知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『「山やっていたから」夢のインターハイの蒜山登山大会に参加できました』―小・中・高校時代に、登山・キャンプで共同生活体験を、後で役立つのでー

2020-05-28 13:36:22 | スポーツ

『「山やっていたから」夢のインターハイの蒜山登山大会に参加できました』

―小・中・高校時代に、登山・キャンプで共同生活体験を、後で役立つのでー

 

 新型コロナ感染症の所為で、「2020年のインターハイ(全国高等学校総合体育大会・高校総体)の中止が、4月26日に決定しました。 半世紀前にはインターハイとは呼ばれてはいなかったと思います。 

 その半世紀も昔のことです。 当時は高校の山岳部で『山をやっている』と、県代表選考試験を受けられ、それにパスできると、インターハイ(全国高等学校総合体育大会・高校総体)参加できました。 一方、国民体育大会(国体)の登山大会にも、推薦か選考かは、不確かですが参加できました。 この年は、高校総体の登山大会は、女性・初心者向けの牧歌的な岡山県の蒜山三山でした。
蒜山三山(ウキぺデイアから引用)
 

 

 国体の登山大会は、山男なら憧れの、健脚・ベテラン向けの愛媛県の石鎚山で、この大会には、山岳部のキャプテンが参加しました。
石鎚山(ウキぺデイアから引用)

 いろいろ、石鎚山への思い入れはありましたが、蒜山三山には、沢山のエピソードや、思い出が残りました。 この三山の麓には、当時『乳流れる里』とも言われた日本有数の飼育数を誇るジャージー牛の牧場もありました。  当時は、岡山県の蒜山も、蒜山三山も知りませんでした。 日本人は、連なった山に『○○三山』と名付けるのは、上手くて好きで、日本には、54ヶ所の三山があります。 関東人が良く知っているのが、上毛三山( 赤城山・榛名山・妙義山)、日光三山( 男体山・女峰山・太郎山)などです。

 蒜山三山、左から、上蒜山(1,202 m)・中蒜山(1,123 m)・下蒜山(1,100 m)、蒜山三山は、大山、三瓶山とともに大山隠岐国立公園として国立公園に指定されてます。
 

『昔のことは、はっきりと、最近のことは、ぼんやりと』で過ごしていましたが、自分がインターハイに参加できたことを備忘録に残そうと頑張っていますが、恐ろしいほど『忘却の彼方』なっています。

❶選抜テスト
 C県の選考試験には、数校、20数名が参加しました。 実地試験は、習志野丘陵を軽装備で歩くものでした。 難問の筆記試験は、幸運でした。 

『第一問』 リーダーシップを箇条書きしなさい。
 これは、一夜漬けで、山岳部の部室にあった『白水社 山岳講座 1』を読みかけていたのが当たりました。 第一節に『リーダーシップ』箇条書きで記述されていましたので、ずばりヤマが当たりました。
  

『第二問』5名の山行の献立と食材リスト(調味料含む)作成しなさい。
 ついているときは、ついているものです。 いつもは体力任せの『ボッカ役のカツギ屋』が常でした。 つい数週間前の山行で、炊事担当を命ぜられ、『5名の縦走山行の献立と食材リスト(調味料含む)』で、苦心惨憺の経験をしていました。

❷栄えあるテレビ放送局のインタビュー
 開会式の『選手宣誓』には、40数校のリーダーが、各県の高体連旗を捧げ、『選手宣誓』を円陣で囲みました。 無事終わった後に、突然、某テレビ局岡山支局のインタビューを受けました。 もたもた、十数分間いろいろ、やり直しながら応えました。 ホットした瞬間でした。 これから本番でお願いしますと。 

なぜ、インタビューを自分がされたかは、有頂天のあまり、数日は気が尽きませんでしたが、後でやっと分かりました。 エンジのユニフォームにエンジの『正ちゃん帽』のかぶり方でした。

ウエブの通販カタログから引用

 この帽子の前の部分の折り返し部分だけを下ろして、つばのように見せて、一見チロリアンハット風にしていました。 当時の高校生のほとんどが、次の、チロリアンハットまたは、トレッカーハットでした。

ウエブの通販カタログから引用

 ウエブの通販カタログから引用

❸水場にイモリ
 蒜山三山の縦走路のキャンプ場は草原ですので谷川ではなく、草原を流れる小川でした。 炊事の時間はまだ明るかったのですが、チームによっては、鍋でご飯を炊くチームありました。 背中合わせの、女子テント場の、女子高チームのテントから、突然『ギャー』という悲鳴が上がりました。 

 男子校チームのナイト気取りで行ってみますと、炊きあがったご飯の中に紛れ込んで、炊き込まれたイモリが見えました。 我がチームは飯盒炊飯でしたので、その鍋は二度と使わないという女子高チームに、自分たちの使い終わった鍋を貸してあげて、なんとか収まりました。 この女子高チームの『登山ユニフォームが真っ白』で、強烈な印象が残りました。
                           (20200528纏め #171)

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『世界の城郭 6(べログラトチク要塞 どんな攻防にも耐える!)』―地球上の生物で、戦い続けるのは人類、今は使えない究極兵器の持合いで― 

2020-05-25 17:30:24 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 6(べログラトチク要塞 どんな攻防にも耐える!)』

「地球上の生物で、戦い続けるのは人類、今は使えない究極兵器の持合いで」

 

 城郭は、いつ見てもロマンを掻き立てます。 この要塞は、自分たちの家族・同胞を守るために『ロケハンと予想縄張り』を繰り返し、最終的に、ここ『ベログラトチク地域の奇岩群は防御面で天然の要塞』になっており、城壁は要塞の南東部と北西部にのみ建てられている。

 ベログラトチクは「小さな白い町」を意味し、バルカン山脈のふもとの丘陵地帯にあり、セルビア国境のすぐ東、ドナウ川から50キロメートル程度のところに位置している。 町は不思議な形をした奇岩・ベログラトチク岩で知られる。岩は範囲90平方キロメートルにわたって広がり、最も高いところで200メートル程の高さを持っている。町は奇岩と中世のベログラトチク要塞で知られ、観光旅行先となっている。

 古代から中世には、いろいろな砦や城が造られました。 ヨーロッパのドイツ語圏内だけでも、19,000以上もあったとも言われ、ヨーロッパ全域では数万と想像ができます。 日本でも山城が殆どですが、4-5万と言われてます。 これほどの群雄割拠の争いが、多い人間の社会には、やはり驚くばかりです。

 今回の『べログラトチク要塞』ですが、ドローンの空中撮影の映像を見ますと、とにかく天然の山城・要塞にぴったりの岩塔を城壁にできる天然の要塞で、単に守りやすいだけではなく、夢を感じさせるような縄張りであり、造作です。 城の区分をあらためて、ウエブ情報の『城/砦/城塞/宮殿とは - 西洋ファンタジー用語ナナメ読み』のからの引用です。 これからの世界の城郭の調査の参考にすべくリストしました。

駐屯地/ギャリソン(Garrison)
「駐屯地」は、陸軍のような活動拠点が定まらない部隊がほうぼうで用いる基地施設。 軍事基地というよりは事務所や寮といった感じで、生活に必要な施設が揃えられているものが多いようです。 なお、街の一角がそのまま駐屯地として使用されることもあります。

城塞/城砦/シタデル(Citade)
「城塞」は街を防御するための砦。城壁で囲まれた都市の入口など要所に更に砦を設置したもの。 シタデルの語源は「市民」を意味するラテン語の「Civis」より。

要塞/砦/フォート/フォートレス(Fort) 
「砦」「要塞」は要所防衛のために作られた、防備強化された軍事基地。
兵士らが詰めるため寝泊りすることはできますが、城のように生活することを考えられているわけではありません。

城郭都市/城壁都市/城市(Fortified Town) 
「城郭」は「城と城壁」の意味で、城(および街)とそれを囲む防壁を併せて指す言葉。 壁で囲まれた都市のことを「城郭都市」や「城壁都市」などと呼びます。

城/城郭/キャッスル(Castle)
領主や将軍らの居住施設を兼ねた、戦時の防衛拠点となる建造物。
武器庫や食料庫などの設備を持ち、敵襲時に備えます。

宮殿(Palace)
王族やその一族らの居住施設で、基本的に軍事機能は持ち合わせていません。
居住性は元より、権威の象徴を重要視して華美に作られます。

 ここでは、このユニークな要塞『べログラトチク要塞』の遠景と縄張り(ウキぺデイアより引用)を紹介の上、実戦記を調べてみました。

 

縄張りと平面図

 

表面のゲート(First Outer Cityから全容の望む)
 

 

 

Inner City(からSecond Outer CItyを見下ろす)

 
この守りに強そうな堅固な要塞ですが・・・、

 この地に最初の要塞が建造されたのはこの地域がローマ帝国の一部だった時代、当初は監視用のもので、厳密には防衛用の城砦ではなかった。 14世紀になるとブルガリアのツァールであったイヴァン・スラツィミルがこの古い城砦を拡張し、守備隊を置いて要塞化した。 これが現在の要塞の直接の前身となった。 イヴァン・スラツィミルの治世中、ベログラトチク要塞は首府ヴィディンのババ・ヴィダ要塞に次ぐ、最重要の要塞のひとつとして扱われるようになった。 

 その後1396年にオスマン帝国軍の攻撃を受けて占領された。 オスマン帝国はこの地域でのハイドゥクのような反乱勢力の鎮圧を進めるために要塞をさらに拡張した。 19世紀になると更なる変化がもたらされた。 それはこの時代のオスマンの典型的な建築術を用いて全面的な改築が実行され、要塞はさらに拡張された。 特徴的なヨーロッパ風の意匠はこの拡張に参加したフランス人とイタリア人の技術者によって付け加えられたものである。 

 1850年にはベログラトチクの反乱が発生し、要塞はその鎮圧に重要な役割を果たした。 1885年にセルビア=ブルガリア戦争に使われたのを最後に実戦に用いられることはなくなった。 

見た目の印象よりは、静かな要塞の歴史であったようです。
                  (記事投稿日:2020/05/24、#169)                   

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『大運河のこと 1(「黄河vs長江を横切り、この北京と杭州を結んだ2500kmの京杭大運河は1400年以上掛けて建設)』

2020-05-19 17:21:48 | 河川・運河
『大運河のこと   1(黄河vs長江を横切り、この北京と杭州を結んだ2500kmの 京杭大運河は1400年以上掛けて建設)』

水平式スエズ運河と閘門式パナマ運河を初めて見たときは、こんなに歴史の古い巨大な閘門式大運河が中国に存在を知らず!!』     
 

不思議なことで、大河川を大河とは言いますが、世界には大きな川は多くありますがそれらを、大川(だいせん)とは呼びません。 大川(おおかわ)は、江戸の大川(隅田川の吾妻橋から河口まで)や、難波の大川(淀川の毛馬水門・毛馬閘門から河口までの一部)です、

四大文明」とは、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明をさす、長江文明、メソアメリカ文明、アンデス文明などは基本的に含まれず、アメリカ大陸の文明を含めて六大文明と解釈することもあり、 最近は長江文明を含み中国文明とも言われることもあります。

大河と文明発祥は、密接な関連がありますが、大きな『河床勾配』の暴れ大河『ユーフラテス川』『インダス川』よりも『ナイル川』『黄河』『長江』のように、小さいか、又は程よい『河床勾配』が、農耕民族に、ゆっくりと安定した継続的な文明の発達をさせてくれるのでないか思いました。 先のブログで『河床勾配』を計算してみました。

 文明      河川     長さ     水源海抜     河床勾配 
エジプト     ナイル    6853㎞   1134ⅿ    0.02%
メソポタミア   チグリス   2850㎞   1150ⅿ    0.04% 
         ユーフラテス 2800㎞   3520m    0.13%
インダス     インダス   3200㎞   4500ⅿ    0.14%
中国       黄河     5464㎞   4800ⅿ    0.09%
         長江     6300㎞   5042ⅿ    0.08%

ウエブ情報(黄河と長江の画像)から引用

 

3世紀には中国の主要5河川が、京杭大運河で結ばれ、国家の経済、文化交流に重要な役割を果たした。 運河の大部分は現在も利用されている。

 
ウエブ情報(黄河と長江の画像)から引用 

この京杭大運河は、北にある北京から始まり、北京、天津両市及び河北、山東、江蘇、浙江四省を経由し、南にある杭州まで延びています。 そして、海河、黄河、淮河、揚子江、銭塘江という五大水系を閘門なしで通過します。 京杭大運河は、全長2500㎞で、スエズ運河(164km)の15倍で、パナマ運河(83km)の30倍です。 

京杭大運河の断面図を見ますと、水平式のスエズ運河とは異なり、又パナマ運河とも異なります。 海抜26ⅿのパナマ地峡を、3段の閘門で、船を持ち上げて、下ろすのが、閘門式パナマ運河です。 パナマ運河は、人工湖の水を流し込んでを船を上げて、排水して下げる、ポンプ使わずの、超省エネ構造です。 この『水は低きに流れる』を利用した世界最長の京杭大運河のことは、断面図で、この度、解りました。 驚くことに、スエズ運河やパナマ運河よりも、1000年以上も早く、この世界最大の運河の縄張りと長年月の建設が始まっています。
 
古代では、大量の貨物は水路を通して運送するようになりました。 しかし、中国では、自然の江河はいずれも西から東へ流れていました。 そして、黄河流域が戦乱で破壊、長江流域の開発にともない、中国の経済文化の中心は南の方に移り、政治軍事の中心は北の方にあるという局面が形成されました。 そこで、南北の交流および税収や物資の移動のために、南北を貫通する水路が必要でかつ重要なことになりました。
 
春秋時代から掘り始めた京杭大運河は、2500年余りの歴史を持ちます。この間に、京杭大運河は主に三つの時期に発展しました。 第一の時期は春秋時代と戦国時代に、大溝と鴻溝の掘ったことにより、江、淮、河、済四大水系が繋がりました。 第二の時期は隋代で、運河システムが作り上げられ、黄河と淮河を繋ぎ永済渠を掘り、北の涿郡と結びました。 第三の時期は元代で、杭州から大都(北京)への運河全線が開通されました。

このほかにも、京杭大運河は当時、中国が水利工事で世界に誇れる先進的技術をもっていたことを表わしており、豊かな歴史的文化遺産としての価値をもっています。 しかしながら、近年来、深刻な環境、水汚染が進み、大運河の保全が叫ばれています。 京杭大運河に対する保護は、人類文明の伝承、調和的社会の促進においてもきわめて重要な意味を持っていると思われます。 

ここで長江文明に肩入れです。 長江文明は長江下流の河姆渡(きむと)遺跡がその代表で、紀元前5000年頃のものと推定され、黄河流域の判坡遺跡とほぼ同時代のものです。 さらに長江上流に近い三星堆で発掘された異様な仮面や人頭像、立人像など特色のある青銅器でした。 三星堆文化は、竜山文化や河栂渡文化の頃に始まりますが、黄河と長江両文化の影響を受けながら独自の文化を残しました。
 

黄河流域には紀元前7000年ごろに黄河文明が成立した。 黄河文明はやがて南の長江流域に成立した長江文明と一体化し、中国文明となるが、黄河流域は基本的に中国文明の中心地であり続けた。黄河の治水は古くより中国文明においての重大事であり、伝説上の中国初の王朝である夏王朝が、禹が黄河の治水事業に成功して舜より禅譲を受けたことにより成立したという伝説も、その一端を示している。 

紀元前17世紀ごろには確認できる中国最古の王朝である殷が成立した。 以後の歴代統一王朝は、基本的に西周が都をおいた関中盆地の長安周辺か、中原の端にある洛陽のいずれかに都をおいた。 一方、明確に中原諸王朝の支配下にあった地域は黄河屈曲部の中ほどまでであり、それ以北は北方の遊牧民族諸王朝の勢力下にあることが多かった。

屈曲部の北端である河套地域は黄河の遊水地的な湿地帯で、牧畜に必要な豊かな草と水が広がる大牧草地として遊牧民にも重要な土地の一つとなっていた。 しかしこの地域はどちらの根拠地からも遠く離れており、両勢力の係争地となることが多かった。戦国時代にはこの地域に趙が進出し、河套の北に長城を築いて雲中や九原を支配した。 

趙を滅ぼした秦もこの地域の支配を継続し、九原県を置いたが、秦漢交代期にこの地域の支配は崩れ、頭曼単于の侵攻によって屈曲部北部は匈奴の領域となった。 以後100年近くこの支配は続いたが、武帝が即位すると匈奴は圧迫され始め、紀元前127年には屈曲部が、紀元前121年にはそれまで中国諸王朝が進出していなかった蘭州などの黄河上流部およびその西に連なる祁連山の麓までを支配下に置き、ここに河西四郡を置いた。  

しかし後漢王朝以降、徐々に屈曲部の中国王朝の支配は減退し、さらに晋の衰退によって北方遊牧民族が中国北部に侵入し五胡十六国時代が始まると、 黄河流域全体が遊牧民族の支配下に置かれるようになった。 こうした状況は北魏によって華北が統一されても続き、黄河流域の北朝と長江流域の南朝とが対峙する、いわゆる南北朝時代が長く続いた。 この状況は、北朝の隋が南朝の陳を滅ぼして中国を再統一するまで続いた。 

政治的には両大河流域は統一されたものの、経済的にはこの両河川は分離したままだった。 これを統一するため、610年には隋の煬帝の手によって大運河が完成し、黄河と長江が水運によって直結された。これにより、大運河と黄河との結節点にあたる開封が経済的に大繁栄し、五代から北宋にかけての都となった。

一方で軍事的に弱体な宋は黄河屈曲部に十分な勢力を伸ばすことができず、河套は遼の支配下に入り、銀川平野はタングート族の李元昊が興した西夏王国の本拠地となった。 歴史上、銀川平野に独立王朝が割拠したのはこれが唯一のことである。 

北宋が金に敗れ南遷すると、華北を支配するようになった金は中原の北端に近い中都(北京)に都を置き、以後の王朝は北京または南京に都をおくようになって、黄河流域に都は置かれなくなった。 元の時代には大運河がより直線的になるよう東側にルートが変更され、これによって水運の結節点でなくなった開封の経済的重要性は低落した。 

大河川と歴史、中国の場合は、将に歴史大絵巻で、興味は尽きません。  

(記事投稿日:2020/05/19、最終更新日:2024/06/01、#168)

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『世界の古代の四大文明は、形こそ違うが、殆ど同時期に最盛期に』―想像を超える凄さは、この大ピラミッドとずっと後発のオリャンタイタンポ―

2020-05-17 21:26:04 | 歴史・世界

『世界の古代の四大文明は、形こそ違うが、殆ど同時期に最盛期に』

―想像を超える凄さは、この大ピラミッドとずっと後発のオリャンタイタンポ―

 

 表題は、こうしてみましたが、大ピラミッドだけは、四と。 昔のことですが、夢中になって読みました。 グラハム・ハンコックの1995年に出版された『神々の指紋』(日本では1996年刊行)は、有史以前の超古代文明についての考察がなされており、全世界で600万部を超える世界的なベストセラーになった。 その後も、旺盛に著作活動を続け、『創世の守護神』『神々の世界』『異次元の刻印』などを著した。 

 先史・古代史の世界に興味を持たせてくれた、グラハム・ハンコックのフィクションの時代から、ノンフィクションに戻ります。 四大文明は大河川の扇状地、または河口に発達していますが、『木』の中国文明と、『石』の他の三文明は少し異なっているように思います。 あとは大河川の『河床勾配』による『急激な洪水』または、『ゆっくりした水位の変化』か、が文明発展に影響があったのではないでしょうか。

 四大文明=四大河文明ともいわれますので、まずは、治水の困難さ(洪水に備えた)を知るために、大河川の『河床勾配』計算してみました。 数値のとり方が難しいのか最近はウエブ情報にはありません。


  文明      河川     長さ   水源海抜   河床勾配 
エジプト     ナイル    6853㎞   1134ⅿ    0.02%
メソポタミア   チグリス   2850㎞   1150ⅿ    0.04% 
         ユーフラテス 2800㎞   3520m    0.13%
インダス     インダス   3200㎞   4500ⅿ    0.14%
中国       黄河     5464㎞   4800ⅿ    0.09%
(参考情報    長江     6300㎞   5042ⅿ    0.08%)
(参考情報    アマゾン   6516㎞   6697ⅿ    0.09%)

 

(1)エジプト文明の象徴 ギザの大ピラミッド(BC2550頃 )


  ウェブ情報(ギザのピラミッドは完成時の想像図の写真)から引用 (日本の縄文時代に、このデザインのセンスには驚きます。)

 
ウィキペデイアから引用(日本の縄文時代にこれを設計・建造)

クフ王のピラミッド断面図
1.入口  2.盗掘孔  3.上昇通路入口  4.下降通路  5.未完の地下室  6.上昇通路  7.女王の間  8.水平通路  9.大回廊  10.王の間  11.控えの間 12.脱出孔

 今までに138基が発見されている。 そのほとんどは、エジプト古王国からエジプト中王国時代のファラオかその家族のための神殿と墓である。 ピラミッドは古代エジプト語では「上昇」を意味する「メル」という単語で呼ばれていた。

 前4千年紀末には上下エジプトを統一するエジプト古王国(エジプト第1王朝)が成立した。 その後、国家機能の整備とともに、ピラミッドの建設が大々的に行われ、真正ピラミッドは、その後技術革新と大型化が続けられ、その建造の最盛期に建設された第4王朝のクフ、カフラー、メンカウラーの3王のピラミッドは現在も、なおその威容を留めており、古代エジプトを象徴する建造物となっている。 その後に続く。エジプト中王国で、大ピラミッドの建造のピークは終わった。

●BC2650頃、第3王朝2代目ジェセル王がサッカラに階段ピラミッド
●BC2600頃、スネフェル王がダハシュールに2基のピラミッドを建設。
      南側に屈折ピラミッド、北側に赤のピラミッド
●BC2550頃、クフ王がギザにピラミッドを建設(最大のピラミッド)。
      カフラー王、メンカウラー王もピラミッド建設(ギザの3大ピラミッド)
その後は、地下王墓と神殿が中心になる、エジプト中王国、エジプト新王国へと続いた。

 

(2)ソポタミア文明の中心 ウル ジッグラト(BC2100頃)


ウィキペデイアから引用

 ウルのジッグラト復元図。 三層構造で基壇上に月神ナンナルの至聖所があった。 基幹構造は日乾煉瓦、外壁は瀝青で仕上げられていた。

 瀝青とは、石油 産地で 原油 の変質物のアスファルトやピッチが発見され,それを総称して瀝青と呼んだ。 天然アスファルトがさらに変質して硬い 黒色 の 固体 になって加熱しても溶融せず, 無酸素 の状態であれば 熱分解 を起して炭化水素を主とする油状物と ガス が生成する。

 ジッグラトまたはジグラートとは古代メソポタミアにおいて、日乾煉瓦を用い数階層に組み上げて建てられた巨大な聖塔である。「高い所」を意味する言葉である。 神の訪れる人工の山としてメソポタミアの諸都市に建造されたと考えられている。しかし、機能的には不明な点も多い。

 ウルのジッグラト(エ・テメン・ニグル)は紀元前2100年頃、ウル第三王朝のウル・ナンムが建造したとされている。規模は第一層が底面62.5m×43m、高さ11m、第二層が底面38.2m×26.4m、高さ5.7mで、最上部に月神ナンナを祀る神殿を載せていた。メソポタミアでは建築に用いられる質の良い木材が少なかったこともあり、現在でもよく使用される日乾煉瓦や焼成煉瓦が用いられた。 規則的に凹凸ができていることによって単調ではなくなり、陰影のある外観となっている。また、底面の各辺や壁体の稜線は中央で膨らみがつけられているところからすでに『視覚的補正効果』をねらった表現がなされていたと考えられる。 イラクにある。

 ウルのジッグラトは、ギザの大ピラミッドと比較、❶スケールと、❷表面仕上げ(大理石の化粧石)と、❸シンプルな四角錐のデザインと、❹内部構造の見事さで大分異なります。


(3)インダス文明、モヘンジョダロは水道の整備された都市(BC2600頃)
 
ウィキペデイアから引用

 紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測される。 しかしその後は短期間で衰退した。 原因としてさまざまな説があげられたが、近年の研究ではインダス文明は大規模な洪水(河床勾配が原因)で衰退したと考えられている。 

 四代文明は大河川の下流で発展したが、エジプト文明は、ナイル川の緩い河床勾配で、人間が雨期乾期のゆっくり変化する水位差約10ⅿ(水位が高いときに石材運搬)に、うまく順応できたが、インダス文明は、チグリス・ユーフラテス川の大きな河床勾配に原因する。 大洪水で、エジプト文明のように長期、恒常的に発展ができなかった可能性がある。
 
ウィキペデイアから引用

 不可思議な例としては、見上げるほどの高さを持つ井戸がある。 背高のっぽな井戸とその周囲の住宅跡や道路との間には数世紀の年代差があり、この井戸が造られた当時、これらの家や道路は砂や土の下に埋もれていたのだ。 これが、エジプトとは違う『河床勾配』の差によるものかもしれません。

(4)中国文明・夏の実在と、神話の三帝、堯・舜・禹は(BC2300頃)
  『夏』(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃)は、『史記』『竹書紀年』などの史書に記された中国最古の王朝。 中華の『華』は、古代には『夏』と同じ意で用いられた。  夏・殷・周を三代という。 史書には、初代の禹から末代の桀まで14世17代471年間続き、殷の湯王に滅ぼされたと記録されているが、考古学の裏付けがないことから、多くの研究者は『幻』と考えてきたが、近年の発掘で、ついに実在が確認された。 『夏』が誕生した紀元前2000年頃は、黄河流域だけでなく南の長江流域などでも多様な文化が同時多発していた時代。


 ウィキペデイアから引用

 ウィキペデイアから引用

 ウィキペデイアから引用 

ウェブ情報です。
 世界最大の青銅製仮面。 異形を呈する巨大な青銅製の仮面であり、三星堆文化の代表的な考古遺物の一つ。 中国語名は「青铜纵目面具(青銅縦目面具)」、日本語名は「青銅縦目仮面」「縦目青銅仮面」「青銅縦目面具」など。 幅138㎝、高さ64.5㎝。 大きな耳と、奇妙に突き出した眼(瞳孔)を具えており、はるか彼方をも見通す神の顔を表したものと考えられている。 突出した瞳孔は長さ16.5センチメートル、径9センチメートル。 額の中央に穴が開いているが、それが失われたものと考えられている。 口は微笑みをたたえている。1986年に二号祭祀杭より出土した。

 番外編で、縄文時代の芸術を、世界の先史・古代の4大文明と並べてみました。 当時の日本は、巨大な神社・神殿なき縄文時代でも芸術があった。 研磨石器はもとより、火焔型土器も世界最古です。


 
歴史のことですが、センセーショナルなキャッチフレーズが躍る昨今ですが、縄文時代は、いろいろ興味があります。 
やはり特に、魅力を感じるのは、次の3点(写真は、地球史の中に貼り付け)。

❶『世界最古の縄文磨製石器』、

    

❸『土偶・縄文のビーナス』国宝(縄文時代晩期、約4,000~5,000年前)
 

❷『土偶・縄文のマドンナ』国宝(縄文時代晩期、約2,8 00~3,3 00年前)


 以上から、世界の歴史の中で、日本の縄文時代と縄文人の凄さも、よく解りました
                   (20200517纏め #167)

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『中国の思い出 6(二〇三高地、ここの攻防以上の戦いは無い』―「軍港である旅順港」入れませんが、二○三高地は、最近OKと運転手—

2020-05-16 13:01:02 | 外国

『中国の思い出 6(二〇三高地、ここの攻防以上の戦いは無い)』

「軍港である旅順港」入れませんが、二○三高地は、最近「OK」と運転手が—

 

中国大連に商用出張したときに、旅順の小売店をタクシーで回りました。 比較的順調にいったので、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』をふと思い出し、運転手さんに、旅順港に立ち寄って貰いました。 

旅順港に着いた時には、運転手さん曰く『軍港である旅順港には入れませんが、二○三高地には、最近入れるようになりましたよ』でした。 ふたつ返事で、OKして、入門ゲートまで、連れてってもらい『坂の上の雲』の兵どもの戦いの山、丘陵に、映画とは違った樹木の茂っていましたが、『山河は変わらず』を見れました。 あとで教わったことですが、当時、『ごく最近までは余ほどの著名人以外は入れなかった』そうで、本当に運がよかったです。

司馬氏は、この作品『坂の上の雲』の前に、乃木希典将軍についての作品を
『殉死』として発表しています。 この殉死も数十年前の、西南戦争の時の『連隊旗奪われ事件』を生涯の汚点として、この失点のためにずっと『国に自分を担保していた』ような節があるともみられています。 ウエブ情報からです。

昭和42年の作品。 第9回毎日芸術賞を受賞。 旅順攻撃を描いた『要塞』、乃木と静子の結婚から殉死までを描いた『腹を切ること』の二部構成。 冒頭で「以下、筆者はこの書きものを、小説として書くのではなく小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめてみるといったふうの、そういうつもりで書く。・・・(中略)・・・筆者自身のための覚えがきとして、受けとってもらえればありがたい。」と書かれているように翌年から執筆される『坂の上の雲』の準備段階とも言える作品かもしれない。

乃木ご夫妻二人の殉死の部分は、生涯忘れられないほどの、強烈な衝撃を受けました。 戦国時代にはあり得たかもしれませんが、それでも普通は『介錯』がありました。
 
小説はあとがきを読んでから読むことを、始めたのが、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』からです。 この作品の中の『二○三高地』を読んだ時に、現代の戦争を考えると、後にも先にも、これ以上の強行作戦はないと思います。 あの史上最大の作戦『ノルマンディー作戦(正式作戦名 ネプチューン作戦)』を超えるように個人的には思えます。

この大作を読むのが、大変などの思いはありませんでした。 この本のあとがき(「坂の上の雲」という題名の意味とは)に次のようにあった所為だと思ってました。 

このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。 最終的には、このつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。 楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。 のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

軍港・旅順港は、将に天然の要塞です。
 
ウキぺデイアより引用

 

 この堅固な要塞を、第一回総攻撃失敗、第二回総攻撃失敗、満を持した第三回総攻撃の白襷隊も失敗して、最後に『二○三高地』に主攻変更した。


 
ウキぺデイアより引用

 

1904年12月5日に、日本軍が占領、下の写真はその後で、『二○三高地』を北側から撮ったもの。
 
ウキぺデイアより引用

 

海抜203ⅿの『二○三高地』のトップから、旅順港を撮り下ろしたもの。
 
ウキぺデイアより引用

 要塞の攻防戦は、攻める方の戦死者が圧倒的に多いのが普通ですが、この戦いは守る側にも多数の戦死者が出ました。 ロシア南進の要であった旅順港を守る大要塞で、この旅順港から食料弾薬が十分に補給され、停泊中の艦船から水兵の補充もあったのでしょうか、双方の戦死者の多さには驚くばかりです。

交戦勢力比較
    大日本帝国            ロシア帝国 
指導者・指揮官 
    乃木希典             アナトーリイ・ステッセリ
                      ロマン・コンドラチェンコ  †

戦力 
    約51,000名 (第一回総攻撃時)        陸軍約44,000名 
                                                                   海軍約12,000名、その他約7,000名

                    (籠城  戦開始時) 

損害                                                                   
    戦死約15,400名           戦死約16,000名 
    戦傷(延数)約44,000名       戦傷(延数)約30,000名  

乃木希典大将の評価は、いろいろありますが、近代要塞、それも陸軍大国のロシアの堅固に強化した旅順要塞を攻めた戦いは、攻城の困難さを知れば、上記の数値がすべてを物語っているように見えます。
(記事投稿日:2020/05/16、#166)

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