知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『千年の時を超え、聖徳太子の実像理解が変わるか(聖徳太子絵伝から)』—太子没後100年余り経った後の諡号(聖の字も徳の字も入れた)聖徳太子』—

2019-11-29 14:56:42 | 歴史・日本

『千年の時を超え、聖徳太子の実像理解が変わるか(聖徳太子絵伝から)』

—太子没後100年余り経った後の諡号(聖の字も徳の字も入れた)聖徳太子』—

  

先日、御即位記念特別展『正倉院の世界-皇室が守り伝えた美-』を見てきました。 正倉院、校倉造りの一部分の実寸大のレプリカの構造を見て、高温多雨・瑞穂の国の倉庫の造作に驚くと同時に感激しました。 

 

この特別展の入り口にあった案内看板『聖徳太子絵伝』於東京国立博物館・法隆寺宝物館に、ついでに立ち寄ってみました。 ついでどころか、こちらはこちらで随分貴重な体験になりました。 最古の『聖徳太子絵伝』だけの展示ですが、相当劣化した国宝絵画を8Kアートビューアーで鑑賞できました。

先ずは、『文化財活用センターのパンフレット』からです。

 

鎌倉時代  

太子の伝記『聖徳太子伝暦』が10世紀に成立したのちに、その生涯を絵画化した『絵伝』が数多く作られました。 なかでも鎌倉時代には,新旧の両仏教諸宗派による太子信仰の高まりの中で,数多くの太子絵伝の成立をみた。 現存する絵巻作例のうち,最大規模のものは京都堂本家本10巻で,〈入胎〉から太子薨後の〈ir入鹿(いるか)謀殺〉までの64事跡場面が描かれている。

ウエブ情報から引用

 

室町時代

聖徳太子絵伝  3幅 絹本 著色 掛幅  各縦194.9 横124.0
室町時代 14~15世紀

 

鎌倉時代以降は、太子信仰の隆盛とともに絵巻や掛幅などに数多くの絵伝がつくられた。 遺品としては上宮寺、堂本家などの絵巻、また四天王寺、橘寺(たちばなでら)、鶴林寺(かくりんじ)、斑鳩寺(はんきゅうじ)などの諸本がとくに知られている。[村重 寧]

                   

なかでも今回展示の作品は、現存最古かつ最も優れた『聖徳太子絵伝』(国宝)で、11世紀のやまと絵の説話画としても貴重な遺例です。 11世紀のやまと絵の説話画としても貴重なもので、計10面からなる大画面には、法隆寺の斑鳩の地を中心に、飛鳥や難波、更に中国・衡山までを見渡す雄大な景観が描かれ、聖徳太子の生涯を追体験するかのような空間を作り出します。

 

太子没後100年余り経った後の諡号(聖の字も徳の字も入れた)聖徳太子』で終始一貫、呼ばれることにも驚きです。 ここまで尊敬・偉大化された背景は、蘇我入鹿『蘇我馬子(太子の義父)の孫で同族)は聖徳太子の死後、同族間の内紛で、その太子一族を皆殺しにしており、一族の長であった聖徳太子そのものが怨霊化する動機は十分にあった。 反論として明らかに殺された太子の息子である山背大兄王が怨霊化しないのは何故かという指摘があるが、法隆寺は聖徳太子が偉大で太子とその一族の怨霊をまとめて慰撫していると解釈すれば納得がいきます。

 

今回の立ち寄った最大の理由は『聖徳太子の実像』がいろいろ言われている昨今です。 又、いつも自分の頭の隅っこにあった課題は『厩戸皇子』という呼称と、梅原猛氏の著書『隠された十字架-法隆寺論-』でした。 

 

 

日本書紀には、

 厩戸皇子(うまやとのみこ)
 厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)
 豊聡耳法大王(とよとみみののりのおほきみ)
 法主王(のりのぬしのおほきみ)

古事記には、

 上宮之厩戸豊聡耳命(うへつみやのうまやとのとよとみみのみこと)

とありますように、大半には『厩戸』が付きます。 

 

自然な理由は、蘇我馬子の血縁であることではないでしょうか、

❶聖徳太子は蘇我馬子の甥と姪の間に生まれた子供(姪孫・てっそん)

❷聖徳太子は蘇我馬子の娘と婚姻関係にあり義理の親子という関係

 

当時、馬が貴重で大事にされた時代に『厩戸』が『産屋・うぶや』の近くにあっても不思議はなく、そこで生まれたので、厩戸』が付く呼称になったことも至極自然です。

 

馬が貴重で大事にされていた背景は、ウエブ情報『古墳時代を駆けた馬』からの引用です。

 

魏志倭人伝には、倭には馬がいないと記されている。しかし縄文時代の貝塚から馬の骨は出土している。 5世紀以降は、馬の遺骸とともに各地の古墳から出土するし、又、馬の骨は伴わなくても多くの古墳から馬具は夥しい数で出土するようになる。明らかに馬と馬具は、古墳時代になって同時にドッと日本に出現するのだ。 「日本書紀」の孝徳天皇大化二年三月の条に、「葬儀は簡略にして墓は縮小しろ。」といういわゆる「大化の薄葬令」と呼ばれる詔(みことのり)が発せられた話が載っている。 主人の死に殉じて馬を殺す事はやめよ、という事である。という事は、それまでそういう風習があって、しかも詔を発してまで禁止しなければならない程、その習慣は世間に蔓延していたという事になる。

 

余談が長くなりました。 本題に戻ります。

不思議なことに多く言われている『厩戸』が付く呼称の理由ですが、中国経由で当時の日本でも知られた『景教・ネストリウス派』と関連づける説があります。 聖徳太子と景教の関係はウエブ情報にこうあります。

古代の日本において、景教徒の影響が庶民の間に入り込んでいたことや、当時の知識人の間では聖書が好んで読まれ研究されていたことは、次のような事実からも伺えます。

例えば、聖徳太子にまつわる様々な伝記です。 聖徳太子が実際には、どのような人物だったかについては謎が多いといわれています。
聖徳太子の死後、数百年たった平安時代には、聖徳太子に対する敬意が膨らんで、彼に関する多くの伝説が生まれていきました。 そして、不思議なことに聖徳太子の伝説の中には、聖書の物語が多く転用されたようです。

例えば、聖徳太子は馬小屋で生まれた「救世菩薩」という一種の救世主とされています。聖徳太子は「厩戸の皇子」と呼ばれていますが、馬小屋で生まれたということです。

久米邦武博士は「これは、マリアが馬小屋でイエスを産んだとするキリスト教の話が、聖徳太子の伝説中に取り込まれたからだ」と推測しています。

聖徳太子にまつわる他の伝説も聖書の話によく似ています。例えば、聖徳太子の母である間人皇后がみた夢の中に救世観音が現れ、太子の誕生を予告したとなって居ますが、同様に聖書においても、マリアの前に大天使ガブリエルが現れ、イエスの誕生を予告しています。

さらに伝説では、日羅聖人は聖徳太子を「救世観音」と呼んで礼拝し、その後に日羅聖人は暗殺されたとなっています。これは、バプテスマのヨハネがキリストを「救世主」と呼んで礼拝したが、その後にヨハネは暗殺されたという、聖書の記事にソックリです。

『日本史の中の仏教と聖書』の著者である冨山昌徳氏は「醍醐本『聖徳太子伝記』(13世紀)には聖徳太子が死んで甦った話が出ているだけでなく、本書(聖徳太子伝記)全体の構成が『ヨハネの福音書』を模したものと推測される」といっています。

さらに聖徳太子が「片岡山で飢えた者に衣食を与えたという話」と「それに続いて、その飢えた人がやがて死んで葬られたが、数日の後に復活して、ただ棺の上には衣だけしか残っていなかった」という話が「日本書紀」に載っていますが、これらも聖書について知っている人なら、聖書の話に似ていると思うでしょう。

キリストは飢えた者に衣食を与えるなら決して報いからもれることはないと言い、それはキリスト自身に与えられたのと同じだと教えました。そしてキリストが死んで葬られ、後に復活した墓には、ただ衣だけしか残っていなかったと、聖書では記しているからです。

また、聖徳太子は大工の祖と仰がれ、「大工の守護神」とされています。同様にイエスの職業は大工でした。広隆寺でも1月に「チョンナ初め」という儀式が今もあって、これは聖徳太子が大工の祖であるとしています。

聖徳太子にまつわる伝説には、元々はキリスト教だったものが多く取り入れられています。池田栄教授は「聖徳太子の当時、キリスト教の何らかの一派が、既に我が国においてキリスト教を伝えていたと思われる。そのために仏教徒の間に、このような一種の習合伝説が生まれたのであろう」と。

日本には早くから原始キリスト教の流れを汲む東方キリスト教(景教)が入っていました。その考えが取り入れられ、或いは対抗する形で後に、秦氏など聖徳太子のメシア化を図る人々が存在し、そのためにこのような聖徳太子の伝説が民衆の間に根付いたようです。
 

『聖徳太子絵伝』を見て益々、新たな疑問が拡大しました。 特に梅原猛氏の著書『隠された十字架-法隆寺論-』の中では、法隆寺は太子一族の怨みを閉じ込めるために建立されたと言われていますし、その証拠に中門の真ん中に、普通は無い、柱がある珍しい建築だと。 更に、太子の死後に太子の業績が、チームでやったほど短期間でかつ広範囲で、あったと大変な評価がされいる。 これらことからも、太子一族の怨霊鎮魂説の疑問を解決すべく調べていきたいと思っています。

                    (20191129 纏め #134)

 

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『銃の発達は星形要塞を造り、大砲の発達が星形要塞を終焉に 2』―世界最大のナールデン城塞オランダ17世紀頃構築32.9㎢(江戸城25.0㎢)―

2019-11-23 22:52:57 | 城・城郭・城塞

『銃の発達は星形要塞を造り、大砲の発達が星形要塞を終焉に 2』

―世界最大のナールデン城塞オランダ17世紀頃構築32.9(江戸城25.0㎢)―

 

 星形要塞は、『造形美の美しさ』と『機能美の美しさ』もあり興味が尽きないものです。 星形要塞は、世界には340ヵ所あり、発祥の国・イタリアが最多の37ヵ所、続いては、ドイツの35ヵ所あることも自然に納得できます。 先の世界大戦の所為か、残念ながら、ドイツには星形要塞はあまり残ってないようです。

  最近、城郭都市を調べていたら、巨大な星形要塞(大きなものは、将に、城郭都市)がありました。 大砲の発達が、もう少し遅れたら、これらの星形城塞の活躍が記録されたと思いました。  先ずはウエブ情報です。

  星形要塞(ほしがたようさい)は火砲に対応するため15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式。 イタリア式築城術(イタリアしきちくじょうじゅつ)、稜堡式城郭(りょうほしきじょうかく)、ヴォーバン様式(ヴォーバンようしき)という名で分類されることもある。 

 

❶ナールデン城塞、オランダ  17世紀ごろに構築

この要塞の広さは、32.9(人口17,147人)(江戸城の広さは、25.0㎢)

 ウキぺデイアより引用

  

❷パルマノーヴァ要塞 イタリア 16世紀末ごろに構築

この要塞都市の広さは、13.3㎢、

 パルマノーヴァはヴェネツィアから東に約110キロ、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある。人口約5,400人の基礎自治体。 1593年10月7日、8年前の同日に起こったレパントの海戦の勝利を記念して、ヴェネツィア共和国によって建設されました。 軍事拠点として造られたもので、円形の城壁の外側に星型の堀に囲まれており、9つの砲台が置かれた。

 ウキぺデイアより引用

 

3か所の門の一つと橋

ウエブ情報(イタリアの五稜郭?星型の要塞都市『パルマノーヴァ』)より引用

 

❸エルヴァス要塞ネットワーク、ポルトガル、 13世紀に構築、広さ3㎢

8~10kmの城壁と300ヘクタールの広さを持ち、当時星型要塞としては世界最大である。 17世紀に造られたサンタ・ルジーア要塞と18世紀に造られたグラーサ要塞、19世紀に造られた3つの小堡、中世の3つの稜堡と17世紀の稜堡のほかでネットワークを形成した。 この要塞ネットワークで強国スペイン軍や、ナポレオン軍の侵略から、小国ポルトガルを守った。

エルヴァス要塞、黄枠内が小要塞、周囲に5ヶ所。

写真は多稜郭のエルヴァス要塞(この周囲に小要塞群)

 

❹ブルタング城塞、オランダ  16世紀中ごろから17世紀中ごろに構築

面積は不詳。

 この要塞は、三国国境とよばれている場所にあり、ベルギー、オランダ、ドイツの国境がつながっている事でも知られています。 ここが函館の五稜郭のモデルかと思いましたが違いました。

ウキぺデイアより引用

 

❺シタデル(ケベック)要塞、カナダ  18世紀中ごろに構築

この要塞の広さは、0.15㎢、函館の五稜郭のモデルで北米最大です。

 

 星形要塞でも、16-17世紀に構築された、オランダのナールデン城塞のように巨大なものから、カナダのシタデル(ケベック)要塞のように、小規模なものあります。 その後の大砲の発達はフランスの720㎞のマジノ線(マジノせん、フランス・ドイツ国境を中心に構築されたフランスの対ドイツ要塞線のような、頑強な防衛戦)もドイツ軍の迂回する電撃作戦に敗れました。 フランスのパリは、拡大を続けてきた世界最大の城郭都市でしたが、これも武器・戦術の発達の前には、敗れた歴史もありました。 

 さらに巨大な万里の長城が中国にありました。 これは城郭国家ともいえる巨大な城郭です。 北方は何重もの長城で護られ、西は四川省の急峻な山並み・天然の要害に護られ、南は長江で護られ、東は黄海で護られる、将に城郭国家です。 中国はこの防御ラインの長さにも苦労してきました。

                  (20191123纏め、20200716改 #133)

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『世界の城郭 3(世界の城郭に見る城壁と石垣)』―西洋の巨大城郭の外郭は下記のような具合で、水辺か岩山の上に築城― 

2019-11-07 22:56:52 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 3(世界の城郭に見る城壁と石垣)』

『西洋の巨大城郭の外郭は下記のような具合で、水辺か岩山の上に築城』 

 

先日、沖縄県の首里城の火災をテレビで見てショックを受けました。 屋内には『スプリンクラー』の設置がなかったようでこれにも驚きました。 さらに、内閣府沖縄総合事務局・国営沖縄記念公園事務所のコメントは『法令は順守していた。 厳正な形の復元をし、設備も自主的に追加してきた。 検証結果を踏まえ、今後どういう設備が必要か検証は必要』とありました。 早く再建できますよう祈念しています。 首里城の石垣は、後述のようにユニークです。

本題に戻ります。 素人の理解ですが西洋の城郭に石垣はあまり用いられておりません。 西洋の巨大城郭の外郭は下記のような具合で、水辺か岩山の上に築城されています。 ときには空堀はあります。

 

第1位 マルポルク城(ポーランド)143,591㎡    

 

ウエブ情報から引用

 

2位 メヘラーンガル城塞(インド 別名ブルーシティー)81,227

 

ウエブ情報から引用

 

3位 プラハ城(チェコ)66,761

 

ウエブ情報から引用

 

4位 ウィンザー城(イギリス)54,835

ウエブ情報から引用

 

5位 オーエンザルツブルグ城(オーストリア)54,523

ウエブ情報から引用

 

6位 スピシュスキー城(スロバキア)49,485

ウエブ情報から引用

 

7位 ブタ城(ハンガリー)44,674

 

ウエブ情報から引用

 

8位 姫路城(日本で現存する)41,468

このような姫路城のような石垣は海外の城郭にはありません。 もちろん日本の風土、多雨・地震対応だと言われています。

ウエブ情報から引用

 

日本の城郭の石垣は、直線で縄張りされており、曲線は城郭の石垣の稜線に優美な『反り』があるだけです。 これも築城の縄張り・普請・作事の工程の中で、縄張り段階で決められていたものです。 

 

ここで、中国の『城』についてですが、自分が昔、覚えた中国語に『城、チャン(広東語のセン)』がありました。 石垣の城壁で囲まれた全体が『城』で、石垣のコーナーには櫓があるところは日本の城郭と同じです。 日本の城郭都市の内側には もちろん城主とそれに仕える人間しか入る事ができず、城主以下は城外に居を構えていると思います。 この中国の『城・チャン』に似ているのが、日本では小田原城、堺、博多、石山本願寺などでしょうか。

ウエブ情報から引用

 

1895年頃の北京城の外城の城壁。 写真に写っている大きな建物は、東便門に隣接する角楼で、唯一北京に現存する角楼でもある(写真:Library of Congress

西洋の城は、城壁と城郭が一体化されており、中国では巨大な石垣の城壁で街を囲み、その城壁の上、櫓を構築してます。 中国の城塞都市の城壁は直線ですが、万里の長城に見られる曲線の城壁は古代から、長い歴史があります。 中国の城郭都市の直線は、都市計画の縄張りに沿ったものと思えます。

 

最後に、ユニークな城郭、それが、沖縄の首里城です。 

ウエブ情報から引用

 

首里城は本土の城と異なり、周囲を曲線上の城郭が囲むグスクと呼ばれる様式です。 諸説ありますが、グスク(宗教上の聖地)説、集落説、支配者の居城説がります。 石垣は、紀元前から続く、万里の長城の構築技術の流れ・影響のように想像できます。 

城壁・石垣を見ても『ところ変われば品変わる』ようです。

                                             (記事投稿日:2019/11/08、#131)     

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『世界の城郭 1-2(大要塞都市コンスタンティーノープル)』―コンスタンティーノープルは京都や奈良と並び千年以上も継続した歴史の街―

2019-11-04 20:21:02 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 1-2(大要塞都市コンスタンティーノープル)』

―コンスタンティーノープルは京都や奈良と並び千年以上も継続した歴史の街―

 

コンスタンティーノープルよりも『イスタンブール』に親しみを覚える世代の自分です。 古代に建設された、この大要塞はヨーロッパとアジアの接点で千年以上も陥落しなかった。    

 『飛んでイスタンブール』という曲も、快く聞こえたものです。 この曲は庄野真代最大のヒット曲ですが、最初から彼女に用意されていた曲ではなく、野口五郎の為に作られた曲でした。 のっけから(岐阜の方言)余談で恐縮です。

 先ずは、

城郭・城塞都市・宮殿の大きさランキングと(城郭は江戸城のみ)と建造時期

1位:フランス・ベルサイユ宮殿、約107平方km、周囲約42km 17世紀

2位:中国・紫禁城、内城・外城、 63平方km、周囲約33km    15世紀

3位:日本・江戸城、         25平方km、周囲約18km   16世紀

4位:トルコ・コンスタンティーノープル、 

                                                約15平方km、周囲約21km   5世紀

 

古代末期の繁栄(4世紀~6世紀)

 

ウエブ情報から引用 

 

東ローマ帝国時代のコンスタンティーノープル

 

ウエブ情報から引用

 

コンスタンティーノープルは、京都や奈良と並び千年以上も継続した歴史の街ですが『コンスタンティーノープルの陥落』という大攻城戦で有名です。 この陥落までの長い歴史をダイジェストしてみます。 ダイジェストしたくなった理由は、これ、若き皇帝が夢を実現させた素直なこの言葉でした。

 ここからは、『世界の城郭 1(堅城コンスタンティノープルを陥落させた最高の作戦)』と一部、重複しますことご了承願います。

『わたしがあなたからほしいものは、ただ一つ。 あの街をください』

ビザンチンの歴史家ドュカスが伝えるオスマントルコの若き皇帝メフスト2世が、(後に粛清してしまう)大宰相カリル・パシャに、父ムラト2世がとった融和共存策をかなぐり捨てて、ビザンティン(東ローマ)帝国首都コンスタンティーノ―プル(=あの街)征服を決行することを伝える台詞です(塩野七生『サイレント・マイノリティ』より)。

これほど欲しかった城塞都市は、中世より、およそ1.000年も前の古代には、縄張り・築城されて当時では、最大・最強の城塞都市でした。

『古都』という言葉は、それだけでロマンがあります。 日本では京都や奈良を指すことが多いですが、もちろん他の国にも千年単位の歴史を持った街は多々あります。 

330511日は、コンスタンティノープルが東ローマ帝国の首都になった日です。 現在イスタンブールと呼ばれています。

今回は、世界史上屈指の長きに渡って栄えてきた、この要塞都市の歴史を最初から見ていきます。

この地に人が住むようになったのは、紀元前7000年ごろ、本格的な街ができたのは、紀元前660年ごろ。ボスポラス海峡のアジア側にカドゥキョイ(カルケドン)という町ができました。

アケメネス朝ペルシア(中東~中央アジアにあった大帝国)やアテナイに占領されたこともありましたが、紀元前4世紀に一度、自治を回復し、ビュザンティオンは発展を続けていきます。

その後、マケドニア王ピリッポス2世に攻められるも、ペルシア・アテナイの協力を得て撃退しました。

その後ローマ帝国の版図となりましたが、2世紀にローマ皇帝セプティミウス・セウェルスとの政争の結果、破壊されています。

その後再建され、さらに330年にローマ皇帝・コンスタンティヌス1世がこの地に遷都したことで、この地は本格的に繁栄していくことになりました。

コンスタンティヌス1世はビュザンティオンをローマ帝国の首都にふさわしい都市にすべく、大規模な建設を始めます。創建者の名をとって「コンスタンティーノープル」と呼ばれるようになったのはこれ以降のことです。 コンスタンティヌス自身は「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と呼んでほしかったらしいのですが、浸透しませんでした。

むしろ、後世には旧称であるはずの「ビュザンティオン」からとって、東ローマ帝国を「ビザンツ帝国」と呼ぶようになっていきます。

この若き皇帝メフメト2世は、コンスタンティーノ―プルを三度攻めてます。 三度目の正直は、次の総合力でした。 

(1)ウルバンの大砲

・総重量1.6トン、長さは5m、直径は1m

63cmの石の砲弾(300㎏)を(1.6㎞)放つ能力を有しました。

   当時の常識からすると、規格破りのモンスター兵器。

 

(2)丘を越える艦隊

丘を上りつめるとあとは下りになる。そうなればわずかに押すだけで滑っていく。 そして、これまでラテン人の強固な守りで一隻も侵入できなかった金角湾の奥に、次々と70隻の船がすべり進水していった。

 (3)イエ二チェリ部隊

14世紀から19世紀の初頭まで存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団で、スプーンをシンボルにしていたことが知られている。常備軍団カプクルの中核をなし、火器で武装した最精鋭であった。 トルコ語でイェニは「新しい」、チェリは「兵隊」を意味する。 この精鋭部隊は、『三年から数年に一度不定期に実施されるデウシルメとよばれる強制徴用で供給された。 特徴は主にバルカン半島の、トルコ人以外のキリスト教徒の子弟から徴用されたことである。彼らはスルタンの奴隷(カプクル)とされ、スルタンから俸給が支給され、少数精鋭であったのでエリート意識が強く、スルタンの戦争では常に中心』となって戦った。

 

コンスタンティーノープルの最後

2回の攻撃に負けた、街を守るキリスト教徒は、コンスタンティノ―プルは、イスラム教徒からキリスト教世界を守る最後の砦であり、必死の防戦で、第一回、第二回の攻撃には耐えたが、第三回には、『イエ二チェリ』スルタン直属の精鋭部隊も投入して、突撃に成功した。

中世の終りから近世始めに築城された世界の巨大な、城郭・宮殿の大きさ(最大時)の比較をすると、この時代の大筒・大砲の射程距離46kmと命中精度を考慮してか、城郭・宮殿はどんどん大きくなった。城郭・宮殿の巨大化は、大筒・大砲攻撃に備えると、同時に権威の象徴でもあった。 武田流軍学、『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』とあり、城を強固にしても、人の心が離れてしまえば世の中を収めることができないと、大筒・大砲が発達してない時代でも、このように『人心掌握大事』と言ってます。

これとは、真逆で、始末に負えないのが、どこかの集団(イスラムの一部)がやる『人間の盾・ヒューマンシールド』で、これには絶句です。

                   (20191104纏め  #130)   

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