知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『スーパースター、ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優 1』ーブルース・リーは、ノラ・ミャオ、ベティ・ティン・ペイどちらも愛したー

2022-07-29 06:28:56 | 映画

『スーパースター、ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優  1』

『ブルース・リーは、ノラ・ミャオ、ベティ・ティン・ペイどちらも愛した』

 

『なんでも』ランキング付けをするご時世です。 武術白書どん底から世界大会優勝に至った武術家―の記事を見つけました。 今回のテーマのブルース・リーが11に、木村政彦が12とありました。 先ずは自分が木村政彦を最強と信じている理由の『記録とエピソード』です。

記録、木村政彦は、戦争を挟んで日本選手権13連勝で15年間無敗という成績で、あったが、このレジェンドを講道館は七段以上には昇段させなかった。

エピソード、『木村政彦の指導・練習稽古は、厳しく、特に、大外刈りは、失神者もよくでて、警視庁にも、講道館にも練習、相手がいなくなり脱臼者も続出するので、警視庁、講道館でもこの大外刈りは禁止された』と。  この大外刈りを使えない状況で、まともな実践的練習はできるのでしょうか、素人は考えてしまいます。 木村政彦は、身長170センチ、体重85キロと中肉中背。

ブルース・リーは、木村政彦を格闘技界から引退に追い込んだ力道山(格闘家・興行主で大成功)に似て、幅広く実績(格闘家、俳優、脚本家、映画プロデューサー)を残したスーパースターでした。

 

ブルース・リー(中国語: 李小龍、出生名: 李振藩、英語: Bruce Lee 19401127 - 1973720日)は、香港の中国武術家、武道家、俳優、脚本家、映画プロデューサーです。 截拳道(ジークンドー)を創始したマーシャルアーティストとしても知られている。 ブルース・リーは身長163172cm、体重5762kg程度と諸説あり、本人も映画会社も公表を避けた感があります。(自分の若いころの、身長・体重は、ブルース・リーの両方の上限値と、同じで親近感が持てた。) ブルース・リーは、モテモテのムービースターだけではなく、格闘技家でもあったこと 華やかな話題や、痛快な話題を残して、32歳で夭逝しています。 

 

先ずは、ブルース・リーの微笑ましいエピソードです。香港で人気絶頂であったブルース・リーの豪邸は、高い塀に囲まれて、電子防犯装置が据え付けられ、さらに、ドーベルマンを二頭で護られていました。 子供たちの質問は『世界一の武術家、武道家なのになぜ、このようなガードが必要?』と質問、当時の雑誌には、ブルース・リーの回答は載っていませんでした。

 

木村政彦ですが、ブルース・リーの華やかさとは、随分違った生涯をおくった柔道家・格闘家です。 木村政彦は愛妻家で76年の生涯を終わっています。 奥様の結核治療のストレプトマイシンを、アメリカから輸入(当時は個人的に輸入)するお金のために、プロ柔道を立ち上げ、そして失敗・解散から、プロレスへ、 戦争を挟んで13連勝したにも拘らず日本柔道界からも去りました。

この二人の『強さ』比較は、今後の楽しみな課題です。

さて本題の『ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優』に入ります。 実は、今回、ブルース・リーの華やかな話題を思い出したと同時に、『ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優』について、一部の自分自身の誤解を解こうと思いついたからです。 昔、香港に駐在していた頃に、よく先輩と香港ヒルトンホテルロビーの『ドラゴンボートバー』で週23回、ハッピーアワーの『ブランデーの水割り(香港ではアメリカンと呼ばれ非常識ではなかった)』を楽しんでおりました。 そんな時、ロビーに入ってきた女優が今回の『ブルース・リーの愛した女優・ベティ・ティン・ペイ(丁珮)』でした。 先輩曰く『ブルース・リーは彼女のマンションで亡くなった・・・』と、この香港の噂スズメの話(表現はもっとタブロイド判の記事まがいであった)をまた聞きして以来、ベティ・ティン・ペイ(丁珮)の印象は、『ブルース・リーが惚れた女優・ノラ・ミャオ(苗可秀)』とは正反対の肉体派女優を想像していました。

 ここで『ブルース・リーが惚れた女優』のウエブ情報です。

ノラ・ミャオ(苗可秀、Nora Miao 、1952年28 - )は、香港出身の女優・司会者。本名は陳詠嫻。 芸名の由来は、映画会社の社長・金康が「苗が成長し、秀でる 苗可秀」と名付けたことから。 苗は所属していたゴールデンハーベス・ハーベストの「ハーベスト」を、中国語に訳した「芽」から肖っている。

ドラゴンシリーズの第一作1971年『ドラゴン危機一髪』の相手役の女優:マリア・イーだが、この映画に、ノラ・ミャオがチョイ役(道端の屋台でジュースを売る)で出た。

第二作1972年『ドラゴン怒りの鉄拳』の相手役の女優:ノラ・ミャオ(キスシーンがあったがこの作品以降はなし)

 この作品のノラ・ミャオ

 ウエブ情報(ノラ・ミャオの画像)から

第三作1972年『ドラゴンへの道』の相手役の女優:ノラ・ミャオ

第四作1973年『燃えよドラゴン』共演女優なし。 実質的には最後の映画作品。

ノラ・ミャオは、1974年にゴールデンハーベストから独立し、フリーランスの女優として香港・台湾の双方の映画・テレビドラマに出演し、1970年代後半には司会業にも進出した。

司会業当時のノラ・ミャオ

 エブ情報(ノラ・ミャオの画像)から

さて、香港の噂ツバメの噂で誤解していた、『ブルース・リーが愛した女優、ベティ・ティン・ペイ』ウエブ情報です

ベティ・ティン・ペイ(丁珮)ブルース・リーが死の直前に関わった女優。

1945年生まれ。 台湾の裕福な家庭に育ち、国立芸術専門学校を経て女優となる。 しかしスターとして成功する直前、愛人と噂されていたブルース・リー(李小龍)が彼女のマンションで倒れ、そのまま死去した事により、スキャンダル女優として世間に名前をとどろかせてしまった。 事件後、非難が集中したため一時期間身を隠していたが、『実録ブルース・リーの死』という彼女原案の作品に、ベティ本人の役で出演。 この作品が物議をかもし、その結果として香港映画界にいられなくなり、台湾に戻る。
台湾で女優として活動し、80年代前半まで女優業は続けたが、結局はスキャンダル女優のイメージは拭えず、引退して仏門に入った。

 ウエブ情報(ベティ・ティン・ペイの画像)の引用

その後の『ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優』二人は、各々の人生を過ごしております。情報が今ほど氾濫していなかった半世紀も昔でさえ、香港の噂ツバメを過信していました。 これからはネット情報には十分吟味していきたいと思っています。

香港駐在中は、広東語の勉強は言い訳で、当時のスーパーアクションスター、ブルース・リー(李小龍)の映画は、よく見ました。 字幕スーパーは北京語・国語ですので、語学研修には最高でした。 

 (記事投稿日:2019/09/15、最終更新日2022/07/29、 #118)


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