知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『日本の城郭 015(臼杵城 ヨーロッパの香りただよう海城(NHK)』

2024-05-02 21:12:41 | 城。城郭。城塞。宮殿
『日本の城郭 015(臼杵城 ヨーロッパの香りただよう海城(NHK)』
『「日本最強の城スペシャル」でみた、日本にもあった珍しい「陸繋島」の海城「臼杵城」の縄張りと総構えが凄い』
『世界に海城は少ないが、陸繋島「モン・サン=ミッシェルに城郭」と「丹生島に臼杵城」対して「江ノ島には築城されず」はなぜ』

『NHKの日本最強の城スペシャル・初夏に行きたくなる城を大特集!』
l  フォトジェニックな城として、天守群が映える松山城。
l  名橋とのコラボが美しい岩国城。
l  東海道から眺める掛川城。
l  天然要害の要塞として小諸城・臼杵城(陸繋島の)が登場。
l  アウトドア派にオススメな城は、山城をVRで楽しめる飯盛城。
l  独眼竜政宗の居城・仙台城。
のセンセーショナルな紹介に魅せられて、しっかりと視聴しました。

傘寿プラスのブログのトップバッターは「陸繋島の臼杵城」です。
海城(うみじろ)は、水運を押さえるため海に直面して築かれ、海水を堀に用い、その一部に舟入や船着場を設置または兼用している城、あるいはその形式。 河川や湖沼に隣接する城と併せ、総じて水城(みずじろ)とも呼ばれる。 水城の中でもユニークな城郭が『陸繋島の海城・臼杵城』です。

臼杵城(城郭あり)
 海抜22ⅿ
 広さ(データ見つからず、推定江ノ島の約四分の一

『江ノ島(城郭なし)』
 海抜61ⅿ
 広さ0.42平方㎞

『モン・サン=ミッシェル(城郭あり)』
 海抜80ⅿ
 広さ0.97平方㎞

臼杵城春景色
 
ウエブ情報から引用

臼杵城(中央右寄りの島)総構えの縄張り絵図
 
ウエブ情報から引用

堅固な要塞化された丹生島城(陸繋島)の対岸は武家屋敷と城下町が構築され、石高90万とも言われた大友氏ですので、この縄張りの総構えは見事であったと想像できます。
陸繋島
陸繋砂州の形成によって主陸地と陸続きと化した、島のこと。 海岸近くに島があると島の本土側では沖からの波が島を回り込んで衝突しあって弱まり、結果として波の静かな海域ができる。 この海域は沿岸流や周辺の河川などから運ばれてきた砂が堆積しやすく、やがて海岸と島を結ぶ砂州が成長し陸続きとなる。 この砂州のことは陸繋砂州あるいはトンボロという。

臼杵城俯瞰図
 
ウエブ情報から引用

大分県臼杵市にあった日本の城。 城跡は大分県の史跡に指定されている。 戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる『丹生島城(にうじまじょう)』が築かれ、大友氏の拠点となった。

丹生島は北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟の陸地でつながるのみという天然の要害をなしていた。 なお、『丹生』とは丹(に、鉱物の辰砂)が採取される土地を指し、丹生島とは『金属鉱石の産出する島』という意味。 大友義鎮(宗麟)は、この島一つを城郭化して干潟を干拓して城下を形成した

城には3重の天守と31基の櫓が上げられた。 総二階造り(上下階の平面が同規模)の重箱櫓と呼ばれる形状をした二重櫓が特徴的であった。 廃藩後は天守以下の建物は一部を残し取り壊され、周囲の海も埋め立てられた。 現在、城郭主要部は都市公園として整備され、石垣、空堀が残る。 また、二の丸に畳櫓が、本丸に切妻造りの卯寅口門脇櫓が、それぞれ現存する。

この城郭の強さが分かる戦国時代の対島津戦です。 『天正14年(1586年)の島津軍の侵攻(丹生島城の戦い)に対して『国崩し』と呼ばれたポルトガルから入手の大砲『フランキ砲』を動員するなどして島津軍を退けたが、城も城下も大きく損失した。 その翌年、大友義鎮は死去した。

この城の大絵巻は、これからさらに勉強をしたいと思いました。
(記事投稿日:2024/05/02 #744)

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