知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『塔(継承と改革の匠の精神) 2(金閣寺に110mの七重塔が!』 『従来、アジアの塔は、仏舎利(釈迦 の遺骨)を納めるため!』

2021-11-28 09:16:29 | 寺院・仏閣・神社・お社

         『塔(継承と改革の匠の精神) 2(金閣寺に110mの七重塔が!』

『従来、アジアの塔は、仏舎利(釈迦 の遺骨)を納めるため!』

 

塔は、接地面積に比較して著しく高い構造物のことである。  日本語の「塔」は、もともと 仏教 の構造物である仏塔を意味していたが、現代では様々な比較的高い構造物(塔状構造物)に対しても使用されており、厳密な定義が存在するわけではない。

 

梅原猛氏の『塔』を読んで以来『塔』は、

エジプトのピラミッドは、太陽に近づこうと、

西欧のゴシック建築は、神に近づこうと、

アジアの塔は、仏舎利(釈迦 の遺骨)を納めようと、

『ところ変われば、・・・』と思っていました。

 

北山大塔の原形ともされる相国寺七重塔の復元図

ウェブ情報から引用

七重塔は、仏塔の形式の一つ。 層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔のうち、七重の屋根を持つものを指す。 日本では、近世までに建造された大型木造七重塔で現存するものは無いと言われています。

 

ウェブ情報にありました。 先ずは『木造城郭寿命は数百年!』の余談です。 『今、名古屋市長のリーダーシップの下、「木造・名古屋城再建」の話が具体化している。 400億円の予算が500億円を超えても「ヤル!」と、名古屋城は米軍空襲(1945年⇔築城1610年)で全焼するまで存在したのだから、復元資料もタップリ有る。 観光の目玉が乏しい名古屋にとって、そのシンボルになるのだろう。 


焦っているのは大阪だ。 太閤様のお城は今の鉄筋コンクリートの大阪城の「3倍は巨大だった」と言われても、その「太閤様の大阪城」の資料は殆ど無く、木造再建は甚だ困難だ。 その内に「木造・名古屋城再建」が果たされ、観光客も押し寄せるとなると、すぐ西には「国宝・姫路城」があるだけに、「鉄筋コンクリートの、貧相な大阪城」なんか、誰も行かなくなる。 さぁどうする大阪?


表題に戻ります。 『金閣寺に高さ約110mの七重塔があった!』には驚きました。 日本の名だたるリーダーは凄かったです。 東大寺正倉院に収蔵されている天下の香木=蘭奢待(らんじゃたい)の一部を切り取ったのは、織田信長・明治天皇の他には、足利義満だけで、『権力の絶頂に居た証』でもある。 金閣寺(北山殿)周辺に、日本史上最も高い110mの七重の塔が有っても不思議ではない。 歴史ロマンには胸が躍ります。


産経WESTから、記事です。 塔信奉者にはたまらないニュースでしたので今後の調査継続のために備忘録に残しました。

  • 「金閣寺に高さ約110mの七重塔があった!!」 破片発見 史上最も高い木造建築物
  • 「室町幕府3代将軍、足利義満が晩年を過ごした『北山殿』跡(後の金閣寺=京都市北区)から塔の先端部『相輪(そうりん)』の一部とされる青銅製の破片が出土し、京都市考古資料館が発表した」
  • 「約110mの木造の塔とされる『北山大塔』の一部の可能性が高いという。 これまで北山大塔の存在は一部の文献に記されているだけで、実際に遺物が見つかったのは今回が初めて。同資料館は『北山大塔の存在を裏付けた価値は高い』としている」
  • 「現存する最も高い木造建築物は、東寺の五重塔(55m)だが、北山大塔は相国寺七重塔と並んで日本史上最も高い木造建築物とされている」

 

相国寺七重塔

足利義満によって1399年に建てられた七重大塔は、1403年に落雷で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1ⅿ(360尺)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。 1914年の日立鉱山の大煙突(高さ155.7m)竣工までのおよそ515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られなかった。 七重大塔は北山山荘(現・鹿苑寺)内に塔を移して再建された(北山大塔)が、義満の没後の1416年に再び落雷で焼失した。 その後、足利義持の意向で相国寺の元の場所にて再建されたのが3代目の塔であるが、1470年にまたもや落雷で焼失している。

 

  • 「寺院施設の改築に伴って昨年5月から昨年7月にかけて境内の北東角、約450平方㍍で行われた調査で見つかった。 15世紀初頭の溝跡から最大幅37cm、最大高25㎝など数点の青銅製の破片が出土したという。 形から塔の先端の相輪の一部『宝輪』と判明。復元すると直径約4mになる。成分分析では、表面には金メッキが施されていたことも確認された」
  • 「出土した年代や大きさなどから、義満が、禅宗寺院・相国寺に築いた高さ110mの七重塔が落雷で焼失した翌年の1404年、自分の別荘の北山殿に再び建てようとした同規模の北山大塔の可能性が高いという」
  • 「当時の貴族の日記によると北山大塔は同年4月に起工式を行い、応永?年に落雷で焼失したとされるが、一部の専門家は未完成だったと指摘。 塔の存在も疑われてきたが、同資料館は『詳細な場所や塔の規模、構造の特定は難しいが、きらびやかで壮大な塔の存在は裏付けられた』と話している」
  • 「今谷明・帝京大教授(日本中世史)の話 『絶対的権力を手に入れた専制君主にふさわしい。 政治だけでなく、仏教の儀式を行った北山殿を仏教の一大聖地にしようとした義満の意図が読み取れる興味ある発見だ』」・・・

 

比類なき財力で建設

義満は、北山大塔は相国寺七重塔が落雷で焼失した翌年の1404年から建設を始まったと記録があり、「その財力は相当なもの。 日明貿易の成功が大きかった」と指摘される。 義満は南北朝の戦いで疲弊した朝廷の合一に尽力。 その権力は上皇、天皇を突き抜け、過去に例のない位置までのぼりつめた状況だったという。

 

新都心のシンボル
調査では、塔が立っていた場所などは分からなかったが、出土を発表した京都市考古資料館の前田義明館長は「塔は、そんなに遠くない場所にあったことは間違いない」と。

足利幕府と寺院の関係について研究を行っている池坊総務所池坊中央研究所の細川武稔さんは、義満は北山殿周辺に新都心を建設しようとしていたと指摘。街の中心を通る南北道の先に塔があったと想定し「真っすぐに延びた道の先に建つ姿は壮麗だったに違いない」と思いをはせた。

 

祭祀王としてアピール
足利義満はなぜ、これほどまでにタワー建設にこだわったのだろうか。 「父、義詮の菩提を弔うのが第一としつつ、金色に輝く金閣と合わせてシンボルにしたかったのでは」言われる。
 

また、義満は北山殿で政務を行うと同時に朝廷顔負けの宗教儀式を重ねていたという記録も残る。 今谷明・帝京大教授(日本中世史)は「国内外に朝廷以上の国王として、また祭祀王としての自分を強烈にアピールしたかったのだろう」と話していた。

 

『塔』への興味はまだまだ続きます。

  (記事投稿日:2021/11/28、#434)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『この国は、英国・イギリス・UKといろいろな呼び方がありますが』 「正式名称は、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」

2021-11-28 08:38:29 | 外国

『この国は、英国・イギリス・UKといろいろな呼び方がありますが』

「正式名称は、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland

長い間、攻防・争いの絶えない、イングランド・スコットランド・アイルランドですが、正式名称にはイングランド・スコットランドを連合大国として、括ったことに英国の強い意思を感じます。 『グレート・イングランド』とは呼ばず『グレート・ブリテン』と呼んだ。 アイルランドを含めたブリテン諸島を総括した意味・意思を再認識できます。

British Isles (ブリテン諸島)

ウキペデイア情報から引用

 

イギリス

ウキペデイア情報から引用

 

大英帝国版図

ウキペデイア情報から引用

 

半世紀前に『英国領香港』に丁度7年間住みました。 当時、『Crown Colony』と聞いてましたが、正確には、『王室属領、Crown dependencies)、イギリスの国王に属し、高度な自治権を持った地域である。 伝統的に国王が王国外に有していた領地であるため、イギリス(連合王国、United Kingdomには含まれず、それぞれ独自の憲法の下で政府を持っている。 ただし、外交・防衛についてはイギリス政府が責任を負う。』

 

日本では、香港を、王領や王室領、王室直轄領、王室保護領などの語が用いられいることもあるが、一般には、英国を、日本語の漢字で英国、カタカナでイギリス、英語名『United Kingdom(略称UK)』と呼び、『Kingdom(王)』が入るのは、英語名の時だけで、不思議な呼称だと理解していました。

 

日本人がイギリスの正式名称を使わずに「イギリス」と呼ぶようになった理由は、日本人がイギリスの正式名称を知る前に、ポルトガル語でイングランドを意味する「イングレス(Inglez)」がなまった「イギリス」を使っていたからだと言われています。

 

この「イングレス」という言葉は、遡ること戦国時代にポルトガル人が日本に訪れたときに「イングレス」を使っていました。 「イングレス」がイングランドという意味だったにもかかわらず、日本人はグレートブリテン及びアイルランド連合王国を指す言葉として使ったことに端を発しています。

 

また江戸時代にはオランダ語の「エンゲルシュ(Engelsch)」がなまった「エゲレス」という言葉も使われていました。 幕末以降には、「英吉利」と漢字で表記して「えいぎりす」と呼ばれていたこともあります。

 

最近、異様に急増しているのが『カタカナ英語』ですが、『イギリス』という呼び方は、『カタカナポルトガル語』か『カタカナオランダ語』であったようです。

 

言語は進化するとは言うものの、日本語はすでに、漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字と豊かな言語です。 詩歌・文学には最適と思う傘寿爺です。

         (記事投稿日:2021/10/23、#413)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『近代の日本は・日本人は凄かった 2(会津藩主・保科正之)』 『市民生活復興最優先で、江戸大火後の天守閣の再建築をやめさせた英傑』

2021-11-27 13:57:02 | 歴史・日本

『近代の日本は・日本人は凄かった 2(会津藩主・保科正之)』

『市民生活復興最優先で、江戸大火後の天守閣の再建築をやめさせた英傑』

昔、茨城県に住んでいた頃、燐家のご主人が同姓でした。 その方のご様子・お人柄から、今でも保科家のご子孫だと信じています。

保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代前期の大名。 会津松平家初代。信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主。 江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。 3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。 将軍の「ご落胤」。

ウエブ情報から引用

復元に関連し、面白いエピソード;

1657年、江戸城の寛永度天守が焼失した後、直ちに再建が計画され、現存の御影石の天守台は建設されたが、保科正行の言「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりだが、城の守りには必要ない」ことと「江戸の町の復興が優先」の方針で中止された。 現在の日本の政治、「予算はあるのだから使わねばと、即ハコモノだ」には、保科正行のような人物待望ですか。

 

 保科正の年表

年表西暦(年齢)

1611年(1歳)に代将軍・徳川秀忠の書士として江戸で生まれる。 (幼名、幸松)

1617年(7歳)高遠藩主・保科正光の養子となる。

1629年(19歳)正室・お江の方の死により、父・徳川秀忠と面会する。

1631年(21歳)養父・保科正光の死去により、高遠藩主となる。

1636年(26歳)山形藩20万石の藩主となる。

1643年(33歳)会津藩23万石の藩主となる。

1651年(41歳)兄である三代将軍・家光が死去。 遺言により四代将軍・家綱の後見人となる。

1657年(47歳)明暦の大火が起こる。 見事な政治力を発揮して江戸の再建に努める。

1669年(59歳)子の正経に家督を譲り隠居する。

1670年(60歳)会津に御薬園を造り、薬草栽培を行う。

1673年(63歳)江戸の三田藩邸で死去する。

 

江戸時代の基礎を作った人物

保科正之は二代将軍・徳川秀忠の子として生まれますが、正室・お江の方の嫉妬を恐れ、隠されて育てられました。 秀忠は生涯、正之を自分の子と認めることはありませんでした。

しかし、三代将軍・家光は自分の実弟であることを認め、正之の清廉潔白な性格を非常に気に入り、幕政において重用しました。 自分が亡くなるときも、枕元に正之を呼び宗家を頼み置くと遺言を残しています。 四代将軍・家綱の後見人となった正之は政治に才覚を表します。 戦国の世から抜けきれず、武断派が多かった中で、正之は文武派の政治を行います。

などにお金をかける政策ではなく、民のための政策を行ったのです。 この「平和のための政治」は260年以上続く江戸時代の礎となりました。 保科正之がいたからこそ、江戸時代は長く続いたと言っても過言ではないのです。

 

保科正之にまつわるエピソードや伝説

それでは保科正之にまつわるエピソードや伝説をごいくつか紹介します。 日本初の年金制度を作った! 保科正之の偉業のひとつですが、残念なことにあまり知られていません。 会津藩23万石の藩主となった正之は、藩の改革に乗り出します。

豊作の時期に米を買い上げ、「社倉」を設けます。 これは天候不良などによる不作の時や飢饉に備えての備蓄でした。 「社倉」のおかげで、会津では飢饉になっても餓死者が一切出なかったと言います。 さらに親孝行な子供を表彰し、褒美を与えました。 また、90歳以上の老人には、食べるのに困らないだけの米を支給しました。 これが日本初の年金制度です。

働いてきちんと税金を納めれば年金がもらえる、 正之は本当に素晴らしく賢いお殿様であったと言えます。 保科正之とは?

 将軍の子として生まれ、会津藩の礎を築いた藩祖となる

日本初の年金制度を作った人物

謙虚な姿勢が兄・家光を認めさせた

民のための政治を行った

すごい人物だということが分かります。 現在の政治・行政に関わる皆様も頑張って頂きたいと期待しております。

 (記事投稿日:2021/11/27, #433) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『新建材CLTは国内林業と住宅事情を救えるか 3(森林も高齢化)』 「国内の人工林は半分以上が50歳を超え、CO2吸収力は、ピークの2割減!」

2021-11-27 11:13:29 | 技術

『新建材CLTは国内林業と住宅事情を救えるか 3(森林も高齢化)』

「国内の人工林は半分以上が50歳を超え、CO2吸収力は、ピークの2割減!」

ウエブ情報から引用

 日本の人工林と問題点

日本の人工林(じんこうりん)は、植林や播種で成立した樹木が優先してみられる森林。 人の手により苗木の植栽、播種、挿し木等が行われ、樹木の世代交代(造林)が達成されている林をいう。 育成林ともいう。 人間が樹木の生殖に関わることにより、品種・品質が整えられ、工業・建築材料としての木材供給(林業)に適した樹木群となる。

花粉症

人工林は人の手で生み出された森林です。 木そのものは自然のものと言えますが、天然林と違い「自然の姿」ではありません。 問題点で挙げられる代表例として、現代人を悩ます「花粉症」があります。

スギ花粉よりも深刻な問題が「人工林の放置」

人の手で管理されるはずの人工林が管理されておらず、収穫期を迎えても伐採されない状態の山が全国各所にあるのです。

 放置された人工林

下刈りも枝打ちもされていない山の地表は全く日光が届かず、根が張らないため土がやせていきます。 こんな状況で大雨や台風などの災害が発生した場合、根が水を吸いきれずに土砂災害が発生しやすくなってしまいます。

 では、なぜ「放置される人工林」があるのか

戦後の木材不足の際に全国でスギの植林が奨励されたことは前述しましたが、その時代は高度成長期に伴い林業も盛んで、多くの林業従事者がいました。しかし安い外国資材の流入で国産の木材の需要が落ち込むと林業従事者も激減し、結果的に山を管理しきれないという状況に陥ったのです。

広範囲・多分野で、先送りされた問題が、また顕在化です。 日本の脱炭素社会・低炭素社会の達成には課題は山積みです。 そんな時に、一つの事象ですが、山地森林が多く、『CO2吸収力』を期待したい日本の森林の『CO2吸収力』が減っているそうです。 森・杜の国です頑張りたいものです。

国は、いつものことで、課題については『ヒト・モノ・カネ・時間』の数値目標で、どうするがなく、『議論する』・『検討する』で『すべてを先送り』やってきたツケが次の通りです。 今回の衆議院選挙でも、数値目標が入った政党はほんの一部でした。 

 

1.脱炭素社会とは?低炭素社会とは何が違う?

 

2.いま脱炭素社会が求められる理由誰でも知っている地球温暖化

 

3.日本が脱炭素社会を実現するには多くの課題がある

 

4.脱炭素社会の実現に向けた日本の取り組み

数年前に『夢の建築材料と言われた新建材CLT』について、調べてみました。 当時から、マスコミの礼賛した日本の森林資源とその画期的活用ですが、海外の森林大国、米国・カナダ・ロシア・ブラジル等に比較して心配はありました。 森林にも大きく関係しますので、本件重複しますが、再確認します。 

ここから先は、すでに、ご覧の方はご放念ください。

新建材CLT

ウェブ情報から引用

数年前に、画期的な新建材CLT(Cross Laminated Timber)が、開発・実用化されたことが発表されました。 この時、久々のヒット製品だと感激したのが下記ウェブ情報の抜粋・引用です。 

 

新建材CLTとは

Cross Laminated Timberの略で、ひき板(ラミナ)を繊維方向が層ごとに直角に交わるように貼り合わせた、大判の木質パネル建材です。 木材は水分を吸収したり放出したりすることで収縮しますが、縦方向にはほとんど変化がありません。木材を直角に積層し接着しているため、収縮変形を抑えられ寸法が安定し、強度が高くなる建材です。

CLTには様々な特徴があり、従来の木造建築やコンクリート、鉄骨を用いたRC造やS造と比べてもたくさんの違いがあります。 ひき板(ラミナ)を並べた後、繊維方向が直交するように積層接着した木質系材料です。 厚みのある大きな板であり、建築の構造材の他、土木用材、家具などにも使用されています。 

 

新建材CLTの特徴

CLTは構造躯体として建物を支えると共に、断熱性や遮炎性、遮熱性、遮音性などの複合的な効果も期待できます。

また、工場内で一部の材料を組み立ててから現場に搬入するプレファブ化による施工工期短縮が期待でき、接合具がシンプルなので熟練工でなくとも施工が可能です。災害時の仮設用住宅にパーツとして保管し、必要な時に組み立てて利用することも考えられます。RC造などと比べた場合の軽量性も大きな魅力です。

その強度は『鉄筋コンクリートに匹敵』する。 オーストリアで最も進み、すでに9階建てまで許可され、ロンドンでも9階建てが実現している。 この新建材CLTはベニヤ板とは区別されている。

この新建材CLTは、救世主のように思われますが、日本の林業の弱点である;

『森林所有が小規模で、土地が急峻である。 伐採搬出が旧態依然でコストが高すぎる。 外材のように大量安定供給ができない。 木材の流通ルートが複雑すぎる。 乾燥させた木材が少ない。 品質がバラバラで使いづらい。』 

これをカバーできるか疑問が多く、更に単層人工林・人手不足・山林の地主不明問題まである中で、林業大国のロシア・ブラジル・カナダ・アメリカ・中国等が、新建材CLTの生産、輸出を始めたら、原木輸出より輸送効率も良く、新建材CLTの国際競争力は日本には、分が無いように思われます

森林と大きく関係する、過日(20180725)テレビ民放某局がワイドショーで、新建材CLTの超高層ビルの紹介がされました。 その概要はウェブにありましたので再掲しました。 

住友林業は、2月8日、2041年までに木造を主部材とした超高層ビルを都内に建設する構想「W350」を発表した。高さ350m、地上70階建ての複合施設で、総工費は約6000億円。 同社が日建設計の協力を得て計画をまとめた。  実現すれば、現在三菱地所が東京駅北側の常盤橋街区で建設を進める高さ約390メートルの超高層ビルに次ぐ高さとなる。

因みに、

あべのハルカスの総工費は、1,300億円(高さ300ⅿ、60階)、横浜のランドマークは、総工費は、2,700億円(高さ296ⅿ、70階)です。

さて、この新建材CLT工法の優位性;

  • 建築期間の短縮、工場で製造・加工できる。
  • 断熱性が高く、省エネ効果、木材は多孔質材料で断熱性大。
  • 優れた耐震性、PCコンクリートに対して、四分の一の重量。

この新建材CLTとCO2削減について;

一部は、先の備忘録『木を植えよう』に重複します。 森林は、言わばCO₂の一時貯蔵庫で、樹木がすべて枯れ、完全に分解してしまえば、樹木が吸収したCO₂がすべて放出される。 しかし実際には、枯れ死した樹木の全てがすぐ分解されるわけではありません。 その多くは、有機物として土壌中に長く蓄えられます。

一方、伐採した樹木すべてが、すぐに燃やされて、 CO₂になるわけでなく木材として住宅や家具になります。 長く使うほどCO₂が長く固定されます。 ここで新建材CLTの出番です。 因みに、昔の木造の神社仏閣・城郭は数百年の寿命(これは鉄筋コンクリートより長寿命)です。 名古屋城の完成1612年、1945年空襲で焼失から判るように、優に300年以上持ちます。

然しながら、現在の戸建て木造住宅の平均耐用年数ですが、日本では約30-40年、米国約40-50年、英国約50-70年と言われます。 田舎には今でも築後100年以上の木造民家が多々あります。 『エコの本質』を、昔の人は感覚的に知っていたが、現代人は、コストパフォーマンス(費用対効果)を無考慮の『安価最優先』でした。

高度成長時代に創られた『鉄筋コンクリート製構築物』の寿命が、比較的好条件のもとで100年程度、海岸部・トンネル等悪条件下では50年程度です。 建造当時には、寿命も、維持補修も考えない『安く・早くの追求』でした

因みに新建材CLTの耐用年数は、50-70年で、再生・再利用も可能です。

日本は森林大国で、狭い国土にすでに沢山の森があるので、大規模植林の余地はあまりないと言われます。 然し課題は沢山あります。 傷んだ森を、高木、亜高木、低木、下草、そして土の中のカビやバクテリヤで構成される『本物の森』に戻さなければなりません。 『本物の森』でない、単層人工造林(杉、松、カラマツ等)では最近の異常な豪雨や津波には耐えられません。 今では、開発で激減、細々と残っている、日本の『鎮守の森』が将に『本物の森』です

最近日本に多発する豪雨土砂災害は『単層人工造林』での発生が多いように見えます。(縦割り組織と規制のハザマで起こり盛土問題はさらに深刻な問題)

偏見ではありますが、『鎮守の森・本物の森』は、多神教(自然の造物、何にでも神は宿る)の賜物です。 余談ですが、今の三大宗教(一神教)は奇しくも、森ではなく砂漠で生まれています。

『京都議定書』には、先進国が発展途上国に援助して植林などのCO₂削減策を行った場合、その先進国の削減として認めようとする『グリーン開発メカニズム」があります。 『森が泣いている』先進国日本は、日本の木材大量輸入に起因する森林伐採跡地のある国の植林支援は元より、足元の日本の森林回復も必須です。

『本物の森』には、必ず直根性・深根性の照葉樹、楠、シイ、椿があります。 楠は、葉が全部焼けても再生しますし、シイ・椿は潮風や津波に強いです。

松は、横根性で、津波に弱く、油分が多く火にも弱いことは、東日本大震災でもよく判りました。

新建材CLTの利用・活用をベースに、日本の林業と住宅事情が改善されることを期待しています。

(記事投稿日:2021/11/27、#432)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『相撲界のスーパースター・第58代横綱千代の富士の凄さとエピソード』 『突っ張りと張り手を連発した関脇寺尾を土俵の中央で吊り上げ叩きつけた』

2021-11-26 22:05:50 | スポーツ

『相撲界のスーパースター・第58代横綱千代の富士の凄さ』

『突っ張り張り手を連発した寺尾を土俵中央で吊り叩きつけた』

ウエブ情報から引用

スーパースター・第58代横綱千代の富士関は、いろいろ話題・噂はありますが、やはり苦境を乗り切り偉大な成績を残した力士です。 脱臼癖の肩を筋肉の鎧で覆って大活躍された大横綱・千代の富士 貢関のプロフィールです。

本名 秋元 貢(あきもと みつぐ)

愛称 ウルフ、昭和最後の大横綱

生年月日 1955/06/01、没年月日 2016/07/31(61歳没)

出身 北海道松前郡福島町

身長 183cm

体重 126kg

BMI 37.62

得意技 右四つ、寄り、上手投げ

生涯戦歴 1045勝437敗159休(125場所)、勝率0.661

幕内戦歴 807勝253敗144休(81場所)、勝率0.761

優勝 幕内最高優勝31回、史上3位

 

70年秋場所初土俵。 74年九州場所新十両、75年秋場所新入幕。 80年夏場所新小結、80年九州場所新関脇。 81年初場所初優勝で大関昇進。 名古屋場所で2度目の優勝を飾って58代横綱に昇進した。 優勝31度88年夏場所から昭和以降3位の53連勝。 89年に角界初の国民栄誉賞受賞。 通算在位125場所。 1045勝は史上2位で437敗170休。 三賞7度。 金星3個。 91年夏場所限りで引退し、92年4月に年寄九重を襲名して部屋を継承した

脱臼癖と言えば、思い出すのは、アメリカのアクション映画『リーサル・ウエポン』です。 主人公の刑事が立ち回りで、肩を脱臼すると、壁に肩を叩きつけて、自分で治すシーンを思い出します。

時代が「もののふ」を希求、時代は必ず、稀代の「もののふ」を登場させた。 「もののふ」第58代横綱の、日刊スポーツ記者の記事の抜粋です。

『「一にも二にも腕立て伏せ1日1000回」、相撲担当になったのは1983年で、千代の富士はすでに横綱で7度優勝していた。 新米記者には近寄りがたい存在だった。 ただし、あくまで個人的に親近感を持っていた。 千代の富士は本土俵だけで7度、そのうち横綱になってからは4度脱臼した。 ほとんどは左肩だが、右肩も1度ある。

83年夏場所の幕下時代に初めて肩が抜けた。 花道で痛みにうずくまったが自然と入ったため、湿布を貼って医者に行かず癖になった。 千代の富士は3人の医師から「手術すると半年稽古できないから、筋肉のよろいをつけろ」と言われた。 1日1000回の腕立て伏せをノルマにした。 

北海道松前郡福島町で秋元家の長男として生まれた。元横綱千代の山とは同郷であり、それがのちの人生を決めることになった。 漁師の父を手伝って舟をこぎ、海に潜ってアワビを捕り、足腰に心臓も鍛えられた。 スポーツ万能、特に陸上の跳躍競技で活躍し、14歳で町内相撲に出て優勝した。 

台東区の福井中に転校して、本名の秋元で70年秋場所、初土俵踏んだ。 今は禁止の中学生力士で、身長177センチ、体重71キロだった。 同期は37人いたが一番出世。 序ノ口は大秋元、次の場所で千代の山と北の富士を合わせた千代の富士と改名しのちに初の5文字関取となった。入門時の約束で明大中野高に進学したが、71年名古屋場所で初の負け越し。 「中途半端、相撲1本で行く」と1学期で中退した

  • 兄弟子北の富士が命名した「ウルフ」

ケガはあったが出世は順調だった。 4年でのちにライバルとなる隆の里とともに新十両となり、5年で幕内に昇進した。 まだ20歳で昭和30年代生まれとしては初の幕内だった。 筋肉質の体に精悍(せいかん)なマスクもあり、期待のホープとなったが負け越し。 十両に落ちると右腕を痛めて幕下まで陥落した。 入幕後に幕下まで陥落した唯一の横綱になると、誰が予想しただろうか。

2場所で十両に復帰はしたが、伸び悩んでいた。 77年10月には師匠が51歳で急死する不幸にも見舞われた。 すでに引退していた兄弟子の北の富士は74年に井筒部屋を興していた。 急きょ部屋を合併させて、九重部屋を継承することになった。 ウルフの名はこの北の富士の命名だった。 入門してくると「オオカミみたいだ」と言ったのが始まりだった。

元は兄弟弟子だった2人が師弟関係になったのは、大きな転機になった。それまでは観客受けして快感でもあった、左上手をとっての強引な投げに固執していた。 新九重親方のアドバイスもあり、右を差し、左前ミツを浅くとって、頭をつけて引きつけての速攻にモデルチェンジ。 強引な投げから一気の寄りの相撲へと変身が花を開かせた。 千代の富士は左手小指のツメは切らなかった。 「まわしは小指でとれ」が基本で脇を締めるため。千代の富士は擦り切れて切る必要がなかった逸話が残る。(続く)

当該の語り草としても有名な一番は平成元年九州場所の出来事でした。現行の決まり手に当てはめると「送りつり落とし」という、しかも土俵中央で豪快無比に決めていますので、明らかな実力差がないとあのような芸当は成し得ない大技でした。 取り口序盤には寺尾が得意の速射砲ばりの突っ張りを連射しているものの、ことごとく千代の富士は当てがいつつ受け身での横綱相撲の安定感ぶりで対処していたのも印象的でした。 背景には、千代の富士に省エネという思惑が働き、余力を温存させつつ賜杯奪還を狙い、確実に勝率を高める算段も視野に入れていました。 案の定、格下の寺尾に注射を持ち掛けましたものの、ガチで挑みたい寺尾にそれを拒否され、千代の富士にとってはプライドを傷つけられたも同然で、見せしめ的に捕まえて後ろを取ると高々と寺尾の体を持ち上げ、土俵中央に叩き落とすという制裁に出ました。 八百長横綱と懐疑の目で悪評される千代の富士ですが、ガチでの強さが十二分だったからこそ、星を買い向かえたわけで、そのように揶揄されるのは絶対的な強さの裏返しであるとも証明できるのです。

寺尾はその敢闘力士のイメージ通りに、千代の富士とは常に熱戦を演じました。あの有名な、張り手を交えた突っ張りで千代の富士を怒らせてしまった寺尾が、後ろから抱え上げられて吊り落とされた相撲・・・。

繰り返しになります。 『いろいろな話題・噂がありますが、それだけではあの成績は残せません。』

 (記事投稿日:2021/11/25、#431)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする