、白人女性の美人が、人類の完成形とまで言った人が居りました。 白人女性の白い肌・乳白色の肌を描いた画家も大勢おります。 ユトリロの人柄と作品の前に『白』を白人女性の肌で表現した絵画を調べてみました。

ウエブ情報の、世界の名画ランキング100選の中の白人「女性の裸婦」
ボッティチェリ『ヴィーナスの誕』
エドゥアール・マネ『草上の昼食』
アメデオ・モディリアーニ『裸婦』
ルーベンス『三美神』
ギュスターヴ・クールベ『画家のアトリエ』
ポール・セザンヌ『大水浴』

日本の名画『白人女性の裸婦』
藤田嗣治『乳白色の裸婦』
竹下夢二『西海岸の裸婦』

表題『ユトリロの「白の時代」はその名の通り、教会や小路など描いた白を基調とする画面からは、静謐さと、そして何とも言えない寂しさを感じる。』に戻ります。

パリのサン=セヴラン教会(1910-1912年頃)

 ウエブ情報から引用
厚紙に油彩というやや変わった組み合わせで製作したものです。 ユトリロはパリ市内の教会を多く描いているがキリスト教への信仰心は非常にあつかったと言われている。 『白壁』と『閉じられた窓』に徹底した遠近法に採用でこの作品には、定規とコンパスが使われたと言われています

遠近法
視覚芸術における遠近法(perspective)は、視覚的に遠近感を表現する手法の総称。 狭義には、遠近表現法のうち、平行線の収束を用いた透視図法(perspective drawing)を指す。

政治家の一部を筆頭に、『部分最適』で利私欲に走りがちな小利口な人間が多い、今の世相を想うと、世の中から『純粋さ・人間らしさ』が乏しくなっていること驚くと同時に、ユトリロの凄まじい『アルコール依存症』治療人生の中での約6000点の膨大な作品数を残したことに驚嘆しました。   
(記事投稿日:2023/10/09、#692)
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『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 3』—葛飾北斎の肉筆画に重文が二点がありました。 少しは納得―  

2023-06-07 08:03:15 | 絵画

『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 3』

『葛飾北斎の肉筆画に重文が二点がありました。 少しは納得』      

 先日(20200111)日経新聞土曜版『知っておこう国宝クイズ』、という記事掲載があり、このクイズ難しい順に並べてありました。 そのうちの、5位までを列記しました。

1位 国宝が多い都道府県は? 
① 東京 ②京都 ③奈良 (正解は①)

2位 国宝でないのは? 
① 羽黒山五重塔(山形) ②金閣寺(京都) ③富岡製糸場(群馬)(正解は②)

3位 国宝の総数は? 
① 1120 ②3280 ③1万3275 (正解は①)


4位 三十三間堂の千手観音坐像、実際の手の数は? 
① 33本 ②42本 ③109本 (正解は②) 

5位 国宝に指定された作品がないのは? 
① 雪舟 ②俵屋宗達  ③葛飾北斎 (正解は③)

水墨画家の雪舟は国宝作品が6点調べました)
『紙本墨画淡彩慧可断臂図』、 
『四季山水図巻』、 
『破墨山水図』、 
『秋冬山水図・冬』、 
『天橋立図』、 
『山水図 牧松周省・了庵桂悟賛』

俵屋宗達も国宝作品が3点(調べました)、
『紙本墨画蓮池水禽図』、
『風神雷神図屏風』、
『紙本金地著色源氏物語関屋及澪標図』 がある。

 一方、富嶽三十六景などの浮世絵を描き、国内外の画家に影響を与えた葛飾北斎の作品に国宝は無い。 実は、日本絵画の象徴的な存在である浮世絵には、重要文化財はあるものの国宝が1つもない。 浮世絵は複製が可能な版画が多いためだ。北斎の代表作『神奈川沖浪裏』も海外も含め本物が多数ある。

 北斎肉筆画については、ズブ素人の自分には、国宝級があるように思えます。 特に晩年の多くの傑作には。 ウェブ情報にはこう紹介されています。

 北斎は、多くのものをテーマに、生涯に三万点を超える作品を発表したと言われています。 若い時から様々な絵を描くことに意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出した作品を残しています。

 北斎の業績は、浮世絵の中でまさに巨大な高峰でしたが、達者な描写力、速筆は『北斎漫画』の中にも見ることができます。

 さらに、読本や挿絵芸術にも進出し、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表し、毛筆による形態描出に敏腕を奮うなど、絵画技術の普及や庶民教育にも多大な貢献をしました。
 
また世界的にも高名な画家であり、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家やドビュッシーなどの音楽家にも影響を与え、西洋世界への影響力は計り知れません。

 ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵なども研究し、また油絵に対しても関心を寄せましたが、遂に果たせませんでした。もし油絵を描いていたらどのような作品ができたのか、大変興味深いことです。

 一九九九年には、アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の企画「この千年で最も重要な功績を残した世界の人物百人」で、日本人としてただ一人、八十六位にランクインしました。

 肉筆浮世絵は、決して浮世絵版画の下絵や原画では無く、また版画の上に筆で、彩色した絵でもありません。

この本『北斎肉質画大全』には、北斎の肉筆画一六八作品(一八九点)を以下のように時系列に分類し、収録しています。

第一章、春朗期の作品   二作品、
 習作の時代 
  一七七九年から一七九四年 
  北斎二十歳から三十五歳

第二章、宗理期の作品   四十作品
 宗理様式の展開の時代 
  一七九四年から一八〇四年 
  北斎 三十五歳から四十五歳

第三章、北斎期の作品   四十四作品
 読本挿画に傾注した時代 
  一八〇四年から一八一一年  
  北斎四十五歳から五十二歳

第四章、戴斗期の作品   十五作品
 多彩な絵手本の時代 
  一八一二年から一八一九年
  北斎 五十三歳から六十歳

第五章、為一期の作品   二十二作品
 錦絵の時代
  一八二〇年から一八三三年
  北斎 六十一歳から七十四歳

第六章、画狂老人卍期の作品  四十五作品
 最晩年
  一八三四年から一八四九年
  北斎 七十五歳から九十歳

さらに、葛飾北斎の肉筆画を所蔵する美術館は、

● 隅田川両岸景色図巻 他     すみだ北斎美術館(東京都) 
● 鯉図              群馬県立近代美術館(群馬県)
● 井出の玉川           千葉市美術館(千葉県)
● 春秋美人図 双幅        出光美術館(東京都)
● 夏粧美人図           東京藝術大学大学美術館(東京都)
● 獅子図             東京国立博物館(東京都)
● 見立三番叟、雨中の虎      太田記念美術館(東京都)
● 西瓜図             宮内庁三の丸尚蔵館(東京都)
● 萩の玉川図           板橋区立美術館(東京都)
● 酔余美人図※寄託品       鎌倉国宝館(神奈川県)
● 二美人図 ※重文        MOA美術館(静岡県) 

ウエブ情報から引用


● 鬼図              佐野美術館(静岡県)
● 祭屋台天井絵 他        北斎館(長野県)
● 夜鷹図             細見美術館(京都府)
● 潮干狩図            大阪市立美術館(大阪府)
● 巌頭鵜図 ※重文        林原美術館(岡山)

ウエブ情報から引用

熱海市のMOA美術館で見ました『二美人図』とにかくよかったです。 葛飾北斎の肉筆画に重文が二点がありました。 少しは納得です。

繰り返しになりますが、葛飾北斎について、ウェブ情報です。
 葛飾北斎は、宝暦十年(一七六〇年)に武蔵国葛飾郡本所割下水に、貧しい百姓の子として生まれました。 嘉永二年(一八四九年)に八十八歳で没しています。当時としてはかなりの高齢ですが、それでも画業を全うしたい北斎にとっては短すぎたようです。

 肉筆画とは、肉筆浮世絵とも言い、江戸時代に成立した浮世絵のジャンルのひとつです。通常、錦絵と呼ばれる浮世絵版画と区別して、浮世絵師が自らの筆で直接絵絹や紙に描いた浮世絵を指す美術用語です。
 
浮世絵といえば版画を指すのが一般化したため、浮世絵版画との区別をより明確にするために肉筆浮世絵というようになりました。したがって肉筆浮世絵は、決して浮世絵版画の下絵や原画では無く、また版画の上に筆で彩色した絵でもありません。

まだまだ、葛飾北斎は、調べ甲斐のある巨人です。
  (記事投稿日:2020/01/15 、#142)

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