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政権におもねるマス・メディア 民主主義を守る砦にはならず?

2024-05-14 08:15:40 | 時評
【Area.dot】日本が今でも「報道の自由度」70/180 位に低迷する理由 ・・安倍政治で“変えられてしまった”記者たちの末路 (By 古賀茂明)
 私は、2015年に、日本外国特派員協会(FCCJ)から「報道の自由の友賞」という賞をいただいた。テレビ朝日の報道ステーションに対する安倍政権の圧力を批判して同番組を降板した直後のことだ。
当時、多くの外国の記者に取材を受け、翌年には、デビッド・ケイ氏(「表現の自由」国連特別報告者)による日本の報道の自由に関する調査にも協力した。
その時、私が彼らに解説した、日本の大手メディアに関する問題点について、彼らは、一様に賛同してくれた。 それらの問題は、10のポイントにまとめることができる。 
                            
                            
             
 いつもながら古賀氏の鋭く簡潔な指摘に敬服する。私だけでなく多くの国民がマスメディアに対し日頃感じている懸念・疑い・失望を古賀氏は網羅してくれている。
70年代初頭、ジャーナリストになりたくて新聞社や雑誌社へ就職活動をした私だが、あの頃の憧れを抱けた背景には、いま古賀氏が嘆き・戦い指摘するような腐敗は感じられなかった。
それは単に私が未熟で世の中を知らなかっただけかもしれないが、権力を監視する気概はマスメディアだけでなく国民全体にもあった気がする。

字面からおおむね察しはつくが、氏自身による10項目についての補足説明を抜粋して以下に記す。細かくて恐縮だが、御容赦下さい。 
 ① どのような記事を書きたいかということが先にあり、その記事を書ける会社を選び、実績を積みながら一流のジャーナリストを目指す海外のジャーナリストとは全く異なる。上司に従っていれば、出世して高い給与がさらに上がる。
   最後は、役員になるか、関連企業や団体に「天下り」する。そのためにはリスクを避けるという行動パターンが身についているように見える。
 ② 記者クラブのメンバー各社の記者は、クラブに常駐し、何もしなくても情報が提供され、記者会見にも自動的に出席できる。また、クラブのメンバーだと言えば、原則取材に応じてもらえる。
   彼らは、与えられた情報を右から左に流すだけで記事が書ける。さらに、各社が与えられた情報をどのようなトーンで書くのかも各クラブ内の雰囲気でわかるため、リスクを避けて各社が同じような記事を書くことになる。一種の談合だ。
    一方、メンバー外の海外やネットなどのメディアは、そもそも記者会見があることもわからず、今何がテーマなのかを知ること自体が困難で、直接の担当官僚に取材をするのも制限される。この仕組みは、明らかに違法なカルテルだが、
   これに公正取引委員会がメスを入れたことはない。
 ③ クラブの記者たちは取材先に自由にアクセスできるため、どうしても、そこからいかに早く情報を取るかという競争に陥る。取材先に嫌われていわゆる「特オチ」になるのを恐れて、相手の機嫌を取るようになり、
   やがて、権力の監視役ではなく取材先の広報に使われる存在になっていくのだ。
    アクセス・ジャーナリズムは取材先の問題設定に合わせて、そこから得られた情報を流す報道になりがちだ。これは、自ら問題を発掘し、様々な取材先の情報で多様な角度から掘り下げて検証して報道する調査報道とは正反対である。
 ④ 戦後、大手新聞やテレビ局が潰れたことはない。記者クラブ制度に守られて、寡占状態で保証された地位に安住しながらニュースを書けば良いからだ。しかも、給料は一般の企業に比べて高く、彼らは特権階級となっている。政治家や
   高級官僚たちと非常に似たグループを形成している。その特権を守るために、自己保身に走ることになり、弱者のために権力と戦おうという意欲を失わせるのである。
 ⑤ 新聞社は、独占禁止法の例外として、新聞の販売店に販売価格を指定して取引することが認められている(再販制度)。また、消費税の軽減税率の適用も受けている。いずれも、新聞社の経営に大きな利益をもたらす仕組みだ。
   これらの利権を守るために、政府に楯突くことができない。彼らが、消費税増税に反対しない代わりに軽減税率を認めてもらうという行動に出たことはあまりにわかりやすい話だ。
 ⑥ 新聞社とは違い、テレビ局は、放送法および電波法により、国の規制に服している。自民党は、放送法を恣意的に解釈し、厳しい政権批判を行うテレビ局に「停波」の脅しをかけたほど、批判を抑制している。
   政府がテレビ局の放送内容を直接規制する日本は、先進国では例外的存在だ。
 ⑦ 報道機関のトップが、首相と会食やゴルフをすることは、まともな国ではあり得ない。しかし、日本では、これを公に自慢する風潮さえでてきた。
   経営陣の権力への擦り寄りで、現場では、権力側と戦っても最後はトップが折れてしまうから勝ち目がないと、最初から諦めることになっている。
 ⑧ 経営陣による報道現場への介入だ。例えば、テレビ局で、政権批判はあまりしないようにと指示を出したり、出演者の顔ぶれについて文句を言ったり、酷い例では、番組審議会の委員長の会社の販売物を宣伝する放送を
   強要するといったことも起きているほどだ。
 ⑨ スポンサーやプロダクションへの忖度が蔓延して、企業の不祥事などの報道が制約されていることだ。広告を大量に出す企業の批判はできないというのが不文律となっている。例えば、福島の原発事故の際、
   テレビ局は東京電力批判ができなかった。ジャニー喜多川のレイプ事件をBBCが取り上げるまで各局が見て見ぬふりをして報道しなかったのも同じことだ。
 ⑩ 電通などの代理店は、新聞やテレビの広告を集める仕事はもちろん、多くのイベントを手掛けることで大手メディアに大きな影響力を持っている。その一方で、自民党の宣伝も手掛けている。
   自民党は他党に比べて圧倒的多数の議員を擁するため、政党助成金の額も突出している。そこから電通などに巨額の宣伝広告費が流れるのだ。電通などから見て自民党は「上得意」だ。
   当然のことながら、メディア側は、電通の意向を忖度するので、あまり強い自民批判はしにくくなるという面があるようだ。


補足説明とはいえ、これ以上の短縮・削減は理解を損ねるので、あえてほぼ原文を掲載した。もっと重要なのは、これに続く古賀氏の「まとめ」の方で、こちらを転載する。
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 以上のような構造的問題は古くからあったが、安倍政権になるとメディアに対する直接間接の圧力は異常に高まり報道の自由度は大きく下がった。それでも戦おうとする記者は数多く存在したが、個々の記者やデスクが戦っても、上に上がると負けてしまうことが続くと、現場には厭戦気分が広がり自主規制が始まった。萎縮したという面もあるが、面倒に巻き込まれて時間を取られると他の記事が書けなくなるという理由も大きかったようだ。 

 自主規制が強まり長期間継続すると、何が問題なのかを自分で見いだす能力が低下する。テーマ設定は取材先の政治家や官僚が行い、彼らの情報をもとに記事を書くことが当たり前になってしまうのだ。
記者たちは、自分たちが変わってしまったこと、能力を失ってしまったことに気づくことさえなくなる。実は、それが一番危険なことだ。


記者たちが変えられてしまった今、日本の国民は、真実を知る機会を失いつつある。これは、民主主義の危機だ。メディアが権力の監視役の機能を果たせない国に民主主義は存在し得ない。
将来的には、記者たちの自由だけでなく、私たちの自由もまた失われることになるだろう。
 ★ 最後に、ガンジーの言葉を掲げておこう。
   ≪ あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである ≫。
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