知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『古代は、古代人は凄い 8(ペルシャ戦争の中のサラミスの海戦)』『中国の誇大表現に、劣らぬ「ヘロドトス」の誇大表現はサラミスの海戦にも?』

2024-01-27 17:10:51 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 8(ペルシャ戦争の中のサラミスの海戦)』
『中国の誇大表現に、劣らぬ「ヘロドトス」の誇大表現はサラミスの海戦にも?』
『古代史の中の戦争は、なぜ、スケールアップした記録になるのか』

情報源と、その情報内容の評価は、現代の情報過多で、かつ、フェイクニュースの  反乱する時代に、さらに、人類に驚異の『生成AI』がありますので、これからは、大変で収拾がつかなくなりますので、それも生成AIにお願い!

古代の三大海戦(正確な定義はなく、「レパントの海戦」は入りません))については、昔から興味がりました。
○サラミスの海戦(ギリシャvsペルシャ、BC480)
○ポエニ戦争(ローマvsカルタゴ、BC264~241)
 ○白村江の戦い(唐vs倭、AD663)

サラミスの海戦
 ウエブ情報から引用

の海戦を調べていて、気づいたのは、あの狭い海域にヘロドトスが歴史書に書き残した軍艦の数でした。 紀元前480年、サラミスの海戦に参加した戦力は、アテネ・ポリス連合軍が三段櫂船380隻(うち、アテネは180隻)とその他数隻、ペルシャ軍は三段櫂船684隻(ヘロドトスの「歴史」では900-1207隻)、なぜ、これほど誇大表現なるのか、今後の課題)、その他の船が数百隻だといわれている。

海軍は古代の地中海で生まれたと考えられている。 これは、中国などはあくまで陸上での戦闘が中心であったのに対し、ヨーロッパ周辺では地中海を舞台とした海上交易が早くから始まったため、その制海権を確保することが重要であったことに起因する。 紀元前15世紀からフェニキアが地中海を制し、その後古代ギリシャの海軍が地中海を制した。 古代の海戦はガレー船が中心で、船上に控えた兵士が弓や剣で敵船へ斬り込んで戦闘を行った。

紀元前1178年頃、古代エジプト王ラムセス3世がデルタの戦いで「海の民」連合軍に勝利する。 紀元前480年、サラミス海戦で三段櫂船を擁しテミストクレス率いるギリシャ艦隊が艦数で勝るペルシャ艦隊を撃破した。
海の民
海の民の背後にいた人々については多くの説がありますが、確認されているものはほとんどありません。 
  • 旧約聖書に登場するペリシテ人
  • 火山の噴火で故郷を追われたクレタ島のミノア人
  • エトルリア人、リビア人、あるいはインド・ヨーロッパ人

サラミスの海戦に参加した戦力は、アテネ・ポリス連合軍が三段櫂船380隻(うち、アテネは180隻)とその他数隻、ペルシャ軍は三段櫂船684隻(ヘロドトスの「歴史」では900-1207隻)、その他の船が数百隻だといわれている。

戦力ではアテネ側が圧倒的に不利であった。 戦闘が開始された状況には諸説あるが、その中に一人の女性指揮官がポリス連合軍の前に立って全軍を鼓舞し、戦闘が始まったという説がある。

先ずは、ペルシャ戦争の理解を
ウエブ情報から引用


ペルシャ戦争とは、
アケメネス朝ペルシャ帝国 VSギリシャ連合の3度に渡る対決、
始まりは紀元前500年から始まり、終結は紀元前449年。 カリアスの和約という平和条約が結ばれて終結となります。
では、このペルシャ戦争のきっかけと終焉までを簡単に、

イオニア植民市の反乱(BC500年)
当時、周辺の地域を次々に征服、撃退し大帝国となっていたペルシャ。 このペルシャから支配を受け、重税などの圧力を掛けられていたのが小アジアのイオニア人植民市。 その中でも特にペルシャからいじめられていたのがイオニア人植民市のミレトスという町、ギリシャの都市国家のひとつ。 当時のペルシャとギリシャの間では、地中海や黒海での商業圏をめぐる対立がありました。

そして、ミトレスの住民を中心としてイオニア植民市はペルシャに反乱を起します。 BC500年のこと、彼らの後ろ盾となったのはアテネでした。 これが、ペルシャ戦争のきっかけとなります。

第1回ペルシャ戦争(BC492年)
反乱の介入をやめようとしないアテネに対して、ペルシャは軍を派遣、当時のペルシャ大王はダレイオス1世。 まず、ペルシャ軍はギリシャの北側トラキアを制圧。 ギリシャ本土の攻撃に、艦隊を派遣するも、途中暴風に遭い、そのまま引き返した。 まずはギリシャの不戦勝。

第二回ペルシャ戦争(BC490年)/マラトンの戦い
ペルシャも再度攻撃を仕掛けます。 ペルシャの軍はエーゲ海の島々を攻略し、アテネのすぐそば、マラトンという地域に上陸。 アテネはスパルタに援軍を頼みますが神事で派遣を断られ、一緒に戦ってくれたのは都市国家プラタイアイ。 アテネ、プラタイアイ連合はペルシャに勝利、これが、マラトンの戦い。

マラソンの語源がこのマラトンの戦い。 マラトンでの勝利を伝える為に伝令を命じられた人がマラトンからアテネまでの長距離を1人で走りきりアテネのャ城門のところで力尽きた故事。 相手がペルシャとの戦いでした。 BC486年にペルシャのダレイオス1世は死に、継いだのがクセルクセス1世でした。

第3回ペルシャ戦争(BC480~479年)
 有名な戦い、スパルタの兵士300人でペルシャの大軍に突っ込んで全滅した。 この時のペルシャの国王はダレイオス1世の後を継いだクセルクセス1世。 10万のペルシャの大軍とスパルタ軍300名がテルモピレーという山と海で囲まれた場所で激突します。

4000人くらいの兵士を連れてきていたのですけど、彼らはペルシャ軍を見た途端に逃亡。 残ったのがレオニダス王を含めたスパルタの兵士300名だけだった。 スパルタの人たちは超戦闘部族で、強いですが、さすがに、この兵士の差を埋めることはできず、スパルタは敗北します。 これが、ペルシャ戦争におけるペルシャ最初の勝利となります。

 サラミス湾の海戦
ウキペデイア情報から引用

スパルタの敗戦でピンチとなったギリシャの諸都市。 そこに英雄が現れます。 テミストクレスというアテネの将軍。 彼は、ラウレイオン鉱山の収益を軍艦製造にまわして三段櫂船という特別な船を造っていた。 そして、ペルシャ海軍をサラミスにおびき寄せて大海戦に臨みます。

 アテネは200隻ほどの船を出し、ギリシャ連合軍も400隻ほど。 対するペルシャの海軍は700隻。 数の上では、ややギリシャ側の劣勢ですが、地の利を生かしギリシャ軍はペルシャに打ち勝ちます。 これが、サラミス湾の海戦。

アテネでは、軍役義務を果たした人に参政権が与えられました。 貴族や多くの平民も軍役を果たし参政権を獲得していたけれども、武器を買うお金もない人たちは軍役義務を果たすことができず参政権を持つことができませんでした。

しかし、サラミス湾の海戦によって武器も買えない人たちにもチャンスが巡ってきたのです。 船を漕ぐ役目です。 当時の船は帆をはって風の力で進むわけですが、戦争となれば風の吹くままに進むわけにはいきません。 敵船の逆に進んでいったら戦いになりませんから。そこで、人力で漕ぐのです。 これにより武器も買えない平民の人々も軍役を果たすことになり参政権を獲得することになります。

ギリシャの勝利
このサラミス湾の海戦で大勝利を得たギリシャは、その後の陸上のプラタイアイの戦いでも勝利。 さらに海上でもミカレ岬の戦いにも勝利しペルシャはエーゲ海から後退していくことになります。

 大国ペルシャ帝国からの攻撃をギリシャ連合軍は撃退したのです。 これは、よくペルシャの専制王政に対するギリシャの民主政の勝利だといわれます。 モチベーションの違いでしょうか。 ペルシャ軍は征服した地域の民や奴隷も軍の中に多くいたのに対して、ギリシャは志願兵なども多かったようです  。

その後の海戦
紀元前31年のアクティウムの海戦では、ローマ艦隊がアントニウス率いるカタパルトを装備したエジプ艦船に対して火矢と火壺を投擲して勝利を収めている。
1538年、プレヴェザの海戦でオスマン帝国が宿敵のアンドレア・ドーリア軍(スペイン)を撃破し地中海を制圧。スペイン勢力を地中海から締め出しイスラム教徒が覇権を確立する。 1571年に起きたレパントの海戦はガレー船同士の海戦の頂点あり、ガレアス船の投入など艦載砲も使用されたが、依然として接舷しての移乗攻撃が決定的な役割を果たした。

サラミス海戦の意義
ギリシャ・ペルシア戦争の転換点となりました。 サラミスの後、ペロポネソス半島、ひいてはギリシャ全体が征服を逃れることができた。 そしてペルシャ軍はその威信と士気(物的損失も同様に)に大打撃を受けた。 その後のプラタイアの戦いとミカレの戦いにより征服の脅威が取り除かれ、連合国は反撃を開始できるようになった。 ギリシャの勝利により、マケドニアはペルシャの支配に対して反乱を起こすことができた。 そして次の30年間で、トラキア、エーゲ海諸島、そして最終的にイオニアは、連合国かアテネが統治する後継組織であるデロス同盟によってペルシャの支配から外されることになる。 サラミスは力の均衡においてギリシャ側への決定的な動きを開始し、最終的にはギリシャの勝利につながり、エーゲ海におけるペルシャの力を大きく低下させた。

マラトン海戦やテルモピュライ海戦と同様、サラミス海戦(たとえば、より決定的なプラタイア海戦とは異なる)は、おそらく絶望的な状況と予期せぬ可能性のため、一種の「伝説」の地位を築いている。 かなり多くの歴史家がサラミス海戦を人類史上最も重要な戦いの一つとしている(マラトンについても同じことがよく言われるが)。 この議論のより極端な形式は、もしギリシャ人がサラミスで負けていたら、その後のペルシャによるギリシャ征服は、私たちが知っているような西洋文明の成長を事実上抑圧していただろうという主張である。

一部の歴史家 この見解は、哲学、科学、個人の自由、民主主義などの現代西洋社会の多くが古代ギリシャの遺産に根ざしているという前提に基づいています。 したがって、この学派は、現代史が主に西洋文明によって支配されていることを考慮すると、ペルシャによるギリシャの統治は人類の歴史全体の軌道を変えた可能性があると主張します。 非常に影響力のあったアテネ文化の輝かしい開花は、ペルシャ戦争に勝利した後に初めて起こりました。 軍事的には、実際に何が起こったのかが不確実であるため、サラミスから多くの教訓を引き出すことは困難である。 連合軍は再びペルシャ軍の数に対抗するために陣地をうまく選択したが、今回は(テルモピュライとは異なり)ペルシャ軍は陣地を強調するために不必要な攻撃を仕掛けるという手段に頼らざるを得なかった。 おそらく、この攻撃が引き起こされて以来最も重要な軍事的教訓は、テミストクレスが敵の望ましい反応を引き出すために欺瞞を利用したことにあるだろう。プルタルコスによれば、それまで目立たなかったキモンは「アテネ人の間で大きな名声を得た」という。戦いにおける彼の勇気に対して。この評判により、後に彼は政治家としてのキャリアをスタートすることができました。

古代の情報源と現代の情報源 
情報源とその情報内容の評価は、現代の情報過多でフェイクニュースの反乱する時代に、さらに、人類に驚異の『生成AI』がありますので、これからは収拾がつかなくなります。
(記事投稿日:2024/01/27、#721)
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『すぐそこにある緊急課題に関する本“人新生の「資本論」”』 『この本から、知りたい「人間はどうすればよいのか、打つ手は?」』

2024-01-25 23:06:29 | 読書
『すぐそこにある緊急課題に関する本“人新生の「資本論」” 1』
『この本から、知りたい「人間はどうすればよいのか、打つ手は?」 1』

この表題の本を読んだときに思い出しました。 『半世紀以上も昔、20代で香港に海外赴任しました。 その頃から『悲観論者』になりました。 理由は、当時はすでに引退されていた『経団連の会長時代「財界総理」と呼ばれた石坂泰三さんとの会食に末席参加の機会がありました。 引退後でも名刺に書き込めないほど肩書をお持ちだったと記憶しています。 その時の一言『人間は「業」持ちだから、・・・いろいろ難しい』と。『・・・』は、共産主義と資本主義の今後についての話題でした。

 ウエブ情報から引用

この本は発売してすぐに、39万部も売れた本ですが、評価やレビューは全体的に高いのですが、批判的な意見も目立ようです。 この本の抜粋・引用です。

斎藤幸平氏 著『人新生の「資本論」』「新書大賞2021」受賞作!
人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。 気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。 それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。 いや、危機の解決策はある。 ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。 世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!

気候問題が深刻化しているため各国が対策をしているが、それはすべて資本主義をベースとした取り組みで、このままでは気候問題は解決できない。

そこで資本主義をやめ「脱成長経済」をして消費主義・物質主義から決別し、自己満足度を高める生活が必要になります。

なぜなら資本主義をベースとした取り組みでは気候問題は解決できないため、人々が自発的に自主的に気候問題に対して取り組む必要があります。

そのためには国や一部の企業の資本家が公共財を管理するのではなく、民主主義的に人々が協力して水・電気・医療・教育・介護などの公共財産を管理する(コモン)の発展が重要になります。

この「コモン」を発展させるためには「脱成長コミュニズム=平等主義」とい概念が重要で、脱成長コミュニズムをすることでコモンが発展し、民主主義的に人々が協力して公共財を管理するのと同じように、気候問題も人々によって管理(環境対策)されるようになると、気候問題を解決する可能性が高くなる。

斎藤幸平氏
 1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は経済思想、社会思想。Karl Marx’s Ecosocialism:Capital,Nature,and the Unfinished Critique of Political Economy(邦訳『大洪水の前に』)によって、権威ある「ドイッチャー記念賞」を歴代最年少で受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
ドイッチャー記念賞
アイザック・アンド・タマラ・ドイッチャー記念賞は、歴史家アイザック・ドイッチャー夫妻を記念して、毎年「マルクス主義の伝統における、またはついての最高で最も革新的な新しい書物を例証する」英語で発表された新たな本に対して授与される賞で、1969年から続いている。

この本に、まったく同感ですが、今の逼塞感、閉塞感を、乗り超えていくには、人類は、限界のある地球に住まねばならない以上、皆で動植物を大事にする気持ちを、持って、『80億人でやる、節電・節水・節肉食・公共交通機関移動』  で贅沢な生活をやめて、皆で質素な生活をする方法以外には、ないような気がします。

先ずは、特に日本が率先してやらねばと思うこと;
この本の心配事も、重要な問題・課題ですが、浅学菲才の傘寿プラスには、今の日本は、物事をクイックに決められないのは、『縦割り多制度・多規制不全』に起因するのではないでしょうか。 せめて最低賃金の改善を最優先で実現いただきたいと思っています。 どの課題・切り口から取り組んでも、必ず『縦割り多制度・多規制』に関連します。 凄いリーダーと、生成AI達人の小さな集団が必要です。

特に政治家・高級官僚の方々には、日本語の難しさ『表意文字漢字と、表音文字ひらがな、カタカナも混在の中で、更にはカタカナ英語急増』を知った上で、ヒト・モノ・カネ(これらに「時間」を加えて)を数値とその推移・変遷で理解頂き、更に海外との比較で説明・議論をして結果を出して、実現をして頂きたいと、期待しています。

『ヒト・モノ・カネ(これらに「時間」を加えて)』を、最も尊敬する『知の巨人・立花隆氏』が、子供たちに教えています。 『大人たちに』ではもう遅いということでしょうか。
(記事投稿日:2024/01/26、#F216)  
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『山は美しい 16(昔「岩」やった奴にはたまらない、「伯耆大山」)』 『北壁と言えばアイガーですが、クライマーたちが憧れる大山北壁』

2024-01-25 11:42:30 | 山・山岳
『山は美しい 16(昔「岩」やった奴にはたまらない、「伯耆大山」)』
『北壁と言えばアイガーですが、クライマーたちが憧れる大山北壁』

伯耆大山は、頂上の弥山を中心に東西4Kmの陥没カルデラは浸食が激しい。日本海まで裾野が伸び、秀麗な姿は古来より人々の後付き信仰の対象となり、古代の山岳信仰が高まるにつれ多くの山伏が入山し、開山は役の行者が弥山を開いたと伝えられている。 昔「岩」やった奴にはたまらない、「伯耆大山」。

『伯耆大山』が『伯耆富士』と呼ばれる所以は、普通に撮られた写真よりは、この『立体地図』では、一目瞭然です。 蒜山三座(上蒜山・中蒜山・下蒜山)が大山連峰の東に連なっています。

 ウエブ情報から引用

蒜山は快晴・伯耆大山もくっきりと
大山の南側は牧歌的で、南東に続く蒜山三座

 ウエブ情報から引用

大山連峰と前衛の山並み、
中国の山水画を彷彿、大山北壁は、南側とは好対象

ウエブ情報から引用

大山北壁の墓場尾根(左尾根

ウエブ情報から引用

この不気味な名前の尾根クライミングについて、ベテランクライマーがこう言っています。 『墓場尾根は最近登っている人が少ないため情報は少なく、我々が入手できた情報としては、14ピッチの泥尾根で一切支点は無く、途中撤退は出来ないという事くらいである。泥尾根の情報だが実際は岩屑の塊である。壁が立っているところは、バイルが利かない。ハーケンを打っても、すぐに岩屑が剥離して、きまらない。墓場尾根下部には枝細い潅木が少しあるが、中部以降は支点を取る事もできない。リードもフォローも失敗は絶対に許されない。 この尾根は安易な気持ちでは入れない。不確定要素が多すぎる危険な尾根・墓場尾根である』と。
現役のころでも、伯耆大山は、遠くから見る山、登るなら尾根筋を選ぶことを再認識しました。 いつものことですが『登りそこなった山は、傘寿プラスには実に遠い』をしみじみと回顧しています。 もし、四半世紀、若かったら蒜山三座の下蒜山、中蒜山、上蒜山、伯耆大山(『出雲風土記』に、火神岳(ほのがみのたけ)の名で登場する。 我が国で最も由緒のある山)へと、牧歌的な尾根筋の縦走をしたいと思っております。
(記事投稿日2024/01/25、#720)

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『「地震の震度のこと」震度7以上は区分しても意味がない?』 『「気象庁震度階級」の抜粋・引用を備忘録にして、今後の勉強に!』

2024-01-23 16:41:23 | 地球・火山・地震・津波
『「地震の震度のこと」震度7以上は区分しても意味がない?』
『「気象庁震度階級」の抜粋・引用を備忘録にして、今後の勉強に!』

ウキペデイア情報からの抜粋、引用;
気象庁震度階級は、日本で使用されている独自の震度階級。 地震の揺れの大きさを階級制で表す指標である。 単に震度ともいう。

震度階級の創設と改訂の歴史
1872年、地震観測開始、
1884年、日本最初の統一様式「微震」「弱震」「強震」「烈震」の4段階
1898年、「無感」「微震」「弱震(震度弱キ方)」「弱震」
     「強震(震度弱キ方)」「強震」「烈震」の6段階になり、0から6の
      数字が振られ7段階に
1949年、震度7が設けられ、震度0から 7 の8段階に

 ウキペデイア情報から引用

震度を津波予報の判断材料とすることが定められ、素早い判定のために震度4と6の体感の様子が説明文に追加された。 後の1978年にはすべての階級に体感が追加されている。

体感から機械計測へ
19996年、体感による観測を全廃して震度計による観測に完全移行するとともに、震度5と6にそれぞれ「弱」と「強」が設けられて10段階に

体感震度と計測震度の関係
震度3以上では旧気象庁震度階と現在の計測震度との間に概ね良好な相関関係が認められ、統計的な連続性をほぼ維持していることが判った。 しかし、震度2以下では相関が悪く、例えば旧気象庁震度階で震度0とされた観測点の強震記録をもとに計測震度を計算すると0 - 2.7(震度0 - 震度3)までバラつきがあり、特に計測震度1.0から1.8(震度1 - 震度2)付近に集中している。 す なわち、計測震度計によって震度1や2が観測されても体感震度では「無感」となることも大いにあり得る

震度の数値化(1)
震度と計測震度の関係表[21]
震度
計測震度
0
0.5未満のすべて
 1
0.5以上 1.5未満
 2
1.5以上 2.5未満
 3
2.5以上 3.5未満
 4
3.5以上 4.5未満
 5弱
4.5以上 5.0未満
 5強
5.0以上 5.5未満
 6弱
5.5以上 6.0未満
 6強
6.0以上 6.5未満
 7
6.5以上のすべて

震度の数値化(2)
震度と加速度の目安
震度
加速度 [gal(cm/s2)]
  0
0.8以下
  1
0.8 - 2.5
  2
2.5 - 8.0
  3
8.0 - 25
  4
25 - 80
  5
80 - 250
  6
250 - 400
  7
400以上

日本以外での使用
気象庁震度階級は、日本独自のものであり、周辺国以外では使用されていない。台湾では、1996年に日本で用いられていたものから震度7を除いた震度階級(震度分級)、すなわち、1949年以前の日本の震度階級とほぼ同じものが長年用いられてきた。 現行の震度階級「中央氣象局地震震度分級」、2000年8月1日公告修訂版では、震度7が定義されているものの、日本と異なり、震度5・6の強・弱の区分がなかったが、2019年4月、中央気象局は同年内を目途に日本同様の10段階へと改める方針を表明した。 また、韓国では、過去に日本のものを模した震度階級が使用されていたが、2001年からメルカリ震度階級に変更された。
メルカリ震度階級
メルカリ震度階級は過去の地震の被害状況をもとに、被害の大きさの違いが明瞭に分かるよう区分されており、日本の気象庁震度階級のように計器観測に基づく数値により厳密に定義されたものではない。 一般に、小さな揺れの場合には人間の感じた揺れの大きさに基づいて判断され、揺れが大きい場合には地形や埴生などの自然、ビルや家屋、橋、ダムなどの建築物、構造物の被害状況に基づいて判断される。

地震が発生するたびに聞いていた専門用語ですが、数値化されているのに驚きました。 後は地震発生に備えることが一番肝要であることが、よく分かりました。 昔から『地震・雷・火事・親父』と言いますが、やはり、地震(津波)が一番怖いのですが、今、最も恐ろしいのは、地球をどんどん住み難くして、災害を拡大し易くしている人間と、それに無関心な『俺・僕・私関係ネー』の世情ではないでしょうか。
(記事投稿日:2024/01/23、#719)
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『運河のこと 3(パナマ運河、5年間住んで、理解したつもりが)』  『フランスは水平式で失敗、米国が現行の閘門式に変更して成功!』

2024-01-22 22:49:00 | 河川・運河
『運河のこと 3(パナマ運河、5年間住んで、理解したつもりが)』 

『フランスは水平式で失敗、米国が現行の閘門式に変更して成功!』

『1970年代、第2運河・水平式を、建設費削減に原爆での掘削案まで検討が』
『水平式の問題、太平洋とカリブ海の潮位差が大きく、生態系の差も大きい』
   
『あきずに、ひねもす見ていた運河ですが、その建設と歴史には、いろいろと、日本との関連があったことに驚きが』

『ところが、最近、異常気象による異常渇水が、パナマ運河の所以?「熱帯雨林気候で潤うガトゥン湖(湖水面海抜26ⅿ)の無限の水を利用したパナマ運河(フランスの水平式に対する米国案の閘門式)は、今は、水不足で、距離約80㎞の運河を通航できる船舶数が限定され、数日あるいは数週間にわたって列を成して待機する状況が発生している』

パナマ運河断面図
 
ウエブ情報から引用
英語の運河(カナル)も、日本語・中国語の運河の意味も、ほぼ同じで、『船舶の航行、灌漑、給排水などのために陸地を、切り開いてつくった人工の水路』ですが、英語のカナルには『管』の意味もある。 

世界的に有名な運河は、
  • 水平式(海面式)スエズ運河(193㎞、 高低差なし、 工期1859-1869)
  • 閘門式パナマ運河    ( 82㎞、 高低差26m、  工期1905-1914)
  • 閘門式大運河・京杭大運河(1794㎞、高低差40-50m、工期 BC5-AD6世紀)
規模と工期から見ても中国の、京杭大運河はスケールが違う、世界の三大運河は、スエズ運河、パナマ運河、キール運河ですが、京杭大運河とは、比較対象にならないからでしょうか。

パナマに住んだことのある日本人は勿論、外国人では『あきずに、ひねもす見ていたパナマ運河を』と言う方々を大勢知っております。 これはパナマ運河の波乱万丈の歴史とエピソードを知れば知るほど、見るたびに、それが脳裏をめぐるからであろうと思います。

  • パナマ運河完成までに出た犠牲者の数は 合計 27,600人で、運河1㎞当たり死者 345 人 の割合でした。
  • 1887年、売れない画家だったポール・ゴーギャン(1848~1903年)は資金援助をあてにして親戚が暮らすパナマに渡る。 が、期待は見事に裏切られ、パナマ運河の切削作業員としてアルバイトせざるを得なくなりました。
  • 20世紀最大の土木工事であった、フランスによる運河建設と挫折。 理由は黄熱病やマラリア等、沢山あるが、パナマ地峡の山地は標高195mのゴールドヒルを最高点とする運河掘削地域。 平均標高で70m程度(クレブラの丘、標高103m)であり、ここに水平運河が無理であったのが一因。(表題『1970年代、第2運河・水平式を、建設費削減のために原爆での掘削案まで?』参照)
  • フランスは挫折の後、難工事とマラリアの蔓延により放棄。 その後、その後、パナマ運河地帯としてアメリカ合衆国によって建設が進められ、10年の歳月をかけて1814年に開通した。 長らくアメリカによる管理が続いてきたが、1999年12月31日正午をもってパナマに完全返還された。 米国が引き継いだ背景は、

パナマ運河会社の倒産によって、フランス共和国は運河建設から事実上、手を引くこととなり、運河建設はアメリカ合衆国によって進められることとなった。太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカにとって、両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも必須のものであると考えられた。

パナマ地峡は当初は自治権を持つコロンビア領であったが、パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下に置くことを強く志向した。

アメリカは、1903年パナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し、建設工事に着手した。
1905年にアメリカ資本による建設事業がスタートした。合衆国中を資本が駆け巡り、同年から翌年にかけて全米手形交換所の総交換額は1.5倍に急増した。工事開始後、当初の数年間は疫病の流行などにより工事は遅々として進まず、海面式運河にするか閘門式運河にするかの建設計画さえ決定していない状態だった。

1910年にはガトゥンダムが完成し、1913年にはダムが満水となってガトゥン湖が誕生した。一番の難工事であったクレブラ・カットの開削も完了し、パナマ運河は予定より2年早く1914年に開通した。
結局、この工事には3億ドル以上の資金が投入された。 運河収入はパナマに帰属するが、運河地帯の施政権と運河の管理権は、アメリカ合衆国に帰属した。なお、ルーズベルト大統領は完成直前に死去した。
運河の開通した1914年は、第一次世界大戦開戦直後であり、このため運河利用は1918年頃まで低迷を続けた。 しかし1930年代後半になると世界情勢が再び緊迫し、大日本帝国との対立が激しくなる中、アメリカ合衆国連邦政府はパナマ運河の拡張案を成立させ、1939年に着工した。
この工事は別水路を作って、パナマ運河の通航可能量を増大させるもので、新規の閘門を作ることから「第三閘門運河」と呼ばれたが、第二次世界大戦中の1942年に拡張工事は中止された。 しかしこの工事跡はその後も残り、21世紀に入って、パナマ運河拡張案が再浮上した時に再利用されることとなった。 なお、1941年4月に、第二次世界大戦に入ったヨーロッパ戦況の激化を受けてアメリカとイギリス船以外の利用が禁止された。

なお第二次世界大戦中、アメリカ海軍の艦艇はパナマックスサイズで建造されている。これは、大西洋から太平洋戦線、またはその逆の転戦を容易にする為の措置であり、パナマ運河の軍事的要衝の証明である。

新運河建設地は各所で検討された。 アメリカの大西洋-太平洋間運河調査委員会(APIOSO)は、一時、核爆発を利用した新運河建設を検討したものの見送られ、1970年に現パナマ運河に並行して海面式運河を建設する案をニクソン大統領に勧告した。 1970年代に入ると日本の経済的躍進や世界経済の拡大によってパナマ運河の容量不足が徐々に叫ばれるようになり、1982年にはパナマ、アメリカと日本の3か国によるパナマ運河代替調査委員会(3か国調査委員会)が発足したものの、当時のマヌエル・ノリエガ政権はアメリカと不仲であり、この案はいったんほぼ立ち消えとなっていた。

パナマ運河には、壮大なロマンと歴史があります。
(記事投稿日:2024/01/22、#718)
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