知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の歴史感覚』『日本の古代では、西の朝廷の影響か、将門人気なし、名誉回復のため調査』

2023-01-29 22:40:00 | 歴史・日本・中世

『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の歴史感覚』

『アイヴァン・モリス(著)「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」には、なぜか、将門の記載ないが、東日本での庶民の中での人気は凄い』

『日本の古代では、西の朝廷の影響か、将門人気なし、名誉回復のため調査』 

 

日本史の中で悲劇的な死を迎えた九人と戦闘団を外国人の視点から書かれている本『高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち』からも、この歴史感覚はある程度分かりそうです。 彼らの末路を“もののあわれ”という日本人の視点と、彼らの死に対する意味を、モリスという外国人の視点で語られている処に意義があるのではないでしょうか。

欧米人は勝利者を高らかに語っても、敗者の悲劇はあまり感動を呼び起こさない。 せいぜいシェークスピアの悲劇(創作物)でしかないというが、モリスの語りは彼ら日本人の敗者に対しても手を差し伸べようとしている。 外国にもありました『アラモの砦』が・・・。

人神系(人間が生前または死後神として祀られる信仰)の小分類として怨霊系

 

人神(ひとがみ)とは、人が没した後にその人物を神として祀る信仰形態

  • 祖霊を神格化して発生したもの(祖霊崇拝、エウへメリズム)。

天照大御神や大国主命など神話の神々

  • 生前にこの世に恨みを残して没したものが祟りを引き起こすことを恐れてこれを鎮めるために祀るもの(御霊信仰)。

天満大自在天神(菅原道真)・崇徳天皇・橘逸勢・神田明神(平将門)

  • 生前に優れた業績を残したものを死後に神として祀ることでその業績を後世に伝えようとするもの(エウヘメリズム)。

豊国大明神(豊臣秀吉)・東照大権現(徳川家康)など

 

怨霊系の「三大怨霊系」』は、

 

菅原道真
平安時代の政治家・学者。 醍醐天皇の御代に右大臣となったが、藤原時平の讒言によって大宰府に左遷された。 現在では「天神様」として知られ、江戸時代より学問の神様(合格祈願の神様)として信仰されている。


平将門
平安時代に坂東(関東地方)で反乱を起こした武将

崇徳院
平安時代の第75代天皇、及び譲位した上皇。

平将門の墓は「東京都千代田区大手町1-1」にある。高層ビルが建ち並ぶビジネス街のど真ん中に、平安時代中期に「新皇」を名乗った豪族の墓がある。 京都では極悪人とされた人物の墓が、なぜ東京の中心地で守られ続けているのか。 民俗学・文化人類学者の小松和彦氏が解説する。

 

小松和彦著『神になった日本人』(中公新書ラクレ)の抜粋・引用です。

ウエブ情報から引用 

『「千代田区大手町1-1」に立つ「塚」

大手町と言えば一流企業などのビルが林立するオフィス街である。 ところが、その大手町のさらに「中心」、「東京都千代田区大手町1-1」に建っているのが「将門塚」と呼ばれる。 

 

「新皇」を名乗り、関東の分国化を目指した

平将門とは、平安時代中期の関東地方の豪族で、承平・天慶年間に起こった平将門の乱(935―940)を起こした中心人物である。 桓武天皇の子孫にあたる平良将の三男として生まれた将門は、父の早世後、所領や女性問題をめぐって、戦いを繰り返すなかで次第に勢力を広げ、宿敵・良兼の病死後は常陸一帯をその支配下に収め、やがて朝廷側から見ると公然たる反国家的な行動をおこなうようになった。 そして、ついに天慶2年(939)、将門は常陸の国衛(こくが)(国司の役所)を攻撃して焼き払い、さらにその余勢を駆って下野・上野以下の関八州の国衛を制圧した。 そして「新皇」を名乗り、関八州の国司を任命して、朝廷の支配から離れた関東の分国化を目指した。 しかし、将門の関東支配は数カ月しか続かず、朝廷側の藤原秀郷・平貞盛らに追討される。 その首級(しゅきゅう)は京都まで運ばれて、獄門にかけられたという。

 

京都側のイメージ「将門の死=神仏の罰」

王朝文化が花開こうとしていた時代、京都から遠く離れた坂東の地で起こった反乱は、京都の天皇・貴族たちを恐怖のどん底におとしいれた。 それは将門が京都にまで侵攻してくるのではないかという物理的恐怖をともなう、まことに深刻なものであった。 天慶3年(940)正月、朝廷は将門を極悪非道な狼籍者と断じて将門追捕の軍勢を送り、また宮城十四門に兵士を配置して防御させ、さらには諸寺社や高僧・宮廷陰陽師たちに将門の調伏、呪殺の祈祷を依頼している。 武力と呪力の双方を動員しての怨敵退散を図ったのである。 その調伏の呪術のやり方は、悪鬼(将門)の名前を書いたものを護摩壇に投げ入れ、賊徒(将門)の形代である人形を棘のある木の下にくくりつけて呪詛するというものであった。 すなわち、こうした呪術的コンテキストでは、将門の死は神仏の罰が下されたもの、つまり調伏・呪詛の呪法の成功というふうに理解されたわけである。

 

「怨霊化」した菅原道真との違い

天慶のころと言えば、あの菅原道真の怨霊が猛威をふるっていた時代である。 獄門にかけられたあと、将門の霊は怨霊となって出現してもおかしくなかった。 ところが意外なことに、将門の霊は死後怨霊化して朝廷・貴族を襲うことはなかった。 というのは、京都には将門の怨霊を「御霊」として祀り上げたという神社が存在していないからである。 どうしてだろうか。

 

もちろん、将門の怨霊化をまったく考えていなかったわけではないらしい。 朝廷は天慶の乱での戦死者を敵味方の区別なく供養するようにとの命令を出すとともに、関東地域の役人の大刷新をおこなっている。 それによって怨霊化の芽が摘み取られてしまったのだろうか。 わたしは別の理由があったと推測している。 当時の宮廷社会での怨霊の候補者は、その社会内部に属していた者、自分たちと濃密な社会関係にあった者であった。 そうした関係性に欠けていた将門に対して、貴族たちは怨霊を発生させる「後ろめたさ」や「同情の心」を抱くことがなかったのである。

 

語り継がれるほどに、神格化されていく

怨霊化はしなかったが、将門は京都の人びとのあいだで語り伝えられていく。 賊徒として、悪鬼として、超人として、地獄に墜ちた罪人として。 そして、そうした伝説のなかで、将門はどんどん神秘化されていった。

京都の人びとにとっては、伝説のなかでも将門は「敵」であった。 しかも、将門は時代を超えて「朝敵」であり続けた。 その烙印は江戸時代になって後水尾天皇から勅免が下されるまで続いたのである。

 

関東側のイメージ「将門=悲劇の英雄」

京都の宮廷社会では、将門は朝敵であった。 しかし、京都の朝廷に対して思うところがある人びとは、朝廷に反抗して敗れ去った将門に親近感を抱いていた。 その筆頭に挙げられるのは、関東に古くから住む人びとである。 かれらは関東の「独立」を図った将門を支持したのである。 京都政権に敗れたとはいえその志は高く評価され、悲劇の英雄として在地の人びとに語り伝えられてきた。

 

茨城県坂東市岩井の國王(こくおう)神社は、将門の戦没の地ということで将門の霊を祀る神社である。 たとえ京都の朝廷からは朝敵として極悪人扱いされようとも、在地の人びとやその他の地域の民衆には、自分たちの思いを体現してくれた悲劇の英雄という思いがあり、それが在地・民間での将門伝説を支え続けたのである。

 

復讐ではなく、鎮魂を求める「祟り」

将門の祟りは、復讐のための祟りではない。 それは祀り上げ=鎮魂を求める合図なのである。 もっとはっきり言えば、祀り手側の「思い」、すなわち、将門の霊は怨みを残して死んだはずなので、その怨念を鎮めなければならないという「思い」が、飛ぶ首や天変妖異、病気などの祟りとして言説化されたものなのである。

 

光を放った将門塚から異型の武者が現れた

ところで、この将門塚をめぐる伝説は、内容にかなりの差異はみられるが、そうとう古くからいろいろと語られていたらしい。 例えば、『永享記』に「平親王将門の霊を神田明神と崇め奉る」とあり、謡曲「将門」にも「神田明神」が将門を祀った社だと語られているので、この伝説は室町時代にはすでにかなり広く知られていた。

 

 

家康の江戸入府で、事実上の神仏分離

徳川家康の江戸入府時、江戸幕府はただちに江戸城の普請と城下町の建設に取りかかり、このとき将門塚の脇にあった神田明神も、日輪寺も移転させることにした。 神田明神はいったん山王権現とともに駿河台に、さらに元和2年(1616)、現在地の湯島(外神田)に移された。 日輪寺のほうは浅草に移された。ある意味でこのとき、神仏分離がなされたのである。

 

「将門様のお社」として定着した神田明神

移転に際して、関東の領主となった家康は、遠い昔、朝廷を向こうに回して関東の「独立」を図った将門に大いに感じるところがあったのだろう、神田明神を山王権現とともに江戸総鎮守とした。 神田明神は思いもかけなかった破格の出世をすることになったわけである。 神主には将門の末裔という芝崎氏が任命され、代々世襲で神事をおこなった。 興味深いことに、神田明神は江戸城の鬼門、山王権現は裏鬼門に配置された。

 

 

実は、将門の霊は「第一座」ではない

祭神は当然のことながら、将門の霊が第一座と思われる読者が多いにちがいない。 ところが、違うのである。現在の主祭神の第一座は大己貴命、第二座が少彦名命であって、平将門は第三座という扱いになっている。 しかも、あまり知られていないが、第三座になったのも昭和59年(1984)のことで、それまでは摂社にすぎなかったという

 

明治時代に「追放されなかった」のは幸運だ

これには、明治時代に再び天皇親政となったことに由来する複雑な経緯、すなわち、文明開化期の政治的・宗教的状況が深く影を落としている。 当時、宗教行政を担当していた教部省は、神田神社の祭神から朝敵であった将門の霊を除くことを主張し、第一の祭神と信じる氏子の抵抗にもかかわらず、将門の霊は祭神の地位、つまり本殿を追われて摂社にされてしまったのである。 もっとも、当時の状況から判断すると、完全に追放されずに摂社としてでも留まることができたのは幸運であったと言うべきかもしれない。

 

例祭をボイコットした江戸っ子たち

徳川将軍家のお膝元の江戸っ子たちは、天皇にこびへつらっている輩を将門の霊の威徳に背く人非人だと非難し、一文の寄付をするのも惜しみ、例祭をボイコットしたというのである。 神田神社と日輪寺が移転した後の「将門塚」は、さすがに潰すのははばかられたらしく、そのまま大名屋敷のなかに留め置かれた。  

 

 小松 和彦(こまつ・かずひこ)

民俗学・文化人類学者 1947年東京都生まれ。国際日本文化研究センター名誉教授。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。専攻は文化人類学・民俗学。信州大学助教授、大阪大学教授、国際日本文化研究センター教授、同センター所長を歴任。日本の歴史・文化の周縁に姿をくらます鬼・異人・妖怪などを手がかりに、日本人の心の奥底に潜むものを探る研究を続ける。2013年紫綬褒章受章。2016年文化功労者。著書に『神隠しと日本人』『妖怪文化入門』『鬼と日本人』(以上、角川ソフィア文庫)、『憑霊信仰論』『日本妖怪異聞録』(以上、講談社学術文庫)、『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書)など多数。

 

標題『アイヴァン・モリス(著)「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」には、なぜか、将門の記載ないが、東日本での庶民の中での人気は凄い』を、今後も調べていきたいと思っています。

(記事投稿日:2023/01/29、#623)

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『戦国激動の日本と世界が解る 4「オランダ商人の日誌と手紙」』 『「オランダのジャパン・シルバーを獲得せよ」戦略の凄さ』

2022-10-08 07:56:00 | 歴史・日本・中世

『戦国激動の日本と世界が解る 4「オランダ商人の日誌と手紙」』

『「オランダのジャパン・シルバーを獲得せよ」戦略の凄さ』

 

島国日本の中世戦国時代に西欧列強の覇権争いに、これほど巻き込まれていたことに驚きました。 今後の調査のために、表題の放送の抜粋・引用を備忘録にしました。 

先ずは、銀算出大国であった日本のこと;

 

日本銀

日本からの輸出品として中国にもたらされ、16世紀末~17世紀に世界の銀の3分の1~4分の1を占めた。 日本は中世以来、銀の産出国であった。 15世紀ごろから中国の銀の産出量が減少したため、中国に輸出されるようになった。 それを可能にしたのは、16世紀には朝鮮から伝えられた灰吹き法という製錬技術であった。 特に石見銀山(島根県)は最も早く開発が進み、また生産量も多かった。 次いで生野銀山(但馬)、院内銀山(秋田)など、銀山が開発されていった。 17世紀初頭の最盛期には、日本産の銀は世界の生産量のおよそ3分の1~4分の1を占めていたと考えられている。 しかし16世紀後半にはじまるスペインによる新大陸のポトシ銀山の開発から、現在のボリビアやメキシコ産のメキシコ銀が増大し、中国にもたらされてスペイン銀貨にといわれるようになり、日本銀はそれに押されて次第に衰退した。石見銀山は豊臣秀吉、徳川家康によって直轄銀山として採掘されていたが、江戸時代にはいると鉱脈が絶え、現在は廃鉱になっている。

 

徳川家康の時代、世界ではスペインとオランダの覇権争いが続いていて、オランダが日本の銀を狙って家康に近づき、家康もオランダから武器を求め、家康の天下取りにオランダが深く関わっていたということです。

戦国最後の合戦、大阪の陣では、スペインが豊臣側に付き、この徳川と豊臣の戦いは、その背後で支えたオランダとスペインの覇権争いでもあったそうで、当時の世界の縮図のような合戦でした。

また、オランダに日本のある意外なものが貸し出され、それによって、世界の歴史が大きく変わっていくことになったそうで、戦国日本が想像以上に世界に影響を与えていたことを知りました。

 

オランダ船が漂着

オランダの貿易船が難破し、最新の大砲や銃弾を家康が手にした。 オランダは、商人たちがつくった、小さな国でしたが、しかし 瞬く間に 世界の覇権を握りました。 戦国日本で繰り広げられていた、徳川家と豊臣家の戦いが、深く関わっていました。 オランダで戦国時代の日本に、新たな光を当てる史料が見つかりました。 日本に滞在したオランダ商人が、書き残した 日誌や手紙、500件に及ぶ 膨大な記録です。 

 

徳川家と、豊臣家の間に戦争が起こるという確かな情報を入手した。 必ずや家康様に、大砲と鉛を売り込んでみせると、戦国時代の日本にビジネスチャンスを見いだしていた。
偶然、嵐に襲われ難破したオランダの貿易船が、日本にたどりつきました。 
船には 最新式の鉄砲や弾薬が、大量に積まれていました。

家康は、生き残った船員たちを尋問、この時のやり取りが、記録に残されています。 

『日本にきた狙いは?』
『貿易です。 我々の武器を使えばより強くなるはずです。』
豊臣家に対抗するため、軍事力を強化していた家康、船に積まれていた大量の武器・弾薬は、家康の手に収まることになりました。

 

オランダの武器を手にした家康 関ヶ原で圧勝。 大国スペインの支配下にあった、オランダは独立戦争を始めますが、スペインは強大でした。 スペインは、世界中の植民地から、ばく大な富を吸い上げ、無敵艦隊をはじめとする、世界有数の軍事力を擁していました。


オランダが打ち出した、貿易による富国強兵策
海外で商品を売って資金を稼ぎ、スペインに対抗できる軍事力を、持とうとしたのです。
オランダ船 漂着の半年後に起きた、関ヶ原の戦い。 
当時の宣教師の記録に、その様子が記されています。 徳川軍が撃つ、嵐のような弾丸。 瞬く間に三成たちの軍は総崩れとなった。 オランダの武器を手にした徳川軍は圧勝でした。

天下取りに大きく近づいた
 徳川家康。 しかし 最大の障壁が残っていました。 父 秀吉からばく大な遺産を受け継いだ、豊臣秀頼です。 秀頼のもとには、豊臣家に忠誠を誓う武将たちが、結集していました。

 

グローバル経済の先駆者 オランダ東インド会社誕生

同じ頃、ヨーロッパでも、オランダとスペインの戦いが、新たな局面を迎えていました。
世界初の株式会社 オランダ東インド会社の誕生です。 その最重要資料の撮影が、特別に許可されました。 本来、国が持つ さまざまな特権が、一つの会社に託されていました。 
外国の領主と独自に条約を結ぶ権利。 兵士を雇い 要塞を築く権利。 更に貨幣を造る権利まで

スペインの海外での収益を奪うことは、経済戦争に勝利すること考え、最前線に立つ商人に、強力な権限を与えることで、迅速な海外進出を目指し、宿敵スペインに、打ち勝とうとしたのです。 この世界初の株式会社は、戦国日本に正式な使節を送り込みます。

 

利益追求のオランダと、キリシタンで征服を狙うスペイン

この時代 ヨーロッパに、君臨していたのは 各国の国王と、キリスト教の指導者である、ローマ教皇で、領土を広げ 信者を増やすことを目指していました。 オランダの目的は、純粋に利益を追求しました。

大航海時代、世界最大の帝国を築いたスペイン。 その力の源の銀が大西洋で発見されました。 水深1, 100mに沈んだ貿易船の調査し、ばく大な数の財宝が、引き上げられました。 そこには、59万枚 17トンに及ぶ銀がありました。 当時スペインは新大陸の植民地で、巨大な銀山を開発、世界の生産量の8割を占めます。 銀の力によって 世界経済で優位を築き、強大な軍事力を支えていました。

一方 新興の商業国家 オランダ、銀の独自の入手先が必要でした。 16世紀にヨーロッパで出版された「日本地図」。そこには
 銀山王国と記されています。 戦国時代の日本は、銀の産出国として知られていたのです。 日本の銀を手に入れるため、オランダ東インド会社は、有能なビジネスマン ジャック・スペックスを送り込みます。

 

佐渡の銀山

ウエブ情報から引用

今回見つかった史料から、スペックスが日本の銀について、内密に調査を進めていたことが、分かりました。 新潟県佐渡島。 戦国時代、ここに 日本最大級の銀山がありました。 この銀山の開発を進めたのが、徳川家康です。

佐渡には 一体どれほどの銀があったのか。今 調査が進んでいます。 戦国時代末期、家康5万人の労働者を送り込み、昼夜交代で休みなく採掘を進めました。 
佐渡全体での埋蔵量は、2, 300トンを超え、世界トップレベルの銀山でした。

家康は 佐渡をはじめ、全国各地で次々と鉱山開発を進めました。 日本の銀の生産量は急速に拡大し、年間100トンを超えます。 世界の生産量の、およそ3分の1を占めました。

日本の銀を狙う オランダのスペックス
調査の結果 佐渡の銀は、スペインの銀以上に、純度が高いことが判明します。 私たちの商品と引き換えに、日本の銀を頂きたいのです。 家康様への献上品として、美しい毛織物、色とりどりのガラス、最高級の鏡などを用意しました。 家康がより強く求めたのは、兵器でした。

スペインも、負けじと 家康のもとに、ロドリゴ・デ・ビベロを送り込みます。 最先端の技術を持つ、スペインの鉱山技師がいれば、日本の銀の生産量を更に伸ばすことが可能でした。 新たに採掘したものの、半分はスペインのものとすること、オランダ人を国外追放すること。 キリスト教の教会を建て、宣教師を置くこと。

貿易とともに、強く布教を求めたスペイン。そ こには 隠された狙いがありました。 ビベロが、ひそかに国王に送っていた文書です。 日本には数多くの銀の鉱脈がありますが、軍事力に秀でた、日本を征服するのは、容易ではない。 キリスト教の布教を広めるべきです。 キリシタンの数が増えれば、家康の死後、陛下を新たな王と仰ぐことでしょう

スペインの野心を察知したオランダは、家康に訴えます。 フィリピンもメキシコも、この方法で支配下に置き、植民地にしてきたのです。 交渉を打ち切り、更に キリスト教の全面的な禁止に、踏み切りました。

各地で 厳しい弾圧の嵐が吹き荒れました。 布教の道を絶たれたスペインは、家康と敵対する豊臣秀頼に、接近したのです。 初の国際通貨の銀貨・大坂の陣、家康は大砲で勝利、代金は銀貨で支払い日本の銀を巡って しのぎを削った、オランダとスペイン。

銀を求めたのは、グローバル経済の誕生です。 銀貨によって ヨーロッパの商人たちは、東南アジアの香辛料や、中国の陶磁器など 世界各地の商品を、購入できるようになり、国際貿易が活性化。

戦国最後の合戦、大坂の陣
天下取りに王手をかけた徳川家康。 その最後の障壁となった豊臣秀頼。 スペインを後ろ盾とする、宣教師たち、勢力挽回のため 豊臣家に肩入れします。 秀頼様は、自由な布教と教会の建設を約束してくださった。 宣教師たちは 豊臣方につくよう、キリシタンの武将に働きかけます。 豊臣軍は 総勢10万の大軍に、膨れ上がっていました。

更に、キリシタン勢力は、武器の調達においても活躍しました。 決戦の舞台となった、大坂城。 今、大規模な発掘調査が、続いています。 地下から現れた豊臣軍の軍事基地の跡。 作りかけの鉄砲玉が、発見されました。 大坂城下では、戦のさなか、銃弾の製造が行われていました。 それを可能にしたのが、キリシタン商人は、弾の原料となる鉛を集め、大坂城に運び込んでいたのです。

大軍で 四方から攻め寄せる徳川軍。 豊臣軍から一斉射撃を浴びせられ、大坂城に近づくことも困難でした。 追い詰められた家康。起死回生の策を打ち出します。 大砲による、大坂城への直接攻撃です。 しかし 徳川軍の陣地からは、最短でも 500m。 従来の大砲の有効射程を超えていました。 家康が頼みの綱としたのが、オランダでした。

家康様が大砲と砲弾をすべて購入することを報告する。 家康の待ち望んだ、オランダの大砲。 当時、最新式のカノン砲。 2頭の獅子のマークは、オランダの大砲工場でつくられた証しです。 オランダ東インド会社は、海外の戦場で売れる商品として、大砲を多額の開発資金を投入し、イノベーションを加速させていました。

オランダの大砲の威力を検証するため、実弾の発射実験が行われました。 ターゲットは 大坂城の天守を想定し、厚さ10cmの堅ろうな木材で、作られました。 砲弾の速度は 秒速340m。音速に達していました。ターゲットの中心に 正確に命中。 分厚い木材を難なく破壊しました。有効射程は 500m以上。 オランダの大砲は 大坂の陣のさなか、家康のもとに届けられます。 砲弾は 天守と御殿を直撃し、多数の死傷者を出し、総大将 秀頼は 戦意を喪失。 豊臣家は 滅亡します。

大坂の陣は オランダとスペインの、覇権争いにおいても転機となりました。 オランダ東インド会社が、待望の銀を手にしました。 家康様に大砲と砲弾を納品。 代金は、銀貨1万2千枚にのぼる。 家康の信頼を勝ち得たオランダ。年々 取引高を伸ばし、最盛期には 年間94トンもの銀が日本から運び出されます。

小さな商業国だったオランダが、ついに大国スペインに対抗しうる力を手にしたのです。オランダとスペインの植民地争奪戦・日本から武器と共に傭兵、勢いづいたオランダは、スペインとの更なる戦いは、植民地争奪戦。 舞台となったのは 東南アジア。 香辛料の特産地モルッカ諸島や、海上交通の要 マラッカなど、重要な貿易拠点の多くはスペインが支配していました。

オランダは このスペインの植民地を、奪い取る計画を立てます。 カギとなったのは、戦国日本から輸出された、驚くべき商品でした。 オランダ国立公文書館に、日本を出発したオランダ船の、積み荷リストが残されていました。 火縄銃や槍、日本刀。 更に 武器と共に、数多く記されていたのが、日本人の名前です。

一人一人に、細かく 給料が、定められています。 彼らの正体は 金で雇われ、海外の戦場で戦う傭兵。 日本の戦国時代が、幕を閉じ、多くのサムライが失業、新たな戦いの場を求めていたのです。 サムライを植民地争奪戦に用いたのが、オランダです。 スペインとの戦争に投入するため、勇敢な日本人を可能な限り送ってくれ。 スペックスは 日本のサムライを、一挙に数百人規模で雇い上げようと画策。 その実現のため、家康との直接交渉に乗り出しました。 オランダから武器を入手し、利益を得ていた家康は、スペックスの申し出を特別に許可します。

日本人傭兵を手にしたオランダ。 スペインが支配する、モルッカ諸島に狙いを定めます。
特産品の香辛料は 一粒が、同じ重さの銀に匹敵するといわれ、ばく大な利益を生み出す商品でした。 この時 突破口を切り開くために、送り込まれたのが、日本人傭兵だったのです。 その記録が残されていました。 先陣を切ったのは サムライたち。槍や日本刀による接近戦で、敵を切り崩しました。

この後、世界の海を行くヨーロッパの船の、実に
 4分の3に、オランダの旗が翻ることになります。 オランダは 戦国日本と結び付くことで、世界の覇権を手にしたのです。

オランダ・アムステルダム国立美術館
今また、戦国日本が世界に影響を与えた証しが、見つかりました。 オランダ東インド会社が製造した大砲。 X線を当て金属の成分を解析します。 世界各地の銅のデータと比較したところ、驚くべき結果が明らかになりました。 日本の銅を使った大砲でした。 この大砲は、ヨーロッパの大戦争に投入されます。 30年の長きにわたるこの戦いで、オランダ側が勝利。 敗北したスペインの没落は、決定的なものとなりました。

宗教の時代から経済の時代
国境を越えて 人やモノが行き交う中で、世界史の大転換が起こったのです。 日本とヨーロッパがつながったことで、ある現象が起きました。 新たに出現した、グローバル経済を最も、効率的に利用したものが勝利を手にした。 戦国時代の日本は。まさに世界史の最前線だったのです。 新たな時代の扉を開いた戦国日本。 私たちは今も、一つにつながった激動の世界に、生きています。

 

教科書で学ぶ歴史では知らなかったことを今回知りました。 傘寿まで生きた買いがあったというものです。 『オランダの貿易船が難破し、最新の大砲や銃弾を家康が手にし、関ヶ原で圧勝。 グローバル経済の先駆者 オランダ東インド会社誕生。 利益追求のオランダと、キリシタンで征服を狙うスペイン。
初の国際通貨の銀貨・大坂の陣、家康は大砲で勝利、代金は銀貨で支払い。
オランダ 植民地争奪戦に勝利したのは、日本からの武器と傭兵のおかげ。』

日本の戦国時代と、銀、オランダと関連していくことに驚きました。
キリシタンが家康に迫害されたのも、こんな訳があったのですか。

(記事投稿日2021/10/08、#582)

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『海外の古文書が日本史の謎を解く(手紙・日記等)から解る 3』『信長の先取性・先見性に、刺激受けた秀吉の無理難題の半島・大陸進攻へ』

2022-10-07 16:33:29 | 歴史・日本・中世

『海外の古文書が日本史の謎を解く(宣教師たちの手紙・日記等)から解る 3』

『信長の先取性・先見性に、刺激受けた秀吉の無理難題の半島・大陸進攻へ』

『洋の東西を問わず、異なる宗教間、宗派間の戦争、今は政治対宗教の戦争も』


織田信長の長期政権に期待した宣教師たちは;

戦略の立て直しが必要になり、長崎港一帯を、キリシタン大名から譲りうけ、支配下に置き、更に最新兵器、大砲を九州に持ち込み、軍事力の強化を、図ろうとしていたようです。

 

宣教師たちが蓄え始めた軍事力は、信長にとって大きな脅威になっていく中で、自分こそ支配者と宣言した織田信長でしたが、このころは、関白はもとより、征夷大将軍にもなる様子がない時期に、京都に滞在中に明智光秀の謀反『本能寺の変』を、信長は察知できていなかった。 なぎなたで戦った後、銃弾を受けたあと、自害しました。

 

宣教師たちは、日本の軍事力を利用した中国征服計画を:

信長の後継者を決める山崎の戦いでは宣教師たちが睨んだのは、秀吉でした。

宣教師たちは高山右近らキリシタン大名に対し、秀吉側に加わるように働きかけていました。

 

朝鮮出兵・中国征服計画の基地・名護屋城 城下町模型

ウエブ情報から引用

今後の継続調査のために、ウエブ情報の抜粋・引用です。

リスボン大学 ペドロ・コレイアは;
右近たちが勝利すれば、キリスト教の勢力拡大に、有利に働く。 宣教師たちは、情勢の変化に期待していた。 宣教師たちの狙いは的中。  政権中枢には、多くのキリシタン大名、名を連ねたのです。 秀吉の時代、日本のキリシタンは 30万人を突破。

最大の目標である中国。 
高価な陶磁器や絹織物、金や銀などの貴金属にあふれ、世界一豊かな国でした。 日本の軍事力を利用した中国征服計画、実現のため 宣教師は、秀吉に働きかけます。 われらの軍船をお貸ししましょうか。 キリシタンも意のままに動きましょう。 1592年、中国征服の足掛かりにしようと、始まったのは朝鮮出兵。 キリシタン大名を先陣とする大部隊が、海を渡りました。

戦いは激化し、推定で74万人が動員される、大戦争になりました。 最前線で戦う、キリシタン大名の犠牲が急増。 拡大を続けるキリシタン勢力を脅威と捉え、その力を削減しようとしていた秀吉。 日本では、バテレン追放令が出され、キリスト教の布教も禁じられていました。 宣教師の思惑とは、かけ離れた形で進んでいく戦国日本。

宣教師たちにとって、想定外の事態が;
秀吉の野心がスペインの植民地フィリピンにも、向けられたことを知ったのです。 秀吉が狙ったのは スペインの富。 征服王フェリペ2世の、植民地を奪うことで、朝鮮出兵の戦費を賄おうとしていました。 

しかし 1598年、スペインのフェリペ2世が急死。 その5日後 日本で秀吉が死去。 日本軍は 朝鮮半島から撤退を決定します。 宣教師が抱いた中国征服計画は、幕を閉じたのです。

フェリペ2世の死後、超大国スペインは、世界各地で行っていた征服戦争が、裏目に出て 国力が衰退。
ランダやイギリスなど新興国が台頭します。 新たに勃発した世界の覇権を巡る争い。 その最前線に、戦国日本のサムライがいたことが、最新研究から明らかになってきました。 あまたの日本人傭兵が、ヨーロッパ諸国の植民地争奪戦に参加。

家康と手を結んだオランダ。 豊臣家とつながるスペイン 決戦の舞台は、戦国最大にして最後の合戦 大坂の陣。 日本とヨーロッパの覇権争いが、深く結び付いていきます。

なかなか面白い観点の内容です。 

当時のヨーロッパは布教と征服が一体となっており、実はイエズス会はヨーロッパによる世界征服の尖兵であった。 こうして見ていると、想像以上にキリスト教勢力は邪悪な連中である。 信長と宣教師たちのお互いに利用しようとする虚々実々の駆け引きも興味深いところです。 しかしこうなってくると、本能寺の変の黒幕にイエズス会がいたという説もそう突飛なものには思えなくなってくるから不思議である。

なお日本を利用することを考えていた宣教師フランシスコ・カブラルは根っからの差別主義者で、日本人を内心でかなり見下していたという話もある。 だからこその『我々には日本を征服する権利がある』などと。 当時のヨーロッパ人では極めて普通だったというのも事実。

ヨーロッパ側の意図から戦国の歴史を読み解くという視点は、今まであまりメジャーではなかったようです。 しかし今回こういう新たな視点を入れることで、この時代の歴史がさらに立体的に見えてきました。 当時のヨーロッパが極めて侵略的であったのは疑いのない事実ではあります。

『洋の東西を問わず、異なる宗教間、宗派間の戦争、今は政治対宗教の戦争も!』

(記事投稿日:2022/10/07、#581)

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