静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

<死は誰のものか?>  延命拒否する人をあなたは責めるか?

2024-08-26 13:24:37 | 時評
【現代ビジネス】 以下はALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断された男性Kさんの自死に立ち会った医師:平野 国美氏の語るところである。   (要旨抜粋)
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 白いパジャマを着たKさんは、お湯がはられたバスタブの中で目を瞑っていた。湯舟にはたくさんの薔薇の花びらが浮いているように見えた。何かの入浴法を試したのかと思って近づいてみると、それは血だった。赤血球がお湯で熱変性し、花びらのようになったのかも知れない。Kさんは事切れていた。・・Kさんは自然死を選択したがっていた。しかし、このままでは妻の意向によって気管切開による人工呼吸器がつけられ、胃ろうが造られてしまう。そう考えた彼は、それから逃れるために、最後の力を振り絞って、ベッドから壁を伝い、時には這うようにしてバスタブに辿り着いたのではないか。


【A】これまで接してきた患者の中にも「死にたい」と漏らす方はたくさんいた。その中で結果的に自死を遂げてしまった方もいる。ただ、親や配偶者、あるいは子供など、自分の大切な人が亡くなる
  とき、それが病気であれば、まだ理解はしやすい。しかし自死は違う。残された方たちは頭の整理がつかなくなり、その後の人生は負い目を背負って生き続けることになる。その光景を目の当たりに
  してきた私は、やはり自死は避けたいと考えている。
【B】死は誰のものか? 当然、死にゆく本人のものであることは間違いない。ただ「長く生きて欲しい」と強く願った妻もまた、夫の死を通して喪失体験をすることになる。死の種類は違えども、
  妻もまた死を経験することになるのは変わらないのである。Kさんと妻は、「一人称としての私の死」と「二人称としてあなたの死」の関係である。
  考え方や答えにおいて両者に差異は出てしまうのは仕方がないことである。だから、みんな迷うのだ。
【C】Kさんのケースをみたとき「これは妻が悪い」「医者に説得力がなかったからだ」というご意見があるだろう。「だから安楽死ができるようにすればいいんだよ」という結論に至る方も多いと思う。
  しかし病気には、その経過の長さや「これをすれば生きられる」という不完全ではあるが治療の選択肢が残されている。ALSにおいては本人が「本当は健康な体に戻って生きたい」という望みを
  腹の中で抑え込みながら、長く続く闘病生活の中で「生きたい」と「死にたい」を何度も口にする。患者家族も患者本人と間近で接しながら「生きて欲しい」と「旅立たせてあげたい」という感情を
  行ったり来たりする。「生きたい」と「死にたい」は、どちらも本心なのだ。
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【A】は、通常の自殺であれ不治の病から逃れる自死であれ「死なせてしまった」とのいわれなき自責の念をどうしても遺された者はもってしまう、其の逃れがたい辛さを言っている。

【B】は、本件の最も本質に関わる問いであり≪自ら生を裁く権利=自裁権≫を行使した場合も、残された者の喪失感は同じと言っている。では、大往生なら喪失感はゼロか? そうではあるまい。
   喪失感云々ではなく「貴方は自ら生も死も選んだ、よくやった!」と言える妻がいたら、それはとても立派な伴侶だと私は思う。

【C】は、本人も家族も共に苦しむ状態にあって【時を待てば治癒するかも知れない僅かの可能性に賭けるか?】・・そう賭けて欲しいと願うのは医師と家族だが、本人は必ずしも限らない。
   筆者は医師の使命感から賭けて欲しい立場だが、医師も家族も、本人にそれを強制する権利などない。相手が動けないからと延命拒否を無視するのは間違った人道主義である


 痴呆の始まっていた父に胃ろうを選び、後に後悔した母を思い出すにつけ、やはり意識が正常なうちに『死に方を選び宣言しておく』・・・これが人生の店仕舞いで一番大事だと私は痛感している。
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