現代ビジネス◆ アメリカン「ドリーム(夢)」と「ナイトメア(悪夢)」の落差・・「夢」を与えられない人々の怒りが爆発する:大原 浩 の意見 <抜粋>
* 「アメリカン・ドリーム」は日本でもよく知られる言葉である。「アメリカ的成功の夢」ということだが、より具体的には「『機会の平等』を通じての経済的成功や物質的繁栄の夢を指す」ということである。
「夢」を実現した「超大金持ち」が米国に存在するのは事実だが、それは約3億4000万人の米国国民のほんの一部である。前記長者番付トップ30の中に入っている米国勢は、過半の17名である。
例えば、2018年の年末ジャンボ宝くじ1等当選金額は7億円であったのだが、当選確率は2000万分の1=0.000005%である。つまり、「宝くじの1等賞に当たる確率」と「超富豪17人に入る確率」が等しい
ということになる。
* 嘗ては「2等賞」を始めとして末等に至るまで、「それなりに手厚い当選金」が支払われていた米国社会だが、近年一等賞の賞金が跳ね上がる一方で、2等賞以下末等にいたるまでの賞金が大幅に減額され、
外れくじの比率も高まった。さらに悪いことに、社会が硬直化し「(宝くじに参加できる)『機会の平等』」までもが怪しくなっている。そもそも、貧困家庭などに生まれることによって「スタート」に
立つことさえ難しい人々が増えているということだ。
* 英国でも王室を始め、リチャード・ブランソン(ヴァージン・グループ創設者)や、シティの金融関係者など富豪が多数存在する。英国のやり方が巧みなのは「爵位」を与えるなどの懐柔策である。
前述のブランソンは、2000年にナイト爵位を与えられているが、ビートルズのポール・マッカートニーやリンゴ・スターにも爵位が与えられている。国民の大多数は「外れくじ」で貧困にあえいでいるのに、
ごくわずかの成功者にスポットライトを当てて、「君たちも頑張れば、私たちのように成功できるチャンスがある」=「機会の平等」を声高に主張するのだ。逆に言えば「君たちが成功できないのは、社会
(階級制度・既得権益など)が悪いのではなく『努力が足りないからだ』」という言い訳でもある。 ← これは英国に限らず、日米ほか多数の国も同じ(小李)
★ 近代国家の理念は「最大多数の最大幸福」を実現するところにあると考えるが、「最大多数」に「末等」や「外れくじ」が当たり、ごく一部に「巨額の当選金」が支払われる社会は健全とは言えない。
もちろん、私は「自由経済」「自助努力」を重視する立場であり、共産主義が目指すような「結果の平等」は否定する。我々が目指すべきはあくまで「機会の平等」である。
例えばサッカーや野球、あるいは企業の出世競争においては「参加しない」あるいは「止める(離脱する)」という選択肢が広く認められている。このような分野では「アメリカン・ドリーム型自由競争」も
充分機能する。不満があればやめればいいのだ。宝くじも同様である。だが、例えば日本に生まれるということは「自分の意志」ではない。また国籍変更は不可能ではないが、ハードルが高い。
私自身は「親ガチャ」という言葉は好きではない(基本的には自助努力を信じている)が、「アメリカン・ドリーム型自由競争」に毒された日本に生まれた若者たちの閉塞感は十分理解できる。
日本も高度経済成長時代には、国民が等しく恩恵を受ける1億総中流社会」が維持されていた。だが、1990年頃のバブル崩壊以降経済が低迷する中で、限られたパイを争奪する「二極化社会」へと向かった。
そして前記のようにこの「二極化社会」から「負け組」に陥った国民が抜け出すのは困難だ。言ってみれば、麻雀で負けが込んでも、参加を強制されるようなものだ。
結局のところ、「アメリカン・ドリーム型自由経済」とは(不正に操作された)クレーンゲームのようなものかもしれない。ぬいぐるみなどがすぐにでも取れそうに見えながら、実際にはいくらコインを投入しても
ゲットできない仕掛けがある。
「日本型社会主義」を改めて見直す
ふり返れば、1億総中流は素晴らしいことであった。すでに述べたように、近代国家の目的は「最大多数の最大幸福」であるべきだ。かつて1億総中流は「日本型社会主義」と否定的に揶揄されたが、
実は「楽園」であったのかもしれない。「アメリカン・ドリーム型自由経済」が「二極化」によって崩壊に向かいつつある中で、「最大多数の最大幸福」を追求する「日本型社会主義」についてじっくりと考える
べきではないだろうか。
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大原氏の正論≪「最大多数の最大幸福」を追求する「日本型社会主義」の再現≫は、バラマキ給付金や奨学金拡大、賃上げ企業への報奨金等の一時的な施策では実現できない。
経済成長と所得向上の好循環が再現できなければ「1億総中流社会」への回帰はできない。前にも書いたが、結局は国際競争力を高める国民一人ひとりの覚醒しかない。
人種・民族・帰属社会を規定するどんな両親の間に生まれるかは『選べない偶然』だが、積み重なる家系財力の格差が教育・就職格差となり、生まれたあとの機会不平等をもたらすのを『選べない偶然』にしてはならない。「親ガチャ」が「機会の平等」を妨げる要因になってはいけない・・これが大原氏の言葉が代表する<自己責任論の否定>だ。
だが、<自己責任論>を支えるのが「結果平等」を否定する<自由競争論>であり非共産主義の支柱であるから、「自由と機会平等の並存」は永遠の二律背反だろう。
然し(二律背反)だからと諦めるわけにはゆかない。諦めれば、国家・社会が崩れるだけだ。
* 「アメリカン・ドリーム」は日本でもよく知られる言葉である。「アメリカ的成功の夢」ということだが、より具体的には「『機会の平等』を通じての経済的成功や物質的繁栄の夢を指す」ということである。
「夢」を実現した「超大金持ち」が米国に存在するのは事実だが、それは約3億4000万人の米国国民のほんの一部である。前記長者番付トップ30の中に入っている米国勢は、過半の17名である。
例えば、2018年の年末ジャンボ宝くじ1等当選金額は7億円であったのだが、当選確率は2000万分の1=0.000005%である。つまり、「宝くじの1等賞に当たる確率」と「超富豪17人に入る確率」が等しい
ということになる。
* 嘗ては「2等賞」を始めとして末等に至るまで、「それなりに手厚い当選金」が支払われていた米国社会だが、近年一等賞の賞金が跳ね上がる一方で、2等賞以下末等にいたるまでの賞金が大幅に減額され、
外れくじの比率も高まった。さらに悪いことに、社会が硬直化し「(宝くじに参加できる)『機会の平等』」までもが怪しくなっている。そもそも、貧困家庭などに生まれることによって「スタート」に
立つことさえ難しい人々が増えているということだ。
* 英国でも王室を始め、リチャード・ブランソン(ヴァージン・グループ創設者)や、シティの金融関係者など富豪が多数存在する。英国のやり方が巧みなのは「爵位」を与えるなどの懐柔策である。
前述のブランソンは、2000年にナイト爵位を与えられているが、ビートルズのポール・マッカートニーやリンゴ・スターにも爵位が与えられている。国民の大多数は「外れくじ」で貧困にあえいでいるのに、
ごくわずかの成功者にスポットライトを当てて、「君たちも頑張れば、私たちのように成功できるチャンスがある」=「機会の平等」を声高に主張するのだ。逆に言えば「君たちが成功できないのは、社会
(階級制度・既得権益など)が悪いのではなく『努力が足りないからだ』」という言い訳でもある。 ← これは英国に限らず、日米ほか多数の国も同じ(小李)
★ 近代国家の理念は「最大多数の最大幸福」を実現するところにあると考えるが、「最大多数」に「末等」や「外れくじ」が当たり、ごく一部に「巨額の当選金」が支払われる社会は健全とは言えない。
もちろん、私は「自由経済」「自助努力」を重視する立場であり、共産主義が目指すような「結果の平等」は否定する。我々が目指すべきはあくまで「機会の平等」である。
例えばサッカーや野球、あるいは企業の出世競争においては「参加しない」あるいは「止める(離脱する)」という選択肢が広く認められている。このような分野では「アメリカン・ドリーム型自由競争」も
充分機能する。不満があればやめればいいのだ。宝くじも同様である。だが、例えば日本に生まれるということは「自分の意志」ではない。また国籍変更は不可能ではないが、ハードルが高い。
私自身は「親ガチャ」という言葉は好きではない(基本的には自助努力を信じている)が、「アメリカン・ドリーム型自由競争」に毒された日本に生まれた若者たちの閉塞感は十分理解できる。
日本も高度経済成長時代には、国民が等しく恩恵を受ける1億総中流社会」が維持されていた。だが、1990年頃のバブル崩壊以降経済が低迷する中で、限られたパイを争奪する「二極化社会」へと向かった。
そして前記のようにこの「二極化社会」から「負け組」に陥った国民が抜け出すのは困難だ。言ってみれば、麻雀で負けが込んでも、参加を強制されるようなものだ。
結局のところ、「アメリカン・ドリーム型自由経済」とは(不正に操作された)クレーンゲームのようなものかもしれない。ぬいぐるみなどがすぐにでも取れそうに見えながら、実際にはいくらコインを投入しても
ゲットできない仕掛けがある。
「日本型社会主義」を改めて見直す
ふり返れば、1億総中流は素晴らしいことであった。すでに述べたように、近代国家の目的は「最大多数の最大幸福」であるべきだ。かつて1億総中流は「日本型社会主義」と否定的に揶揄されたが、
実は「楽園」であったのかもしれない。「アメリカン・ドリーム型自由経済」が「二極化」によって崩壊に向かいつつある中で、「最大多数の最大幸福」を追求する「日本型社会主義」についてじっくりと考える
べきではないだろうか。
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大原氏の正論≪「最大多数の最大幸福」を追求する「日本型社会主義」の再現≫は、バラマキ給付金や奨学金拡大、賃上げ企業への報奨金等の一時的な施策では実現できない。
経済成長と所得向上の好循環が再現できなければ「1億総中流社会」への回帰はできない。前にも書いたが、結局は国際競争力を高める国民一人ひとりの覚醒しかない。
人種・民族・帰属社会を規定するどんな両親の間に生まれるかは『選べない偶然』だが、積み重なる家系財力の格差が教育・就職格差となり、生まれたあとの機会不平等をもたらすのを『選べない偶然』にしてはならない。「親ガチャ」が「機会の平等」を妨げる要因になってはいけない・・これが大原氏の言葉が代表する<自己責任論の否定>だ。
だが、<自己責任論>を支えるのが「結果平等」を否定する<自由競争論>であり非共産主義の支柱であるから、「自由と機会平等の並存」は永遠の二律背反だろう。
然し(二律背反)だからと諦めるわけにはゆかない。諦めれば、国家・社会が崩れるだけだ。
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