知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『大ピラミッドのこと 1.1(石材230万個を、接着剤なしで、傾斜52度で積上げ)』

2023-08-08 07:55:25 | 歴史・世界・古代
『大ピラミッドのこと 1.1(石材230万個を、接着剤なしで、傾斜52度で積上げ)』
『「不揃いの石材積上げ」理論は経験からか、化粧石が剥落したので、見えるのは今』
『内部の複雑な傾斜通路と謎の構造と使用目的に関する疑問』
『大ピラミッドの王の間の上部の「五層の重量軽減の間」の技術で建っている』

今回(2024/04/04)のアップデートは『大ピラミッドは(石材230万個を、接着剤なしで、傾斜52度で積上げ)てあるが、地震もあるエジプトで、約4500年も崩壊していないのは、「石材230万個の寸法が不揃いであること」』も一要因であると言われています。 ピラミッド建設時代は約1000年続いて、そのあとの時代は、『神殿建設時代』から『地下墓所建設時代』と続きます。 

この約1000年間に100基余のピラミッドは建設され、約1000年間の中ごろに、国力が最も充実した時代に、最も完成度の高い大ピラミッドが建設されています。 この『不揃いの石材積上げの理論』は、長いピラミッド建設時代の経験で培われたものでしょうか。 約4500年前に不揃いの石材の階段状を、白色の石灰石の化粧石で、真っ平の面の、四角錐にした古代エジプト人にはただ驚くばかりです。 四面の中央が凹んでおり、正確には四角推ではありません。これも崩壊防止のためともいわれています。 経験から来た技術とは言え、想像を絶するレベルです。
大ピラミッドのトップビュー『不揃いの石材積上げ』が見える写真
 ウエブ情報から引用

前回(2023/08/08)のアップデートは、石材の傾斜路引き上げ方法、『3年前の情報⇒❶建設時の指揮官の日記と、❷椰子の皮製ロープで使える木製滑車代わりに、丸太柱を滑車として石材を引き上げたこと、が判明』、詳細は、別ブログ『大ピラミッドのこと 7(遂に「ピラミッドの石材運搬方法が完全解明)』 参照願います。

 

『世界の七不思議』で唯一現存するピラミッド。 『世界の七不思議』の

 ほとんどが、地震によって破壊されたが、大ピラミッドの『王の間』の上部

 『五層の重量軽減の間』の技術で大ピラミッドは、4,500年立ち続けている

 この仕組みがなければ、中央部分が地盤に沈み、崩壊したと言われている。

 

 『時はすべてのものを嘲るが、ピラミッドは時を嘲る』と言われる。

 4,500年以上も立ち続ける大ピラミッドを敬った昔のアラブ人の諺。

 

4,500年で満期を迎えた人類史上最大最長の財形貯蓄』であるピラミッドの

 おかげで、エジプトの観光収入は、年間40億ドル。   これでも、パリの

 エッフェル塔には及ばないとか・・・・・。

 

 

 

ピラミッド学上の不幸は、アレキサンドリア大図書館の関連書物がローマ時代

 のカエサル帝とテオドシウス帝の時代に焼失したこと。

ヘロドトスの著書『歴史・ヒストリアイ』、歴史の語源になったが、これは

 動詞『調査する・ヒストリオ』等の派生である。

 

このヘロドトスが、10万人の奴隷を動員、20年の歳月をかけたと言った。

 これが定説になっていたが、これが3カ月交代であれば、後述のハーバード大のレーナー博士の立証と合う

 ピラミッド研究に、最大の貢献は、ロゼッタ・ストーンの解読でした。

 これには、『ヒエログリフ』象形文字、それを簡略化した『デモティク』民衆

 文字と古代ギリシャ語の3種類の言語(トリリンガル)で布告が書かれていた。

 『ヒエログリフ』は表音文字、表意文字の混合でした。 これは最も進化したと言われるハイブリッド言語です。

 

 日本語は現在、唯一のハイブリッド言語です。 れが今では『ハンデキャップ』。 韓国も、ベトナムも、インドネシアでも、現在はハイブリッド言語ではない。

 

それでは、ピラミッドの『WhyHow』の整理を試みます。

 このトリガーは、グラハム・ハンコックのベストセラー『神々の指紋』に

 ある『ピラミッドは12000年前に超古代文明人が造った!?』という

歪められたピラミッド学でした。  12000年前オリオン座の三つ星が

 ピラミッドの配置と同様であったとの理由だけで。 12000年前は、

 地球は第6氷河期の終り頃で、旧人ネアンデルタール人が滅んだ時代でした。

 

 1)  ピラミッドは何のために

 『目的』は、一つではない。直説・間説目的の相乗効果がピークに達した、 

   時期に大ピラミッドが造られた。その後は直接目的が薄れた。

『直接目的と背景』は、王の魂の甦る・復活の場所、王を神に変えるための

   仕組みと、国民の太陽神への信仰心からくるモチベーション。

   王の間(奥行き10.5m、巾5.2m、高さ5.8)の空の石棺は、従って、

  魂の休息所では。要調査

 

『間接目的』は、ナイル氾濫期の失業対策と国威発揚

   奴隷ではない労働者は、飯場でビールとパンで生活。

 『王墓』説、ヘロドトスは、エジプトの神官から『これは王の墓だ』と聞いた

   だけで、現在まで立証されていない。

   今まで盗掘されず無傷で発見された古王国の王家の墓は、スネフェル王の

   妃の ヘテプヘルスの墓だけ、宝飾類、家具、ミイラ化処理された内蔵

  だけで、ミイラ本体は発見されていない。 

   ツタンカーメンの墓は、ピラミッドではない。

   しかし、一部のピラミッドで地下深くに、墓が発見されている。

 『ピラミッドテキスト』には、王が死して鳥となり地下より地上に飛び立つ。

   そして西の空に向かっていくとある。 地下室が墓で、上は神殿。      

   太陽の船、二艘目も発見され、太陽の船は二艘、一艘には、マストと帆と

  ロープ、この船には、

  太陽神ラーが、もう一艘には、ロープだけで、これに神になる王の遺骸が

  乗って太陽神ラーに、引っ張られて西へ・・・・。

 

『石棺』になぜ蓋がない。 石棺ではなく太陽神ラーの合体儀式の用具では。

  日の出に始まり、日没に終わる儀式。

 

2)  ピラミッドの造り方

   重い石を運ぶことに、エジプト人は熟練していた。 大ピラミッドが

  建設された2,000年後(2,500年前)には、250トンのオベリスクを

   運んで直立させている

 

 基本的な知識

『計測輪』で距離を測ったので、当然、円周率(π、パイ)は経験的に判る。

『北方角の決定』は、恒星が東から昇る方角と西に沈む方角の、2等分点。

 『コロ使用説』は非現実的『テコと橇と逆レール』で直線型傾斜路を引き揚げ。

   エジプト人が、機械や、滑車や、車輪を使った証拠はないとの説も

  あるが、滑車使用の傾斜路引き揚げでないと、大回廊と王の間は

   構築できない(要紙上調査)。 大回廊の下部にその痕跡がある

他に、『らせん状傾斜路』仮説、 『ジグザグ型傾斜路』仮説、

    『封筒型傾斜路』仮説、 『複合型傾斜路』仮説、 

    『渦巻型傾斜路』仮説、  

 もあるが非現実的。

 

『内部トンネル傾斜路』仮説は、

   最近のドイツの建築技術者のもの。

   内部傾斜路での直角方向に転換を、滑車で吊り揚げ。

   高さ3分の1までは直線傾斜路、上部は内部トンネル傾斜路説。

   目下、最有力説。 重力分布測定でトンネル空洞は観測された。

 『橇』は逆レールに、水又は油を潤滑剤として使用。

 『逆レール』は二本の溝に角材木を敷いたもの。

 『水平』は岩石大地に碁盤の目の溝を切り、水を張り、水平に削る。

 『バットレス構造』の石積みは、重力エネルギーを上下に吸収で長寿命。

 

 この大ピラミッドのバットレス構造(要調査)

 『正四角錐の真正ピラミッド』は太陽信仰の絶頂期に、太陽の光をイメージ。

 『真正ピラミッド設計』は、ヘムオン、ピラミッドの中興の祖、これ対し

 『階段ピラミッド設計』は、イムヘテプはピラミッドの開祖

  前述の『バットレス構造』も、ヘムオンが考え出した。

 『肥沃な土地』40平米で一人の人間を一年間養えたと記録もある。

       高官や支配階級は10,000平米も持っていた。

『妻』や『ミセス』と同じ意味合いの言葉や肩書あったが結婚の概念なかった。

 『住環境』は劣悪だが、床屋で石の刃で髭は剃った。

 『クフの石切り場』と言われる石材の豊富な場所は、キザの南方3km。

           230万個の殆どの石材は、ここから運ばれた。

 『労働力』大ピラミッドには平均1立米、2トン半のブロックが、およそ

   230万個使われ、『トリノ・パピリス』によれば約23年かかった。

   一日10時間労働で、約2分に一個積み上げた。

 参考情報: 江戸城の石垣の石材は数百万個と推定される

 

ハーバード大学のレーナー博士の立証では、

 直接労働

 『石の切り出し』 1,212

 『石の運搬』:  34チーム・20人・2交代=1,360人。        

 『石の積み上げ』:680人、 その他748人  小計約4,000

 補助的支援労働: 約20,000人    合計24,000

 チームには、組頭の兵隊が1名入っていた。 人足の給料はすべて食料と衣類で支払われた

 クフ王の間に使われた赤みかげ石は、40トンもありアスワンから平底船で

 運ばれた。

 

石材運搬用傾斜路

王の間の構造に使用された巨大石材(一本60トン、43)は、ナイル川

を平底船で運搬され、陸揚げ後は、橇と逆レールで引き上げられた。

 この巨大回廊(高さ8.5m、巾2.0m、長さ47.0)が巨大石材の運搬用で、もあったのでは。

   滑車とナツメヤシのロープとレバノン杉の橇で、更に吊り合い重りを使用。 

  (要調査)

 従来の『西向き直線型傾斜路』仮説には弱点、

 河岸からサイトまで、東西で長くなり、緩傾斜では、高さ147mまで

 の距離がとれず、揚げられない。

 

 最近の最有力説は、『南向き直線型傾斜路』仮説

 ナイル川西岸からキザ台地には西向き『直線型』では距離不足で傾斜が

 きつくなるので非実際的との説であったが、最近、大ピラミッドの南側に

涸れ谷が発見され、ナイル川氾濫期には船が着けられ南向き傾斜路も長く

 とれるとされる。

 朗報、最近南側で、南向き傾斜路遺跡の一部が発見された。

 

現在は階段状に積み上げられた石がむき出しだが、もともと『化粧石』(磨きこまれた石灰石)で

コーティングされていた。

 この『化粧石』はトップから貼り付けたか、下部から貼り付けたか(要紙上調査)

 大ピラミッド、キャップストーンのトップへの乗せ方は、前述のドイツの建築

 技術者の建築方法が実際的。

 

ピラミッドの工期

 今までは、雨期(夏)に造られたと言われたが。 春にも造られた、

 つまり一年中作業できた説が有力。

 何年で完成したか。 従来は27年と言われていた。

石材には切り出された年と季節の記録あり、傾斜路の取り外された後の

太陽の船の納める穴の蓋石の記録から、工期は20年以内と証明された。

 (記事投稿日:2013/03/24 、最終更新日:2023/08/08、#073)

 

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『四大文明誕生は、大河川(水位変動が大きく、河床勾配が小さい)の近くで』『例外は古代アンデス文明カラル遺跡が、大河川なしで定住農耕・文字あり』

2023-03-11 10:31:57 | 歴史・世界・古代

『四大文明誕生は、大河川(水位変動が大きく、河床勾配が小さい)の近くで』

『この立地条件に合致のブラジルのアマゾン川には、古代文明は誕生せず?』

『理由は定住と農耕が発展せず、狩猟採集生活が維持され文字の発明もなし』

『例外は古代アンデス文明カラル遺跡が、大河川なしで定住農耕・文字あり』

 

 文明      河川     長さ   水源海抜   河床勾配 
エジプト     ナイル    6853㎞   1134
    0.02%
メソポタミア   チグリス   2850㎞   1150
    0.04% 
         ユーフラテス 2800㎞   3520m    0.13%
インダス     インダス   3200㎞   4500
    0.14%
中国       黄河     5464㎞   4800
    0.09%
         長江     6300㎞   5042
    0.08%

ブラジル     アマゾン川  6516㎞   5597    0.09%

 

ヨ-ロッパ中心の歴史は、古代文明の栄えた南北アメリカを、新大陸と呼ぶ。

 

古代文明

アフリカやアジアの大河の川ぞいでは、ゆたかな水をもとに農耕や牧畜が発達し、そのため文明が発達できた。 チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河の流域の各地域で文明が発達していった。 この4地域での文明を四大文明と言う。 それぞれの文明を、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明という。

 

これらの四大文明では文字が使われていた。

世界最古の文明は、今から約5000年前のエジプトのナイル川流域におきた
エジプト文明と、西アジアのチグリス・ユーフラテス川流域におきたメソポタミ
ア文明であった。 ついで、今から約4500年前の今のパキスタンであるインダス川流域のインダス文明、今から約3500年前の中国の黄河流域の中国(黄河・長江)文明であった。
これらの4つの文明を四大文明という。

 

新大陸にもありました。 古代アンデス文明カラル遺跡です。

 

カラル遺跡(写真―1)   VS  大ピラミッド(写真―2)

紀元前: 3000~1800年頃        紀元前: 3000~1000年頃

総面積: 66ヘクタール         総面積:   180ヘクタール

推定人口:数万~十数万人        推定人口:数十万~百万余人

 

カラル遺跡(写真―1)

ウエブ情報から引用

 

比較するために、大ピラミッド(写真―2)

ウエブ情報から引用

 

カラル遺跡(パノラマ)

ウエブ情報から引用

 

カラル遺跡(中央部分)

ウエブ情報から引用

南米大陸、ペルー を中心とする 太平洋 沿岸地帯およびペルーからボリビア へつながるアンデス中央高地 に存在した古代アンデス文明。 メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明といったいわゆる世界四大文明などと異なり文字は持たない(初期の『キープ(結縄)』が数字と文字の機能を持っていた)。 今まで親しんできた、アステカ文明・マヤ文明・インカ文明(特に、古代アンデス文明)をもう少し調べてみたいと再認識しました。

(記事投稿日:2023/03/11、#636)

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『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 3』 『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

2023-01-15 18:51:44 | 歴史・世界・古代

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 3』

『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

『絶海の孤島の歴史「黎明期・隆盛期・衰退期」の変遷から現世界は学ぶべき!』

 

次の前置きは、『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 2』からの再掲です。

 

ロンゴロンゴの記された24の木片(文字板)が19世紀後半に収集されたが、風雨による損傷や、破損、焼失部分のあるものも多かった。 これらは現在、世界各地の博物館に分散しており、イースター島に残っているものはない。

 

先日、NHK BS『絶海!謎と神秘の巨石文明モアイとイースター島▽21のミステリー徹底究明』再放送(2021/08/26)を見ました。 もし『ロンゴロンゴ』の破損・焼失した過去の、残念な歴史がなければ、こんなに多くの謎が残らず、多くは解読・解明されたことだと思い、残念です。

 

イースター島には『ロンゴロンゴ』と言う不思議な絵文字がありました。 謎の『ロンゴ・ロンゴ』の解読と解明の歴史は? ウエブ情報の抜粋・引用です。

1770
年、
スペインからフェリーペ・ゴンザレスが、イースター島にやって来ました。 そのとき島民は、奇妙な文字でサインしたと言う。 それが「ロンゴ・ロンゴ」です。

しかし、1862年
ペルーの奴隷狩りによって、最後の読み手である、『タンガタ・ロンゴ・ロンゴ』たちも、さらわれ死んでしまった。

 

1864
宣教師ユージン・エイラウドは、島の民家から、いくつかの文字が彫られた木片を発見したと言うが、その後、島民のキリスト教改宗とともにほとんどの、『コハウ・ロンゴ・ロンゴ』のもの言う木は、『悪魔の文字』として焼き捨てられてしまった。 謎の文字となった『ロンゴ・ロンゴ』ですが、根気強い研究によって、文字の読み方は、解明されました。 まず、右上から左へ読み、180度回転させて板の上下を逆にして、下から2行目を右から左へと読む、これを、繰り返すという奇妙な読み方でした。

この文字のルーツは、インダス流域の『古代インド文字』、『アンデス文字』、『エジプト文字』と、諸説入り乱れています。 内容にしても、
  神への祈り
  神官への支持
  鳥に伝わる伝説
  死者の名簿、など様々です。

ロンゴ・ロンゴの文字が刻まれている木片で、現存しているのは、世界でたった28点。 世界各国の博物館などにあるが、イースター島の博物館には、本物は、1枚しかありません。 チリ本土の「サンチアゴ国立自然史博物館」にあるものの複製が、2枚展示されています。 この文字が解明されれば島に残された多くの謎が解明されるかも知れません。

 

ロンゴロンゴの『文字板B』

ウキペデイア情報から引用

数字は何行目かを表す数字。Fin de 13 は「13行目の終わり」という意味

 

バルテルが発表した絵文字の一例 [Jacques B.M. Guy / Public Domain / 出典]

ウエブ情報から引用

イースター島

モアイ1,000体以上、周囲60㎞、休火山3個の火山島、木がなく、川がない、動物もいない。 そのイースター島の21の謎。

 

1.  楕円形の遺跡、と

2.  石垣箱型がセットになっている

3.  石がゴロゴロなのに栄養満点のタロイモ、水分蒸発防いだ

4.  川がないが、5か所の地底湖

5.  黎明期、隆盛期、衰退期 島民のルーツはタヒチ

6.  島民のルーツは台湾?

7.  どうやって渡ってきた、ダブルカヌー

8.  綾取り創世神話、溶岩の中に巨木の化石

9.  未解読文字 ロンゴロンゴ

10. モアイ 面長、ほりが深い、長い爪

11. 頭蓋骨に羽根飾りの跡

12. 超能力

13. 1000体も量産

14. 運び方

15. なぜ巨大化、全長12、巨人21、人口2万人で、12世紀3座している、14世紀5、16世紀10、権威誇示

16. 星とモアイの神秘的な関係、モアイの向きとスバル?

17. 衰退原因はネズミ、海鳥の卵

18. 食料危機

19. 人骨に刃物の跡(女性・子供)森林崩壊から100年

20. 希望を託された鳥人伝説

21. ラパヌイ文明滅亡

 

ウエブ情報で備忘録にして今後の課題とします。 

『8.綾取り創世神話、溶岩の中に巨木の化石』

イースター島では、文字のない時代にコミュニケーションや伝承は、あやとり(&あやとり歌)で行われ、あやとりの様々な形に意味があり、あやとりのことを「カイカイ(kai kai)」といいます。 本当に豊かな森林に恵まれていて、その証拠に、高さ20mを超えるヤシの木の化石や、木の花粉の化石が見つかっていて推定では、1000万本の樹木が茂る森林がありました。

 

『9.未解読文字 ロンゴロンゴ』

イースター島で19世紀に発見された、文字と思われるもので、と言うのは、世界でも珍しい「未解読文字」だからです。ロンゴロンゴ文字は、イースター島の住人が使っていたとされる文字で、19世紀後半に発見され、収拾された二十数点ほどの品が全てであり、それ以外の資料は無い。 読める人もおらず、未解読文字とされている。

 

『10.モアイ 面長、ほりが深い、長い爪』

『11.頭蓋骨に羽根飾りの跡』

モアイ像は、全て男性で、面長・がっしりした顎・彫が深いと言うのが、特徴。 1978年にアナケナ・ビーチで、モアイの近くからは首長と考えられる人物絵が刻まれた頭蓋骨が発掘されており、モアイが立つ「アフ」と呼ばれる土台も、タヒチの聖域マラエにある石垣「アフ」と同じ名前で、モアイは、島内にある各地域の首長を祀るための墓標として建造されたと考えられています。
またモアイの手の爪は、異様に長くなっているのが特徴のひとつで、当時の首長が、身の回りの世話を部下にやらせ、本人は手を使わなかったことを現しています。
※モアイは、崇拝の対象であり、威厳が必要で、だからイケメンなのです。

 

『12.超能力』

首長は、超自然的な力である「マナ」を持つと信じられ、今はモアイ像にはありませんが、かつては、首長の象徴である目がはめ込まれていた事がわかっており、復元された像には、目がはめ込まれた物も存在し、目の材質はサンゴ質の石灰岩で、そこから「マナ」は発せられると考えていました。 

 

『13.1000体も量産』

殆どのモアイは島の東部にあるラノ・ララクという火山の岩場で造られたことが解っていて、火山灰が固まってできた「凝灰(ぎょうかい)岩」で、比較的柔らかく、加工がし易いのが特徴で、島の西部でとれる黒曜石や玄武岩などの硬い石を使えば、鉄がなくとも切ったり削ったりすることが出来ました。

モアイを岩から削り出すには、最初に横向きの輪郭線を描き、そして、その輪郭線に沿って「トキ」と呼ばれる玄武岩の手斧で削っていき、細部は黒曜石で仕上げ、背中側は支えられるように中央部分を残しておき、最後に切り離す。

切り出されたモアイは石切り場の山の斜面を利用して滑らせ、あらかじめ掘っておいた穴に入れて立たせ、穴の中では背中側の彫刻が行われ、この最終段階までに要する時間は、小~中規模のものが6人がかりで約1年。大きなものは約1年半かかったと推定されています。
 

 

『14.運び方』

モアイは、大きいモノだと50トンあり、コロやテコでの運搬なども実験されましたが、島民も多くなく、人手の点で、現実的ではなく、その運搬方法が、長い間、謎でした。
※木の幹の化石と花粉の調査から木材は豊富にあり、12世紀には丈夫なロープも作れるヤシの木などが約1000万本も生い茂っていました。

こうした中、近年、注目を集める方法を提唱したのがアリゾナ大学のテリー・ハント教授らのチームで、イースター島のモアイを900体以上も調査すると運搬途中に放置されたモアイにいくつかの共通する特徴がありました。

▽モアイがうつ伏せに倒れていた場合は、ラノ・ララクの反対方向(進行方向)に頭が向き、仰向けに倒れていた場合はラノ・ララクの方に頭を向けていて、モアイを立たせて運んでいた場合に当てはまる特徴でした。

▽放置されていたモアイはどれも底面に摩耗の跡があり、底面自体も斜めにカットされていることが解り、これによりモアイを立たせた場合、約9度前方に傾くことも判明。 こうしたことから、ハント教授らは、モアイは立たせて運ばれたと考え、具体的にはモアイの頭部にロープをかけ、前のめりなので、倒れないように、後ろをロープで支えながら、左右から交互に引っ張って歩かせる方法で、モアイはもともと前方に傾いているため、少ない労力で歩かせることができ、2011年にその方法を実際に試してみた時は、短時間で数百m移動に成功し、坂も上ることが出来、ハント教授によると、慣れれば15~20人ほどの人数で運べたと推定しています。
 

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった!』の、残り15~21)は、楽しみな今後の課題です。

(記事投稿日:2023/01/15、#619)

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『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった  1』 『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

2023-01-12 10:00:07 | 歴史・世界・古代

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 1』

『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

『絶海の孤島の歴史「黎明期・隆盛期・衰退期」の変遷から現世界は学ぶべき!』

 

ロンゴロンゴの記された24の木片(文字板)が19世紀後半に収集されたが、風雨による損傷や、破損、焼失部分のあるものも多かった。 これらは現在、世界各地の博物館に分散しており、イースター島に残っているものはない。

 

先日、NHK BS『絶海!謎と神秘の巨石文明モアイとイースター島▽21のミステリー徹底究明』再放送(2021/08/26)を見ました。 もし『ロンゴロンゴ』の破損・焼失した過去の、残念な歴史がなければ、こんなに多くの謎が残らず、多くは解読・解明されたことだと思い、残念です。

 

イースター島には『ロンゴロンゴ』と言う不思議な絵文字がありました。 謎の『ロンゴ・ロンゴ』の解読と解明の歴史は?

1770
年、
スペインからフェリーペ・ゴンザレスが、イースター島にやって来ました。 そのとき島民は、奇妙な文字でサインしたと言う。 それが「ロンゴ・ロンゴ」です。

しかし、1862年
ペルーの奴隷狩りによって、最後の読み手である、『タンガタ・ロンゴ・ロンゴ』たちも、さらわれ死んでしまった。

 

1864
宣教師ユージン・エイラウドは、島の民家から、いくつかの文字が彫られた木片を発見したと言うが、その後、島民のキリスト教改宗とともにほとんどの、『コハウ・ロンゴ・ロンゴ』のもの言う木は、『悪魔の文字』として焼き捨てられてしまった。 謎の文字となった『ロンゴ・ロンゴ』ですが、根気強い研究によって、文字の読み方は、解明されました。 まず、右上から左へ読み、180度回転させて板の上下を逆にして、下から2行目を右から左へと読む、これを、繰り返すという奇妙な読み方でした。

この文字のルーツは、インダス流域の『古代インド文字』、『アンデス文字』、
『エジプト文字』と、諸説入り乱れています。 内容にしても、
  神への祈り
  神官への支持
  鳥に伝わる伝説
  死者の名簿、など様々です。

ロンゴ・ロンゴの文字が刻まれている木片で、現存しているのは、世界でたった28点。 世界各国の博物館などにあるが、イースター島の博物館には、本物は、1枚しかありません。 チリ本土の「サンチアゴ国立自然史博物館」にあるものの複製が、2枚展示されています。 この文字が解明されれば、島に残された多くの謎が解明されるかも知れません。

 

ロンゴロンゴの『文字板B』

ウキペデイア情報から引用

数字は何行目かを表す数字。Fin de 13 は「13行目の終わり」という意味

 

バルテルが発表した絵文字の一例 [Jacques B.M. Guy / Public Domain / 出典]

ウエブ情報から引用

イースター島

モアイ1,000体以上、周囲60㎞、休火山3個の火山島、木がなく、川がない、動物もいない。 そのイースター島の21の謎。

 

1.  楕円形の遺跡、と

2.  石垣箱型がセットになっている

3.  石がゴロゴロなのに栄養満点のタロイモ、水分蒸発防いだ

4.  川がないが、5か所の地底湖

5.  黎明期、隆盛期、衰退期 島民のルーツはタヒチ

6.  島民のルーツは台湾?

7.  どやって渡ってきた ダブルカヌー

8.  綾取り創世神話、溶岩の中に巨木の化石

9.  未解読文字 ロンゴロンゴ

10. モアイ 面長、ほりが深い、長い爪

11. 頭蓋骨に羽根飾りの跡

12. 超能力

13. 1000体も量産

14. 運び方

15. なぜ巨大化、全長12、巨人21、人口2万人で、12世紀3座している、14世紀5、16世紀10、権威誇示

16. 星とモアイの神秘的な関係、モアイの向きとスバル?

17. 衰退原因はネズミ、海鳥の卵

18. 食料危機

19. 人骨に刃物の跡(女性・子供)森林崩壊から100年

20. 希望を託された鳥人伝説

21. ラパヌイ文明滅亡

 

先ずは、『1、楕円形の遺跡

8-10世紀にモアイと、ほぼ同時期につけられた、この楕円形の遺跡

(ヤシの巨木をモアイづくりで全滅させた海洋民族の祈り)

ウエブ情報から引用

 

『2、石垣箱型がセットになっている楕円形の遺跡』

重要な食糧(鶏卵・鶏肉)を、盗人、野生動物から守った鶏舎

ウエブ情報から引用

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった!』の残り(3~21)は、楽しみな今後の課題です。

(記事投稿日:2022/05/05、#531)

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『ペルー、インカのモライ遺跡(円形段々畑・アンデネス)が凄い』『「所変われば品変わる」、インカの段々畑 VS 東洋の棚田』

2022-08-10 18:34:05 | 歴史・世界・古代

『ペルー、インカのモライ遺跡(円形段々畑・アンデネス)が凄い』

『「所変われば品変わる」、インカの段々畑 VS 東洋の棚田』

『食料自給率が低く「仮想水」輸入大国日本は学びたいこと沢山』

 

今回は、NHKBSプレミアム放送からの新しい情報で『所変われば、品変わる』を再確認して、今までの知識『インカの段々畑 VS 東洋の棚田』を備忘録に纏めました。

インカの段々畑・アンデネスには『水路』がありませんでした。 理由は『目から鱗』で段々畑・アンデネスは高度差のある山岳地帯にあり、海や川からの水蒸気が急上昇して露結して作物に水分を供給することでした。 当然ですが、急傾斜地には段々畑と、緩傾斜地には、傾斜のままで、畑になっていました。 水分の露結には、斜傾地より段々畑の方が露結有効面積は大きくなりますので。 

中南米の高温寡雨地域では段々畑・アンデネスになります。 高低差や温度差を利用してジャガイモやトウモロコシ、トマトなど、アンデス原産の作物を同時に栽培する『垂直農法』がなされていました。 

一方、東南アジアの高温多雨地域には棚田、主には水田稲作(二~三期作)が沢山見られます。 『棚田』は、英語では『rice terraces』、中国では『梯田』とも言われます。 

平地での灌漑は河川からの導水が必要で大規模な土木工事を行う必要があるが、一方、山岳地帯ではちょっと山を切り開いて棚田を造り、水を通せば、水は上から下に流れるから、最小限の工事で灌漑は完成する 

日本に、中国・東南アジアほど、棚田が開発されなかったのは、日本独特の東南アジアとは異なる気候と地形にあったのではないでしょうか。 『インカの段々畑 VS 東洋の棚田』の情報の再掲です。

インカのモライ遺跡(段々畑・アンデネス)

陸田(おかだ)で、ジャガイモ・トウモロコシを栽培、同心円模様が印象的なインカの農業試験場(15世紀、約700年前)と言われています。

ウキペデイア情報から引用 

 

アンデス諸文明の知恵の結晶「アンデネス」とは、マチュピチュ遺跡の周囲に連なる段々畑「アンデネス」の由来です。

ウキペデイア情報から引用

アンデス山脈の多くの遺跡にある「アンデネス」は、インカよりはるか以前の紀元前6世紀頃にチチカカ湖沿岸に登場したと言われます。

元陽の棚田(地形と気候の異なる日本では、ここまでは?)

山岳地帯に、およそ1200年前の唐の時代からハニ族によって、つくられてきた、壮大な棚田。 麓から山頂まで連なる光景は『雲の梯子』とも称されます。

ウキペデイア情報から引用

棚田にはいくつかのメリットがあります。まず、平野の水田よりも風通しが良いため、害虫が発生しにくいメリットがあります。 次に、斜面にあることから日照の時間が長く、南向きであればさらに日当たりが良いことも稲作に良い影響があります。

他にも、棚田の稲は地中奥深く根が伸びる特徴があり、地中のミネラルをより吸収することから美味しいお米が作られるといった特徴もあります。 そんな棚田ですが、山の斜面では台風の影響を受けやすいことや、コンバインのような機械での作業が難しい、用水の確保が難しいといったデメリットもあります。 

しかし、棚田にはもう一つ大きな特徴があるのです。 それは、ただ人の食料を確保する水田としての機能だけではなく、自然と人間が共存するために大きな役割を果たすものなのです。

 

棚田による防災

棚田には、何と防災としての側面もあるのです。 まず、棚田にはダムとしての機能も果たします。(日本でも最近話題になっている流域治水です。) 日本は河川が小さく、洪水が起こりやすい特徴がありますが、棚田は山に降った雨の一部分を止め、河川へ流さないという、ダムのような機能を持っているのです。

他にも、土砂災害の防止にも棚田は活躍します。 雨水が地下に浸透することで発生する地滑りは、棚田があることで地下への浸透水が減る効果があるため、発生率を軽減できるのです。 人間による自然開発は生態系を崩し、災害を増やす原因となります。 しかし、棚田は災害を抑えながら、人々の持続可能な生活を支える機能があると言えるのです。 

人が住まう地域の自然に適応した農業が、持続可能な生活を支えるのだと、棚田から学ぶことができるのです。 小売業も、農業さえも、超大規模化できなければ生き残れないのが、最近の実態です。 日本のように脊梁山脈からの傾斜地と急峻な河川の多い国は、激甚気象化の中で、これからは課題の山積です。 『食料の自給率が低く「仮想水」輸入大国日本』ですよ!

(記事投稿日:2022/08/10、#558)

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