湘南文芸TAK

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若山牧水@北下浦

2021-11-27 23:44:40 | 三浦半島
横須賀市長沢の若山牧水夫婦碑。

海に向いた碑の表には牧水の代表的な短歌が彫られています。
しら鳥は かなしからずやそらの青海のあをにもそまずただよふ
裏には妻、喜志子の短歌。
うちけぶり鋸山も浮かび来と今日のみちしほふくらみ寄する
北下浦海岸にはもう1基、若山牧水文学碑が建っています。

海越えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず
夫婦それぞれこの浜から海を隔てた鋸山を眺めて歌にしているんですね。
説明板には、このように書かれています。
若山牧水は本名繁、明治十八年八月二十四日、宮崎県臼杵郡に生まれた。県立延岡中学校を卒業した後上京、早稲田大学に学び、明治四十五年太田喜志子と結 婚した。大正二年長男旅人を出生したあと喜志子は体調が優れず、医師から転地療養を勧められ、大正四年三月に長沢の川端の家(斉藤松蔵方)に移り住んだ。
風光明媚、気候温暖な当地での静かな明け暮れのなかで、喜志子の健康は次第に回復し、大正五年十一月には長女みさきが生まれた。
右に建つ「しら鳥」の歌は明治四十年十二月の「新声」に発表されたものであるが、牧水はまだ二十三歳の学生歌人であった。
碑の背面に刻まれた「鋸山の歌」は、妻喜志子が当地に住んでいる頃「海辺に移りて」と題して発表したもので、表裏合わせて「夫婦歌碑」と呼ばれている所以である。昭和二十八年に建立された。
左にある「海越えて」の歌碑は、昭和六十二年に建立された。歌集「砂丘」のはじめに「三浦半島」と題して「病妻を伴い三浦半島に移住す、三月中旬の事なりき」と記したあとに発表した長沢海岸から房州鋸山を詠んだ歌である。
「漂白の歌人」と言われ、旅と酒を愛した牧水は、地域の人々との温かいふれあいもあって、喜志子の日常も順調にすすむようになり、大正五年十二月二十八日東京小石川に引揚げていった。

近くの長岡半太郎記念館・若山牧水資料館の牧水に関する展示。

ここに展示されている自身の揮毫になる「しら鳥は」は、海が先に書かれていますが、夫婦碑では空が先。
明治40年に雑誌「新声」に投稿が載った初出時は海が先だったのですが、推敲して第一歌集に収めた時、空を前にもっていきました。
なのに大正10年に北原白秋に頼まれて墨書した時にはまた海が先に。
白秋と盃を交わした後に書いたので酔っ払って間違えたのでは?ということで、碑では同じ書の「そらの青」と「うみのあを」を入れ替えたのだそうです。

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