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知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『世界の寺院・神殿・教会・墓所 4(天子が事前に作る寿陵)』 『昔から馴染みの古墳名「仁徳天皇陵」には、別の名称が沢山!』

2022-07-27 09:29:24 | 寺院・仏閣・神社・お社

『世界の寺院・神殿・教会・墓所 4(天子が事前に作る寿陵)』

『昔から馴染みの古墳名「仁徳天皇陵」には、別の名称が沢山!』 

寿陵とは、中国の皇帝が生前にあらかじめ造営する陵墓。 驪山 (りざん)の始皇陵が最大だが,渭水北方の前漢の亭陵,洛陽付近の後漢の帝陵,醴泉 (れいせん)の唐の太宗の昭陵も有名です。 一般臣下の場合は,生壙・寿域・寿穴・寿堂などと呼ぶようです。 この『寿陵』について調べていたら、仁徳天皇について貴重な情報を見つけました。 

今後の日本の古代史、邪馬台国・出雲王国・大和王朝、三王朝説・四王朝説、漢字圏・漢字文化圏・大和言葉等々、興味が尽きることはありません。 

先ずは、関連情報です。 

  • 世界三大墳墓の大きさの比較を見ると『古代の日本は、日本人は凄かった』としみじみと思います。 小さな島国で、当時の人口で、この巨大な墳墓が造営できたか興味津々です。 古代の人口は、西暦200年頃は約60万人、西暦725年頃は約450万人と推定され、稲作で人口が急増した時代。

 堺市ホームページから引用

  • 『倭の五王』(中国大陸の歴史書には当時の倭国にかんする記録が(少なくとも『記紀』よりは信頼できる形で)残されています。 日本も中国も漢字圏・漢字文化圏にも関わらず、大王(天皇)の名前さえ異なる。 因みに『天皇』と呼ばれ始めたのは、西暦608年に、聖徳太子が隋(今の中国)に送った国書の中に「東の天皇、つつしみて、西の皇帝にもうす」という記述があり、これが「天皇」という称号が使われるようになった始まりだとされています。ウエブ情報から引用 

ここからは、今後の調査のため備忘録にした、ウエブ情報の抜粋・引用の長文ですのでご放念ください。 

仁徳天皇陵古墳のデータ、古墳の名前多数

大仙古墳、大仙陵、大山古墳、大山陵、大千陵、大川陵、仁徳陵古墳、仁徳天皇陵、百舌鳥耳原中陵などがあります。これらの呼称のほかに、仁徳御陵などの「御」、伝仁徳天皇陵などの「伝」をつける場合があります。 

大雀(オホサザキ)(仁徳天皇)

大雀は葛城(かづらき)の曾都毘古(ソツビコ『大和言葉が先にあり、これに漢字を当てた』)の子で、西暦365年に誕生しました。 つまり、記紀で父親とされている品陀和気(ホムダワケ、応神2)と、じつは同じ年齢だったのです。 だから西暦381年という、二人がともに17歳のときに、大雀が髪長比売(かみながひめ)(泉長比売)を横取りする事件が起きたわけです。

『余談・脱線です。

628年に書かれた『隋書』の「倭国伝」に、「(倭国に)文字はなく、ただ木を刻んだ(刻木)、縄を結んで(結繩文字代わりとした。 仏法を敬い、百済に仏典を求めて始めて文字を得た」と書かれていることから、「日本には仏教渡来以前には文字がなかった」などと言われています。

「刻木(こくぼく)」というのは、漢字の始祖とされたチャイナの三皇時代の倉頡(そうきつ)が考案した「書契(しょけい)」のことで、書契とは「木に文字を刻む」という意味の言葉です。
「結繩(けつじょう)」は、縄目を結んだ記号のことで、ひらたくいえば「縄文文字」ということになります。』

その事件というのは、わざわざ日向から、天皇の品陀和気のためにと送られてきた女性を、なんと大雀は自分が欲しいと言いだし、その獲得に成功してしまうというものです。 ときの国王を相手にまわして、大雀という青年にそんな大胆なことができた理由は、そのころまでに父親である葛城の曾都毘古の勢力が、強大なものに成長していたからなのです。

ちなみに葛城の曾都毘古は、魏志倭人伝に記録された一大率(イタイソツ(女王国の官人)、一高岩狭津)の子孫です。 すでに西暦247年に、壱岐の一大国の支配者だった一大率は、その航海力を利用して、奴(ナ)国より北の国々を検察してまわるという役割をはたしていました。 その子孫である曾都毘古も、朝鮮半島を攻撃したことが記録されています。 

したがって大雀は、邪馬台国にちょくせつの血のつながりを持たない、最初の国王だったのです。 だから、現実に王位につくまでの経過は順調なものではなく、何年もの歳月を要しているのです。 

もともと、前国王の品陀和気(ホムダワケ『大和言葉が先にあり。これに漢字を当てた』)(応神2)は、宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)を太子としました。 その二人は親子とされていますが、じつは兄弟でした。 学問に秀でた宇遅能和紀郎子は、品陀和気の治世中からすでに、国政に深く関与しています。 西暦389年には、高麗王からの外交文書を読んで、その内容に怒り、破り捨てるということもしています。 そのとき、兄にあたる品陀和気でさえ、まだ25歳という若さだったのです。 

西暦394年に、品陀和気が30歳で逝去しましたが、太子の宇遅能和紀郎子はただちに即位することができませんでした。 なぜなら、そのときまでに倭国の最高実力者になっていた大雀が、それに協力しようとしてくれないからです。 やむを得ず宇遅能和紀郎子は、国王の座を大雀に譲ることにします。  

ところが、その申し出も、大雀に固辞されてしまいます。 大雀の血統は皇統にはありませんから、皇統にある太子をさしおいて、事実上、王位を奪い取るという形になることは、大雀としては絶対に避けたいわけです。 記紀では、二人が王位を譲り合う「美談」としてまとめられていますが、実際はそのようなものではなく、かなり陰湿だったのです。

その二人の確執がそのように続いたため、倭国に国王がいないという異常事態、つまり空位期間は約6年間にも及んだようです。 太子でありながら、自分ではどうすることもできないという状況に追いつめられた宇遅能和紀郎子は、ついに自殺してしまいます。 そこでようやく大雀は、国王の座を獲得することに成功したのです。

大雀という名前のササキの部分は「三狭城(サソキ)」を意味し、かつての載斯(サイシ、三岩州)国を指すものです。 つまり、大分県の旧・海部(あま)郡が、大雀の領地だったのです。 中国の文献に記録された倭王の「賛」や「讃」は大雀のことですが、その漢字はササキ(三狭城)の「三(サン)」の音に合わせて選ばれたものです。

倭王の讃は、宋にあてた上表文のなかで、父祖が東奔西走して、倭国の平定に貢献したことを述べています。 大雀の父親は葛城の曾都毘古で、その祖先は一大率(女王国の官人)だったのですから、その上表文の内容は嘘でも誇張でもないのです。

大雀は17歳のときに髪長比売を妃としたのですが、二人のあいだには子供がありませんでした。そこで大雀は、宇遅能和紀郎子の遺子である伊邪本和気(イザホワケ)(履中天皇)を養子にし、太子とします。 そして、その母親だった八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)(じつは、ハタノワキイラツメ)を、のちには新しい妃として迎えることになります。

ただし記紀では、このような事実はすべて伏せられています。 そこでは宇遅能和紀郎子に妃がいたという記録はなく、八田若郎女は宇遅能和紀郎子の妹とされています。これらの系譜の問題については、ほかの場所にまとめることにする予定です。

このようにして大雀はみずから、次期国王の座をふたたび、皇統に返すということをしたのです。 じつは、その行為を称える意味で、大雀の中国風の諡号を考えた人々は、「仁徳」という字を選んだのです。 ひろく信じられているように、しばらく租税を集めなかったので「仁徳の人」と称えられた、というわけではけっしてありません。

大雀が逝去したのは西暦427年のことで、そのときの年齢は63歳でした。 古事記では、大雀の逝去時の年齢を83歳としていますが、それは弟である水歯別(ミヅハワケ)(反正天皇)を、その子とするための数字の操作です。 それに応じて日本書紀でも、その治世の67年(426年)から87年(427年)までを「二十余年、事無し」として、治世年の水増しをはかっています。

もしも、「二十余年、事無し」ということが事実なら、その間のことは、いまのわれわれにはまったく分からないことになってしまうわけですが、その心配はいりません。 じつは、自分の死期が近いことを悟った大雀は、426年の旧暦10月に陵地を選定し、翌年の旧暦1月に逝去したのです。 二十年も前から自分のための陵墓の準備をしていたわけではないので、誤解のないように。 

今から1,700年程前の3世紀から7世紀の約400年間、大王や王(豪族)が亡くなると、土と石を使って高く盛った大きな墓を造りました。 今、この墓を古墳とよび、造っていた時代を古墳時代とよんでいます。 全国に16万基以上はあるといわれる古墳のなかで、日本最大の古墳が堺市にある仁徳天皇陵古墳です。

墳丘の大きさ486メートルと、エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられる世界に誇る文化遺産です。

古墳の陵域は濠を含めて約47万平方メートルと、甲子園球場が12個も入る広さです。古墳を造るには、1日最大2,000人の人々が働いても15年以上かかったといわれています。 

古墳を上空から見ると、丸と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、墳丘の周りには水を湛えた濠が三重に巡り、大仙の名にふさわしい神秘的な悠久の仙山として、地元では大仙陵と呼んで親しんできました。 

仁徳天皇陵古墳は、東アジア世界に進出した倭の五王の中の一人を葬った墓といわれ、古代史を解明する上で重要な文化遺産です。 現在は、北の反正天皇陵古墳と南の履中天皇陵古墳とともに、百舌鳥耳原三陵として宮内庁が管理しているため中に入ることはできません。 それでも濠の外からその巨大さは十分に実感して頂くことができます。 また、堺市博物館には、仁徳天皇陵古墳に関する資料を展示しています。

仁徳天皇について、『古事記』、『日本書紀』で第16代天皇と伝えられ(江戸時代後期から明治時代には祖母にあたる神功皇后が第15代天皇に即位したとして第17代天皇となっている場合があります。)、諱(いみな〈本名〉)は大雀・大鶴鷯(おおさざき)で、仁徳は8世紀頃につけられた諡(おくりな〈死後に送る称号〉)です。 

『日本書紀』では亡くなった年齢は書いていませんが、在位87年で没したと記されています。また『古事記』では83歳で亡くなったと記されています。 一説によると、神功57年(257年)に誕生したといわれ、仁徳元年(313年)1月3日に即位し、仁徳87年(399年)に崩御したので、単純計算で 143歳の長寿で亡くなったことになります。

父は応神天皇(おうじんてんのう)、母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、異母弟の皇太子・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を助け、異母兄の大山守(おおやまもり)皇子を退け、皇太子と皇位を譲りあいますが、皇太子の自殺に伴い即位します。 都を難波高津宮(なにわのたかつのみや)に定めて、葛城磐之媛(かずらきのいわのひめ)を皇后とし、のちの履中・反正・允恭天皇(第17-18-19代と兄弟で継承)をもうけます。

民家から炊事の煙がたちのぼらないのを見て、人々が困っているのを察し課役を三年間免除したり、難波の堀江・感玖(こむく)大溝・茨田(まんだ)堤・横見堤などの築造や茨田屯倉(まんだのみやけ)の設置などを行ったと記されています。このような善政を行ったので、古来より聖帝(ひじりのみかど)とたたえられ、理想的な天皇とされてきています。 

同時代の中国の資料『宋書』には「倭の五王」が記され、その最初に記された王「讃(さん)」の発音が、「おおさざき」に通じることから、仁徳天皇が「讃」ではないかという考えがあります。仁徳天皇がこの「讃」王なら、永初2年(421年)に宋の南朝に朝貢して安東将軍・倭国王にはじめて任命され、邪馬台国の時代(3世紀の後半)から約150年間途絶えていた日中間の国交を回復し、それを柱として東アジア外交を展開した国際感覚豊かな大王ということになります。また、その他に「倭の五王」の「珍(ちん)」とする考えもあります。 

「讃(さん)」王は、宋に使節を派遣した永初2年(421年)を中心に活躍し、元嘉15年(438年)には没したとみられ、単純計算で在位年数は17年ないし25年前後です。また、「珍(ちん)」王は、元嘉15年(438年)の近い年に即位し、元嘉20年(443年)には退位していて、同じく在位年数は6年前後となります。いずれにしても、『古事記』や『日本書紀』などの日本の記録とは合わないのですが、仁徳天皇を考えるうえでは重要な資料になります。 

「倭の五王」の陵は、どの古墳が候補としてあげられるでしょうか。「倭の五王」が中国と交渉を持った時代、つまり西暦413年前後から西暦502年頃の5世紀前半から6世紀初頭に造られたと考えられている畿内の古墳を、墳丘規模順に列挙すると、仁徳天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-履中天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲姫命陵古墳となります。

これを時期順に並び替えると、仲姫命陵古墳-履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳となります。しかし、他にもいろいろな組み合わせが考えられますが、「倭の五王」最後の「武(ぶ)」王が雄略天皇であることは確実で、その陵は仲哀天皇陵古墳ではないかという説が強く、これらを考慮すると「倭の五王」の陵は、履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲哀天皇陵古墳との説が一番有力なようです。

ともあれ、「倭の五王」の時代には、日本列島から大陸に文物、特に朝鮮半島に産する鉄を求めて、さかんに海外進出した時期で、仁徳天皇はその時期に活躍した大王の一人かもしれません。

(記事投稿日:2022/07/27、#557

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『大ピラミッドのこと 12(ギザの石灰岩台地の上の見事な風景 2葉)』 『高津道昭氏の「ピラミッドのテトラポットによる堤防構築説」』

2022-07-24 14:30:10 | 歴史・世界・古代

『大ピラミッドのこと 12(ギザの石灰岩台地の上の見事な風景 2葉)

『高津道昭氏の「ピラミッドのテトラポットによる堤防構築説」』

『高村公太郎氏の「ピラミッドのからみ工法による霞堤防構築説」』 

100基近くのピラミッド群のテトラポット説は、高津道昭氏著書の『ピラミッドはなぜつくられたか (新潮選書)』から。 

ウエブ情報から引用 

ナイル川のピラミッド群は「ピラミッドのからみ工法にとる霞堤(不連続堤防)説」は、竹村公太郎氏著『日本文明の謎を解く 21世紀を考えるヒント』から。

 ウエブ情報から引用 

竹村公太郎氏の説、「ナイル川西岸だけのピラミッド」は、巨大ピラミッド3基だけではなく80基、未発見を含めれば、約100基。 東岸にはゼロ。  2008年に最新の1基が発見された。 これもナイル川の西岸にあった。 この配列にこだわった視覚デザイン学の高津道昭氏は、「ピラミッドはテトラポット」であったと推理し、「ピラミッドはなぜつくられたか」(新潮選書)を出版した。

それでは、なぜ、ナイル川の左岸、つまり西岸だけにピラミッドが建設されたかナイル川の右岸、つまり東岸には、山岳地系が連続しており、ナイル川東岸の流路は安定している。一方、ナイル川西岸の砂は、ナイル川によって削られ、ナイル川は西へ西へとリビア砂漠に逃げて、ナイル川河口デルタが維持できない。 

そこで古代エジプト人は、巨大な「日本でいう『からみ』」を建設することにした。 日本での『からみ』『からみ工法』とは、長い堤防は、建設が難しいので、杭を打ちこんで、その杭に、木の蔓や枝、竹をからみつける。この『からみ』に堆積土が盛り上がってきて、これを突き固めて堤防になる。 

エジプトでは;ピラミッドを適当な間隔で建設する。 毎年、ナイル川の洪水は、上流から土砂を運んでくる。 洪水はピラミッド周辺で澱む。 ナイル川の土砂は沈降し堆積する。

ここで残った謎は; キザの3基の巨大で、大理石を貼り付け、輝く大ピラミッドは、ギザの大地に、なぜ建設されたか。

  • 河口に近い高台の上になければならなかった。
  • 可能な限り高くしなければならなかった。
  • 光の反射のために正四角錐でなければならなかった。
  • 光を反射させるため鏡のような大理石を張る必要があった。

それでも、次の二葉の写真を見ますと、『高津道昭氏「テトラポットによる堤防構築説」』と、『高村公太郎氏の「ピラミッドのからみ工法による霞堤防構築説」』のどちらももう少し調べてみようと思っています。 

ギザのピラミッド群の石灰岩台地の海抜は、ナイル川を挟んで、ギザ高台の対面、東側のカイロ市の海抜は15-60m。対して、西側のギザのピラミッド群は、海抜49-63mのギザ台地に立地です。 ナイル川の10mぐらいの増水には関係なさそうです。

ウキペデイア情報から引用(上空から見た三大ピラミッド) 

約230万個のサイズ不揃いのキューブ石材を、高さ(当時)147ⅿも、面の角度52度に積み上げています。 堤防には勿体ないような気がします。

ウエブ情報から引用(上空から見た大ピラミッド)

大ピラミッドは調べれば調べるほど謎が深まります。

(記事投稿日:2022/07/24、#556)

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『英国の「テムズ・バリア」温暖化の海面上昇と高潮(逆流)に備え!』『海面が仮に毎年 8mm上昇したとしても2030 年までは高潮に耐えられる設計』

2022-07-19 08:32:25 | 地球・火山・地震・津波

『英国の「テムズ・バリア」温暖化の海面上昇と高潮(逆流)に備え!』

『海面が仮に毎年 8mm上昇したとしても2030 年までは高潮に耐えられる設計』
 

 テムズ川の河床勾配;0.03%(長さ346㎞、水源の標高110ⅿ)はかなり緩いが、潮汐差はテムズ川河口のデータはありませんが、ドーバー海峡の潮汐幅は大きく、小潮時は3-4ⅿ、大潮時は6-7ⅿと言われますので、テムズ川河口の潮汐差もほぼ同様又は、少し小さいと思われます。 この防潮堤は、高潮(逆流)・津波を、がっちりブロックするのではなく『テムズ・バリア』は越流堤又は越流ダムとして機能する。 日本の防潮堤や防波堤は、波の来る側が凹型にへ込んでおり、越流し難くなっているので、高潮や津波の圧力をもろに受けるように見えます。 『テムズ・バリア』は機械室タワーまでが越流し易い形状をしている。 何事も『処変われば品変わる』ようです。


Thames Barrier – Wikipediaより引用

デザインと建設 
 回転ゲートの構想は チャールズ・ドレイパー  により考案された。 1950 年代に、ロンドンで 動作するモデルを建造した。 斬新な回転するシリンダーは家庭の小さな器具に基づくもので、バリアは、 油圧研究所でテストされた。  設置場所として ニュー・チャールトンの場所が選ばれたのは、 堤防が比較的まっすぐで、川の下にある石灰層が十分に強固でバリアを支えることができたからである。 工事は 1974 年に開始し、1982 年にはほぼ完成した。  バリアのゲートは ティーズ川にあるデンツ波止場のクリーブランド橋梁会社により製造された。 
 
 バリアに付け加え、 下流の 11 マイルの氾濫防御 (の堤防など) が高くされ、強化された。 バリアの公的な開通式は 1984 年の 5 月 8 日にエリザベス女王 2 世が挙行した。 全建設費はおよそ £5.34 億 (2001 年の価格では £13 億) で、 川の防御のために追加の £1 億が必要であった。 

 イギリスでは、2012 年から適応プログラムを始動し、洪水リスク管理、水資源、淡水生態系などを優先分野として適応策に取り組んでいます。 テムズ川河口の施設改良では、海面水位よりも低い土地を守るため、延長18㎞にも及ぶテムズ防潮堤を設置しました。 年10回程度の高潮に際しても、ゲートを閉じて浸水被害を防いでいます。 テムズ川流域にある水門「テムズ・バリア」は、海面が仮に毎年 8mmずつ上昇したとしても、2030 年までは高潮に耐えられる設計になっています。
 
 以前に、日本でも『100ⅿ堤防(越水型堤防)』を『事業仕分け(行政刷新会議)』で取り上げられた記憶があるが、定量的な質問(堤防決壊減少の確率と、その投資対効果など)にと絶句している行政側に、驚きました記憶がありました。 この『事業仕分け(行政刷新会議)』を当時、『政治の文化大革命』と発言した方がいたようですが!

 テムズ・バリアはロンドン中央部の下流にある。 1982 年以来操業され、 (バリアの) 目的としたことは例外的な高潮や、 北海から押し上げる嵐の高潮が氾濫することを防止するためであった。  但し、氾濫原のうち大ロンドンの最も東の特別区は除外された。 必要とあれば、(バリアは) 高潮の時に閉鎖され (持ち上がられ)、 潮が低くなれば、開放されて海への流れが回復する。  これはドッグズ島の東、およそ 3 km の地点に建設され、 北の堤防はロンドン特別区ニューハム のシルバータウンに属し、 南の堤防はグリニッジ王立区のニュー・チャールトン地域に属している。  テムズ川の河口の一部とロンドンの一部に影響を与えた 1953 年の北海氾濫に関しての、 サー・ハーマン・ボンダイ の報告書がバリア建設の助けになった。

 今の日本、では多方面に、山積みの課題・懸案を将来に『負の遺産』を先送りしていますが、この『テムズ・バリア』のような見応えと、夢のある遺産にしてもらいたいものです。

(記事投稿日:2020/06/22、最終更新日:2022/07/19、#186)   

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『日本語のこと 1(この難しい言語を使いこなした日本人は凄い)』 『ほぼ、表音文字一色の地球上で、表意文字・漢字で発展した国家!』

2022-07-17 16:50:47 | 語学・文学・文字・漢字

『日本語のこと 1(この難しい言語を使いこなした日本人は凄い)』

『ほぼ、表音文字一色の地球上で、表意文字・漢字で発展した国家!』 

文字がなく、話し言葉であった『大和言葉(やまとことば)』は、古くは和歌や雅語(詩歌)のことを意味したが、現在ではもっぱら日本語の語種(単語の出自)の一つであり漢語や外来語に対するにほんの固有語を指す。 飛鳥時代頃まで大和国や大和飛鳥を中心に話されていたと言われています。  

日本語とアイヌ語のルーツをウエブ情報で調べると; 

『日本語の起源である原日本語は縄文人(Y-DNAハプログループD)が喋っていたと考えられている。そして、彼ら縄文人は古代中国にも活躍していた。 

そして、現代日本語の直接の起源は平安時代の国風文化に遡り、さらに大陸の唐文化・百済文化・高句麗文化などに遡り、漢字の字体を統一した秦文化、漢字を発明した殷文化にまで遡る。この殷人は縄文人と同族であった。 

また、現代アイヌ語はオホーツク文化など北方文化の影響があるが、かつての蝦夷の言葉であり、さらに縄文人の言葉であったと考えられている。 

すなわち、縄文人の言語が現代日本語と現代アイヌ語に進化し、それも互いに縁のない孤立した言語となっていることになる。 ルーツは同じ縄文人の言葉であっても、現代日本語は海を隔てた中国大陸で進化し、現代アイヌ語は日本列島の東部から北部、オホーツクで進化し、互いに交流が全く無かったことになる。

推定されるアイヌ語の起源地と拡散

アイヌ語の拡散と激減と日本語の複雑化これからの課題です。

かつてのアイヌ語の分布、アイヌ語の方言は大きく北海道、千島、樺太に分けられる。

ウエブ情報から引用

日本語は今でも激しい進化過程に;

日本語は、表意文字(漢字)と、表音文字(ひらがな、カタカナ、ローマ字)の混合の言語の難しさは、外国人だけではないなく、日本人には難しいと思えるようになりました。 その上にデジタルで情報化時代ではありますが、新聞記事に使われるカタカナ英語の頻度と種類です。 

ある日の新聞から、一部引き出してみました。

労働人口は減り続きますので、外国人労働者の採用には種々課題があります。目下の急務は、医療現場の看護師と建築現場の作業員の確保です。 どちらも、言語・コミュニケ―ションが大きな課題です。

 

対応には、ウエラブル『通訳と翻訳』機が考えられます。

専門用語の問題がありますので、『医療関連』や『建築関連』等と分けることも

できるでしょう。

 

周辺国では、ハイブリッド言語から、本来の言語に戻っています。 新しいと

こでは韓国、過去には      、タイ・インドネシア・マレーシア・ベトナム等です。 ベトナムでの経験です。 

 

南北ベトナムが統一された直後のことです。 商用出張で、ホーチミンシティに行ったことがありました。 心持ち緊張した状態で入国手続きに入りました。その時、目に飛び込んできたのが『Hi quan』でした。 香港に7年間も住んでいましたのでHi quan=海関』と分かりました。 当然若いベトナムの方は『海関⇒ Hi quan』知りませんでした。 昔、漢字圏・漢字文化圏を、突然認識市や瞬間でした。 ますます『言語・文字・漢字』に興味津々です。

漢字圏と漢字文化圏

ウキペデイア情報から引用

(記事投稿日:2022/07/17、#555

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『日本では長い歴史の耕地整理と、終戦後のGHQ指導の農地改革』 『温暖化から激甚気候に!心配は仮想水まで輸入状態の日本の農業』

2022-07-17 11:48:33 | 農水産業・日本

『日本では長い歴史の耕地整理と、終戦後のGHQ指導の農地改革』

『温暖化から激甚気候に!心配は仮想水まで輸入状態の日本の農業』

 

耕地整理は、在来の農地を区画整理して、用排水の利便性を向上させ、通路を整備して目的の水田等に他の水田等を通らずに作業にいけるようにすること。牛馬耕や農業機械による作業が能率的に行えるようになる。

耕地整理発祥の地記念碑 静岡県袋井市彦島

ウエブ情報から引用

農耕地の区画割りの歴史をみると、口分田班給に結び付く古代の条里制も農耕地の区画割りであり、また、江戸時代に盛んに行われた新田開発(原野・荒地の開拓、沼地の干拓など)でも当該地に最も適した農耕地の区画割りが行われている。 一方、明治維新直前には、農業を営む者が個人の耕作地で簡単に行うことができる畦畔(けいはん)の改良が行われた。  

その畦畔の改良も幕府の目が光り、貢租徴収者の幕府諸侯の意図に沿うもの以外は禁止されたが、監視の目をくぐって反収を高め、効率的な生産が可能な畦畔の改良が私的に行われていた。 明治になると私的な畦畔の改良に代わり、水田所有者間で利害調整(交換分合)をした集団的な区画整理が行われた。 近代的な耕地整理の技法として、静岡式の「畦畔改良」と石川式の「田区改正」が考案、実施された。 

農地改革は、 第二次世界大戦後にGHQにより行われた民主化政策の一つです。 地主は小作地を国に買い上げられ、小作人に廉価で売り渡されることとなりました。  この政策により寄生地主制を解体させることに成功。 現代のような、「農地の所有者がその農地で農業を行う」という形を創ることとなりました。

 

農地改革前後の構成

ウエブ情報から引用 

地球温暖化が農業に与える影響は農業従事者だけではありません。 消費者にも大きな影響を与えると考えられます。 様々な影響により日本の農業が収縮していくと私たち消費者は国産の農産物を食べることができなくなります。 日本の農産物はものによっては厳しい基準をクリアしたものだけがスーパーや八百屋などの店頭に並べられます。 

休耕田畑が急増している日本ですが、食料輸入が多く、瑞穂の国が仮想水輸入大国という、体たらくです。 さらにあります、脊梁山脈から流れ下る急峻な河川の治水も、これからの激甚気候には耐えられるかも大変心配です。 

アジア圏の棚田や、中南米の段々畑等も、いろいろな問題・課題に苦労していますが、その治水・灌漑技術は、日本は真摯に学ぶべきかと思います。

 

中國雲南省の棚田

ウエブ情報から引用

 

インドネシア バリ島の棚田

ウエブ情報から引用

 

ベトナム イエンバイ省の棚田

ウエブ情報から引用

 

タイ チェンマイ県の棚田

ウエブ情報から引用

 

ペルー インカの段々畑(アンデネス

ウエブ情報から引用

先ずは、休耕田畑を有効活用できないのでしょうか。 『縦割り多組織・多制度・多規制』不全の対策から取り掛かりませんと万事が手遅れに! テレビの視聴率とお笑いがすべてではありません。

(記事投稿日:2022/07/17、#554)

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