静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 携帯料金値下げ圧力にみる 政府の説明責任 完全黙殺 ≫  複数の狙い・政策意図がある筈 それを言わないままでは どういう効果を狙っているのか 分からないまま それでいいんだな

2020-09-29 20:16:37 | 時評
NTT、ドコモ完全子会社化を発表 「携帯値下げも検討」https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64364110Z20C20A9I00000/?n_cid=NMAIL007_20200929_Y
* 菅氏が総理になってから真っ先に手掛けた策。これは単純に携帯利用料金低減で選挙対策の若者人気取りだけでは無論ない。世界水準に照らし遅れを取っている未来技術への先行投資に
  ドコモ本社が投資運用効率を上げて対抗する資金稼ぎの目論見が第一にあるだろう。それはそれで非難されることでない。 業界の競争環境活性化、これも嘘ではなかろう。


* 私が何故これを話題にするかというと、例えば、携帯通信に若い世代ほど毎月相当な金額を費やしているのが減れば、可処分所得も上がり、それが金回り循環の足しに
  なるだろうという思惑。これも有る筈なのに、上に挙げた期待効果と同じく語らない。此の、正直に政策意図を最初から述べない”不誠実さ”が安倍前政権と同じだからだ。
  『国際水準に比べて高いから』・・高いから外国人がどう困ってる? 日本人の誰が困ってる? 国際比較は核心の理由じゃないのに平然と関係なきことを政策理由に謳う、
   この厚かましさ!!  これが日本政治の不透明さなのだ。 これこそ説明責任そのものを果たす気が無いのではないか??


* そりゃ、何事も期待通りには運ばない、失敗も多い。だからと言って、何故この新しい政策を実行したいのか?何を期待するからだ、といつから言わなくなったのだろう?
  言質を残したくないから? 後で検証されたくないから? 「そんな期待効果なんて言ってないよ」と逃げる余地を残す為か??  卑怯者!
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書評  【109】    「音楽家の食卓」    野田 浩資 著        成文堂新光社    2020年1月 刊

2020-09-28 19:24:55 | 時評
   誰の言葉なのか知らぬが ”人となりは、その人が何を口に入れたかで言い当てて見せよう”・・言い回しは違うかもしれないが、こういう俗諺がある。

『食べること』は、確かに一人の人間の人生模様と密接に絡み合っている。どういう風土で、如何なる経済状態の両親にうまれたのか?それは即ち幼い頃から何を食べて育ったかであり、
これが人格形成に多大な影響を及ぼす。それは当人が意識しようがすまいが否定できない。  同じ意味合いで、生まれながらにどういう体質/遺伝で生を受け、病を得たか?
これまた生涯を大きく左右するものである。此の観点からみれば、書評【94】「音楽と病~偉大な作曲家たちの医学的プロファイル~」:ジョン・オシェー著:菅野 弘久(訳)と
本書は双璧を為している。

略歴をみると、野田氏は若くしてドイツ他ヨーロッパでシェフ修行を積んだ。傍ら、クラシック音楽ファンとして18~19世紀の作曲家の作品に相当惚れ込んだ人とお見受けする。
 著者は次の11人を選び、生い立ちから人生の概略を追いながら、何を何処で食べただろうか?を自分の足で訪ねまわり、想像される料理のレシピまで写真入りで丁寧に載せている。
そこには作曲家への温かい畏敬の念、並びに『食と人生』への信念が読み取れる。 11人とは・・・・
<バッハ><ハイドン><モーツァルト><ベートーヴェン><シューベルト><メンデルスゾーン><ショパン><シューマン><リスト><ワーグナー><ブラームス>である。

生い立ちやエピソードそのものは既存の伝記や評伝の集成を出ない。だが、当時の作曲家が成功を重ねて豊かになるにつれ豪華な食事に出会う機会を得てゆく内容が、シェフならではの
視線で捉えられ、活写されている。ここが作曲家個別の伝記や研究書では恐らくあり得なかったポイントではないか? 
 そこに「音楽と病~偉大な作曲家たちの医学的プロファイル~」が暴いた、大作曲家たちの「病と死の実相」が醸す陰影は無く、読後感は飽くまでも楽しく・美味しい。
 いわば『食』の養う<生>と『病』が招く<死>を、我々は此の2つの著作で、同一人物の生涯を裏表から眺める機会に恵まれたのである。             < 了 >
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書評  【108】    「椿井(つばい)文書~日本最大級の偽文書~」    馬部 隆弘 著        中公新書2584    2020年3月 刊

2020-09-25 08:14:17 | 書評
 本書の「あとがき」によれば、著者が椿井文書の存在を知ったのは大阪府枚方市に非常勤職員として勤務していた2003年とある。筆者はその当時、大阪大学大学院博士課程に在籍中の身であり、
研究対象は戦国大名の毛利氏だった。そんな馬部氏が椿井文書と正面から向き合うに至る切っ掛けと推移が「あとがき」で触れられている。それは、ふだん一般人が知る機会の乏しい歴史研究者の
人生行路を垣間見る点でも私には興味深いものであり、また研究者の良心に触れた清々しさも嬉しく、楽しませて戴いた。

本書の主なポイントを挙げるなら第一に、椿井政隆(1770-1837年)なる人物が大量の偽文書(手紙/系図/絵図/地図など)を創るニーズ、言い換えれば贋作への大量の需要が江戸末期の畿内に何故あり、
明治から現在まで利用され続けきた背景とは? 結果的に贋作文書は何に貢献したのか?という事だろう。
 ニーズを簡約すれば<郷土史に目玉となる話題や遺跡を持ちたい>或は<積年の名誉利権争いに決着をつけてくれる文書が欲しい>更には明治以降増えたであろう、皇国精神浮揚を企む政府がらみでの
<神道精神強化の狙いに古墳や古代神社跡を利用したい>これらは、現在では形を変え『町おこし』『市町村史』への活用になっているという。 今も昔も、ゼニ儲けが良心を駆逐しているわけだ。
 そして、似たような歴史にまつわる贋作は他の地域/時代にもあったかもしれない、と考えるのが正常な良識であろう、と私は思う。

第二には、幕末から明治になった頃から既に古代・近代史研究者の間では椿井文書の偽作性を指摘する声が少なくなかったにも拘わらず「偽作であることを証明するために時間を割くのは馬鹿げてる」
こういう研究者の意識が研究領域の縦割り構造とも相まって根強くはびこり、偽作と知らずに援用する研究者が増え、遂には偽作性が問題とされなくなってしまう。その不気味さである。
それは馬部氏が最後の方で書いているとおり、偽史料の存在を唯批判するだけで終わらず、研究者そして一般人も”反面教師”的に捉え、歴史ばなしには常に注意する事がいかに大切か、でもある。

戯言に、ヒストリーとは<His><Story>という。His =『彼の』彼とは勝者のこと。死者にクチなし。およそ「古文書」と名が付けば素人には疑いにくい。
巧妙に古事記や日本書紀と紐づけられたら猶更疑いをはさみにくい風土があるのも災いする。 気を付けたいものである。
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【補遺】≪ 2020年 秋分に ≫  へ読者から寄せられた一言にお答えします

2020-09-22 19:39:43 | トーク・ネットTalk Net
 2014年半ばのブログ開設このかた、自分が綴った言葉へ反応する事は予めお断りしたうえ、寄せられても対話は慎んできた。尤も、コメントは意外に少なく、お答えする必要ありと判断した反応は
今も数えられる程に少ない。無論、それには誠意を尽くして応答してきたつもりである。 

 その中で、今朝挙げた ≪2020年 秋分に≫ へ寄せられたコメントは、時宜を得たばかりか、私の思惟が足りなかった面を補足して戴いたので、敢えて読者と共有したい。
戴いたコメントの核心は『コロナ禍が青少年層に及ぼすかも知れない、もっと重大な脅威とは、無常観よりも虚無感(ニヒリズム)ではないのか?』であった。

ご承知の通り、ニヒリズムは産業革命以来の近代工業化で個人と集団の心の折り合い/共存」が分裂し、生まれ落ちて以来長く信じていたキリスト教に縋れなくなった19世紀末の欧州に暮らした人々の
(神への)喪失感を指す。 ずっ~と在った/明日も在る・・と思っていた対象が突然、跡形もなく消える喪失感が(何も無い=虚ろに無い=虚無)である。 ニーチェを読まれよ。。。

日本人にとり喪失感とは、ペットロスが卑近なように精神世界での超越者ではなく、あくまでも目の前に居る対象だ。一方、19世紀欧州に生きた人の喪失相手とは「God」だ。
我々は古代から「God」どころか架空の絶対者を一切もたないで来た。従い『コロナ禍が青少年層に及ぼすかも知れない、もっと重大な脅威とは、無常観よりも虚無感(ニヒリズム)ではないのか?』
に対し私が返す言葉は、超越者への喪失感というニヒリズムではなく、<人類の無力感から来る絶対的な生への不安>が呼び込む虚無感ではないか? という答えだ。
無力感とは<人間が所詮頑張っても乗り越えられない何か>に勝てない無力感だ。  ここにこそ宗教の巣食う活路がはびこる。

 さて『イノチは限り在るものだから、いずれ消えてなくなる己の存在にとり、この世の幸福も富も実態なき幻でしかない』を無常観と呼ぶなら、非一神教世界における虚無感とは、
其の無常観を踏まえつつ、それでも何かを心に抱き続けたかった人にしか訪れるので、怯み、腰折れしやすい。 

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≪ 2020年 秋分の日に ≫   コロナ禍が我々の心にもたらしているもの   希望も夢も描けぬまま時を浪費する 青少年たちの心の傷

2020-09-22 08:36:00 | トーク・ネットTalk Net
 日本で前代未聞の新型ウイルスが本格的な感染を始めて、もう6ヶ月になった。だが日本では諸外国での感染パターンと違い、莫大な人数が短い時間に感染し死に至る流行にならないまま、
相対的には少ない患者・重症者・死者の発生がダラダラ続いている。一方、決定的で安全な治療薬も予防薬も開発されないまま、地球上の時間もダラダラ過ぎる。
 
過去の様々な伝染病を何とか克服してきた人類の自信は何処へ?
19世紀以来の科学技術進化に絶対の自信を抱き続けた人類が21世紀を20年過ぎ、突然味わった無力感。この言葉では形容し難い不安と無力感に打ちのめされ、我々は唯ひたすら、あてもなく
”その日”が来るだろうと待つ不安に朝を迎えている。”その日”とは、感染拡大が収まる日であり、同時に自分の身に死が襲い掛かる日でもある。 どちらが早く来るのか??
 
高水準の患者発生が続く国々と比べ、ダラダラ発生の日本は無力感や絶望観も中身/強さ共に違うだろうが、活動収縮による経済打撃は諸国と変わりなく、文字通りボディーブロウのように広がっている。
仮にあと6ヶ月同じダラダラが続くと想像しよう。倒産、失業、自殺者がいっそう増加し、教育分野での影響も顕著になり、人心の不安は更に膨らむだろう。

日常生活面での長引く不安が我々にもたらしているもの。それは、出口が見えないまま苛まれる『死の恐怖』に加え、これまたボディーブロウの如く心の奥に忍び寄る『無常観』だろう。
無論『無常観』は何も東洋哲学の専売ではなく、ギリシャの昔から西洋世界にも在る。それは現代も同様で、信心の有無や宗教依存を問わず・・”イノチ或は人生常ならず”の感覚は等しく抱かれる。
 だが、多くの人が『無常観』を感じるのは、自分や近親者に降りかかる死を目撃或は体験する瞬間/直後でしかなく、『無常観』は何ヶ月も続くものではない。長く続くのに耐えられる人は多くない。

然しコロナ禍が地上を覆う現在、今この瞬間・瞬間、老若男女問わず、四六時中『無常観』を我々は耳元で囁かれ聞かされ通しだ。 いくら耳を塞ごうにもシャットアウトできない。
【死の恐怖】と『無常観』は似て非なるもの。此の二つは、精神年齢・人生経験の長短&複雑さ程度により感じ方が違うが、人類を満遍なく包み込む新型ウイルスは、皮肉にも格差満ちる地上へ
【死の恐怖】と『無常観』を、何故か、いとも平等に我々の心に植え付けるように私は思える。 

【死の恐怖】は生き物共通ゆえ子供も老人も同じ。だが、嘗ては大多数が成人近くまでイメージしなかった『無常観』が、青少年の心に忍び寄りつつあるなら、これほど恐ろしい事はない。
決定的な克服手段が開発・普及するまでの時間が長びけば、若くして夢も希望も持てぬまま荒んだ心の青少年が世に出て行く。限りあるイノチ、と悟ったあと、前向きになれるか後ろ向きになるか。
それは常に個人差/環境の違いで分かれようが、疫病の規模は数の暴力にも似ており、大量に長引くほど青少年への悪しき影響も増えるのではないかと危惧する。 どうか、杞憂であって欲しい。
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