神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

歩くこと

2013年01月30日 09時19分04秒 | 気づき
歩くこと、これは考え事をするのに一番適した行為だと思う。

ただ座って考え事をしていると、凝り固まってしまいがちだが、歩きながら考えると、適度な流れが生れて健全な考え方ができるように思う。

私も最近は、なるべく歩くことを心がけている。

歩いていると、自転車で走っていたときには見えなかった物事がよく見える。景色は勿論だが、思考している物事にも及ぶ。

そんなこんなで、歩いていると、ほんの少しだけ賢くなれるような気もする。(元々が賢さから程遠い人間なので、たかが知れているが・・・)

昔の人は歩くのが当たり前であった。

比較的近世の坂本龍馬の時代でも人は歩いていた。竜馬も、脱藩で山越えをするときなど、己の考えを纏めながら歩いていたのではないかと思う。

世の中が便利になるにつれて、脚力はいうに及ばず、人の思考も退化していっているように思う。

語弊を恐れずにいえば、総じて昔の人のほうが賢かった。現在生きている人の中では、総じて年取っている人ほど賢い。なぜなら、最近の人達より多く歩いているから。

kiwattiさんのブログの冒頭を見て、思い浮かんだことを書いてみた。

今日は、早朝から、家事の合間に、自身のブログにではあるが、三連荘!で書いてしまった。(^^;

人に注意をするということ

2013年01月30日 08時49分03秒 | 気づき
これは自戒をこめて書くのだが、人に注意をするときには自分の正当は述べ立てないほうがいいと思う。

たとえ正しいことを言っていても、言われた相手は傷つく。

おとなしい人は傷ついたまま黙っているかもしれないが、人の感情は消えるということはないから、負の感情は残る。

そもそも人に注意をするという行為そのものが、ある意味、驕りであるかもしれないと思ったりもする。

しかし私などは人間ができていないので、つい自分のことは棚に上げて人の至らないところを注意したりしがちだ。

人格者というのは、注意という上からの目線を用いずに、さりげなく人に間違いを気付かせてしまう力をもった人ではないかと思う。

様々な人のブログを読ませてもらっていると、お手本にさせていただける生き方に出会う場合もあるし、逆に、それを鏡にして自己反省ができる場合もある。

住む人の変わる部屋

2013年01月30日 04時16分53秒 | 気づき
カモミールさんが「不思議な家」というタイトルで書かれていたのですが、私も思い当たることがあるので書いてみます。

現在の家に引越してくる前に住んでいた大阪のマンションは、管理組合がしっかりしていて管理がいいということで、築35年を過ぎているのに、買ったときと比べて、それほど売値が下がっていません。今でも、このマンションを指名して購入される方もいるくらいです。だから、ずっと住み続けている人が多いです。

しかしそれでも最初からず~と住んでいる人がいる反面、2,3年ごとに持ち主の変わる部屋もあります。マンションで、大体同じ間取りで、条件も同じだと思うのに、どうしてだろうとずっと思っていました。

そういう部屋は最初に入居した人の何かが染み付いてしまうのかもと思ったりもします。

気のせいか、転居していくときに、よりよいところに移った人の部屋は運気がいいが、落ちぶれて残念な気持ちを残して出ていった人の部屋は運気が下がるようにも思います。

一戸建ての家については、昔から新築すると人が一人亡くなるという俗信がありますね。

私の現在の家は、阪神大震災で半壊になって建てなおしたのですが、建て直してまもなく、義母が交通事故に遭いました。単車に跳ね飛ばされたのですが、高齢であったにも関わらず奇跡的に助かりました。助かりはしたけれど、これは家を新築したときの謂われの通りになったのかもと当時は思いました。

それでも、義母は、その後、特に後遺症もなく、10年以上生存しましたから、義母の運勢は強かったのだと思います。