『三人の著名な先生方の「邪馬台国と神武天皇の東征」についての考え方を今後の調査のために備忘録に!』
神武の東征ルート(一部は神話上とは言え!)
ウエブ情報から引用
『三人の説:三浦祐之氏・畿内説、梅原猛氏・出雲説、副島隆彦氏・九州説』
『「卑弥呼・邪馬台国」約1800年前だが謎が深い、中国の記録ありと日本の記録なしの違いと天皇制』
『天照大御神の伊勢鎮座に関わった皇女・倭姫命と東征、九州高天原と大和の間に出雲王国が存在?』
三浦祐之氏・畿内説(日本の日本文学者 専門は、古代文学・伝承文学,千葉大学名誉教授)は邪馬台国はどこにあったと言っているか。
三浦祐之氏の主張ポイント
- 日本海ルート説を重視 「魏志倭人伝」に記されたルートを、日本海側から出雲を経て若狭へ、そして内陸に南下してヤマト(奈良)に至る道筋と解釈。
- 「邪馬台国」は「ヤマタイ」ではなく「ヤマト」と読むべき 音の一致や地名の自然な読み方から、邪馬台国=ヤマト国とするのが妥当と考える。
- 投馬国=出雲説 「魏志倭人伝」に登場する投馬国を出雲と見なし、日本海ルートの中継地と位置づける。
- 箸墓古墳=卑弥呼の墓の可能性、奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説にも共感を示している。
- 纒向遺跡の重要性 奈良県の纒向遺跡の発掘成果を重視し、邪馬台国の中心地としての可能性を認めている。
三浦氏は、従来の九州説に対して懐疑的であり、海洋民の視点や古代の交通ルートを踏まえた独自のアプローチで畿内説を支持しています。
梅原猛氏・出雲説(哲学者、評論家、京都市立芸術大学名誉教授)は邪馬台国はどこにあったと言っているか。
梅原氏の出雲王朝説と邪馬台国との関係
梅原氏は著書『葬られた王朝』などで、以下のような見解を展開しています:
- 出雲にはかつて「王朝」が存在したとし、スサノオやオオクニヌシなどの神々は、実在した支配者層の象徴であると考えた。
- 古代出雲は、越(新潟)や播磨(兵庫)まで勢力を広げた「ヒスイ王国」であり、邪馬台国以上の規模と軍事力を持っていた可能性があると述べている。
- そのため、邪馬台国を「地方政権」と位置づけ、出雲王朝を「中央政権」とみなす構図を提示している。
邪馬台国の位置について梅原氏の立場
- 梅原氏自身が邪馬台国を出雲に比定したとは明言していませんが、出雲王朝こそが古代日本の中心的な政権だったという考えから、邪馬台国が出雲に近い地域、あるいは出雲と関係の深い政権だった可能性を示唆しています。
- 梅原氏はかつて「出雲神話は大和に伝わった神話を出雲に仮託したもの」としていたが、後にその説を撤回し、出雲神話は実際の歴史を反映したものだと認めています。
- つまり、梅原氏の思想を踏まえると、邪馬台国は出雲王朝の一部、あるいはその影響下にあった地方政権と、みなす見方が自然です。
邪馬台国との関係
梅原氏の理論では、邪馬台国は魏志倭人伝に記された地方政権であり、出雲王朝のような広域支配を持つ中央政権とは異なると考えられています。
つまり、
邪馬台国=地方政権、纏向=出雲王朝=中央政権という構図を描いています。
哲学者としての姿勢
梅原氏は、自らの過去の説(九州説)を撤回し、新たな考古学的発見を受けて柔軟に理論を再構築したことで知られています。これは学者として非常に誠実かつ勇気ある姿勢であり、彼の思想の深さを物語っています。
出雲王朝と邪馬台国の関係をどう捉えるかは、梅原氏の思想の核心に触れるテーマでもあります。こうした視点は、従来の九州説・畿内説とは異なる、哲学的かつ神話的なアプローチです。
副島隆彦氏・九州説(日本の作家、「副島国家戦略研究所」(SNSI)を主宰、元代々木ゼミナール講師)が支持する邪馬台国=太宰府説の根拠、推薦した書籍『物理学者が解き明かす邪馬台国の謎』(下條竜夫著)では、以下のような主張が展開:
副島氏が支持する邪馬台国=太宰府説の根拠
- 卑弥呼の本名は「玉姫」であり、太宰府に関係する神社に祀られている
- 『魏志倭人伝』の距離と方角の記述を復元すると太宰府に到達する
- 中国の古代文献の誤記や改ざんの可能性を考慮した分析
- 九州の交通の要所であり、古代の政治・宗教的中心地としての条件を満たす
副島氏はこの説を、物理学的な整合性(真理の整合説)を用いて支持しており、従来の文献解釈とは異なるアプローチで邪馬台国の謎に挑んでいます。
この説は、従来の『畿内説(奈良県周辺)』や『九州説(福岡・熊本など)』の中でも、特に太宰府に焦点を当てたユニークな立場です。
三国時代に邪馬台国が戦争の支援や外交関係を求めたのは、中国の 魏(ぎ)
邪馬台国は九州北部に位置し、出雲王国の傘下か。 又は敵対していた。
大和朝廷の東征?
『大和朝廷が畿内にあるなら、なぜ“東征”と呼ばれるのか?』という問いは、日本古代史の地理感覚や政治的視点を考えるうえで非常に興味深いです。
『東征』と呼ばれる理由
『東征』という言葉は、主に古代日本の神話や歴史書(『日本書紀』『古事記』など)で使われる表現で、特に神武天皇の物語に登場します。 以下のような背景があります:
神武天皇の出発地が「九州」だった
神武天皇は日向(現在の宮崎県)から出発したとされており、そこから畿内(奈良県)を目指して進軍した。 この移動は『東へ向かう征服』なので『東征』と呼ばれる。
古代の地理感覚
古代の日本では、九州が『西の地』、畿内が『中央』、関東や東北が『東の果て』とされていた。
畿内が政治の中心になる以前の物語では、畿内は『東方の地』だった。
畿内が「征服の目的地」だった。
神武天皇が「天下を治める」ために向かった場所が畿内であり、そこに都を築いた。
つまり「東征」は、畿内を中心とする統一国家の始まりを象徴する物語。
補足:その後の「東征」の使われ方
後世でも「東征」という言葉は、関東や東北方面への軍事行動を指すことが多くなります。
- 例:源頼朝の鎌倉幕府成立、明治政府の戊辰戦争など。
このように、「東征」という言葉は単なる地理的な方向だけでなく、政治的・象徴的な意味を持って使われています。
神武天皇の東征は作戦上、大きく迂回して伊勢を経由して、大和を征服します。
神話にあります。
三種の神器の一つである「八咫鏡(やたのかがみ)」を携え、伊勢の地へ辿り着いた倭姫命(やまとひめのみこと)という女性がいました。 倭姫命は第11代垂仁天皇の皇女です。
八咫鏡(やたのかがみ)
『古事記』では、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されている。
高天原
位置は神話上の場所ですが、実在の地と結びつける説もいくつかあります?
- 宮崎県高千穂説: 神話に登場の地名多い
- 奈良県説: 古代の都との関係から有力視
- 天上説: 地上には存在しない、神話だけの世界
- 作為説: 実在ではなく象徴的
高天原を『実在の地名』ではなく、神話的・宗教的な象徴空間として理解はやむを得ないとするも、邪馬台国は、畿内説と九州説で悩みます。
元々、八咫鏡は宮中に祀られていました。 しかし、先代の崇神天皇の頃、国内に疫病が流行ります。 これが鏡の祟りである、と考えられたのです。そのため八咫鏡は宮中を出て、他の場所に遷されるということがありました。
第11代垂仁天皇
『古事記』(神代重視、天皇家の出自正しさ強調)、『日本書紀』(豪族たちの神話も取り上げ、国家の歴史を述べようとしている)に第十一代と伝える天皇。活目入彦五十狭茅天皇・伊久米天皇などという。父は崇神天皇、母は大彦命の娘、皇后御間城姫。在位九十九年で崩じ、菅原伏見陵に葬られた。
これで、少し分かりました。 伊勢神宮と、出雲王国の位置づけが。
大和政権の始まり
成立時期:3世紀後半〜4世紀頃
中心地:奈良盆地(現在の奈良県)、特に、纏向遺跡周辺
今後の、更なる調査のために、ウエブ情報を集めて備忘録にしました。
其の一
大和政権は地域的集団が連合してできたものでその中で力のある者が王位に就いたのです。 そのためにはライバルを容赦ない殺戮を繰り返していたのは「記紀」にも載っています。
たとえば雄略も葛城の姻族の市辺押磐皇子など王位継承候補を次々殺害して即位し、自分に服さない葛城氏や岡山の吉備氏の反乱を制圧し大王直属の伴造に統括する体制を作り上げたのです。
それから大王や王族を中心にした朝廷の全国支配体制が確立すると朝廷内のこれら群臣らの合議による王位継承の推挙が制度化され、大連の大伴金村が初めは丹波の仲哀の孫の倭彦王を大王にしようとしたが自分を捕らえに来たと勘違いして逃亡したため豪族として近江に勢力のあった越前の継体が大王として迎えられたのです。
其の二
そもそも縄文時代に皇室が日本を建国し、積極的な婚姻政策によって地方の豪族と結びつき、神社の創建と古墳の造営によって、日本民族を統合して来られました。
文字が無かったので、定かではありませんが、まず間違い無いでしょう。 皇室による日本統一は平和的なもので、争った痕跡が殆どありません。
日本の皇室は、神憑り的な手法で、日本に君臨して来られたと思います。
其の三
トップの呼称が大王から天皇に変わりました。 元々大王が天皇に変わった時に呼ばれた人は少ないですが王位継承権を持っている方が大王と呼ばれるようになったようです。
天皇と呼称するようになったのは記紀では神武天皇の頃ですが、実際に変わったのは推古天皇からと言う説と天武天皇以降だと言う説もあります。 私は後者ではないかと考えています。 また、天皇制というか大和朝廷が確立したのも同時期では?と疑っています。
隋書、旧唐書倭国伝を参考にすると、7世紀初頭までは阿毎氏が倭国の王で邪馬台国のあった場所を都にしていたようです。
旧唐書日本国伝を参考にすると、『日本国者倭国之別種也』『日本旧小国、併倭国之地』と書かれています。 現代語訳すると『日本国は倭国と別種(別の国)だ』『日本は昔小国だったが倭国を併合した』とあります。 これは8世紀初頭703年に日本国の遣唐使が伝えたことです。
新唐書では、倭王の阿毎氏は筑紫城に住んでいて、神武の頃に大和州に移り住み天皇を名乗ったとあります。また、倭から日本に改名したのは7世紀後半の670年のようです。
ここで疑問になるのは邪馬台国より古い紀元前から成立しているはずの天皇の話を何故8世紀以降の遣唐使が語ったのか?記紀に書かれた神武東征ですが、紀元前に筑紫城から大和州に遷都した事を8世紀に?
続日本紀には記紀を編纂した時期に焚書があったことが書かれています。(この焚書は重要です。要調査) 日本が倭国を併合したと旧唐書にありますし、日本と改名した670年前後で天皇制が成立し、正統性を持たせるために日本は昔から倭国の王だったとするために紀元前からと改竄したのではないのでしょうか?
中国の歴史書や国内の力関係で、記紀を編纂した際に歴史を書き換えることができた箇所と出来なかった箇所があるので、矛盾が生じているのだと思います。 倭国の歴史と元々の日本の歴史があったはずですし、継体天皇の件は大和政権が当時はまだ小国の一豪族だったから勢力拡大するために必要だったからではと考えていますが、推測でしかないので根拠は乏しいです。
其の四
書物を読むと、大王(おおきみ)は、豪族の頭をそう呼んだらしい。 だから国の数だけ沢山いた。それに対して、天皇は、大和朝廷の頭で別格だった。
中国の易姓革命を真似た。しかし、血統が天孫に限られるのが違います。 大和朝廷は、寄合い所帯なので、合議制の連邦組織だったと思います。 氏姓制度も真似た。 大和朝廷を存続させる為の貢献度、特に物部、大伴氏は、かつて軍隊だったと書かれてました。
其の五
豪族には2種類いて、大和地方以外の豪族で早い時期に大王に従属したのが物部氏,中臣氏などの連の姓を与えられた氏族であり、軍事や祭祀など特定の職能を司った。
これに対して大和地方の有力氏族で早い時期に大王に臣
これ属してヤマト政権を構成したのが蘇我氏、葛城氏などの臣の姓を与えられた氏族。(どちらも結果的に出身地を調べるとそうなっているという話)
大王の名称が変わったのが天皇。 同じ人。大王は5世紀から7世紀半ばまで使われた。 7世紀半ばごろ、天武天皇のころに公文書でも大王から天皇に表記が変わり、弘文天皇の曾孫(天智天皇の4世孫)の淡海三船が初代神武天皇から44代元正天皇までのすべての天皇の名前を定めた。
ヤマト政権の中心が大王で、実際に戦争するのは軍事を専門にする物部氏などの有力氏族。 例えば蘇我氏は財政・外交などを担当し、中臣氏は神事・祭祀を司る。
天皇家(当時は大王)は大和地方の有力氏族を束ねる中心であり、祖神である太陽神・天照大神をはじめとする自然神を祀る神道の祭祀(神官)でもあるから、他の氏族では代わりにならない。
其の六
多くの豪族の王から代表選び大君と呼ばれた。
ーーー学者の多くーーーーー
物部、大伴、葛城、そして蘇我などなどから代表を選んだ、
8〜10世紀から独占する豪族が出来て世襲して現在に至る。
最大の根拠は
続日本紀に道鏡事件が書かれている。天皇になれなかったが、弟と共に流罪、僧籍も剥奪されていない。8世紀中頃はまだ世襲制ですらなかった。誰でも?天皇になれた筈。
上記が事実ならそもそも事件にすらならない。資格ない。
後年道鏡は天皇の隠し子の話が作れれている。整合しないから。
天皇の和風諡号に真人マヒトの姓がついている、姓カバネは豪族(=氏)に与えた尊称、前任の天皇が姓を与えた事になる。世襲なら必要ない。
道鏡事件
奈良時代の769年に起きた、僧侶・弓削道鏡が皇位を狙ったとされる政治的事件です。日本史の中でも特に異例で、宗教と政治が深く絡み合った出来事として知られています。
其の七
継体天皇は20年奈良に入れていない、その間奈良に天皇いなかったのか?
ならば天皇自体がいなくて良かったのでは?
謎の大王と呼ばれる。
継体天皇から世襲制に生ったと言う人もいる。
でも道鏡事件は矛盾する。
継体天皇の謎
仁徳天皇から続いてきた直系の皇子が不在となったため。
在位期間が「空白の世紀」と重なったことで様々な想像が膨らんだため。
大和とヤマト
前述したとおり、西暦200年代の「邪馬台国は大和(ヤマト)だ」と言って奈良盆地に無理やり決めてしまおう、という動きが文部科学者の文化審議会を牛耳る頑迷な古代史の学者たちから出ているのが今の今の動きだ。
大和の由来
中国から、この「大和」(大きな平和)という漢字を700年代にもらってきてそれを「やまと(山門)」という日本の土地の言葉に覆いかぶせた。 そして、漢字の大和と読ませた。
西暦400年代の100年間は、今の難波(大阪)や、その南の河内地方に大王(おおきみ)たちが大国をつくっている。 これが仁徳天皇や雄略天皇。 中国側の文献『正史宋書』では『倭の五王』と言われる。
西暦663年の『白村江の戦い』のとき、2 万8000人の全軍を出して大敗北したとき倭国(余談;倭国連合の中心に卑弥呼の子孫の邪馬台国があったか?夢のある課題が残った)は滅んだ。
九州の邪馬台国の旅が楽しみになりました。
(記事投稿日:2025/08/13、#1021)