知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『果物の不思議 2(一本の木に、数種類のミカンがなる』ーダイダイは子孫繁栄の「代々に」につながるからでしょうか、高枝接ぎ!ー

2019-01-13 21:34:58 | 植物・花

『果物の不思議 2(一本の木に。数種類のミカンがなる、)』

  『ダイダイは子孫繁栄の「代々に」につながるからでしょうか、高枝接ぎ!』

 

 最近の新規開拓の散歩ルートで見つけました。一本の木に4種類のミカンが

実っていました。 散歩の途中で休憩中の近所のご年配の方に伺ってみると、

この方、耳がご不自由なようでしたので、大きな声で『ミカン…』と言うと

5種類実っていますよ、とのお答えでしたが、今年は4種類でした。

『果物の不思議 2(一本の木に。数種類のミカンがなる、)』

 

  この4種類については、柚子と橙以外は、まだ確認がとれておりませんが、

機会を見つけて、ご本人に伺ってみたいと思っています。これは成長した

台木に『高接ぎ』する方法で昔からあるそうで不勉強でした。 高接ぎ後、

長年経過しているようですが、果実には。台木の影響が出てないようです。 

さて味はと疑問も残ります。           

(記事投稿日:20170106、最終更新日:20190113、#058)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『山は美しい 1(海上・洋上の山はもっと行きたかった 1)』ー登ったのは、大島三原山758m、香港ランタオ島鳳凰山934ⅿくらいー

2019-01-12 23:23:47 | 山・山岳

『山は美しい 1(海上・洋上の山はもっと行きたかった 1)』

ー登ったのは、大島三原山758m、香港ランタオ島鳳凰山934ⅿくらいー

 

寒い冬にはよく思い出すのが、海上・洋上の山ですが、残念ながら殆ど、海上・洋上の山らしい山には登ったことがありません。 ハイキングで行ったことがあるのは、大島三原山(標高758)・香港ランタオ島鳳凰山(934ⅿ)くらいです。 小島の岩塔は、自分には、ロッククライミング対象になります。

 

(↓)大島三原山:砂砂漠・岩石砂漠・礫砂漠を経験できるハイキングコース。

ウキペデイアから引用

 

(↓)香港ランタオ島,鳳凰山:標高934mのピーク、堂々たる山脈に見えます。 

因みに香港の最高峰は、大帽山(タイモウシャン)標高957mです。

ウキペデイアから引用

海の大好きな、昔、半人前のロッククライマーであった自分が、どうしても、登樊したかった海上・洋上の魅力ある岩峰に次の二つあります。

 

(↓)タヒチ、モーレア島のモウアロア(バリハイ山、海抜761ⅿ、岩塔は300ⅿ余)

ウキペデイアから引用

モーレア島の二つの大きな湾の一つ、オプノフ湾のちょうど正面にあり、客船などでモーレア島に到着すると目の前に現われる。 キャプテンクックが到着したのがそのオプノフ湾ですので、彼もその山の形を見ているはずです。

 ミュージカル映画の名作「南太平洋」の舞台タヒチ。 映画で歌われた「バリハイ」のシーンが思い起こされます。 画家ゴーギャンがその姿を称えたモーレア島のバリハイ山は、映画のモデルにもなりました。

 

 (↓)ボラボラ島フランス領ポリネシアソシエテ諸島オテマヌ(標高727m、岩塔は250ⅿ余)。

ウキペデイアから引用 

「太平洋の真珠」と呼ばれるほど、フランス領ポリネシアの中でも最も美しいとされる。 そのためフランス領ポリネシアに旅行する観光客の多くがボラボラ島を訪れる。 島の中央にオテマヌ山がそびえ、周辺のモツ(タヒチ語で「島・小島」の意。 珊瑚礁による岩礁)からその姿を一望できる。

 

南の国々には、ロッククライマーは見かけられず、これらの島々を訪れるハイカーも岩塔・岸壁登樊はされないようです。 もったいない、将に、宝の持ち腐れです。

                 (記事投稿日:2019/01/12、#054)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『同い年の天才絵師・若冲と蕪村、両雄は並び立っていた』ー特筆すべきは、京都の四条烏森では近所に住んでいたが交流はなかったようー

2019-01-11 14:02:44 | 絵画

『同い年の天才絵師・若冲と蕪村、両雄は並び立っていた』

ー特筆すべきは、京都の四条烏森では近所に住んでいたが交流はなかったようー

  極寒の季節に、なるといつも,蕪村の作品『鳶・鴉双幅』を思い出します。 3年前、生誕300年を記念してサントリ―美術館に於いて開催された、『同い年の天才絵師「若冲と蕪村」展』を鑑賞したことがありました。  

  日経新聞文化欄に与謝蕪村の『鳶・鴉双幅』が紹介されていました。 蕪村について調べていると、なんと凡人にとっては、作風・画風も経歴も異なる二人の作品が同時に見られたことにも驚きました。

 

与謝蕪村筆 双幅、重要文化財 "鳶・鴉図" (とび・からすず)

 

  先ずは、文化欄に載った蕪村の作品『鳶・鴉双幅』の解説です。自分も写真を撮りますが、撮るときに『キャプションやタイトル』を瞬時に、又は、少し待てるときは、時間をかけて、思いめぐらしますが、この絵の解説には、感動します。 写真には、組写真、二枚以上数十枚までがありますが、この作品、『双幅』はやはり東洋的です。 この解説は、後世の方々の想像と思いますが、『双幅』が組・対比の絵ですので、やはり素人感ですが下記に『同感』です。

 

 

双幅の『鳶一羽』

自分以外には頼らず、おのれの影の中にうずくまりながら、その身軽さを限界まで活用し、あらゆる不幸や悲劇に真っ向から挑む、凛々しくも厳しい道。

 

双幅の『鴉二羽』

運命共同体たる連れ合いと共に、ひた寄り添うことで発生するぬくもりを最大限に生かして、吹き荒れる寒風をやり過ごす、いかにも生き物らしい道。

 

余談です。

  自らを振り返ると、若気の至りで、若いときは『鳶』願望、今は、老いて『二羽の鴉』願望です。 生涯連れ添う一夫一婦制の野鳥は、「タンチョウ(ツル)」、「ハクトウワシ」、「アホウドリ」などです。 「クロコンドル」は、浮気を絶対に許さない鳥だそうです。 これ以上に仲の良いヒヨドリがいます。 ヒヨドリは捕食、巣作り、子育てはいつも一緒です。 仲の良い代表の野鳥は、『オシドリ夫婦』と言われるが実際は違うようです。

 

蕪村は、

  日本文化の歴史のなかでも、稀に見る多面的な才能を発揮した人物として、 広く知られています。 俳人としても松尾芭蕉・小林一茶と共に近世俳諧史で著名。 画人としても同時代の池大雅や丸山応挙と並び称せられる巨匠。

 

  生い立ちは1718歳の頃、早野(宋阿)巴人に師事し俳諧を学んだ。 27歳の時に、師・巴人の死にあい、江戸を去り、下総結城・下館に逗留する。 その後は尊敬する芭蕉の足跡をたどって、東北・松島あたりを旅した。 

 

  36歳の時の秋、十年近い放浪生活を切り上げ、京都に上り、古社寺に所有される障壁画や、中国・日本の古典絵画等、本格的絵画作品にふれ、直に学習する機会を得た。 

 

   絵画は独学のようです。 第一番目の驚き。 国宝(十弁十宜図)は池大雅との合作です。 第二番目の驚きは、大雅が国宝(十弁帖)、蕪村が国宝(十宜帖)を描く。 川端康成が家購入をあきらめての収集で有名。第三番目の驚きは、天が二物を与えた最高度の二刀流です。文武両道はよくありますが。

 

「象と鯨図屏風」 伊藤若冲

若冲は

  当時では初老、40歳で1755年に隠居して、絵を描き始め、1759年に鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画を、1964年には金刀比羅宮奥書院襖絵を描く。

  作風は、若冲が狩野派の画家・大岡春卜に師事したとの記録が『続諸家人物志』にあります。明治以降、短期間ではあるが、一般には忘れられがちな時期もあったが、1990年代後半以降、その超絶した技巧や奇抜な構図が再評価され、特にアメリカ人収集家ジョー・プライスのコレクションにより飛躍的にその知名度と人気を高めている。

(20160116纏め、20190111改 #053)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本の城郭 1(日本の城郭の中で一番人気の安土城・五重七層の天主閣)』ー信長は日本初の天守閣を天主閣と呼び、そこに居住したただ一人の戦国大名ー

2019-01-01 10:12:24 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 1(日本の城郭の中で一番人気の安土城・五重七層の天主閣)』

ー信長は日本初の天守閣を天主閣と呼び、そこに居住したただ一人の戦国大名ー

 

 標高199mの安土山に織田信長が天正4年(1576年)正月に天下布武構想に燃え着工。 本格的な石垣の山城で、且つ高層天守も我が国、城郭史上初めて。  城内の石垣は、観音寺山(標高433m山麓からの陸運)、長命寺山(長命寺川と西の湖の水運)、長光寺山(陸運)等から引き出して、急勾配の標高差130m余の安土山へ。

   天正7年(1579年)には竣工。五層七重の絢爛豪華な天守閣に移り住んだ。  廃城は着工から10年後の天正13年(1585年)。 この天守閣だけが、天主閣(課題① この呼称は何故)と呼ばれる。(天守も天主も同義に扱われてもいる場合もあり、清州城も天主の呼称)。

  主跡の中央には礎石がなく、中央部分は地階から4階まで「吹き抜け」説、従来から日本建築史の謎であった、「安土天主」「天主指図」、は天主の平面図と断定されている。 この図面には「天主」とある。  建物の「吹き抜け」は、明治の本格的な西洋建築導入まで、この呼称と構造は、日本史にはない。

  吹き抜け構造(課題② 西洋の明り取りLighting Well、中国の風水、熱田大山の山車の構造の影響か更に。 この大手道だけが、約180m直線(課題③ 何故)写真参照。  大手門、大手道周辺は京の都城の空間を持ち込んだもので、目的は「行幸対応」説。  実現できなかった、計画された2回の行幸の中身は不明。

  信長は、城郭に頼る戦いは、考えてもいなかった。 従って、「行幸対応」の直線で十分であったのか。  本能寺の警護しかり、城郭には頼らない。 行幸御殿の有無の討論は不要が定説。 本丸は、安土山の肩に建てられ礎石上の柱痕から高床構造(課題④ 行幸対応だから高床構造か)であった。 信長は、この時期には伝統的権威の温存と利用は。十分考えていた。 自分が権威になると考え始めていたのか。(課題⑤ 狙いは皇帝か)。 

  信長は、領土の急拡大もあったが、成長と共に居城を変えた奇妙な習癖があった。 信長は、守りに堅固な城郭に頼らないが、高いところの居住好み。

1548年 最初は、父信秀から継いだ、末森城(天守構造なし)

1555年 本家から奪った清州城(天主閣) これが海抜0mにあり、水害恐怖症に

1563年 標高85mの小牧山に中途半端な山城(天守閣) 

1567年 標高329mの稲葉山に岐阜城(天守閣)

1579年 標高199mに安土山に安土城(天主閣)、この後に,信長生前の構想

大阪本願寺後への新城の築城構想(課題⑥ 構想は事実か)

 

信長は、岐阜城の天守閣、安土城の天主閣に居住した稀有の武将(一般的には、天守閣は日常生活の居住には使われていない。 天正3年(1975)暮れには、家督を嫡子、信忠に戦国大名の地位を譲り、自分は天下人になった。

天正10(1582)6月2日「本能寺の変」で自刃。享年49歳。

             (記事投稿日:2019/01/01、#049)          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする