知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『卑弥呼は邪馬台国を支配し、中国皇帝から認められた「倭国の王」』 『卑弥呼と邪馬台国の理解には、縄文時代1万年の文化と芸術の理解が必要!』

2023-04-15 11:14:29 | 歴史・日本・古代

『卑弥呼は邪馬台国を支配し、中国皇帝から認められた「倭国の王」』

『卑弥呼と邪馬台国に関する記録もお墓も、日本では全く見つかっていない!』

『卑弥呼と邪馬台国の理解には、縄文時代1万年の文化と芸術の理解が必要!』

 

卑弥呼・邪馬台国よりずっと大昔の、縄文時代は、紀元前1万3千年ころから約1万年以上もの長い間続きました。 さらに、ユネスコ第44回世界遺産委員会は 7月27日、「北海道・北東北の縄文遺跡群」について、

 

  1. 人類史上まれな農耕以前の定住社会と豊かな精神文化が育まれていたことの物証であること
  2. 長期間にわたり継続した採集・漁労・狩猟を基盤とした定住社会の変遷を網羅していること

 

などを評価し、世界遺産への登録を決定。 日本では25件目の世界遺産に、文化遺産としては20件目となった。

 

それに反して、卑弥呼・邪馬台国については、卑弥呼(ひみこ、生年不明 – 242年~248年)は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている倭国の女王で、邪馬台国に都をおいていたとされる。 諱(いなみ・生前の実名)は不明で、封号は親魏倭王。 とあり、日本には記録がなく、中国にあることが、日本歴史の不思議です。

 

田中英道氏の著書『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』関連情報の抜粋・引用です。 縄文人とそのルーツを調べれば『卑弥呼・邪馬台国』が見えてくるかもしれません。 楽しみが増えました。

ウエブ情報の引用

戦後、日本文化が朝鮮、中国文化から来た、という考え方を研究者に植えつけられ、秦氏は新羅出身であるとか、中国からやって来たと、一般に考えられているが、そうではないのです。 なぜDNA鑑定で、日本人がユダヤ人に近いD2があるのか。 それがユダヤ人埴輪の存在で、初めて跡付けられました。 どうして日本人と朝鮮、中国の文化とが異なるのか、わかったのです。

 

卑弥呼の“謎”

中国の歴史書『魏志倭人伝』に記された、日本史初の女王・卑弥呼、『邪馬台国』を支配し、中国皇帝からも認められた『倭国の王』である。 しかし不可解なことに、卑弥呼に関する記録も、お墓も、日本では全く見つかっていない。


一国を支配するほどの権力者であれば、死後、地域の神社で祀られるのが普通だが、日本各地の神社にも、遺跡にも、卑弥呼が存在した痕跡が一切見当たらないのだ…(*日本では、聖徳太子や菅原道真、平将門など、国を直接治めていない偉人でさえも、鎮魂の祈りをささげるため、神社がつくられてきた伝統がある)

 

また、“邪馬台国の人々の顔や身体には刺青がある”と『魏志倭人伝』には書かれているが、当時の遺跡や遺物をいくら調べてみても、刺青をしているような痕跡はほとんど確認されていない…。

 

ちなみに、著者の陳寿という中国人は、実は日本に来たことはなく、伝聞のみ。つまり“フィクション小説”として、この作品を記したようだが…。 一体、卑弥呼とは何者だったのか? 本当に邪馬台国は存在していたのだろうか?

 

「君が代」「ソーラン節」「相撲」など…実は、ユダヤ人の言語と日本語には、似たような共通点が多数存在。 伝統・習慣でも類似点があるなど、両者には何らかの関係性があると見ることもできる。 果たして、遥か昔、ユダヤ人は日本にやってきていたのだろうか? 

 

日本人の起源の“謎”

近年、最新のDNA分析によって、日本人のルーツとされる縄文人のDNAが、周辺アジアの民族とは“ほとんど一致しない”という事実が明らかにされた。


これまでの通説では、中国・朝鮮・東南アジアのいずれかの民族が縄文人の起源と考えられていたが、それらとは全く異なるタイプの民族が、すでに日本に存在していたことがわかったのだ…。

 

では、いったい縄文人とは何者だったのか? そして、われわれ日本人の祖先はどこからやって来て、どのような変化を遂げてきたのか?

古代史に残された数々の謎…。

 

それらを解き明かす“鍵”とは…。

これらの謎の答えは、従来の歴史教科書や、文献だけに頼る研究からは決して見つかりません。 日本の古代史に残された「謎」の数々。それらを解き明かす鍵とはいったい何なのか?…。

 

「西洋美術史研究の第一人者」と呼ばれ、50年以上、歴史研究の最前線で 評価を受ける田中教授は、こう語ります…。

 

教科書では、縄文から弥生時代まで、日本人は原始的な生活を営んでいた。そこに大陸や朝鮮半島から稲作や文化が伝えられ、日本はようやく発展の糸口をつかみ、日本という国家が形成された。という歴史だけが当たり前のように教えられています。 

 

しかし、文献だけに頼る従来の研究ではなく、先人たちが残した文化遺産に光を当てると… われわれがこれまで信じさせられてきたのとは全く違う。 壮大なストーリーが見えてきます

 

元来、日本という国は外敵がやってこない島国であり、「信頼」を土台に共同体をつくってきました。 よって、絶えず民族が移動し、争いごとの絶えない西洋や大陸とは違い、文字を必要としなかったのです。 よって、当時の先人たちの生活ぶりや、思いを読み取るには、神社や文化遺産といった形あるものの解読が必須になってくるです。

 

多くの学者は、文献だけに頼ることにより、この大切なポイントを見落としてしまいます。さらに残念なことに、美術の知識がないため、いざ実物を目にしても、そこから何を読み取ればいいのか?がわからないのです。

 

「日本には文明がなかった」・・そう言われることがありますが、それはありえません。 遺跡を紐解けば、日本最初の国家「ヤマト政権」よりも、卑弥呼がいたとされる時代よりも遥か昔から、日本では高度な文明が栄えていた。 その中心は、関東・東北であり、そこには大きな“国”があったのです…。

 

田中英道氏の著書『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』に対するご意見、ウエブ情報の抜粋・引用です

著者は美術史家にして日本古代研究家とでも言えばいいのだろうか。 一見、トンデモ本のようにも思えるが、丹念に資料を追い積み重ねた考察でもあるようだ。 DNAを分析すれば日本人の多くは支那大陸、朝鮮半島の人々と異なりむしろユダヤ系であるという最新科学のDATAの提示もある。 その上で帽子を被り、美豆良を持つ埴輪はユダヤ人の伝統的主張の姿と一致すると言われればなるほどとも思える。 夢あって面白い。

 

この表紙写真の人物埴輪が、著者曰くユダヤ人を模したものだという。 著者曰くユダヤ人が古代に大量に押し寄せ、関東に定住し後に西日本へ移動して秦氏になったという。 秦氏は景教(キリスト教ネストウリウス派)であってユダヤ教徒ではないと思うのだが 最初に人物埴輪=ユダヤ人という前提で議論を進めているから史料読解も全部そう思えてくるのだ。トンデモ本によくあるケースだ。 ユダヤ人と日本人のDNAが近いということが書かれているが、だからといってユダヤ人が古代日本に来た証拠にはならないだろう。 まぁ「物語」としては面白いか。

 

日本古代史の『邪馬台国』と『出雲王朝』はまだまだ発掘と解明の夢があるのではないでしょうか。

(記事投稿日:2023/04/15、#646)

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