知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

日経新聞文化欄『東北方言「ジンジョコ」の謎』と接尾語のこと ―名前の呼びかけ方、多種多様で興味は尽きない接頭語と接尾語―

2020-10-30 16:40:43 | 読書・文学・文字・漢字

日経新聞文化欄『東北方言「ジンジョコ」の謎』と接尾語のこと

―名前の呼びかけ方、多種多様で興味は尽きない接頭語と接尾語―

 

この方言の、南部と津軽で思い出すのは秀麗な姿の『津軽富士・岩木山』です。

 

先ずは、表題の記事の抜粋です。 

『「肩車」という言葉の方言は日本各地で様々なバリエーションがある。 民俗学者の柳田国男も「肩車考」といった論考を残している。 私が45年以上にわたって調べている「ジンジョコ」という言葉もそうした方言の一つだ。 

 当時、国立国語研究所から「日本言語地図」が出され、方言の研究が注目されていた。 江戸時代の南部藩と津軽藩の対立や違いもあり、方言の調査を通じて両地域の関係を極めたいと考えた。 33個の語彙、51項目のアクセントを対象に現地調査を行い、方言の分布図を作っていた。 その中に「ジンジョコ」も含まれていた。

 「ジンジョコ」という言葉には2つの部分がある。「ジンジョ」は「人形」と「地蔵」を指し、「コ」は親愛の情を表す接尾語だ。 東北人になじみ深い響きを持つ。 語源を調べるにふさわしい言葉だった。』

 親愛の情を表す接尾語ですが、半世紀も前に駐在で住んでいた香港で気がついたのですが、日本では『〇〇ちゃん』と『△△君』と呼び、接尾語の『ちゃん・君』を付けます。 香港では代理店の社長は、若手スタッフの「〇希文(〇・ヘイ・マン)」に、接頭語『阿』を付けて「阿文(ア・マン)」と、「〇樹佳(〇・シュウ・カイ)」は、「阿佳(ア・カイ)」と呼んでいました。

 

 西欧では、親愛の情を込めて、単純にファーストネームを呼び捨てにしているだけかと、当初は思っていましたが、英国のクラウンコロニーの香港には、当然ですが、英国人が大勢住んでおりましたので、近所付き合いを始めてすぐ気が付きました。 単純に、呼び捨てではなく『ファーストネーム』と接尾語に工夫がありました。

 

 厳密にいうと、日本語の「ちゃん」、「くん」、「さん」に当たる言葉は英語にはないようですが、ファーストネームで呼び捨てにするとか、人名の短縮形(例:Elizabeth→Beth, Michael→Mike)を使って親しみを評しています。 それでも、日本語の「ちゃん」、「くん」、「さん」とはかなり違います。

 

 さて接頭語での工夫ですが、日本語は不思議なことに、結論を表明する動詞を最後に言いますし、さらに動詞の最後部につけた接尾語で、やっと結論になります。 これは、奥ゆかしさを超えて、コミュニケ―ションとか意思伝達の方法としては、ずっと不思議に思っています。

 

 愛称に接頭語で工夫があった中国ですが、接尾語も流石、表意文字『漢字』の元祖で、名前の後につける接尾語にも工夫があります。 日本語の『さん』、『様』、『君』は、『先生』、『小姐』、『女士』、更に『先生』に対する敬称は『老師』となります。

 

 儒教の国・中国、地位の高い人の呼び方にもいろいろあります。 先ず『総』は社長、『科長』は課長、『校長』は校長、『頭!』はボス・親方です。 名前がわからない相手に対する中国語の呼びかけの言葉は男性の場合は、『大哥!』、『叔叔!』、女性の場合は、『大姐!』、『姐姐!』です。

 

 さて、表題の『日経新聞文化欄「東北方言ジンジョコの謎」と接尾語のこと

―名前の呼び方は、多種多様で興味は尽きない接頭語と接尾語―』に戻ります。

 

 『肩車は、「ジンジョコ」とは言わず、響きの似た、人形を意味する「ニンニョコ」という。 東北に残る蚕の守護神「オシラサマ」の祭りでは、「ご神体の人形を木で作り、馬や女性の顔を描く場合が多い。 おんぶの姿は「肩車」を連想させ、オシラサマを表す方言には「ジンジョコ」が付く場合が多い。

 

 今年は取材の結果をまとめた「ジンジョコの森」という本も出し調査に区切りをつけた。 都市化が進み、方言は若い人と話しても本来の姿を知ることは難しくなった。 東日本大震災によって建物や街並みが流されただけでなく、言葉も消失の危機にある。

 

 方言の大元には、多分文字の無かった『大和言葉』があり、中国からはいってきた漢字・表意文字に置き換え、更にひらがな、カタカナを併用した日本語の凄さと、最近のカタカナ語満載の日経新聞と比較して感慨無量です。

                             (20201030纏め ♯238)

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『卑弥呼・邪馬台国は神秘的で、その真実を知ることが難しい!』 ―邪馬台国はどこ?北九州か畿内か、そんなに古くて遠い話かー

2020-10-18 09:36:46 | 歴史・日本

『卑弥呼・邪馬台国は神秘的で、その真実を知ることが難しい 1』

『邪馬台国はどこ?北九州か畿内か、そんなに古くて遠い話か』

 

日本古代史の『邪馬台国』と『出雲王朝』はまだまだ発掘の夢があるのではないでしょうか。

卑弥呼でおなじみ『邪馬台国』はどこにあった?古代史ミステリーは、なんでも自分の脳の中で、勝手に、自由に想像できる素人にとっても永遠のテーマです。 明治時代に、東京と京都の帝大で勃発した『距離かそれとも方角か・・・』の邪馬台国論争がいまだに決着つかずに続いています。

決着つきそうな発見が、畿内説と北九州説の両方にありました。

❶「畿内説」(奈良盆地説)が近年急激に巻き返したのは、奈良盆地の「纏向(まきむく)遺跡」の中の「箸墓(はしはか)の古墳」が卑弥呼の墓という説。

❷「北九州説」が根強いのは北部九州には、吉野ケ里遺跡や平塚川添遺跡などの環濠集落の遺跡があり、神武の東征神話、さらに漢から贈られた金印が出土していることから、九州説を唱える学者も多い。

「畿内説」❶に、ずーっと、自分も傾いていましたが、最近、副島隆彦氏の著書『歴史再発掘』のタイトルに魅かれ読み始めました。 特に圧巻は『邪馬台国はどこにあったのか、最近の話題』でした。 最近では、下記理由で「北九州説」に傾いています。

①西暦57年の邪馬台国・『倭奴国』「漢倭奴国王」の金印は、福岡県福岡市東区志賀島で、1784年4月12日に発見された。

 ②西暦57年の『魏志倭人伝の道程』の中に、『南至邪馬壹國女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸』と記録がある。

 ③邪馬台国の卑弥呼の後継者・臺與(「とよ」あるいは「いよ」、生没年不詳)は、日本の弥生時代3世紀に『三国志 (歴史書)』、魏志倭人伝中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女にして、卑弥呼の跡を13歳で継いだとされる女性である。 魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『梁書倭国伝』『北史倭国伝』では「臺與」と記述されている。

この邪馬台国が、熊襲(九州南部)に攻められ、西暦247年、卑弥呼は「狗奴国が攻めてくるので助けてください」と魏の皇帝に使いを出している。 当時、小国分立の中で『畿内に存在した』が九州南部の熊襲に攻められたとは考えられない。

⑤上記の二件のエポックからも、200余年続いた王朝が、途中で、福岡から奈良に遷都したとは考えられない。 こんな『遠距離遷都』は、遷都頻繁の奈良・平安時代にない。

⑥後述の弥生時代の鉄器の出土数1は熊本(2018年現在)、鉄器こそが権力の象徴ととらえる学者もおり、やはり『九州北部の邪馬台国』が南部の熊襲に攻められた客観的事実が重い。

 

アラ傘寿には、体力的にも精神的にも実地踏査はタフな課題ですので、『歴史再発掘』抜粋させて頂き、今後の国会図書館通いで自分なりの理解をしたいと思っています。 

ここから先は、今後の調査のための備忘録です。 お時間と興味がありましたら、ご覧いただければ幸いです。

昔の話ですが、19640706~19710412に7年余も、週刊文春に連載された松本清張氏の『昭和史発掘』が、装丁版・8巻で刊行されたとき、香港駐在中で、新聞の半ページ記事(パブリシティ)で知りました。 『昭和史発掘』の発掘に強い印象を受けた記憶がありました。

この記事の中に、まだ歴史にはなってない昭和史を書くので『昭和史発掘』としたのではということも言われていたと同時に『歴史』と『歴史小説』との違い等にも触れていたような記憶があります。 最近のテレビのドキュメンタリー番組もドラマも、自信満々で、これが史実、と言っているような面が多々あり、勉強になります。

 

副島隆彦氏はこの本の『まえがき』でこう言っています。 

『歴史は再発掘されるべきである。 今も隠されたままなっている、大きな真実が土中に埋められている。 それらを敢えて掘り出して、白日の下にさらけ出すことを、私は常に決意してきた。 故松本清張氏の晩年の長い連載作品に「昭和史発掘」週刊文春に連載。 1964-1971年がある。 この歴史発掘という言葉に私は魅かれて、これにあやかろうと思った。 それでこの本の書名となった。』

 

表題、『卑弥呼については神秘的で、その真実を知ることが難しい!』 ―邪馬台国はどこ?北九州か畿内か、そんなに古くて遠い話か―、に戻ります。

副島隆彦氏の著書『歴史再発掘』の抜粋引用です。

『邪馬台国論争の最前線、

(1)「畿内説」(内藤湖南派)京都大学の学者たちが唱えた。  邪馬台国は奈良県の南にあった。 やや奇抜だが、「畿内説」(奈良盆地説)が近年急激に巻き返したのは、奈良盆地の「纏向(まきむく)遺跡」の中の「箸墓(はしはか)の古墳」が卑弥呼の墓という説。 この古墳は日本最古の前方後円墳でもある。 箸墓古墳はヤマト王権最初の王墓と考えられている。 宮内庁は孝霊天皇の皇女の墓として管理。

(2)「九州説」(白鳥倉吉派)主に東京大学の学者たちが主張した。 大陸や朝鮮半島に近い北九州の当たりにあった。

有力であるが、問題は、邪馬台国は3世紀であることははっきりしている。       

 これが6世紀の畿内の大和朝廷とどのようにつながるか

 

弥生時代の鉄器の出土数No.1は熊本である。(2018年現在)鉄器こそが権力の象徴ととらえる学者もおり、邪馬台国に対抗していた「狗奴国」の有力候補地である。

 

ここで、陵墓の定義をウエブ情報(笹日新聞掲載『キーワード」の解説)からです。 陵墓の学術調査が、まだまだ、難しいようです

 

『天皇や皇喉皇太后を葬った「陵(みささぎ)」と、それ以外の皇族の「墓」などからなり、合計850。 他に被葬者を特定できないが陵墓の可能性がある「参考地」が46ある。 皇室用として宮内庁が管理する。 明治憲法公布直後の1889年に古墳時代の天皇陵がすべて定まり、その後の変更はない。』

 

『歴史再発掘』の抜粋引用です。

『西暦57年邪馬台国・『倭奴国』「漢倭奴国王」の金印(見つかっている)

『「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」

筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)、1784年4月12日発見された。

西暦239年、邪馬台国・『倭国』「親魏倭王」の金印(見つかっていない)

邪馬台国は中国の文献に出てくるコトバだ。 邪馬台国は、中国古代の「魏」という帝国の時に、邪馬台国の女王・卑弥呼が、貢物を「魏王」に、貢物を献上している。 それは西暦239年。 このことが魏帝国の正史にとされる「三国志魏志」の中の第三十の「東夷伝倭伝」にある。

 

その中に、「倭の女王の卑弥呼から、朝貢使が来た」と書いてある。 それに対して、魏の皇帝が、「親魏倭王」という称号を「倭の女王」に与え、承認した。

だから邪馬台国は倭国である この時国王としての称号と。金の印鑑「親魏倭王」の金印をもらっているが、この金印は見つかっていない。

 

西暦247年、卑弥呼は「狗奴国が攻めてくるので助けてください」と魏の皇帝に使いを出している。

 

 狗奴国が攻めてくるというのは、おそらく「熊襲」と呼ばれていた、今の熊本や鹿児島に住んでいた人たちだと私は思う。 魏は助けには来なかったが、錦の御旗を送ってきた。 このあと「倭国は大きく乱れた」と「魏志倭人伝」に書いてある。』

 

この「魏志倭人伝」の情報から、邪馬台国が九州南部であった可能性が高くなります。 熊襲のウエブ情報です。

 

熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト政権に、抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。 古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。

 

『歴史再発掘』の抜粋引用です。

『私、副島隆彦は、どう考えてもこの邪馬台国(倭国)は、北九州の当たりだと考える。 今の福岡市そのものだ。 邪馬台国(倭国)は、紀元前100年から紀元後663年(白村江の戦いで大敗)までは存在しただろう。 

 

朝鮮半島の南の沿岸部一帯にも倭人は住んでいた。 だからこの辺りも倭国だ。 北九州一帯と同じ言葉を喋って同じ文化だったろう。 漁労民(海洋性の民族)だったろう。 だから、倭国というのは、今の釜山を含む南のほうと北九州一帯と、今の山口県のあたりまで含んでいた。

 

 百済という朝鮮半島で一番大きな国があって、倭国は百済の弟分のような国だった。 両国民は言葉が自然に通じたようだ、 2600年を遡ると、日本語と朝鮮語は同一だったようだ。

 

大和とヤマト

前述したとおり、西暦200年代の「邪馬台国は大和(ヤマト)だ」と言って奈良盆地に無理やり決めてしまおう、という動きが文部科学者の文化審議会を牛耳る頑迷な古代史の学者たちから出ているのが今の今の動きだ。

 

中国から、この「大和」(大きな平和)という漢字を700年代にもらってきてそれを「やまと(山門)」という日本の土地の言葉に覆いかぶせた。 そして、漢字の大和と読ませた。

 

日本文明というのはない。 それはフランス文明やイギリス文明がないのと同じことだ。

 

北九州あたりにあった邪馬台国(倭国)がいつ滅んで消えてなくなり、いつの間にか奈良盆地が、日本の中心で大和朝廷・ヤマトになったのか。 西暦300年代、400年代か、500年代には『山門・ヤマト(奈良盆地)』が中心だ。

 

西暦400年代の100年間は、今の難波(大阪)や、その南の河内地方に大王(おおきみ)たちが大国をつくっている。 これが仁徳天皇や雄略天皇。 中国側の文献『正史宋書』では『倭の五王』と言われる。

 

西暦663年の『白村江の戦い』のとき、2万8000人の全軍を出して大敗北したとき倭国(余談;倭国連合の中心に卑弥呼の子孫の邪馬台国があったか?夢のある課題が残った)は滅んだ。 

 

北九州北部の邪馬台国の旅は、国土地理院地図とグーグルマップで我慢して、コロナ禍後の奈良明日香・飛鳥路の旅が楽しみになりました。      

               (20201018纏め #236)

 

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『石工・穴太衆(あのうしゅう)が、城の石垣造りで時代に影響した』 ―信長が焼き討ちした比叡山→安土城→石垣山一夜城等の石垣―

2020-10-09 22:12:03 | 城・城郭・城塞

『石工・穴太衆(あのうしゅう)が、城の石垣造りで時代に影響した』

―信長が焼き討ちした比叡山→安土城→石垣山一夜城等の石垣―

 

  昔、広島県出身の先輩のお宅に伺ったことがありました。 その往復路の車窓から見る田圃の仕切り・畦道が高い低いに関係なく、石垣だったことに驚いたことがありました。 理由は、関東地方、特に自分の故郷、千葉県の東総地区の田圃の仕切りと畦道は、高さにはあまり関係なく、毎年田植え時期には、泥を積み上げ、漆喰のように塗り上げたものが多かった記憶があります。

 比叡山焼き討ちは、1571930日に、滋賀県の比叡山延暦寺で行われた戦い。 この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の3,0005,000人の首を刎ねたと言われている。 またこの戦いはルイス・フロイスの書簡 にも記載されていると記録ある。

 

 比叡山焼き討ち山坊の後始末で石垣が崩せなかった、穴太衆の石工(いしく)の技術が、後の信長・秀吉の築城に影響

ウキペデイアより引用

 

安土城大手道(大手門を入って、すぐの直線の大手道の風景、信長は『城を当てに』戦うことなど、微塵も考えなかったし、一説には天皇送迎のためか)

ウキペデイアより引用

  安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。 そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団『穴太衆』はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、と言われている。 

 

石垣山一夜城 南曲輪の石垣石切り場は近くにあったようですが、それでも総石垣の総構えの城郭を、およそ80日間で完成した秀吉・官兵衛は凄い

ウエブ情報より引用

  城郭の本格的な総石垣積みは、関西よりも関東は大分遅れて始まりました。 それまでの関東の城郭は殆どが、土塁・空堀・堀等の構えの構造であったようです。 豊臣秀吉が1590年の小田原征伐の際に小田原城の西3㎞にある笠懸山の山頂に構築した石垣山一夜城は、石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城であったとされる。 石垣山一夜城までは石垣の積み方としては、初期の『野面積み』が一般的でした。

 

 外国人が日本の城郭に魅かれるのは、石垣の反りと直線、5重5層・5重6層の秀麗な天守閣と、その屋根の破風だそうです。 以前桜田門でお会いしたドイツ人旅行者・カメラマンがこの破風(切妻破風・入母屋破風・千鳥破風・唐破風)の種類まで精通していたことに驚かされたことがありました。

                             (20201009纏め #233

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『天守閣も戦うために縄張りした松山城(安土城は居住空間!) ―「本丸の一角」に深さ44ⅿの井戸(造り方、目から鱗の傑作)―

2020-10-05 22:24:41 | 城・城郭・城塞

『天守閣も戦うために縄張りした松山城(安土城は居住空間!)』

 ―「本丸の一角」に深さ44ⅿの井戸(造り方、目から鱗の傑作)―

 

 一般に天守閣は、天守台の上に、平時も戦時も民衆や敵を威圧するものとして、5重6層など、威風堂々としていますが、実際には、天守閣は居住のためではなく、武器蔵・食料庫に使われていました。 いわゆる『ハコモノ』と言われてもしようがない面がありましたが、織田信長、ただ一人、違いました。 

 

 安土城は信長自身が天主閣に居住し、隣の本丸御殿には、天皇を迎えるための施設だったという可能性が指摘されており、その根拠は沢山あります。 表題から脱線しますので、次の機会にします。

 

 安土城だけは天守閣と呼ばない、考えられる説は二つ;❶キリストの神であるデウスを天主と称していたことから名付けた ❷唯一天主で生活していた主の住まいなので天主と名付けた。

 

 先日、BSプレミアム放送で『絶対行きたくなる! ニッポン不滅の名城・四国の名城・松山城 知られざるルーツを探る!放映されました。 『城好き』な自分が、いつも気になっていたのが、山城・平山城の『飲料水』でした。

 

 山城と平山城は、独立した山・丘陵、または尾根の先端の高いところに『本丸』と『天守閣・天主閣』を作ります。 『飲料水』の心配は、山城と平山城にありますが、今回の松山城の特例は別として一般に、頂上から数十メートル以上、下ったところに湧水井戸があります。 

   この伊予松山城を、先ずは俯瞰・遠景で見てみます。

 

 写真(1)松山城全景

(手前が総構えの一角、その右奥に二の丸、左奥に三の丸、勝山山頂に本丸と天守閣、裏側に北には北曲輪、南東には東曲輪)

ウエブ情報の引用 

 

写真(2)松山城古地図

(Hエリア全体が本丸、山頂の本壇にある天守(大天守)は、日本の12箇所に現存する天守の一つで。 この中では姫路城と同じく、連立式で、日本三大連立式平山城の1つにも数えられる。 天守閣の反対側に井戸)

ウキぺデイアより引用 

 

写真(3)伊予松山城の本丸21棟の重要文化財

天守、三ノ門南櫓、二ノ門南櫓、一ノ門南櫓、乾櫓、野原櫓、仕切門、三ノ門、二ノ門、一ノ門、紫竹門、隠門、隠門続櫓、戸無門、仕切門内塀、三ノ門東塀、筋鉄門東塀、二ノ門東塀、一ノ門東塀、紫竹門東塀、紫竹門西塀

ウィキペデイアより引用(井戸は本丸の南側にある)

 

 今回は驚きました井戸を掘るではなく『井戸の周囲を埋め立てて、使用するレベルまで井戸端を持ち上げたこと』には、目から鱗でした。 伊予松山城の本丸は、独立峰、標高132ⅿの勝山の頂上に、南北に長い本丸の台地に立つことになります。 ここにあるのが本丸井戸。 素人の想像ですが、勝山の南峰も北峰も、標高は132ⅿ以上あったのが削られて、井戸の場所(鞍部)の埋め立てに利用されたのではと想像できます。

 

 本丸の台地はもともと南北に長かったわけではなく、実は南峰、北峰の双峰があり、その谷間を埋めて細長い台地にしたもの。 谷底にあった泉を井戸にしたと伝わっています。 これで納得がいきましこの井戸は井戸端からの深さは44ⅿあります。普通、湧水井戸は山は尾根の頂上から数十メーター下になります。

 

 

写真(4)伊予松山城独特の本壇の拡大図(戦うための天守閣)

ウキペデイアより引用

 

 大概の天守閣は、望楼型や層塔型で、5重6層・6重7層と高さも数十メートルと高層です。 小天守や櫓を付けた連結天守閣があります。 更に、西国の外様大名に備えて、戦える、長期戦に耐える連立式天守閣の巨大城郭が、姫路城・和歌山城、松山城です。 名古屋城・広島城は連結天守閣ですが、ほぼ同様に、徳川幕府は戦わずに、西国外様大名から、およそ300年も守り続けられた城郭ネットワークだったと思われます。 

  秀吉の子飼いの賤ケ岳七本槍の一人で、松山城の創建者『加藤嘉昭』を44万石の大大名まで引き上げた『徳川家康』は凄い『神君』です。

20201005纏め #231

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